後ウマイヤ朝をわかりやすく解説|コルドバ成立からカリフ鼎立・崩壊まで

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後ウマイヤ朝とは、イスラーム世界の西端イベリア半島に成立したウマイヤ家の王朝です。

ダマスクスのウマイヤ朝がアッバース革命によって滅ぼされた後、生き残った一族が地中海を越えて逃れ、新たな政権を打ち立てたという、きわめてドラマ性の高い出発点を持っています。

その中心人物が、後にコルドバを拠点として政権を築いたアブド=アッラフマーン1世でした。彼は迫害を逃れる途中、追っ手から逃れるため川を泳いで渡ったという逸話でも知られています。

王朝の創設は、血統への忠誠、地方勢力との巧みな交渉、そして軍事力を組み合わせた現実的な国家建設の結果でした。

当初の後ウマイヤ朝は「アミール(首長)」を称する地方王権にすぎませんでしたが、やがてアブド=アッラフマーン3世の時代になるとカリフを名乗り、東方のアッバース朝、北アフリカのファーティマ朝と並び立つ存在となります。

こうしてイスラーム世界は三人のカリフが併存する「カリフ鼎立」の時代へと入っていきました。

しかし、この繁栄は永続しません。11世紀に入ると、宮廷内部の権力争いや軍事勢力の台頭によって内乱が激化し、カリフの権威は急速に形骸化していきます。

中央の統治力が失われる中で地方勢力が自立し、最終的に1031年、コルドバではカリフ制そのものが廃止されました。

こうして後ウマイヤ朝は崩壊し、アル=アンダルスは多数の小国に分裂していくことになります。

本記事では、後ウマイヤ朝の成立の背景から、アミール政権としての発展、カリフ宣言に至る過程、そしてファーティマ朝との対抗関係までを整理し、西イスラーム世界がどのように独自の政治的中心を形成していったのかをわかりやすく解説していきます。

後ウマイヤ朝 俯瞰チャート(成立〜崩壊)

【① 成立の背景(8世紀中葉)】
ダマスクスのウマイヤ朝滅亡(750)
→ アブド=アッラフマーン1世が追討を逃れて生存(「クライシュの鷹」)
→ 北アフリカを経てイベリア半島へ
→ 756年 コルドバを制圧
→ 後ウマイヤ朝成立(アミール政権)

【② 初期体制(アミール政権)】
称号:アミール(首長)
性格:地方王権
方針:アッバース朝との正面衝突を避け、アル=アンダルスの安定統治を優先
特徴:宗教的正統性よりも現実的支配を重視
※ 建国当初はカリフを名乗らない

【③ カリフ宣言と三カリフ鼎立(10世紀)】
国内統一の進展
→ 929年 アブド=アッラフマーン3世がカリフを称する
→ ファーティマ朝への対抗とウマイヤ家の血統的正統性を主張
→ 三カリフ鼎立の成立

三カリフ鼎立の構図
東方:アッバース朝(バグダード)
北アフリカ:ファーティマ朝(チュニジア → カイロ)
西方:後ウマイヤ朝(コルドバ)

【④ 最盛期(10世紀のコルドバ)】
政治:西イスラーム世界の政治・宗教的中心
都市:ローマ起源の都市を再編した大都市コルドバ
経済:地中海交易と内陸交易の結節点
文化:学問・学術の中心、ヨーロッパ世界への文化的影響
社会:宗教的多様性を含む都市社会

【⑤ 内乱と崩壊(11世紀)】
宮廷内部の権力争い
→ 内乱の激化(1009年以降)
→ カリフ権威の形骸化
→ 1031年 コルドバでカリフ制廃止
→ 後ウマイヤ朝滅亡
→ アル=アンダルスはタイファ諸国へ分裂

後ウマイヤ朝は、ウマイヤ家の血統を背景にアミール政権として成立し、10世紀にカリフを称して三カリフ鼎立の一角となったが、11世紀に内乱によって崩壊した。

目次

第1章 アブド=アッラフマーン1世と後ウマイヤ朝の成立

ウマイヤ朝アッバース革命によって滅ぼされた750年以降、ウマイヤ家の人々は徹底的な追討を受けました。

多くの王族が処刑される中、ただ一人逃げ延びたのが、若きアブド=アッラフマーン1世です。ここから後ウマイヤ朝の歴史が始まります。

1.ウマイヤ家最後の生存者 ― 逃亡の旅

アブド=アッラフマーン1世は、アッバース側の追撃を受けながらシリアを脱出し、北アフリカへと逃れました。

その途中、追っ手に迫られ、川を泳いで渡って難を逃れたという逸話が伝えられています。同行していた兄弟が捕らえられる中、自らは命からがら水中へ飛び込み、生き延びたという話は、後世にまで語り継がれています。

