10〜15世紀のイスラーム史は、王朝名が次々と入れ替わり、分裂と征服が繰り返されるため、全体像をつかみにくい時代として知られています。
しかし、この時代を「中央アジア」という視点から捉え直すと、ばらばらに見えていた出来事や王朝の動きが、一本の流れとして理解できるようになります。
中央アジアは、東西交易の通過点であると同時に、遊牧・農耕・都市が交錯する境界世界でした。
この地域では、統一的な支配が維持されにくい一方で、軍事力と機動性を備えた勢力が次々と台頭し、新たな支配モデルが試行錯誤されていきます。多極化は混乱ではなく、次の時代を準備するための過程だったのです。
実際、10世紀のイラン系王朝から始まり、トルコ系軍事国家、モンゴル帝国、そしてティムール朝へと続く流れは、すべて中央アジアを起点として展開しました。
さらに、その遺産はオスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国といった近世イスラーム国家へと受け継がれていきます。10〜15世紀のイスラーム史は、中央アジアを抜きにして語ることはできません。
本記事では、中央アジアの地理的特性と歴史的役割に注目しながら、10〜15世紀のイスラーム史を「王朝の暗記」ではなく「構造の理解」として整理します。
中央アジアを理解することで、この時代のイスラーム世界が一気に“読める”ようになるはずです。
【中央アジアを軸にした10〜15世紀イスラーム史】
【地理的前提】
山岳・砂漠・草原が交錯
= 交流は可能/恒久支配は困難
= 「線」は通るが「面」の統治は難しい
【9〜10世紀】
多極化の進行(カリフ権威の相対化)
↓
イラン系王朝の自立
・官僚制・文化を基盤
・カリフの宗教権威は名目的に承認
↓
(例:サーマン朝)
【10〜12世紀】
トルコ系軍事国家の台頭
・騎馬軍事力+機動性
・中央アジアを起点に外部へ進出
↓
軍事国家モデルの形成
・イクター制
・スルタン=カリフ体制
↓
(例:カラ=ハン朝/ガズナ朝/セルジューク朝/ホラズム朝)
【13世紀】
モンゴル帝国の侵入
・旧イスラーム秩序の破壊
・中央アジアを起点にユーラシア再編
↓
モンゴル系支配の継続
・中央アジアは空白にならない
↓
(例:チャガタイ=ハン国)
【14世紀】
モンゴル後の再編
・モンゴル的軍事支配 + イスラーム的統治原理
↓
中央アジア型国家の完成
↓
(例:ティムール朝)
【15世紀以降】
中央アジアの相対的後退
・火器の普及
・海上交易の発展
・恒久的支配に不利
↓
中央アジア的遺産の拡散
(軍事・制度・支配モデル)
【近世イスラーム世界】
完成形の帝国が周辺で成立
・農耕地帯+火器+官僚制
↓
(オスマン帝国/サファヴィー朝/ムガル帝国)
論述問題にチャレンジ
第1章 中央アジアの地理を押さえる
― 10〜13世紀イスラーム史を読むための前提知識
10〜13世紀のイスラーム史を「中央アジア」を軸に理解するためには、まずこの地域の大まかな範囲と内部区分を整理しておく必要があります。
ここが曖昧なままだと、王朝の移動や民族の動きがすべて点の暗記になってしまいます。
1.中央アジアの大まかな位置関係
中央アジアは、ユーラシア大陸の内陸部に位置する地域です。
試験対策としては、次の理解で十分です。
- 西:イラン東部(ホラーサーン地方)
- 東:中国西部(新疆ウイグル自治区)
- 南:ヒンドゥークシュ山脈・パミール高原
- 北:カザフ草原(ステップ地帯)
重要なのは、
☞ 中央アジアは海に面しない内陸地域
☞ 東西交易(シルクロード)の通過点として発展した
2.東トルキスタンと西トルキスタン
中央アジアは、歴史的に東トルキスタンと西トルキスタンの二つに分けて理解されます。
