11世紀に登場したセルジューク朝は、中央アジアから西進してきたトルコ系勢力がイスラーム世界の中枢を掌握し、新たな政治秩序を打ち立てた王朝です。
アッバース朝カリフの宗教的権威を温存したまま、実権をスルタンが握る体制を確立し、以後のイスラーム国家の基本モデルを形づくりました。
セルジューク朝の歴史は、大きく三段階で捉えることができます。
まず前半は、軍事力を背景にイラン・イラクからアナトリアへと進出し、ビザンツ帝国との決定的衝突を通じて西アジアの勢力図を塗り替えた拡張の時代です。
続く最盛期には、広大な領域を統治するための制度整備が進み、軍事国家は官僚制と宗教教育を備えた「統治国家」へと発展します。
そして後半には、君主の死を契機に中央の統制が弱まり、各地で地方政権が自立することで政治的統一は失われていきます。
しかし、セルジューク朝は単に分裂して終わった王朝ではありません。
ここで確立されたスルタン体制、軍事と財政を結びつけた土地制度、スンニ派秩序を支える教育機構は、その後のアイユーブ朝・マムルーク朝、さらにはオスマン帝国へと受け継がれていきました。
つまりセルジューク朝は、トルコ系イスラーム国家の原型を完成させた存在だったのです。
本記事では、セルジューク朝を「軍事的転換」「制度国家の完成」「分裂と継承」という三つの視点から整理し、イスラーム史全体の中での位置づけを明らかにしていきます。
セルジューク朝 俯瞰チャート
― 成立・拡大・最盛期・分裂・継承を一気に整理 ―
【① 成立(11世紀前半)】
中央アジアのトルコ系遊牧集団
↓ 西進
トゥグリル=ベク
↓(1055 バグダード入城)
アッバース朝カリフを保護
↓
スルタン体制の成立
(政治=スルタン/宗教=カリフ)
【② 拡大と転換点(11世紀後半)】
アルプ=アルスラーン
↓
マンジケルトの戦い(1071)
↓
ビザンツ帝国の小アジア支配が動揺
↓
アナトリアへのトルコ系勢力の「侵入 → 定住」が始動
↓
十字軍遠征の遠因を形成
【③ 最盛期(マリク=シャー期)】
マリク=シャー
+ 宰相ニザーム=アルムルク
↓
軍事・行政・宗教の制度化
〔統治の三本柱〕
・軍事・財政:イクター制
・宗教・教育:マドラサ(ニザーミヤ学院)
・政治体制 :スルタン体制の安定
※ 武断国家ではなく、官僚制+学問を備えた制度国家
【④ 分裂のしかた(12世紀)】
マリク=シャー死後
↓
中央統制の弱体化
↓
地域ごとに分岐・自立
・イラン西部:
大セルジューク朝(名目的存続)
・アナトリア:
ルーム=セルジューク朝
(定住型トルコ政権)
・シリア・イラク:
諸アミール政権が並立
→ 十字軍に統一対応できず
・東方:
他王朝へ主導権移行
※ 一斉滅亡ではなく「地域再編としての分裂」
【⑤ 継承と歴史的意味】
セルジューク朝は消えても「セルジューク型国家モデル」は存続
〔継承された要素〕
・スルタンによる軍事支配
・カリフの宗教的権威の温存
・イクター制的軍事財政
・マドラサによるスンニ派秩序
↓
アイユーブ朝
↓
マムルーク朝
↓
(アナトリアの系譜を経て)
オスマン帝国へ
【一文まとめ】
セルジューク朝は、トゥグリル=ベクによるスルタン体制の成立から、マリク=シャー期の制度国家化を経て分裂したが、その統治モデルは後のイスラーム国家を収束・再編する基盤となった。

第1章 セルジューク朝の成立とトルコ系勢力の台頭
セルジューク朝は、中央アジアから西進してきたトルコ系遊牧集団を母体として、11世紀半ばにイラン・イラク方面で成立しました。
彼らはイスラームに改宗した軍事集団であり、アッバース朝カリフの宗教的権威を保持したまま、実権を握る「スルタン」として君臨します。
ここで確立された、政治権力(スルタン)と宗教権威(カリフ)を分離する体制は、その後のイスラーム世界における統治の基本モデルとなりました。
1.建国者トゥグリル=ベクとスルタン体制の成立
セルジューク朝の成立を語るうえで欠かせないのが、建国者トゥグリル=ベクの存在です。