このエピソードは単なる伝説ではなく、彼の生涯を象徴する出来事といえます。すなわち、血統だけに頼らず、実際に行動し、困難を切り抜けていく現実主義者としての姿です。

北アフリカではベルベル人勢力の保護を受けつつ機会をうかがい、やがてイベリア半島へ渡ります。

当時のアル=アンダルス(イスラーム支配下のイベリア半島)は、総督同士の対立や部族抗争が続く不安定な地域でした。アブド=アッラフマーン1世はこの混乱を逆手に取り、自らのウマイヤ家の血統を旗印として支持者を集めていきます。

【正誤問題】
アブド=アッラフマーン1世は、追討から逃れる途中で川を泳いで渡ったという逸話をもつ。
解答:〇 正しい
☞「クライシュの鷹」と称される由来の一つ。人物像を問う知識問題で出る。

2.コルドバ入城とアミール政権の確立

756年、アブド=アッラフマーン1世はコルドバを制圧し、自らをアミール(首長)と称しました。

ここに後ウマイヤ朝が成立します。ただし、この時点ではカリフを名乗らず、あくまで地方政権の統治者という立場でした。

これは東方のアッバース朝との正面衝突を避けつつ、現実的に勢力基盤を固めるための判断でした。彼は巧みに軍事力と調停を使い分け、反抗的な地方勢力を次々と制圧していきます。

アブド=アッラフマーン1世の統治の特徴は、次の点にあります。

第一に、ウマイヤ家の正統性を強調しながらも、現地勢力を積極的に取り込んだこと。
第二に、常備軍を整備し、反乱の芽を早期に摘み取ったこと。
第三に、宗教的権威よりも政治的安定を優先した点です。

この結果、アル=アンダルスは次第に安定し、西イスラーム世界の中核として成長していきました。

【正誤問題】
後ウマイヤ朝の初代君主アブド=アッラフマーン1世は、ダマスクス陥落後にカリフを称してコルドバに入城した。
解答:× 誤り
☞ アブド=アッラフマーン1世はアミール(首長)を称した。カリフを名乗るのは後代。

3.「亡命王朝」から地域大国へ

アブド=アッラフマーン1世の死後も、後ウマイヤ朝は動揺しながら存続し、9世紀には各地で反乱が頻発します。

しかし王朝そのものは崩れず、代々のアミールによって体制は維持されました。

この粘り強い継続こそが、後にアブド=アッラフマーン3世によるカリフ宣言へとつながる土台になります。

すなわち後ウマイヤ朝は、数世代にわたる統治の積み重ねによって成立した「西方イスラームの国家」だったのです。

第2章 アブド=アッラフマーン3世とカリフ鼎立の時代

10世紀初頭、後ウマイヤ朝は大きな転換点を迎えます。それがアブド=アッラフマーン3世の即位でした。

彼の治世によって、後ウマイヤ朝は単なる地方政権から、イスラーム世界を代表する「カリフ国家」へと飛躍していきます。

1.内乱の収束と国家再建

912年に即位したアブド=アッラフマーン3世がまず直面したのは、国内の深刻な分裂でした。

地方豪族や軍閥が割拠し、王都コルドバの統制は及ばない地域も少なくありませんでした。

彼は即位直後から果断な軍事行動を展開し、反乱勢力を次々と制圧していきます。同時に、懐柔策も巧みに用い、降伏した勢力には一定の自治や地位を認めることで、再反乱を防ぎました。

こうして20年ほどかけてイベリア半島のイスラーム支配地域を再統合し、王権の集中化を進めていきます。

この過程で整備された常備軍と官僚制度は、後ウマイヤ朝を安定した中央集権国家へと変貌させました。

2.カリフ宣言の背景 ― ファーティマ朝への対抗

929年、アブド=アッラフマーン3世はついに自らをカリフと称します。これは後ウマイヤ朝にとって決定的な出来事でした。

この背景には、北アフリカで急速に勢力を拡大していたファーティマ朝の存在があります。

ファーティマ朝はシーア派を掲げ、正統なカリフ権を主張しながら地中海西部へ進出していました。その影響はイベリア半島にも及びかねず、後ウマイヤ朝にとって深刻な脅威となっていたのです。