「トルキスタン」とは本来、「トルコ人(テュルク系民族)の住む土地」を意味する地理的・民族的呼称であり、特定の国家名ではありません。この呼称が定着した背景には、9世紀以降、テュルク系民族、とりわけウイグル人の定住が中央アジア東部で進んだことがあります。
それ以前のタリム盆地周辺は、西域諸国と総称されるオアシス国家が分立する地域でしたが、ウイグル人の移住と定着によって、次第にテュルク系住民が多数派となり、「トルコ人の土地=トルキスタン」と認識されるようになりました。
こうして、タリム盆地を中心とする地域は東トルキスタン、これより西のトランスオクシアナ(ソグディアナ)地方は西トルキスタンと区別されるようになります。
この区分は、単なる地理的な東西の違いではなく、東トルキスタンがオアシス都市と交易・宗教文化を特徴とする地域であったのに対し、西トルキスタンは草原と農耕地が接する地帯として、より早くイスラーム化と王朝形成が進んだという歴史的性格の違いを反映しています。
東トルキスタン
- 現在の:中国・新疆ウイグル自治区
- 主要都市:カシュガル、トゥルファン
- 特徴
- 中国世界との接点
- オアシス都市が連なる
- 仏教・マニ教・イスラームが交錯
☞ 中国史とイスラーム史をつなぐ地域
西トルキスタン
- 現在の:ウズベキスタン・トルクメニスタン周辺
- 主要都市:サマルカンド、ブハラ
- 特徴
- イラン系文化が強い
- 10世紀以降のイスラーム王朝の中心地
- 学問・行政・商業の拠点
☞ イスラーム世界内部の中枢地域
入試では、「東=中国寄り」「西=イスラーム寄り」という役割分担を押さえておけば十分です。
3.パミール高原の意味(ここが超重要)
パミール高原は、単なる山岳地帯ではありません。
- 東トルキスタン・西トルキスタン・南アジア・イラン世界が交わる地点
- 「世界の屋根」と呼ばれる交通の要衝
- 交易路・軍事移動の分岐点
☞ 世界史的には「中央アジアが分裂し、同時に結ばれる場所」
10〜13世紀に、
- トルコ系民族が西進し
- モンゴル軍が各地へ拡散できた
背景には、この地理的結節点の存在があります。
4.なぜ中央アジアは「動く地域」なのか
中央アジアの最大の特徴は、
- 農耕文明の安定地帯ではない
- 遊牧・交易・軍事移動が前提の社会
- 王朝・民族・宗教が入れ替わりやすい
という点です。
そのため、
- イラン系王朝(サーマン朝)
- トルコ系軍事国家(ガズナ朝・セルジューク朝)
- モンゴル帝国
が、次々にこの地域から登場することになります。
まとめ|この地理理解がこの記事の土台
ここまで押さえれば十分です。
- 中央アジア=イランより東・中国より西の内陸
- 東トルキスタン=中国世界との接点
- 西トルキスタン=イスラーム世界の中枢
- パミール高原=分岐点・結節点
- 全体として「人と権力が動きやすい地域」
第2章 10世紀―中央アジアから始まるイスラーム世界の多極化
9世紀末から10世紀にかけて、イスラーム世界は大きな転換点を迎えます。
形式上は依然としてアッバース朝が存続していましたが、カリフの実権は急速に失われ、各地で自立政権が並立する「多極化」の時代へと移行していきました。
この変化が最も顕著に現れたのが、中央アジアです。
1.アッバース朝の権威低下と中央アジア
アッバース朝は、8〜9世紀にはバグダードを中心に広大な領域を統治しましたが、10世紀に入ると軍事・財政の主導権を失い、カリフは宗教的正統性の象徴へと変質していきます。
広大な帝国を中央集権的に統治する仕組みはすでに限界に達しており、地方では軍事力や財政基盤を持つ勢力が実質的な支配を担うようになりました。
中央アジアは、
- バグダードから距離があり
- 交易と軍事の要衝であり
- 遊牧勢力が流入しやすい
