マムルーク朝の歴史をわかりやすく解説|成立・繁栄・滅亡まで

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

マムルーク朝とは、13世紀から16世紀初頭にかけてエジプトとシリアを支配したイスラーム王朝です。

もともと軍事奴隷として育成されたマムルークたちが自ら政権を打ち立てたという点で、世界史でもきわめて特異な国家でした。

この王朝は、モンゴル帝国の西進を食い止め、十字軍勢力を東地中海から一掃することで、イスラーム世界の中核を担う存在となります。

同時に、紅海と地中海を結ぶ交易ルートを押さえ、東方からもたらされる香辛料をヨーロッパへ中継することで繁栄しました。

しかしその一方で、黒死病(ペスト)の流行や大航海時代の到来による交易構造の変化、さらにはオスマン帝国の台頭によって次第に力を失い、最終的には16世紀初頭に滅亡します。

本記事では、マムルーク朝がどのように成立し、軍事国家として頂点を築き、交易国家として栄え、そしてなぜ衰退していったのかを、重要な戦いと経済構造の変化を軸に整理していきます。

マムルーク朝の頻出ポイントまとめ(入試目線)

マムルーク朝は「細かい文化史」よりも、世界史の大きな流れの転換点として問われることが多い王朝です。

入試ではだいたい次の論点に集約されます。

① モンゴルの西進を止めた国家

最大の定番がここです。

  • 1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退
  • 相手は イル=ハン国
  • イスラーム世界で初めてモンゴルの本格的侵攻を止めた

☞ 入試では
「モンゴルの進出を阻止した王朝は?」
「アイン・ジャールートの戦いの勝者は?」
というストレートな形か、

バグダード陥落 → アイン・ジャールート

という流れの穴埋めで出やすいです。

この勝利を主導したスルタンが バイバルス です。

② 十字軍国家を完全に終わらせた

もう一つの超定番。

  • 1291年、十字軍最後の拠点アッコン陥落
  • これにより東地中海から十字軍国家が消滅

☞ よくある聞き方:

  • 「十字軍国家が最終的に滅亡した年は?」
  • 「アッコンを攻略した王朝は?」

1291年+マムルーク朝のセットは要暗記です。

③ 香辛料貿易で栄えた“中継国家”

経済史と結びつけて出ます。

  • 紅海+地中海ルートを押さえる
  • カーリミー商人が活躍
  • インド洋世界の香辛料をヨーロッパへ中継

☞ ここは単独ではなく、

大航海時代

ポルトガル進出

マムルーク朝の衰退

という因果関係型で問われるのが典型です。

④ ディウ沖海戦と制海権の喪失

やや難関大向け。

  • 1509年のディウ沖海戦でポルトガルに敗北
  • インド洋の制海権を失う
  • 香辛料貿易の主導権がヨーロッパ側へ

☞「なぜマムルーク朝は衰退したのか?」
という論述で、

  • ペスト
  • ディウ沖海戦
  • 制海権喪失

をセットで書けると高得点です。

⑤ オスマン帝国による滅亡

最後の締め。

  • 1517年、オスマン帝国がエジプト征服
  • スルタン セリム1世
  • マムルーク朝滅亡

☞ 定番の流れ:

マムルーク朝

オスマン帝国が継承

イスラーム世界の中心がイスタンブルへ

入試での「まとめ型」理解

試験では、マムルーク朝は単独暗記ではなく、

  • モンゴルを止めた(アイン・ジャールート)
  • 十字軍を終わらせた(アッコン1291)
  • 香辛料貿易で栄えた
  • 海の時代に対応できず衰退(ディウ沖海戦)
  • 最後はオスマン帝国(セリム1世)

という

「軍事国家 → 交易国家 → 海洋時代に敗退」

の一本ストーリーで整理できているかが問われます。

かなり「流れ重視」の王朝なので、以下のチャート構造のまま覚えるのが、入試向きですよ。

【マムルーク朝の興亡チャート】

成立(1250年)

アイユーブ朝末期の混乱

軍事奴隷マムルークが実権掌握

マムルーク朝成立(能力主義の軍事国家)

対モンゴル

イル=ハン国の西進

1260年 アイン・ジャールートの戦い

マムルーク軍勝利(初のモンゴル本格撃退)