セルジューク朝は、最初からイラン・イラクを支配する大帝国として登場したわけではありません。出発点は、中央アジアに拠点をもつトルコ系遊牧集団であり、トゥグリル=ベクはその首長として勢力を率いていました。
11世紀前半、トゥグリル=ベクはイラン方面へ進出し、当時すでに衰退していたアッバース朝政権の周辺で軍事的存在感を高めていきます。
決定的な転機となったのが、1055年のバグダード入城です。このときトゥグリル=ベクは、バグダードを実質支配していたブワイフ朝を排除し、アッバース朝カリフを保護下に置きました。
重要なのは、トゥグリル=ベクがカリフを廃さなかった点です。彼はカリフの宗教的正統性を温存し、その下で自らはスルタンとして軍事・行政の実権を掌握しました。こうして、
- カリフ=宗教的正統性の象徴
- スルタン=軍事・行政の実権者
という役割分担が明確化し、後のイスラーム世界に広く定着するスルタン体制が成立します。
トゥグリル=ベクの意義は、単なる王朝創始者にとどまりません。分裂が進んでいたイスラーム世界において、スンニ派秩序を再編する政治的枠組みを提示した人物だった点にこそ、その歴史的意味があります。
【正誤問題】
問① セルジューク朝は、アッバース朝カリフを廃して新たなカリフ国家を樹立した。
解答:✕
→ セルジューク朝はカリフを廃していません。アッバース朝カリフを宗教的権威として温存し、自らはスルタンとして実権を握りました。
問② セルジューク朝の成立によって、イスラーム世界ではスルタンが政治的実権を、カリフが宗教的権威を担う体制が確立した。
解答:〇
2.アルプ=アルスラーンと西方進出
トゥグリル=ベクが築いた枠組みを継承し、セルジューク朝の軍事的基盤を固めたのが、スルタンのアルプ=アルスラーンです。彼はイラン高原を制圧したのち、勢力をさらに西へと広げ、ビザンツ帝国と正面から対峙するようになります。
この西方進出は、単なる略奪的遠征ではなく、将来的な定住と支配を視野に入れた戦略的行動でした。ここでセルジューク朝は、中央アジア・イラン世界の王朝から、地中海世界へと接続する存在へと変貌していきます。
3.マンジケルトの戦い――アナトリアの扉が開かれる
1071年、現在のトルコ東部マンジケルト周辺で、セルジューク軍とビザンツ帝国軍は決定的な戦いを迎えます。
マンジケルトの戦いにおいてセルジューク軍は大勝し、ビザンツ皇帝を捕虜とするという衝撃的な結果をもたらしました。
この敗北によって、ビザンツ帝国が長年維持してきた小アジア(アナトリア)支配は大きく動揺します。防衛体制が崩れたアナトリア内部には、トルコ系遊牧集団が軍事力だけでなく生活の場として流入するようになり、進出の性格は一時的な遠征から恒久的な定住へと転換しました。
さらにこの変化は、ビザンツ帝国の弱体化を国際的に可視化する結果ともなります。小アジアという中核地域を揺るがされたビザンツは、西ヨーロッパに救援を求めるようになり、その動きはやがて十字軍遠征の呼びかけへとつながっていきました。
このようにマンジケルトの戦いは、アナトリアのトルコ化と十字軍時代の到来を準備した、世界史的転換点と位置づけることができます。
【正誤問題】
問① セルジューク朝は、小アジア(アナトリア)を起点として成立し、そこからイラン・イラク方面へ勢力を拡大した。
解答:✕
→ セルジューク朝の起点は中央アジアであり、イラン・イラクへ西進した後、マンジケルトの戦い以後に小アジアへ進出します。
問② セルジューク朝は、マンジケルトの戦い以前から小アジアに定着していた。
解答:✕
☞ マンジケルトの戦い(1071年)以後に、小アジアへの恒久的進出・定住が進みます。
4.マリク=シャー時代への橋渡し
アルプ=アルスラーンの路線を継承し、セルジューク朝を最盛期へ導いたのがマリク=シャーです。彼の治世下で、セルジューク朝は単なる軍事政権から、制度化された統治国家へと発展していきます。