という条件を備えていたため、いち早く地方政権が自立する地域となります。
2.イラン系政権の自立―サーマン朝
10世紀初頭、中央アジアではイラン系のサーマン朝が勢力を伸ばします。サーマン朝は名目上はアッバース朝のカリフに忠誠を示しつつ、実際には独立した王朝として統治を行いました。
この王朝の特徴は、
- イラン系官僚制度の継承
- ペルシア文化の保護と発展
- 学問・文学の振興
にあります。ここで重要なのは、サーマン朝が「カリフ不在でも統治が成立する」ことを示した点です。中央アジアはこの段階で、すでにカリフ中心の政治秩序から離脱し始めていました。
3.トルコ系の台頭―カラ=ハン朝とガズナ朝
同じ10世紀、中央アジアではもう一つの大きな変化が進行します。それが、トルコ系勢力の本格的な登場です。
- トルコ系遊牧民が次第にイスラームを受容
- 軍事力を背景に国家を形成
- イラン系政権と並立・競合
この流れの中で成立したのが、トルコ系のカラ=ハン朝やガズナ朝です。特に重要なのは、イスラームを受け入れたトルコ系勢力が、中央アジアで国家運営の経験を積み始めた点にあります。
ここで培われた軍事国家モデルは、次の世紀に西アジアへと持ち込まれることになります。
4.中央アジアが「分裂の震源」となった理由
10世紀の中央アジアでは、
- カリフの実権喪失
- イラン系王朝の自立
- トルコ系軍事勢力の台頭
が同時並行で進行しました。つまり中央アジアは、イスラーム世界全体の変化を「先取り」する地域だったのです。
この段階で重要なのは、中央アジアで進んだ政治的分裂が「衰退」ではないという点です。
既存の統一秩序が解体される過程で、各地に軍事力を基盤とする勢力が成長し、次の時代における強力な軍事国家の誕生と、軍事力と宗教的正統性を結びつけた新たな支配モデルの形成を準備していく過程でもあったのです。
比較論述で「必ず差がつく」評価ポイント
入れると高得点
- ✔ 支配基盤の違い
- イラン系:都市・農耕地・官僚
- トルコ系:草原・騎馬軍事力
- ✔ 制度の違い
- 官僚制 vs イクター制
- ✔ 政治構造の転換
- カリフの象徴化
- スルタンの実権化
5.次章への視点転換
10世紀の中央アジアは、カリフ中心の秩序が崩れ、新たな支配者が育成される実験場でした。
次章では、この中央アジアで成長したトルコ系勢力が、どのようにして西アジアへ進出し、イスラーム世界の主導権を握るに至ったのかを見ていきます。
第3章 11世紀―中央アジアから西アジアへ、トルコ系軍事国家の時代
10世紀の中央アジアでは、イラン系王朝とトルコ系勢力が並立し、カリフ中心の秩序はすでに形骸化していました。
11世紀になると、この地域で蓄積された変化が一気に表面化します。その中心に立ったのが、トルコ系軍事勢力でした。
1.トルコ系勢力の成熟と西進
トルコ系遊牧民は、10世紀までに中央アジアで次の三点を身につけていました。
- イスラームの受容
- 常備軍を核とする軍事力
- 国家運営の実務経験
この段階で重要なのは、彼らが単なる遊牧集団ではなく、すでに「国家を運営できる軍事集団」へと変化していた点です。こうして中央アジアで力を蓄えたトルコ系勢力は、11世紀に入ると西アジアへ進出します。
中央アジアの地理的条件と軍事国家の関係をもう少し詳しく説明すると
- 北からは遊牧民が来る
- 南からは農耕民・商人が来る
両方が交わる接点に都市がある。
この構造だと、
- 軍事力:草原(騎馬・機動力)
- 財政・文化:農耕地(税・都市)
を セットで確保 できます。
中央アジア発の王朝は多くが、
- 支配者:草原出身(トルコ系・モンゴル系)
- 官僚・文化:都市・農耕地由来(イラン系)
という ハイブリッド構造 を持ちました。
だから「軍事国家」が生まれやすい!