バイバルス即位

軍制整備+カリフ権威の利用

イスラーム世界の中心がカイロへ

対十字軍

バイバルス以降の沿岸攻略

1291年 アッコン陥落

十字軍国家完全消滅

東地中海沿岸をマムルーク朝が掌握

繁栄期(交易国家化)

紅海+地中海ルート独占

香辛料貿易で莫大な収入

カーリミー商人が国際交易を担う

カイロが世界的商業都市に成長

衰退の始まり

14世紀 ペスト流行

人口減少・農業生産低下・税収減

国家基盤の弱体化

大航海時代の衝撃

ポルトガルのインド洋進出

1509年 ディウ沖海戦でマムルーク側敗北

制海権を失う

香辛料貿易の主導権がヨーロッパへ

交易国家モデル崩壊

滅亡

オスマン帝国台頭

セリム1世の遠征

1517年 カイロ陥落

マムルーク朝滅亡

エジプト・シリアはオスマン帝国領へ

マムルーク朝は、アイン・ジャールートでモンゴルを退け、アッコン陥落によって十字軍を一掃し、香辛料貿易で繁栄した「軍事と交易の国家」でした。

しかしペストによる内部弱体化と、ディウ沖海戦に象徴される制海権喪失によって基盤を失い、最終的にはセリム1世率いるオスマン帝国に滅ぼされます。

その歩みは、陸上帝国の時代から海洋帝国の時代への転換を象徴しています。

目次

第1章 軍事奴隷から支配者へ――マムルーク朝の成立

マムルーク朝は、王族の血統ではなく「軍事能力」を基盤として成立した国家でした。

その出発点には、アイユーブ朝末期の政治混乱と、モンゴル帝国の急速な西進という二つの大きな時代背景があります。

この章では、マムルークという存在の特徴と、王朝成立の決定的契機となったアイン・ジャールートの戦いを中心に見ていきます。

1.マムルークとは何者だったのか

マムルークとは、本来「所有された者」を意味し、中央アジアや黒海北岸などから連れてこられた少年をイスラーム化し、騎兵として厳しく訓練した軍事奴隷を指します。彼らは主人個人に属しつつも、高度な軍事教育を受けたエリート集団でした。

アイユーブ朝では、このマムルークたちが次第に軍事の中核を担うようになります。やがて王権が弱体化すると、実際に武力を握るマムルークが政権運営にも介入し、1250年、ついに自らスルタンを立てて独立政権を樹立しました。これがマムルーク朝の始まりです。

血統ではなく能力によって地位が決まる体制は、頻繁な政変を生む一方、軍事国家としての高い即応力も生み出しました。

2.アイン・ジャールートの戦いとモンゴルの西進阻止

マムルーク朝の国際的評価を決定づけたのが、1260年のアイン・ジャールートの戦いです。

当時、西アジアではモンゴル帝国の一部であるイル=ハン国が勢力を拡大し、バグダードを陥落させ、イスラーム世界は壊滅的打撃を受けていました。次なる標的はシリアとエジプトでした。

これに対してマムルーク軍はパレスチナ北部のアイン・ジャールートでモンゴル軍と激突し、世界史上初めてモンゴル軍の本格的撃退に成功します。この勝利によって、エジプトとシリアはモンゴル支配を免れ、カイロはイスラーム世界の政治的・宗教的中心としての地位を確立しました。

この戦いは、「モンゴルは無敵ではない」という認識を広めた点でも大きな意味を持っています。

3.バイバルスの登場と国家体制の整備

アイン・ジャールートの勝利後、実権を握ったのがスルタン・バイバルスです。彼はマムルーク朝最初の本格的な強権君主として知られています。

バイバルスは軍制を整え、地方支配を安定させると同時に、イル=ハン国への防衛体制を強化しました。また、アッバース家の一族をカイロに迎え、形式的ながらカリフ位を復活させることで、自らの支配に宗教的正統性を付与します。

こうしてマムルーク朝は、軍事力と宗教権威を組み合わせた独自の統治体制を築き、東地中海世界の中心国家として歩み始めたのです。

第2章 十字軍勢力の最終的排除――アッコン陥落と東地中海の再編

マムルーク朝はモンゴル勢力だけでなく、長年にわたって中東に拠点を築いてきた十字軍国家とも対峙していました。

バイバルス以降のスルタンたちは、地中海沿岸の要塞都市を一つずつ攻略し、最終的に十字軍を完全に東地中海から追放します。この章では、その象徴的出来事であるアッコン陥落を中心に見ていきます。

