カラハン朝をわかりやすく解説

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― トルコ系王朝による中央アジア初の本格的イスラーム国家

カラハン朝は、10世紀に中央アジアで成立したトルコ系王朝であり、同地域で最初に本格的にイスラームを受容した国家として知られます。

それまで中央アジアでは、イラン系王朝であるサーマン朝がイスラーム文化の担い手でしたが、カラハン朝の登場によって、トルコ系遊牧民社会がイスラーム世界に組み込まれていく転換点が生まれました。

王朝名の「カラ」はトルコ語で「黒」を意味し、「偉大な」「力強い」といった称号的な意味合いをもつ語でもあります。

【トルコ系王朝の系譜

中央アジアのトルコ系遊牧民
    │
    ├─ カラハン朝
    │ (集団改宗/中央アジアのイスラーム化)
    │
    ├─ ガズナ朝
    │ (トルコ系軍人国家/東イラン・インド方面)
    │
    └─ セルジューク朝
      (トルコ系最大の転換点)
        │
        ├─ ルーム=セルジューク朝
        │ (アナトリア)
        │
        ├─ ホラズム朝
        │
        └─ 後継トルコ系勢力
           │
           ├─ ティムール朝
           │ (トルコ=モンゴル系)
           │
           ├─ オスマン帝国
           │ (アナトリア → 地中海世界)
           │
           └─ ムガル帝国
             (インド)

目次

1.成立の背景 ― サーマン朝と東西トルキスタン

9〜10世紀の中央アジアでは、イラン系のサーマン朝がブハラやサマルカンドを中心に繁栄し、イスラーム文化・ペルシア文化を東西トルキスタンへと広げていく役割を果たしていました。

この時代の中央アジアは、

  • 西トルキスタン:ソグディアナ・トランスオクシアナ地方(ブハラ・サマルカンド)
  • 東トルキスタン:タリム盆地周辺(カシュガルなど)

という二つの地域に大きく分けて把握することができます。

サーマン朝の影響が強かったのは主に西トルキスタンですが、その文化的・宗教的影響は、パミール高原を越えて東トルキスタンへも及んでいました。

ただし、サーマン朝が直接支配したのは主に西トルキスタンであり、東トルキスタンに対しては政治的・宗教的に一体化させたわけではなく、あくまで文化的影響を及ぼしたにとどまっていました。

この東西トルキスタンの接点に位置し、トルコ系部族連合を基盤として台頭したのがカラハン朝です。

2.集団改宗と中央アジアのイスラーム化

― パミール高原を越える宗教の拡大

カラハン朝最大の歴史的意義は、支配層がイスラームに集団改宗したことにあります。

10世紀後半、カラハン朝の君主がイスラームに改宗すると、それに伴って配下のトルコ系遊牧民も次々とイスラームを受け入れました。

この集団改宗の影響は、西トルキスタンのオアシス都市にとどまらず、パミール高原を越えた東トルキスタン地域にまで及びました。

かつてこの地域では、仏教やゾロアスター教、さらには土着信仰が併存していましたが、トルコ系支配層と遊牧民が一体となってイスラームを受容したことで、宗教的状況は次第に変化していきます。

その結果、中央アジア全体でイスラーム化が進展し、東西トルキスタンは共通の宗教的基盤によって結びつけられることになりました。

この宗教的一体化は、後のセルジューク朝やオスマン帝国へと受け継がれ、イスラーム世界における「トルコ系ムスリム王朝の時代」が本格的に始まる重要な前提となったのです。

【正誤問題】
カラハン朝は、トルコ系王朝として初めてイスラームを国教とし、中央アジアのイスラーム化を進めた。
解答:〇
トルコ系集団改宗中央アジアのイスラーム化が最大の意義。

カラハン朝期の集団改宗によって、イスラームは西トルキスタンだけでなく、パミール高原を越えて東トルキスタンにも広がった。
解答:〇
☞ ここでパミール高原と東西トルキスタンが結びつく。地理を伴う正誤問題は差がつく