そこでアブド=アッラフマーン3世は、アッバース朝だけでなくファーティマ朝にも対抗するため、ウマイヤ家の血統を根拠に自らカリフ位を宣言しました。

これにより後ウマイヤ朝は、宗教的にも政治的にも独立した大国として位置づけられることになります。

【正誤問題】
問① 929年、アブド=アッラフマーン3世はカリフを名乗り、コルドバはイスラーム世界の宗教的中心の一つとなった。
解答:〇 正しい
☞ ここで「カリフ鼎立」が成立。

問② 後ウマイヤ朝がカリフを名乗った背景には、北アフリカで勢力を拡大したファーティマ朝への対抗があった。
解答:〇 正しい
☞ アブド=アッラフマーン3世のカリフ宣言は、ファーティマ朝への政治的・宗教的対抗という意味合いが強い。

3.カリフ鼎立 ― 分裂するイスラーム世界

こうして10世紀のイスラーム世界では、

東方:アッバース朝(バグダード)
・北アフリカ:ファーティマ朝(チュニジア → カイロ)
・西方:後ウマイヤ朝(コルドバ)

という三つのカリフ政権が並び立つ「カリフ鼎立」の状態が成立しました。

これはイスラーム世界の統一が完全に失われたことを意味します。もはや単一の宗教的中心は存在せず、地域ごとに異なる正統性が主張される時代に入ったのです。

後ウマイヤ朝はこの中で、西地中海世界の代表として振る舞い、外交・軍事・交易の面で独自の勢力圏を築きました。

コルドバは学問と商業の中心として繁栄し、ヨーロッパ世界に対しても強い影響力を持つ都市へと成長します。

【正誤問題】
3カリフ鼎立は、イスラーム世界が単一帝国から複数の地域国家へ移行したことを象徴する現象である。
解答:〇 正しい
☞ 後ウマイヤ朝はその「西方代表」。

論述問題にチャレンジ

後ウマイヤ朝がカリフを名乗った背景と、その結果生じたイスラーム世界の変化を説明せよ。

後ウマイヤ朝は、北アフリカで台頭したファーティマ朝への対抗と、ウマイヤ家の血統的正統性を根拠として、アブド=アッラフマーン3世の時代にカリフを称した。その結果、アッバース朝・ファーティマ朝・後ウマイヤ朝が並立する三カリフ鼎立が成立し、イスラーム世界は多中心的秩序へと移行した。

後ウマイヤ朝が建国当初はカリフを称さず、後にカリフを名乗った理由を説明せよ。

建国当初の後ウマイヤ朝は、東方のアッバース朝との衝突を避けるためアミールを称する地方政権として出発した。しかし国家基盤の安定後、ファーティマ朝の台頭に対抗し、宗教的正統性を主張する必要が生じたため、10世紀にカリフを名乗るに至った。

第3章 コルドバの繁栄と後ウマイヤ朝の最盛期

アブド=アッラフマーン3世のカリフ宣言以降、後ウマイヤ朝は政治的にも経済的にも最盛期を迎えます。

その中心となったのが首都コルドバでした。ここでは、この時代の後ウマイヤ朝がどのような国家であったのかを見ていきます。

1.西イスラーム世界の都コルドバ

10世紀のコルドバは、当時のヨーロッパでも屈指の大都市でした。人口は数十万人規模に達したともされ、整備された道路、上下水道、街灯を備えた都市空間は、同時代のキリスト教世界を大きく凌駕していました。

後ウマイヤ朝は行政機構を整え、税制を安定させ、地中海交易と内陸交易の結節点として経済を発展させます。イスラーム圏とヨーロッパ世界を結ぶ中継地として、香料・絹織物・金属製品などが行き交い、王朝財政を支えました。

また、コルドバは学問の中心地でもあり、医学・数学・天文学・哲学などが盛んに研究されました。膨大な蔵書を誇る図書館が整備され、イスラーム世界の知的成果が後にヨーロッパへ伝わる重要な窓口ともなります。

【正誤問題】
後ウマイヤ朝の首都コルドバは、ローマ時代に起源をもつ都市である。
解答:〇 正しい
☞ ローマ属州都 → 西ゴート → イスラームという都市の連続性が重要。

2.宗教的寛容と多文化社会

後ウマイヤ朝の特徴の一つが、比較的寛容な宗教政策です。イスラームを国教としながらも、キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体を認め、税を納めることで信仰の自由を保障しました。