1.バイバルスの対十字軍政策

バイバルスはイル=ハン国への備えと並行して、十字軍拠点の系統的な破壊を進めました。彼は単なる都市占領ではなく、再利用を防ぐため要塞や港湾施設を徹底的に破壊する方針をとります。

これにより、キリスト教勢力が再び東地中海沿岸に橋頭堡を築く可能性は大きく低下しました。バイバルスの軍事戦略は、短期的勝利ではなく長期的安全保障を重視した点に特徴があります。

その後も後継スルタンたちはこの路線を継承し、トリポリ、ティール、サイドンなどの主要拠点が次々と陥落していきました。

2.アッコン陥落(1291年)と十字軍時代の終焉

決定的な転換点となったのが、1291年のアッコン陥落です。

アッコンはエルサレム王国最後の首都であり、十字軍にとって東方最大の拠点でした。しかしマムルーク軍の大規模攻勢によって都市は陥落し、生き残った十字軍兵士や住民は地中海を越えて撤退します。

この出来事によって、第一次十字軍以来約200年続いた十字軍国家の歴史は事実上終わりました。以後、キリスト教勢力はレヴァント沿岸に恒常的支配拠点を持つことがなくなります。

マムルーク朝はこれにより、エジプトからシリアに至る東地中海沿岸を完全に掌握し、地域の覇権国家としての地位を確立しました。

3.軍事的勝利がもたらした経済的優位

十字軍排除の意味は軍事面だけにとどまりません。沿岸部の安定は、紅海と地中海を結ぶ交易ルートの安全確保を意味していました。

インド洋世界からもたらされる香辛料や高級品は、紅海沿岸を経てカイロへ集められ、そこから地中海を通じてヨーロッパへと送られます。マムルーク朝はこの中継貿易を国家収入の柱とし、後にカーリミー商人と呼ばれる大商人ネットワークが形成されていきます。

つまり、アッコン陥落は単なる十字軍の敗北ではなく、マムルーク朝が「軍事国家」から「交易国家」へと本格的に転換していく出発点でもあったのです。

第3章 香辛料で栄えた交易国家――カーリミー商人とマムルーク経済

十字軍勢力の排除とシリア・エジプトの安定支配によって、マムルーク朝は軍事国家から交易国家へと大きく性格を変えていきました。

その繁栄を支えたのが、インド洋と地中海を結ぶ香辛料貿易と、それを担ったカーリミー商人です。

この章では、マムルーク朝の経済構造と国際交易の仕組みを整理します。

1.紅海と地中海を結ぶ中継国家

マムルーク朝の最大の強みは地理的条件にありました。

インドや東南アジアから運ばれてきた胡椒・クローブ・ナツメグなどの香辛料は、インド洋を渡って紅海沿岸に到着し、そこから陸路でカイロへ送られます。

さらに地中海沿岸のアレクサンドリア港から、ヴェネツィアなどイタリア商業都市を通じてヨーロッパ各地へと流れていきました。

マムルーク朝はこのルートをほぼ独占し、通行税や関税によって莫大な収入を得ます。軍事的安定が交易の安全を保証し、その交易利益が再び軍事力を支えるという循環構造が成立していました。

2.カーリミー商人の活躍

この国際交易の中心を担ったのがカーリミー商人と呼ばれる大商人集団です。

彼らは単なる個人商人ではなく、複数都市に拠点を持つ広域ネットワークを形成し、紅海・地中海・内陸部を結ぶ流通を組織的に運営していました。

香辛料だけでなく、絹織物、砂糖、奴隷など多様な商品を扱い、国家財政にも大きな影響力を持つ存在となります。

マムルーク政権は彼らに一定の自治と保護を与える代わりに、高額の税を徴収しました。こうして政治権力と商業資本が結びつき、カイロは当時世界有数の国際商業都市へと成長します。

3.繁栄の陰で進む構造的弱点

しかし、この繁栄はきわめて特定の交易ルートに依存していました。

国家収入の多くが香辛料中継に集中していたため、国際流通の変化に対して脆弱だったのです。また、マムルーク体制そのものも世襲ではなく軍人エリートの交代制であったため、安定した長期政策が取りにくい構造を抱えていました。