この制度国家化を支えた中心人物が宰相ニザーム=アルムルクでした。次章では、マリク=シャー期に完成するイクター制やニザーミヤ学院を通じて、セルジューク朝がいかにして軍事・財政・宗教秩序を再編したのかを詳しく見ていきます。
第2章 マリク=シャーとニザーム=アルムルク セルジューク朝の制度国家化
アルプ=アルスラーンの軍事的成功を引き継ぎ、セルジューク朝を「遊牧軍事国家」から「統治国家」へと完成させたのがマリク=シャーの時代です。
この段階で決定的に重要なのが、宰相ニザーム=アルムルクによる行政改革でした。
1.イクター制の制度化――軍事国家を支えた土地給与システム
セルジューク朝は、イラン・イラクからシリア、アナトリアに及ぶ広大な領域を、常備軍によって維持する必要がありました。
しかし、その規模に見合う中央集権的な現金財政を恒常的に確保することは、すでに現実的ではありませんでした。
貨幣経済が十分に浸透していない地域も多く、軍人に現金俸給を支給し続ける体制には限界があったのです。
こうした状況の中で整備されたのが、イクター制でした。
イクター制の仕組み――徴税権を俸給に代える制度
イクター制では、国家が土地の最終的な所有権を保持したまま、軍人や官僚に一定地域の徴税権を与え、その税収を俸給の代替としました。
軍人は自らの軍事奉仕の見返りとして税収を得る一方、国家は現金を介さずに軍事力を維持することが可能になります。
この制度によって、セルジューク朝は広域国家に不可欠な常備軍体制を、比較的低コストで維持することができました。
「私有地ではない」ことの重要性――頻出の注意点
ここで強調しておきたいのは、イクターが「私有地」ではないという点です。
イクターとはあくまで徴税権の委託であり、土地そのものが与えられたわけではありません。最終的な所有権は常に国家にあり、軍人はそれを管理・徴税する立場にすぎませんでした。
この点は、入試で非常に狙われやすいひっかけポイントです。
ヨーロッパ封建制との違い――国家主導の制度
イクター制は、ヨーロッパの封建制における世襲的な私領とは性格を異にします。セルジューク朝のイクターは、国家の判断によって任免や転封が可能であり、制度全体が国家主導で運用されていました。
つまりイクター制は、世襲的・私的支配を前提とする封建領主制ではなく、国家が軍事力を統制するための行政的・財政的制度だったのです。
この違いを押さえておくことで、イスラーム世界の軍事財政制度とヨーロッパ封建制を混同せずに理解することができます。
2.ニザーミヤ学院――スンニ派秩序の再建装置
軍事や財政の再編と並行して、セルジューク朝のもとでは宗教面でも大きな再編が進められました。
宰相ニザーム=アルムルクは、各地にニザーミヤ学院を設立し、スンニ派教学を体系的に教育する体制を整えます。これは単なる学校建設ではなく、当時のイスラーム世界が抱えていた宗教的混乱への国家的対応でした。
11世紀のイスラーム世界では、エジプトを拠点とするファーティマ朝がシーア派カリフ国家として勢力を拡大し、各地では多様な宗教運動や異端的思想が広がっていました。
また、学問は地域ごとに分散し、統一的な教学基準が存在しない状況にありました。こうした環境の中で、スンニ派の正統性をいかに維持・強化するかは、セルジューク政権にとって避けて通れない課題だったのです。
ニザーミヤ学院は、この問題に対する明確な解答でした。国家の主導によって教育内容と人材養成を管理し、スンニ派正統を制度として再編成する装置として機能したのです。
セルジューク朝は軍事力によって領域を支配しただけでなく、教育制度を通じて宗教秩序そのものを組み直した王朝でもありました。
この「国家が宗教教育を組織化する」という発想は、その後のマムルーク朝やオスマン帝国にも継承され、スンニ派国家の基本構造として長く生き続けることになります。
【正誤問題】
ニザーミヤ学院は、シーア派教学を体系的に教育するために設立された。
解答:✕
☞ ニザーミヤ学院はスンニ派教学の体系化を目的とした国家主導の教育機関。
3.オマル=ハイヤームと宮廷文化――軍事国家のもう一つの顔