この仕組みにより、多様な人々が共存する都市社会が形成され、商業と文化が活性化します。行政や学問の分野では改宗者や非ムスリム出身者も活躍し、王朝の実務を支えました。

こうした柔軟な統治は、後ウマイヤ朝の繁栄を下支えする重要な要素でした。

3.最盛期の裏側にあった脆さ

しかし、この輝かしい繁栄の裏側では、次第に不安定要素も蓄積されていきます。広大な領域を維持するため軍事費は増大し、地方有力者への依存も強まりました。

さらに、宮廷内部では権力争いが激化し、カリフ権力は次第に形式化していきます。中央集権的な体制は、強力な君主が存在してこそ機能する仕組みであり、後継者が弱体化すると一気に崩れやすい構造を抱えていました。

このように、後ウマイヤ朝の最盛期は同時に、後の分裂と崩壊への伏線でもあったのです。

第4章 後ウマイヤ朝の崩壊と歴史的意義

10世紀後半まで続いた後ウマイヤ朝の繁栄は、11世紀初頭になると急速に失われていきます。

表面上は強大に見えたカリフ国家は、内部から崩れていきました。

この章では、その崩壊の過程と、後ウマイヤ朝が残した歴史的意味を整理します。

1.内戦とカリフ権威の瓦解

アブド=アッラフマーン3世とその後継者の時代を頂点として、コルドバ・カリフ国は次第に不安定化します。宮廷内の派閥争いが激しくなり、軍事指導者や官僚が実権を握る場面も増えていきました。

1009年以降、カリフ位をめぐる内戦が本格化し、王都コルドバ自体が戦場となります。短期間にカリフが次々と交代し、かつて絶対的だった王権は急速に空洞化しました。

こうした混乱の中で地方勢力は独立色を強め、中央の命令はほとんど届かなくなります。最終的に1031年、コルドバの有力者たちはカリフ制そのものの廃止を決定し、後ウマイヤ朝は正式に滅亡しました。

【正誤問題】
11世紀初頭、後ウマイヤ朝では内乱が続き、最終的にカリフ制が廃止された。
解答:〇 正しい
☞ 1031年、カリフ制廃止。外敵ではなく内部崩壊

論述問題にチャレンジ

後ウマイヤ朝の成立から崩壊までを、カリフ制との関係に着目して説明せよ。

後ウマイヤ朝は、ウマイヤ家の血統を背景にアミール政権として成立し、10世紀にカリフを称して三カリフ鼎立の一角となった。しかし11世紀に入ると内乱が激化し、カリフの権威は形骸化する。最終的に1031年にカリフ制が廃止され、王朝は崩壊した。

2.タイファ諸国への分裂

後ウマイヤ朝崩壊後、アル=アンダルスは多数の小国に分裂します。これがいわゆるタイファ諸国の時代です。各都市や地方を拠点とする諸政権が並立し、互いに争いながら生き残りを図りました。

この分裂は、キリスト教勢力にとって大きな好機となります。北部の諸王国は南下を進め、イスラーム勢力は次第に防戦一方へと追い込まれていきました。

後ウマイヤ朝の崩壊は、イベリア半島における勢力逆転の出発点でもあったのです。

【正誤問題】
後ウマイヤ朝の崩壊後、アル=アンダルスはタイファ諸国と呼ばれる小国家群に分裂した。
解答:〇 正しい
☞ この分裂が、後のキリスト教勢力南進(レコンキスタ)を招く。

3.後ウマイヤ朝が残したもの

後ウマイヤ朝の歴史的意義は、次の通りです。

第一に、イスラーム世界が単一の中心を失い、地域ごとに独自の政治秩序が形成されていった過程を象徴している点です。アッバース朝、ファーティマ朝と並ぶカリフ国家の成立は、「カリフ鼎立」という新たな国際秩序を生み出しました。

第二に、西ヨーロッパとイスラーム世界を結ぶ文明的架け橋としての役割です。コルドバを中心とする学問と都市文化は、後のヨーロッパ知的発展にも影響を与えました。

第三に、亡命者から始まった王朝が、数世代にわたって大国へ成長したという点です。アブド=アッラフマーン1世の逃亡から始まった後ウマイヤ朝は、血統と現実政治を結びつけることで、西イスラーム世界に独自の国家モデルを築き上げました。

後ウマイヤ朝はやがて消え去りますが、その存在は、イスラーム史が単線的ではなく、多中心的に展開していったことを示す重要な事例といえるでしょう。

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