この時点ではまだ顕在化していませんが、後にヨーロッパ勢力がインド洋へ進出すると、この交易独占は大きく揺らぐことになります。

第4章 疫病と海の時代――ペストと制海権喪失がもたらした衰退

香辛料貿易によって繁栄したマムルーク朝ですが、その基盤は14世紀以降、内外から揺さぶられていきます。

人口を激減させたペストの流行と、大航海時代の到来による海上交通の変化は、マムルーク経済に決定的な打撃を与えました。

この章では、衰退の主要因となった二つの要素を整理します。

1.ペストによる人口と生産力の崩壊

14世紀半ば、ユーラシア全域を襲った黒死病(ペスト)は、マムルーク領内にも深刻な被害をもたらしました。

カイロやダマスクスなどの大都市では人口が急減し、農村でも労働力不足が進みます。これにより農業生産は落ち込み、税収も減少しました。

軍事奴隷制度を支える人材供給も不安定となり、国家運営そのものが弱体化していきます。

ペストは一度きりの災害ではなく、繰り返し流行したため、回復の機会を奪い続けました。マムルーク朝は長期的な人口減少という構造的問題を抱えることになります。

2.ポルトガルの進出とディウ沖海戦

さらに致命的だったのが、15世紀末から始まるヨーロッパ勢力のインド洋進出です。

ポルトガルはアフリカ南端を回る航路を開拓し、アラビア商人を介さずに直接インドと交易できる体制を築きました。これは、紅海ルートに依存していたマムルーク朝の経済基盤を根底から揺るがす出来事でした。

1509年のディウ沖海戦では、マムルーク朝とインド洋諸勢力の連合艦隊がポルトガル海軍に敗北します。この敗戦によって、インド洋の制海権は事実上ポルトガル側に移り、香辛料貿易の主導権もヨーロッパへと流れていきました。

陸上戦に強かったマムルーク軍は、本格的な海軍力を持たず、新しい「海の時代」に対応できなかったのです。

3.交易国家モデルの崩壊

こうしてマムルーク朝は、ペストによる内部弱体化と、制海権喪失による外部環境の激変という二重の打撃を受けます。

香辛料貿易からの収入は激減し、カーリミー商人の活動も縮小。財政難は軍の維持を困難にし、政権内部の不安定化を加速させました。

かつて軍事と交易の好循環で繁栄した国家モデルは、ここに至って完全に機能不全に陥ったのです。

第5章 セリム1世の征服とマムルーク朝の終焉

ペストと制海権喪失によって弱体化したマムルーク朝に、決定的な一撃を与えたのがオスマン帝国でした。

16世紀初頭、急速に勢力を拡大していたオスマン帝国は、アナトリアとバルカンを制圧した後、イスラーム世界の主導権を求めて南下します。

この章では、マムルーク朝滅亡の過程と、その歴史的意味を整理します。

1.オスマン帝国の台頭と中東への進出

15世紀後半、コンスタンティノープルを征服したオスマン帝国は、地中海東部と黒海を支配下に収め、イスラーム世界最大の軍事国家へと成長していました。

スルタン・セリム1世は、さらに東方へ勢力を広げ、まずイランのサファヴィー朝を打破すると、続いてシリア・エジプト方面へと進軍します。名目上は宗派対立への対応でしたが、実際には中東の覇権と交易ルートの掌握が大きな目的でした。

この時点でマムルーク朝は、財政難と軍事力低下に苦しみ、かつての強靭さを失っていました。

2.カイロ陥落と王朝の滅亡

1516年、オスマン軍はシリアでマムルーク軍を破り、翌1517年にはカイロを占領します。

最後のスルタンは処刑され、ここに約260年続いたマムルーク朝は滅亡しました。エジプトとシリアはオスマン帝国の属州となり、イスラーム世界の政治的中心はカイロからイスタンブルへと移ります。

また、カイロに置かれていた名目的なアッバース家カリフもオスマン側に引き取られ、宗教的権威も含めてオスマン帝国が継承する形となりました。

コラム|イスラーム世界の「政治的中心」はどう移り変わったのか

イスラーム世界にはローマ帝国のような単一の永続的首都が存在したわけではありません。

時代ごとに最も強大な王朝の都が「事実上の中心」となってきました。マムルーク朝の滅亡は、その中心が再び大きく移動した転換点でもあります。

流れを整理すると次のようになります。

【イスラーム世界・政治的中心地の推移チャート】

7〜8世紀
ダマスクス(ウマイヤ朝)