制度整備や軍事的拡張が進む一方で、マリク=シャーの宮廷では高度な学問文化も花開いていました。その象徴的存在が、詩人・学者として知られる オマル=ハイヤーム です。
オマル=ハイヤームは、後世においては詩集『ルバイヤート』の作者として広く知られていますが、同時代においては詩人というよりも、むしろ優れた知識人として評価されていました。
彼は天文学や数学の分野で重要な業績を残し、マリク=シャーの命によって暦法改革にも関与しています。この事実は、セルジューク朝の宮廷が実務的な科学知識を重視していたことをよく示しています。
ここで押さえておきたいのは、セルジューク朝は、軍事力の中核を担ったのはトルコ系軍人でしたが、その統治の現場には、ペルシア系官僚やイスラーム学者、さらには科学者や詩人といった多様な知識人が関与していました。
軍事・行政・学問が分業され、それぞれが高い水準で機能していたのです。
マリク=シャー期のセルジューク朝は、軍事力によって秩序を維持する国家であると同時に、学問と文化を保護・活用する文明国家でもありました。
この二面性を理解することで、セルジューク朝を「征服王朝」としてではなく、複合的なイスラーム文明国家として立体的に捉えることができます。
第3章 セルジューク朝の分裂とその歴史的意味
――「崩壊」ではなく「地域ごとの再編」として理解する
セルジューク朝は、マリク=シャーの死後に急速に分裂へ向かいます。
ただし重要なのは、この分裂が王朝の突然の崩壊を意味するものではなかったという点です。セルジューク朝の分裂は、中央の統制が弱まるなかで、各地に配置されていたセルジューク系の軍人・一族が、そのまま地域支配者として自立していく過程でした。
そのためセルジューク朝は、「一つの帝国が滅びた」というよりも、広域国家が地域ごとの政権へと枝分かれしていったと捉える方が実態に近いのです。
以下では、セルジューク朝がどのように分裂していったのかを、地域ごとに整理します。
1.イラン西部 「大セルジューク朝」の名目的存続
マリク=シャー死後も、イラン西部を中心に「大セルジューク朝」を名乗るスルタンは存続しました。ただしこの段階では、かつてのような広域支配は不可能となり、実権は大きく低下しています。
この本家政権は、
- 周辺地域への統制力を失い
- 各地の分家政権やアミールを束ねられず
- 名目的な宗主権のみを保つ存在
となっていきました。
つまりイランの本家は、分裂したセルジューク世界の「中心的看板」ではあっても、実際の支配の核ではなくなっていたのです。
2.アナトリア ルーム=セルジューク朝の成立
セルジューク朝の分裂のなかで、最も明確な形で現れるのがアナトリア方面です。
マンジケルトの戦い以後、アナトリアに進出していたセルジューク系の将軍や一族は、中央の統制が弱まるなかでイラン本家に従属し続ける必要がなくなります。こうして現地支配を固定化し、成立したのがルーム=セルジューク朝です。
ここで重要なのは、ルーム=セルジューク朝が反乱によって生まれた国家ではない点です。もともとセルジューク朝の一部として配置されていた勢力が、アナトリアという地域で自立・定着した分家政権と理解すると整理しやすくなります。
この分裂によって、セルジューク朝の重心は次第にアナトリアへも移動していきます。
3.シリア・イラク 諸アミール政権の並立
シリア・イラク方面では、セルジューク朝の分家や有力アミールが、都市ごとに実権を握る形で支配を行いました。ダマスクス、アレッポ、モースルなどを拠点とする政権が並立し、統一された指導部は存在しません。
この地域的分断は、政治的には不安定でしたが、その一方で重要な歴史的結果をもたらします。すなわち、十字軍が進出した際に、イスラーム側が統一的対応を取れなかった背景となった点です。
セルジューク朝の分裂は、単なる内紛ではなく、東地中海世界全体の国際関係に影響を与える構造変化だったのです。
4.東方――別勢力への主導権移行