論述で必ず入れたい「採点ポイント整理」
ー高評価につながる要素
- ✔ 中央アジアという地域条件
- ✔ 騎馬軍事力(機動性)
- ✔ イクター制・スルタン体制
- ✔ カリフとの役割分離
2.セルジューク朝の成立と意味
11世紀半ば、トルコ系のセルジューク朝が登場します。セルジューク朝は中央アジアを出発点とし、イラン・イラクへと勢力を拡大し、最終的にはバグダードに入城しました。
ここで注目すべきは、セルジューク朝がアッバース朝カリフを廃さなかった点です。
- カリフ:宗教的正統性の象徴
- スルタン:軍事・行政の実権者
という役割分担が確立され、イスラーム世界は新たな政治秩序へ移行します。
☞ これは「カリフ制の復活」ではなく、「カリフ制を前提としない統治モデルの完成」でした。
10世紀以降のイスラーム世界では、アッバース朝の実権低下を背景に、各地で自立政権が並立する状況が生まれました。
カリフは依然として存在していましたが、政治的統一は失われ、地域ごとに支配者や支配原理が異なる「多極化」の時代に入ります。
この結果、「誰がイスラーム世界を代表する支配者なのか分からない」という根本的な問題が生じました。
この状況に対し、セルジューク朝が示した答えは明確でした。
セルジューク朝は、カリフという宗教的正統性の象徴を廃することなく存続させ、自らはスルタンとして軍事・行政の実権を担うという役割分担を打ち出します。つまり、「宗教的正統性」と「政治的実権」を切り分けることで、正統な支配の形を制度として明確化したのです。
この支配モデルは一時的な対応にとどまりませんでした。セルジューク朝以後、ホラズム朝、モンゴル後の再編国家、さらにオスマン帝国へと、同型の国家が連続して登場します。
カリフを名目的に存続させつつ、軍事力を基盤とする支配者が実権を握る体制は、イスラーム世界における「標準的な政治構造」となっていきました。
この点において、セルジューク朝の最大の役割は、単に領土を拡大したことではありません。多極化によって混乱していたイスラーム世界に対し、「正統な支配とは何か」という問いに一つの現実的な解答を与え、その後の王朝が踏襲する支配モデルを確立したことにあります。
3.イクター制の制度化と軍事国家
セルジューク朝の支配を支えたのが、イクター制です。
- 官僚・軍人に徴税権を付与
- 税収を俸給の代替とする
- 土地の最終所有権は国家に帰属
この制度によって、現金財政に依存しない常備軍国家が成立しました。重要なのは、イクター制が中央アジアで育った軍事支配の経験を、西アジアに適応させた制度である点です。
つまりセルジューク朝は、中央アジア型の軍事国家モデルを、イスラーム世界全体へ輸出した存在だったと言えます。
4.中央アジアの役割転換
11世紀を通じて、中央アジアの位置づけは大きく変化します。
- 10世紀:分裂と自立の震源
- 11世紀:支配者を生み出す供給源
中央アジアはもはや「周辺」ではなく、イスラーム世界の主導権を左右する人材と軍事力の源泉となりました。
この構造を理解すると、セルジューク朝以後のイスラーム史が「突然トルコ系だらけになる」理由も自然に説明できます。
5.次章への視点
しかし、セルジューク朝の支配は永続的なものではありませんでした。軍事国家という仕組みは強力である一方、分裂しやすいという弱点も抱えていました。12世紀には、セルジューク朝は各地で分裂し、中央アジアと西アジアは再び不安定な時代へと入っていきます。
第4章 分裂が常態化するイスラーム世界と中央アジア
11世紀に成立したセルジューク朝は、トルコ系軍事国家としてイスラーム世界に一時的な安定をもたらしました。
しかし12世紀に入ると、その秩序は次第に揺らぎ始めます。この時代の特徴は、中央アジアから西アジアにかけて「分裂が例外ではなく、常態となった」点にあります。
