アグラブ朝をわかりやすく解説|シチリア島を支配したイスラーム王朝

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アグラブ朝とは、現在のチュニジアを中心とする北アフリカ東部、すなわちマグリブ地方の一角イフリーキヤに成立した9世紀のイスラーム王朝です。

首都は内陸都市カイラワーンに置かれ、スンニ派王朝としてアッバース朝カリフに宗教的正統性を求めつつ、名目上は アッバース朝に服属しながら、実質的には自立した地方政権として地域を支配しました。

アグラブ朝が支配したイフリーキヤ(現在のチュニジア周辺)は、地中海とサハラ交易を結ぶ要衝であり、古代以来、東西交通の結節点として重要な地域でした。この地に成立したアグラブ朝は、内政の安定と軍事力の整備を背景に、北アフリカの一地方政権にとどまらず、地中海世界へ積極的に進出する勢力へと成長していきます。

その象徴が、9世紀に開始されたシチリア島への遠征です。アグラブ朝は地中海を越えて同島を支配下に置き、イスラーム勢力の影響を地中海中央部にまで拡大しました。この地中海進出は、当時西ヨーロッパで全盛期を迎えていた フランク王国、とくに カール大帝 の時代と重なっており、イスラーム世界とキリスト教世界が同時代的に地中海の覇権を競っていたことを示しています。

10世紀に入ると、北アフリカでは新たに ファーティマ朝 が台頭し、首都をマフディーヤ、のちにカイロへと移しながら勢力を拡大します。アグラブ朝はこの動きの中で滅亡しますが、シチリア島を含む地中海進出の流れそのものは、後続の王朝へと引き継がれていきました。

このようにアグラブ朝は、スンニ派としてアッバース朝の権威に依拠しつつ、マグリブ地方から地中海へ進出し、同時代のフランク王国と並ぶ国際的舞台に登場した王朝として位置づけることができます。

目次

第1章 アグラブ朝の成立とイフリーキヤ支配

アグラブ朝は、9世紀のイスラーム世界において典型的な「名目的にはカリフに従属し、実質的には自立した地方政権」として登場しました。

その成立は、アッバース朝の中央支配が弱体化する中で、北アフリカの統治を安定させるために生まれた現実的な選択でした。

とくに、後にシチリア島へ進出するだけの軍事力・財政力を蓄える基盤は、このイフリーキヤ支配の確立によって築かれていきます。

【正誤問題】
アグラブ朝は、シーア派王朝としてアッバース朝カリフに対抗し、独自にカリフを称した。
解答:× 誤り
【解説】
アグラブ朝はスンニ派で、アッバース朝カリフに名目的に服属した地方政権。

アグラブ朝は、名目上はアッバース朝カリフに服属しつつ、実質的には自立した地方政権であった。
解答:〇 正しい
☞「名目的服属+実質的自立」は超頻出フレーズ。

アグラブ朝は、名目上はアッバース朝カリフに服属しつつ、実質的には自立した地方政権であった。

1.アッバース朝の地方統治とアグラブ朝の成立

8世紀後半以降、アッバース朝は広大な帝国を直接統治することが困難になり、各地で総督の世襲化や軍事的自立が進みました。北アフリカのイフリーキヤもその例外ではなく、反乱や治安悪化が頻発する不安定な地域でした。

こうした状況の中、800年にイフリーキヤ総督として任命されたアグラブ家は、秩序回復と税収確保を条件に、事実上の世襲支配を認められます。これがアグラブ朝の始まりです。

アグラブ朝は、金貨鋳造や金曜礼拝でのカリフ名の読み上げといった象徴的な服属関係を保ちながら、内政・軍事・財政では高い自立性を持っていました。

2.イフリーキヤ支配の安定と軍事力の整備

アグラブ朝がまず注力したのは、イフリーキヤ内部の安定化です。首都カイラワーンを拠点に、反乱勢力の鎮圧、農業生産の回復、税制の整備が進められました。

これにより、北アフリカの中でもイフリーキヤは比較的安定した地域となり、王朝は継続的に軍事遠征を行える体力を持つようになります。

とくに重要なのが、海軍力の育成です。アグラブ朝は地中海沿岸に造船拠点を整え、艦隊を保有することで、陸上支配にとどまらない戦略を可能にしました。この海軍力こそが、後のシチリア島遠征の前提条件となります。