3.文化面から見たカラハン朝

― トルコ語イスラーム文化の成立と東西トルキスタンの結合

カラハン朝は、アッバース朝やサーマン朝のように、華やかな学問都市を築いたり、大規模な翻訳運動を展開した王朝ではありません。しかし、その文化史的役割は決して小さなものではなく、むしろ中央アジア史の転換点を示す重要な意義を持っています。

最大の特徴は、トルコ語によるイスラーム文化が本格的に成立した点にあります。

それまでイスラーム世界の文化は、アラビア語(宗教・聖典)とペルシア語(行政・文学)を中心に展開されてきました。これに対し、カラハン朝期には、トルコ語を用いてイスラーム的価値観や統治思想を表現する試みが現れます。

その代表例が、ユーフス・ハーッジブによる『クタドゥグ・ビリグ(幸福をもたらす知恵)』です。

この書は、イスラーム的道徳や理想的な統治のあり方をトルコ語で説いた君主論であり、遊牧的支配者がイスラーム国家の統治者へと転換していく過程を象徴しています。また、マフムード・カシュガリーによるトルコ諸語の辞典編纂は、トルコ語がイスラーム世界の中で一定の文化的地位を獲得し始めたことを示すものです。

こうした文化的動きは、単にトルコ語文学の成立を意味するだけではありません。トルコ語を媒介としてイスラーム文化が共有されることで、東西トルキスタンに広がるトルコ系社会が、共通の宗教文化によって結びつけられた点にこそ、カラハン朝の歴史的意義があります。

このように、カラハン朝の文化は、新しい文化を華やかに「創造」したというよりも、イスラーム文化をトルコ語世界へと「翻訳し、定着させる」段階にあったと評価できます。

その成果は、後のセルジューク朝やオスマン帝国におけるトルコ系イスラーム統治の思想的基盤として、確実に受け継がれていきました。

【正誤問題】
カラハン朝では、イスラーム文化は主にアラビア語とペルシア語によって受容されたため、トルコ語による文学はほとんど成立しなかった。
解答:×
☞ カラハン朝ではトルコ語によるイスラーム文学が成立した点が重要。

カラハン朝は、バグダードやブハラのような学問都市を中心に、翻訳運動や哲学研究を発展させた。
解答:×
☞ 翻訳運動・哲学研究はアッバース朝の特徴。カラハン朝は文化を創造する王朝ではなく、定着させる王朝

4.カラハン朝の衰退と周辺勢力

― カラキタイとホラズム=シャー朝

12世紀に入ると、中央アジアの勢力図は大きく変化します。

まず、東方からは耶律大石に率いられたカラキタイ(西遼)が進出し、1132年にカラハン朝を服属させました。

この結果、

  • 支配者:仏教系・非イスラーム(契丹)
  • 被支配民:イスラーム教徒(トルコ系)

という、宗教と支配層が一致しない統治構造が生まれます。

一方、西方では、トルコ系軍事勢力を基盤とするホラズム=シャー朝が台頭し、西トルキスタンからイラン方面へと勢力を拡大していきました。

カラハン朝の衰退後、中央アジアは、

  • 東:カラキタイ(西遼)
  • 西:ホラズム=シャー朝

という二つの勢力に挟まれながら、次の時代へと移行していくことになります。

カラハン朝の歴史的意義(まとめ)

カラハン朝は、以下の点で、中央アジア史・イスラーム史の構造を理解する鍵となる王朝です。

  • トルコ系王朝による初の本格的イスラーム国家
  • 東西トルキスタンを貫くイスラーム化を実現
  • サーマン朝(イラン系)→トルコ系支配への転換点
  • パミール高原を越えた宗教・文化の拡散
  • ホラズム=シャー朝・カラキタイ時代への橋渡し

☞ 入試では「サーマン朝 → カラハン朝 → カラキタイ/ホラズム=シャー朝」という流れに加え、東西トルキスタンとパミール高原を意識した地理的理解ができているかが、差のつくポイントになります。

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