1.セルジューク朝の分裂とその背景
セルジューク朝は、強力な軍事力を背景に広大な領域を支配しましたが、その統治構造は本質的に不安定でした。
- 軍事貴族への土地・徴税権の分配
- スルタン家内部の継承争い
- 地方総督(アタベク)の自立
これらが重なり、セルジューク朝は次第に分裂していきます。結果として、アナトリアではルーム=セルジューク朝が成立し、イラン・中央アジア方面でも複数の政権が並立する状況が生まれました。
重要なのは、これは偶発的な崩壊ではなく、軍事国家モデルが内包していた構造的な帰結だったという点です。
2.中央アジアで台頭するホラズム朝
12世紀後半、中央アジアではトルコ系のホラズム朝が急速に勢力を拡大します。ホラズム朝は、セルジューク朝の弱体化を背景に自立し、中央アジアからイラン東部にかけて広大な領域を支配しました。
この王朝の特徴は、
- 軍事力に支えられた急速な拡張
- 中央アジア的な軍事国家モデルの継承
- 西アジアへのさらなる圧力
にあります。ホラズム朝の登場は、中央アジアが依然として新たな支配者を生み出し続ける地域であったことを示しています。
3.西アジアの動揺と十字軍
同じ12世紀、西アジアでは十字軍の侵入という外的要因も加わります。十字軍は主として地中海東岸で展開しましたが、その影響はイスラーム世界全体に及びました。
- 政治的・軍事的緊張の増大
- 各地での権力争いの激化
- 中央から地方への統制力低下
この結果、イスラーム世界は「再統一」に向かう余力を持たないまま、分裂状態を引きずることになります。中央アジアと西アジアは、もはや単一の秩序で結ばれてはいませんでした。
4.12世紀の中央アジアの意味
12世紀の中央アジアは、しばしば「混乱期」として捉えられます。しかし世界史的に見れば、この時代の中央アジアは次の役割を果たしていました。
- 軍事国家モデルの継続的供給
- 既存秩序の限界を露呈させる震源
- 次の大変動を受け止める舞台
つまり、12世紀は崩壊ではなく「臨界点への蓄積」の時代だったのです。
5.次章への視点転換
分裂が常態化したイスラーム世界は、もはや内部から秩序を再構築する力を失っていました。
その状況下で、中央アジアから現れたのが、既存秩序そのものを破壊する存在――モンゴル帝国です。
第5章 13世紀―中央アジアからの衝撃、モンゴル帝国と世界史的転換
12世紀までのイスラーム世界は、中央アジアを起点とする軍事国家の連鎖によって支えられてきました。
しかし13世紀、その構造そのものを根底から破壊する存在が登場します。モンゴル帝国です。
モンゴルの拡大は、突発的な侵略ではなく、中央アジアが長年蓄積してきた構造変化の帰結として起こりました。
1.中央アジアという「出発点」
モンゴル帝国は、東アジアや中国から直接イスラーム世界へ侵入したわけではありません。拡大の起点となったのは、中央アジアの草原地帯でした。
この地域は、
- 大軍の高速移動が可能なステップ地帯
- 東西交易路(シルクロード)の結節点
- 強力だが分裂しやすい軍事国家が並立
という条件を備えており、モンゴルの機動戦にとって最適な舞台でした。中央アジアは、モンゴルにとって「越えるべき壁」ではなく、拡大を加速させる走路だったのです。
2.ホラズム朝の崩壊と防波堤の消失
モンゴルの西方進出を決定づけたのが、中央アジアの大国であったホラズム朝との全面衝突です。通商使節殺害をきっかけに始まった戦争で、ホラズム朝は短期間のうちに崩壊しました。
この敗北が意味するのは、単なる一王朝の滅亡ではありません。ホラズム朝は、中央アジアとイスラーム世界を隔てる最後の防波堤でした。その消失によって、
- 中央アジアからイラン・イラクへの道が開かれ
- モンゴルの進軍は多方向へ分岐