3.なぜシチリア島が目標となったのか

イフリーキヤの対岸に位置するシチリア島は、当時ビザンツ帝国の支配下にあり、地中海交通の要衝でもありました。
アグラブ朝にとってシチリア島は、

  • 地中海交易路の掌握
  • ビザンツ帝国への軍事的圧迫
  • 国内軍人層の不満を外征によって吸収する場

という複数の意味を持つ戦略目標でした。

つまり、シチリア遠征は突発的な出来事ではなく、イフリーキヤ支配の安定 → 軍事力の蓄積 → 地中海進出という流れの中で必然的に選ばれた方向だったのです。

第2章 シチリア遠征の開始とビザンツ帝国との攻防

9世紀前半、北アフリカで基盤を固めた アグラブ朝 は、ついに地中海を越える本格的な軍事行動に踏み出します。その舞台となったのが、地中海中央部の要衝 シチリア島 でした。

この遠征は単発の略奪ではなく、数十年に及ぶ長期的な征服戦争であり、ビザンツ帝国とイスラーム勢力の力関係を大きく変える転換点となります。

1.827年の遠征開始とその背景

シチリア遠征は、827年に本格的に始まります。表面的なきっかけは、ビザンツ側の内紛に関与したことでしたが、背景にはアグラブ朝側の明確な戦略意図がありました。

当時の ビザンツ帝国 は、バルカン半島や小アジアでの防衛に追われ、シチリア島への統制力は必ずしも強固ではありませんでした。

この状況は、イフリーキヤを拠点とするアグラブ朝にとって、地中海進出の好機と映ったのです。

2.長期化する戦争とパレルモの陥落

シチリア島の征服は、決して短期間で完了したわけではありません。島内ではビザンツ軍や現地勢力の抵抗が続き、戦闘は断続的に長期化しました。

その中で大きな転機となったのが、831年のパレルモ陥落です。

この都市の占領によって、アグラブ朝はシチリア島における恒久的な拠点を確保し、軍事・行政の中心地を築くことに成功します。以後、シチリア島西部を中心に、イスラーム勢力の支配が段階的に拡大していきました。

3.シチリア島をめぐる攻防の意味

シチリア遠征の重要性は、単なる領土拡張にとどまりません。

この戦争は、

  • 地中海制海権をめぐる争い
  • 陸上帝国ビザンツに対する海上からの圧力
  • イスラーム勢力の戦略が「海」に広がった象徴

という意味を持っていました。

アグラブ朝にとってシチリア島は、イフリーキヤ防衛の前線基地であり、同時に地中海交易圏へ直接関与する足場でもありました。この点で、シチリア遠征は後のファーティマ朝やノルマン人支配へとつながる、長い歴史の出発点と位置づけられます。

【正誤問題】
アグラブ朝によるシチリア遠征は、9世紀後半に始まり、短期間で全島を制圧した。
解答:× 誤り
☞ 遠征開始は827年。征服は数十年かけて段階的に進行。

831年にパレルモが陥落したことで、シチリア島におけるイスラーム勢力の恒久的拠点が形成された。
解答:〇 正しい
☞ 831年パレルモ陥落は年代とセットで狙われやすい。

第3章 シチリア島支配の意義と地中海世界への影響

アグラブ朝によるシチリア島支配は、単なる領土拡張ではなく、9〜10世紀の地中海世界の構造そのものに影響を与える出来事でした。

この支配を通じて、イスラーム世界は軍事・経済・文化の面で地中海西部へ深く関与するようになり、その影響は後世のファーティマ朝やノルマン人支配にも引き継がれていきます。

1.地中海交易拠点としてのシチリア島

シチリア島は、東地中海と西地中海を結ぶ交通の要衝に位置していました。

アグラブ朝がこの島を拠点としたことで、北アフリカ・イタリア半島・イベリア半島を結ぶ交易ネットワークが強化されます。

とくに重要なのは、シチリア島が、穀物、オリーブ油、奴隷、工芸品などの流通拠点として機能した点です。

これにより、アグラブ朝は軍事国家であると同時に、地中海交易に依拠する経済的基盤を持つ政権へと性格を広げていきました。

アグラブ朝以前のイスラーム勢力は、地中海沿岸を中心にビザンツ帝国と対峙していたが、島嶼部を恒久的に支配するには至っていなかった。これに対し、アグラブ朝はシチリア島を統治・定住の拠点とし、地中海を活動の中心に据えた点に特徴がある。

アグラブ朝以前、イスラーム勢力の地中海進出はどのようなものだったのか?