イラン東部から中央アジアにかけては、セルジューク本家の影響力が次第に後退し、別系統のイスラーム王朝が主導権を握るようになります。
この地域では、セルジューク朝の分裂は「後継国家への移行」という形で進行しました。
ここでも重要なのは、セルジューク朝が突然消滅したのではなく、勢力圏ごとに新たな政治単位へと吸収されていったという点です。
5.セルジューク朝分裂の歴史的意味
セルジューク朝の分裂は、イスラーム世界の弱体化を意味しただけではありません。むしろそれは、広大すぎる帝国が、地域の実情に即した政治単位へと再編される過程でもありました。
アナトリアではルーム=セルジューク朝が地域秩序を形成し、シリア・エジプトでは後に統合が進み、さらにその先にはオスマン帝国の成立へとつながっていきます。
この意味でセルジューク朝は、「一つの帝国としては分裂したが、その統治モデルと人材は、後のイスラーム世界に連続して受け継がれた」王朝だったと位置づけることができます。
第4章 セルジューク型国家モデルの継承と収束
――分裂の先に残った「統治の型」
セルジューク朝は、広域帝国としては分裂しましたが、その統治モデル自体が消滅したわけではありません。
むしろ重要なのは、セルジューク朝が確立した政治・軍事・宗教の枠組みが、分裂後の各地域で受け継がれ、イスラーム世界の再編を支える基盤となった点です。
この章では、セルジューク朝が残した「国家の型」が、どのように継承され、分裂したイスラーム世界を再び収束へと導いていったのかを整理します。
1.セルジューク朝が完成させた統治モデル
セルジューク朝がイスラーム史に残した最大の遺産は、単なる領土拡大ではなく、統治の基本構造でした。その中核となる要素は、次の四点に集約できます。
第一に、スルタンによる軍事・行政の実権支配です。
カリフの宗教的権威を温存しつつ、政治権力をスルタンが担う体制は、以後のイスラーム国家の標準となりました。
第二に、イクター制を基盤とする軍事財政です。
現金財政に依存せず、軍事力を維持できるこの制度は、広域支配を可能にする現実的な仕組みでした。
第三に、学院(マドラサ)を通じたスンニ派秩序の再編です。
ニザーミヤ学院に象徴される国家主導の教育制度は、宗教的正統性を安定させる装置として機能しました。
第四に、トルコ系軍事力とペルシア系官僚制の分業体制です。
この多民族的分業構造は、セルジューク朝以後のイスラーム国家に共通する特徴となります。
2.分裂後も残り続けた「セルジューク的枠組み」
セルジューク朝が分裂した後も、各地域の後継政権はこの枠組みを前提として統治を行いました。分裂は「断絶」ではなく、セルジューク型国家モデルの地域展開だったと言えます。
シリア・エジプト方面では、後に成立するアイユーブ朝が、スルタン体制と軍事国家の枠組みを継承し、十字軍への対抗を主導しました。
さらにその後のマムルーク朝も、セルジューク朝以来の軍事支配・宗教秩序の構造を引き継ぎ、東地中海世界の安定を担います。
一方、アナトリアではルーム=セルジューク朝をはじめとするセルジューク系諸政権が地域秩序を形成し、その政治的・社会的基盤の上に、後のオスマン帝国が登場することになります。
3.「多極化」から「再収束」へ――セルジューク朝の歴史的役割
10〜11世紀のイスラーム世界は、多極化の時代でした。セルジューク朝は、その多極化を一時的に統合した存在であると同時に、分裂後の世界においても、再収束のための共通言語を提供した王朝だったと言えます。
各地域の政権は対立しながらも、
- スルタン体制
- イクター制的軍事財政
- スンニ派秩序
という共通の枠組みを共有していました。これにより、イスラーム世界は完全な断片化に陥ることなく、地域ごとの再編と統合を繰り返していくことが可能となります。
セルジューク朝の意義は、「一つの帝国を築いたこと」以上に、分裂後の世界でも機能し続ける統治モデルを完成させた点にあります。
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