することになります。
3.1258年バグダード陥落の衝撃
中央アジアを制圧したモンゴル軍は、やがてメソポタミアへ進出し、1258年にバグダードを陥落させます。これにより、アッバース朝は実質的に終焉を迎えました。
この出来事は、イスラーム世界にとって象徴的な意味を持ちます。
- カリフという宗教的権威の失墜
- 8世紀以来の政治秩序の断絶
- 中央集権的世界観の崩壊
モンゴルは、イスラーム世界の「中心」を攻撃したのではなく、すでに空洞化していた中心を崩したに過ぎませんでした。
4.破壊者であり、再編の起点
モンゴル帝国は、しばしば「破壊者」として語られます。しかし世界史的に重要なのは、その後に起きた変化です。
- 東西交易の再活性化
- ユーラシア規模での人・物・情報の移動
- 新たな政治秩序の準備
モンゴルの支配は、地域史を越えたユーラシア史の段階を出現させました。中央アジアは、この再編の中心として機能し続けます。
5.次章への視点転換
モンゴル帝国の支配は永続的ではありませんでしたが、その遺産は各地に残されました。
中央アジアではチャガタイ系の政権が存続し、イランやアナトリア、さらにはオスマン・サファヴィー・ティムールといった新たな勢力が台頭する土壌が形成されます。
第6章 中央アジアが準備した次の時代
― モンゴル後の再編と近世イスラーム世界
13世紀のモンゴル侵攻によって、イスラーム世界の旧秩序は断絶しました。しかしそれは、空白の時代を生んだのではありません。
中央アジアを中心に、モンゴル支配の遺産を引き継ぎつつ再編が進み、近世イスラーム世界の原型が形づくられていきます。
1.モンゴル帝国の分裂と中央アジアの継続性
巨大化したモンゴル帝国は、やがて統一を維持できなくなり、各地で分裂政権が成立します。中央アジアでは、チャガタイ=ハン国が存続しました。
ここで重要なのは、中央アジアが「支配の空白地帯」にならなかった点です。
- モンゴル的軍事支配
- イスラーム的行政・文化
- 東西交易ネットワーク
が重なり合い、中央アジアは引き続きユーラシアの結節点として機能し続けました。
2.ティムール朝―中央アジア型支配の最終形
14世紀後半、中央アジアから登場したのがティムール朝です。ティムールはモンゴルの軍事的伝統を継承しつつ、イスラーム世界の支配者として振る舞いました。
ティムール朝の特徴は、
- モンゴル的軍事力
- ペルシア文化の保護
- 中央アジアを基盤とする広域支配
を融合させた点にあります。これは、10世紀以来中央アジアで育まれてきた軍事国家モデルの到達点といえます。
このようにティムール朝は、中央アジア型支配の完成形といえる存在でした。しかし同時に、その支配が長期的に維持されなかった点は、中央アジア国家の構造的限界も示しています。
☞ 中央アジア国家の構造的限界については、別記事【なぜ中央アジアは衰退したのか】で詳しく解説します。

3.中央アジアの遺産が広がる三つの方向
中央アジアで形成された支配モデルは、その後三つの方向へ波及します。
- アナトリア方面 → オスマン帝国
- イラン方面 → サファヴィー朝
- インド方面 → ムガル帝国(※本記事では詳細省略)
これらの国家は、それぞれ独自の特徴を持ちながらも、
- トルコ系軍事力
- イクター制的支配構造
- イスラーム的正統性
という共通要素を備えていました。つまり、近世イスラーム世界の主役たちは、中央アジア的経験を共有していたのです。
【モンゴル帝国後の流れを理解しよう!】
モンゴル
=破壊+再編の起点
↓
チャガタイ
=中央アジアでの継続支配
↓
ティムール
=中央アジア型国家の完成
↓
三大帝国
=完成形が周辺で実現
4.なぜ「中央アジアを軸にすると」流れが見えるのか