アグラブ朝以前も、イスラーム勢力はすでに地中海世界に関与していました。

7〜8世紀、正統カリフ時代からウマイヤ朝、アッバース朝初期にかけて、イスラーム勢力は急速に領土を拡大し、シリア・エジプト・北アフリカ沿岸を支配下に置いています。この時点で、地中海沿岸地域はイスラーム世界の重要な一部となっていました。

ただし、この段階における地中海への関与は、現在イメージされがちな「地中海進出」とは性格を異にしていました。主戦場はあくまで陸上であり、海は補助的・防衛的な役割にとどまっていました。地中海における軍事行動の目的も、ビザンツ帝国の沿岸部を圧迫することにあり、海そのものを活動の中心空間として捉える発想はまだ弱かったのです。

ウマイヤ朝時代には、地中海沿岸の港湾都市を押さえ、艦隊を整備してビザンツ艦隊と交戦する動きも見られました。しかしそれは、地中海を恒常的な活動空間とするものではなく、あくまでビザンツ帝国との抗争の延長線上に位置づけられるものでした。

なぜアグラブ朝以前の地中海進出は「限定的」に見えるのか?

アグラブ朝以前のイスラーム勢力による地中海進出が限定的に見えるのには、いくつかの構造的な理由があります。

第一に、最大の対抗相手が常にビザンツ帝国であった点です。地中海は長くビザンツ帝国の「内海」に近い性格を持ち、シチリア島やクレタ島などの島嶼部は要塞化されていました。そのため、イスラーム勢力にとっては、沿岸部から圧力をかけるのが精一杯で、島嶼部を恒久的に支配することは容易ではありませんでした。

第二に、島を長期にわたって統治する余力がなかったことが挙げられます。正統カリフ時代からウマイヤ朝期にかけては、急速な陸上拡大が続き、内部対立も頻発していました。行政制度も発展途上であり、遠隔地の島嶼部を安定的に統治する体制が整っていなかったのです。

第三に、この段階では地中海が主要な商業圏として十分に活用されていなかった点があります。イスラーム世界の経済活動は、陸路交易や紅海・インド洋交易の比重が大きく、地中海はまだ主たる交易圏とは位置づけられていませんでした。そのため、地中海を積極的に「使いこなす」必要性も高くなかったのです。

アグラブ朝の登場で、地中海進出はどう変わったのか?

この状況を大きく変えたのが、9世紀に北アフリカで成立したアグラブ朝でした。

アグラブ朝の時代になると、イフリーキヤ支配が安定し、軍事力と財政基盤が整えられていきます。これに伴い、海軍力の整備が進み、地中海交易の価値も次第に高まっていきました。

その結果、地中海に対する発想そのものが変化します。

それまでのように「一時的に遠征する」対象ではなく、「拠点を置き、住み、統治する」空間として地中海を捉えるようになったのです。

827年に始まるシチリア遠征は、その象徴的な出来事でした。この遠征は、単なる略奪や威嚇を目的としたものではなく、定住と行政による支配を前提とした行動でした。島を奪い、そこに居住し、統治機構を整えるという発想が、はじめて本格的に実行されたのです。

この段階で、地中海は「越える場所」から「使いこなす空間」へと性格を変えたといえるでしょう。

アグラブ朝によって、イスラーム勢力の地中海進出は、量の拡大ではなく質の転換を遂げたのです。

2.イスラーム文化の流入と地域社会の変化

シチリア島では、イスラーム勢力の支配下で農業技術や都市文化が導入されます。灌漑技術の発展や新作物の導入によって、生産力は大きく向上しました。

また、首都となったパレルモは、イスラーム的な都市計画を取り入れた国際都市へと成長します。

この段階で形成された都市・農業・行政の基盤は、後のキリスト教勢力による支配期にも継承され、シチリア島が「文化の交差点」となる素地を作りました。

3.アグラブ朝からファーティマ朝、そしてノルマン人へ

アグラブ朝のシチリア支配は永続的なものではありませんでした。10世紀に入ると、北アフリカでは ファーティマ朝 が台頭し、アグラブ朝はこれに取って代わられます。

しかし、シチリア島におけるイスラーム的統治の経験そのものは失われませんでした。

ファーティマ朝、さらにその後のイスラーム勢力を経て、11世紀にはノルマン人が島を支配しますが、彼らもまた、既存の行政制度や文化を積極的に利用しました。

このように、アグラブ朝によるシチリア島支配は、イスラーム → キリスト教という単純な断絶ではなく、連続的な継承の起点として理解することが重要です。

【正誤問題】
アグラブ朝は、マグリブ地方の一地方政権にすぎず、地中海世界にはほとんど影響を与えなかった。
解答:× 誤り
☞ シチリア支配を通じて、地中海中央部に大きな影響を与えた。

アグラブ朝を、地方政権でありながら国際的影響をもった王朝として評価せよ。

アグラブ朝はアッバース朝に名目的に服属する地方政権であったが、内政の安定と海軍力を背景にシチリア島を支配し、地中海世界へ進出した。その活動は同時代のフランク王国とも並び、地中海を舞台とする国際関係に影響を与えた点で重要である。

【参考】シチリア島支配の遷移(ビザンツ → イスラーム → ヨーロッパ)

① ビザンツ帝国支配(〜9世紀初頭)

7世紀以降、シチリア島は ビザンツ帝国 の重要拠点でした。

地中海中央部に位置するこの島は、

  • イタリア半島防衛の前線
  • 地中海交易の要衝
  • ローマ帝国以来の穀倉地帯

として、東ローマにとって戦略的価値が非常に高かった地域です。

ただし9世紀に入ると、ビザンツ帝国は小アジア防衛・内紛・財政難に追われ、シチリアへの統制力は次第に弱まっていきます。

② イスラーム勢力の進出(9〜10世紀)

この隙を突いたのが、北アフリカの アグラブ朝 でした。

827年、アグラブ朝は地中海を越えてシチリア島への本格的な遠征を開始します。この遠征は一時的な略奪ではなく、明確に領土支配を意図した軍事行動でした。

831年にはパレルモが陥落し、ここを拠点としてイスラーム勢力は島内での足場を固めていきます。その後も戦闘は断続的に続きましたが、数十年をかけてシチリア島の大部分がアグラブ朝の支配下に置かれることになりました。

こうしてシチリア島は、名実ともにイスラーム世界の一部となります。この時代のイスラーム支配の特徴は、征服が破壊や略奪に終わらず、統治と定住を伴っていた点にあります。

灌漑技術の導入や農業生産の向上によって島の経済は活性化し、地中海交易に組み込まれたことで都市も発展しました。とくにパレルモは、北アフリカと地中海世界を結ぶ国際的な都市として成長していきます。

この結果、シチリア島は単なる征服地ではなく、北アフリカと地中海世界を結びつける結節点としての役割を担うようになりました。

つまりこの時代のシチリア島は、「イスラーム地中海の西の拠点」として位置づけることができるのです。

【正誤問題】
アグラブ朝の支配下で、シチリア島は北アフリカと地中海世界を結ぶ交易拠点として機能した。
解答:〇 正しい
☞「イスラーム地中海の西の拠点」という位置づけが重要。

③ ファーティマ朝の時代(10世紀)

10世紀に北アフリカで ファーティマ朝 が成立すると、シチリア島もその勢力圏に組み込まれることになります。

ただし、この変化は「支配の断絶」を意味するものではありませんでした。アグラブ朝に代わってファーティマ朝が台頭したものの、シチリア島におけるイスラーム支配そのものは継続し、統治の基本的な枠組みは大きく変わらなかったのです。

実際、行政制度や農業経営の仕組み、都市構造といった面では、先行する時代に築かれた体制が引き継がれました。支配者の交代はあったものの、社会や経済の運営が根本から覆されることはなく、シチリア島は引き続きイスラーム世界の一部として機能し続けます。

この点において重要なのは、この時代の変化がイスラームからキリスト教への転換ではなく、イスラーム勢力内での政権交代にすぎなかったということです。

つまりこの段階では、シチリア島の歴史は「イスラーム → イスラーム」という連続性の中で展開しており、明確な断絶は存在しなかったと理解する必要があります。

④ ノルマン人による征服(11世紀)

11世紀後半になると、シチリア島の歴史は大きな転換点を迎えます。南イタリアに進出していた ノルマン人 が、分裂状態にあったイスラーム勢力を突いてシチリア島への征服を本格化させたのです。

彼らは段階的に島内の拠点を攻略し、1091年までにイスラーム勢力を完全に排除しました。こうしてシチリア島は、形式上は再びキリスト教世界、すなわちヨーロッパ勢力の支配下に入ることになります。

この転換は、それまでの「イスラームからイスラームへ」という連続的な支配交代とは性格を異なしていました。

ノルマン人の征服によって、宗教的支配の枠組みは明確に変化し、シチリア島はイスラーム世界から切り離されることになります。この点において、ノルマン人の進出は、シチリア島史における最初の明確な断絶と位置づけることができます。