10〜13世紀のイスラーム史は、王朝名を追うだけでは混乱します。しかし中央アジアを軸に据えると、次の一本の流れが浮かび上がります。
- 10世紀:分裂と地方政権の自立
- 11世紀:トルコ系軍事国家の成熟
- 12世紀:分裂の常態化
- 13世紀:モンゴルによる断絶
- 14世紀以降:再編と近世国家の成立
中央アジアは、常にこの変化の起点または媒介として機能していました。
5.結論―中央アジアは「周辺」ではない
中央アジアは、イスラーム世界の周辺地域ではありません。むしろ、
- 支配者を生み出し
- 秩序を揺さぶり
- 次の時代を準備する
歴史のエンジンでした。
10〜13世紀イスラーム史を中央アジアから捉え直すことで、王朝の乱立は「混乱」ではなく、構造的変化の連続として理解できるようになります。この視点は、そのまま近世イスラーム世界の理解にも直結します。
【参考】中央アジアを起点とするイスラーム王朝一覧(10〜15世紀)
10〜15世紀のイスラーム史を俯瞰すると、中央アジアは単なる周縁地域ではなく、王朝が次々と誕生し、支配の担い手が入れ替わる「動態的な中核空間」であったことが分かります。
イラン系王朝による文化的自立、トルコ系軍事国家の台頭、モンゴル帝国による破壊と再編、そしてティムール朝を経た近世国家への継承という流れは、いずれも中央アジアを起点として展開しました。
本章では、こうした歴史の流れを整理するため、中央アジアと深く関わる主要なイスラーム王朝を系統別に一覧化し、それぞれの性格と歴史的意義を簡潔にまとめます。本文理解の確認や、入試直前の総整理として活用してください。
Ⅰ.イラン系王朝(10世紀前後)
10世紀の中央アジアでは、イスラーム世界の政治構造が大きく転換し、カリフを中心とする統一的支配が揺らぎ始めます。
この時代に最初に台頭したのが、軍事力ではなく官僚制と文化的伝統を基盤とするイラン系王朝でした。彼らはアッバース朝カリフの宗教的権威を名目的に認めつつ、実際の統治は自立して行うという新しい支配モデルを示し、後に続くトルコ系・モンゴル系王朝の登場を準備します。
中央アジアにおける王朝多極化の出発点として、この段階を押さえることは不可欠です。
◆ サーマン朝
- 起点:中央アジア(ブハラ)
- 性格:イラン系・文化国家
- 意義:
- ペルシア文化復興
- カリフ不在でも統治可能なモデルを提示
- 位置づけ:
「多極化の最初の成功例」
Ⅱ.トルコ系軍事国家(10〜12世紀)
10世紀後半以降、中央アジアではイラン系王朝に代わって、トルコ系遊牧集団を母体とする軍事国家が次々と台頭します。彼らはイスラームを受容しつつ、騎馬軍事力と機動性を武器に勢力を拡大し、中央アジアからイラン・西アジア・インド方面へと進出しました。
この段階で重要なのは、中央アジアで培われた軍事的支配モデルが、イクター制やスルタン制といった制度としてイスラーム世界に定着していく点です。
トルコ系軍事国家の登場は、中央アジアが「王朝を生み出す起点」として本格的に機能し始めたことを示しています。
◆ カラ=ハン朝
- 起点:中央アジア(トルキスタン)
- 性格:トルコ系最初期のイスラーム王朝
- 意義:
- トルコ系のイスラーム化
- 軍事国家の先駆
◆ ガズナ朝
- 起点:中央アジア南部(ガズナ)
- 性格:トルコ系軍事国家
- 意義:
- インド遠征
- 軍事力による領域拡大モデル
◆ セルジューク朝
- 起点:中央アジア(トランスオクシアナ)
- 性格:トルコ系・軍事帝国
- 意義:
- イクター制の制度化
- スルタン=カリフ体制の確立
- 派生:
- ルーム=セルジューク朝(小アジア)
☞ 中央アジア発王朝の代表格
◆ ホラズム朝
- 起点:中央アジア(ホラズム)
- 性格:後期トルコ系軍事国家
- 意義:
- セルジューク後の覇権国家