もっとも、この断絶は、文化や制度の全面的な否定を意味するものではありませんでした。

ノルマン人は、イスラーム時代に整えられた行政制度や農業技術、都市構造を実用的なものとして受け入れ、統治に活用します。その結果、シチリア島ではラテン系キリスト教文化、ギリシア的伝統、イスラーム文化が重なり合う独特の社会が形成されました。

したがって、ノルマン人による征服は、宗教的支配という点では断絶であり、社会・文化の運営という点では継承を伴う転換だったと整理するのが適切です。この二重性こそが、シチリア島を「境界世界」として特徴づける最大の要素だといえるでしょう。

【正誤問題】
11世紀後半、 ノルマン人 がシチリア島を征服し、1091年までにイスラーム勢力を排除した。
解答:〇 正しい
☞ 年代と民族名はセットで頻出。

ノルマン人による征服は、イスラーム的な行政・農業制度を完全に否定し、急進的な断絶をもたらした。
解答:× 誤り
☞ 宗教的には断絶だが、制度・文化は多くが継承された。

【入試で問われるポイント】
シチリア島は、9世紀まではビザンツ帝国領であったが、9〜10世紀にはアグラブ朝・ファーティマ朝などのイスラーム勢力に支配され、11世紀末にノルマン人によって再びキリスト教勢力の支配下に入った。

ビザンツ帝国 → イスラーム → ノルマン人 の順番
✔ イスラーム支配期が「長く」「安定していた」点
✔ ノルマン人がイスラーム文化を排除せず継承した点

コラム|11世紀後半、地中海全域で何が起きていたのか

― 境界が「固定」から「再編」へ向かった時代 ―

1091年という年号そのものが、大学入試で直接問われることは多くありません。しかしこの年は、11世紀後半の地中海世界が大きく動いていた時代を理解するための、ひとつの重要な手がかりになります。

この時期の地中海では、キリスト教勢力とイスラーム勢力の境界が、各地で同時多発的に揺れ動き、再編されていきました。

まず注目したいのが、地中海中央部のシチリア島です。シチリア島では、9世紀に北アフリカのアグラブ朝が進出して以降、約260年にわたってイスラーム勢力の支配が続いていました。この長期支配は、11世紀後半にノルマン人によって終焉を迎えます。1091年は、シチリア島からイスラーム勢力が完全に排除された区切りの年として位置づけることができます。

このノルマン人による征服は、十字軍の開始(1096年)とほぼ同時期に起こった出来事でした。東地中海では十字軍が聖地エルサレムを目指して動き出し、中央地中海ではシチリア島がキリスト教勢力の支配下に入る。こうした動きは、11世紀後半にキリスト教世界が地中海へ再び積極的に関与していく流れを示す一例といえるでしょう。

この時期の地中海世界の動きを、地域ごとに整理すると、次のようになります。

  • シチリア島(地中海中央部):ノルマン人による征服(1091年)
  • 東地中海:十字軍の開始(1096年)
  • 小アジア:セルジューク朝の進出により、ビザンツ帝国が後退
  • 北アフリカ(マグリブ〜エジプト):ファーティマ朝の台頭など、イスラーム世界内部の再編が進行

ここで重要なのは、これらの動きがすべて同じ方向を向いていたわけではない、という点です。シチリア島や東地中海ではキリスト教勢力が前進する一方で、小アジアではセルジューク朝の進出によって ビザンツ帝国 が大きく後退しました。1071年のマンジケルトの戦い以降、小アジアはトルコ系イスラーム勢力の定着地となり、ここでは キリスト教世界が押し戻される形で境界が再編されていきます。

また北アフリカでは、キリスト教勢力との直接的な境界変動こそ起こっていないものの、ファーティマ朝 の成立によって、マグリブからエジプトにかけての勢力配置が変化しました。これはイスラーム世界内部の再編ですが、地中海政策やシチリア・エジプトとの関係を通じて、地中海全体の力関係に影響を及ぼしています。

このように11世紀後半の地中海世界では、

ある地域ではキリスト教勢力が前進し、
別の地域ではイスラーム勢力が拡大し、
さらに別の地域ではイスラーム世界内部の再編が進む


という複数の動きが同時に進行していました。

したがって、この時代を「キリスト教世界の拡張」や「十字軍の時代」とだけ捉えるのは不十分です。

11世紀後半とは、地中海全域で境界が固定された状態から流動的な状態へと移行していく再編の時代だったと理解するのが適切でしょう。

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