- モンゴルと衝突し崩壊
- 位置づけ:
「旧秩序の最後の防波堤」
Ⅲ.モンゴル系帝国・ハン国(13世紀)
13世紀に入ると、中央アジアを舞台として形成されてきたトルコ系軍事国家の秩序は、モンゴル帝国の急速な拡大によって根底から覆されます。
モンゴルの侵入は、既存のイスラーム王朝を破壊した点で衝撃的でしたが、それは単なる断絶ではありませんでした。
中央アジアは、モンゴル帝国の拡大を支える起点であると同時に、帝国分裂後もハン国支配が継続する地域となり、旧秩序と新秩序が交錯する再編の中核として機能します。
この段階を理解することで、モンゴル支配を「破壊」ではなく「次の時代を準備する過程」として捉える視点が得られます。
◆ モンゴル帝国
- 起点:中央アジア東部草原
- 性格:ユーラシア統合帝国
- 意義:
- 旧イスラーム秩序の破壊
- 東西交易の再統合
◆ チャガタイ=ハン国
- 起点:中央アジア
- 性格:モンゴル系分裂国家
- 意義:
- 中央アジアにおけるモンゴル支配の継続
- 後のティムール朝の母体
Ⅳ.モンゴル後の再編国家(14世紀)
モンゴル帝国の分裂後、中央アジアは再び無秩序な空白地帯に戻ったのではなく、モンゴル的軍事支配の伝統とイスラーム的統治原理を融合させた新たな国家形成の場となりました。1
3世紀に破壊された旧秩序は、14世紀には中央アジアを基盤とする再編国家によって組み替えられ、軍事力と文化を兼ね備えた支配モデルが成熟していきます。
この段階で成立した王朝は、中央アジア型国家の集大成であると同時に、近世イスラーム世界へとつながる橋渡しの役割を果たしました。
◆ ティムール朝
- 起点:中央アジア(サマルカンドe
- 性格:モンゴル=イスラーム融合国家
- 意義:
- 軍事力+文化国家
- 近世イスラーム国家の原型
- 位置づけ:
「中央アジア型国家の完成形」
Ⅴ.中央アジア的遺産を継ぐ王朝(派生)
14世紀以降、中央アジアそのものは世界史の主舞台から次第に退きますが、そこで培われた軍事的・制度的遺産が失われたわけではありません。
中央アジアで形成された騎馬軍事力、支配正統性の構築方法、そしてイスラーム統治の経験は、周辺地域へと受け継がれ、新たな大帝国の基盤となっていきます。
本節では、起点は中央アジア外にありながらも、その人材・制度・軍事文化において中央アジア的性格を色濃く継承した王朝を取り上げ、中央アジア史が近世イスラーム世界へどのように連続していくのかを整理します。
※起点は中央アジア外だが、人材・制度・軍事文化は中央アジア由来
◆ オスマン帝国
中央アジアで形成されたトルコ系軍事国家モデルを継承し、アナトリアを拠点として成立した国家です。騎馬軍事力を基盤とする支配構造に加え、火器の導入と官僚制の整備によって長期安定政権へと発展しました。
◆ サファヴィー朝
中央アジア系の軍事力を背景にイランで成立した王朝で、十二イマーム派を国教とすることでシーア派国家体制を確立しました。軍事的基盤は中央アジア的でありながら、宗教政策によって独自の国家像を打ち出した点が特徴です。
◆ ムガル帝国
ティムールの系譜を引く王朝として、中央アジア的軍事伝統を携えてインドに成立しました。騎馬軍事力とイスラーム王権を基礎としつつ、インド的統治要素を取り込み、広域かつ安定した帝国を築きました。
最終整理|中央アジア起点王朝リスト(入試用)
純中央アジア発
- サーマン朝
- カラ=ハン朝
- ガズナ朝
- セルジューク朝
- ホラズム朝
- モンゴル帝国
- チャガタイ=ハン国
- ティムール朝
中央アジア的遺産を継承
- オスマン帝国
- サファヴィー朝
- ムガル帝国
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