8〜13世紀
バグダード(アッバース朝)


1258年 モンゴル軍によるバグダード陥落

13〜15世紀
カイロ(マムルーク朝)
※軍事・交易・宗教権威が集中する「事実上の中心」

1517年 カイロ征服

16世紀以降
イスタンブル(オスマン帝国)

重要なのは、マムルーク朝時代のカイロが単なる地方都市ではなく、

・モンゴルを撃退した軍事的中心
・香辛料貿易を握る経済的中心
・名目的カリフを擁する宗教的中心

という三つの役割を同時に担っていた点です。

そして1517年、オスマン帝国がカイロを征服したことで、この三要素はまとめてイスタンブルへ移動しました。

つまりマムルーク朝の滅亡とは、単なる王朝交代ではなく、「イスラーム世界の重心そのもの」が移動した出来事だったのです。

3.マムルーク朝の歴史的意義

マムルーク朝は、モンゴル帝国の西進を阻止し、十字軍勢力を東地中海から完全に排除したことで、イスラーム世界の存続に決定的な役割を果たしました。

同時に、紅海と地中海を結ぶ香辛料貿易を独占し、カイロを世界有数の商業都市へと育て上げた点も重要です。一方で、陸上軍事力に依存した国家構造は、大航海時代の海上覇権競争に対応できず、制海権の喪失とともに急速に没落していきました。

軍事奴隷が築いたこの国家は、「陸の時代」の頂点を体現した存在であり、その終焉は「海の時代」への本格的移行を象徴しているとも言えるでしょう。

第6章 マムルーク朝に関する頻出論述問題と解答例

ここでは、マムルーク朝 が「なぜ重要か」「どう衰退したか」「何を次代に引き渡したか」という観点から、よく出る論述型を整理します。

論述①

マムルーク朝がイスラーム世界で果たした歴史的役割を述べよ。

【解答例】

マムルーク朝は、1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退し、イスラーム世界の壊滅的拡大を食い止めた。また1291年にはアッコンを攻略して十字軍国家を完全に排除し、東地中海の安定を実現した。さらに紅海と地中海を結ぶ香辛料貿易を掌握し、カーリミー商人を通じて繁栄した点も重要である。軍事と交易を基盤に、バグダード滅亡後のイスラーム世界の中心をカイロに再建した点に歴史的意義がある。

☞ 採点ポイント

  • モンゴル撃退
  • 十字軍排除
  • 香辛料貿易
  • カイロ中心体制

最低この3〜4点が入ると安定です。

論述②

マムルーク朝が衰退した理由を、内的要因と外的要因に分けて説明せよ。

【解答例】

マムルーク朝衰退の内的要因として、14世紀以降のペスト流行による人口減少と農業生産の低下が挙げられる。これにより税収が落ち込み、軍事体制も弱体化した。外的要因としては、ポルトガルのインド洋進出によって香辛料貿易の主導権を失い、1509年のディウ沖海戦で制海権を喪失したことが大きい。こうした内外の要因が重なり、交易国家としての基盤が崩壊した。

☞ 採点ポイント

  • ペスト
  • 香辛料貿易の衰退
  • ディウ沖海戦/制海権喪失

ここは「ペスト+海の時代」セットが鉄板です。

論述③(やや難関大向け)

マムルーク朝の滅亡がイスラーム世界にもたらした変化を説明せよ。

【解答例】

1517年に セリム1世 がエジプトを征服すると、マムルーク朝は滅亡し、シリアとエジプトはオスマン帝国領となった。これにより、イスラーム世界の政治的中心はカイロからイスタンブルへ移動し、名目的カリフ権もオスマン側に継承された。これは、イスラーム世界の主導権がオスマン帝国に集中したことを意味し、以後の中東秩序を決定づけた。

☞ 採点ポイント

  • 1517年征服
  • 中心地の移動(カイロ→イスタンブル)
  • オスマン帝国への主導権集中

ここは「滅亡=重心移動」と書けると評価が高いです。

入試での使い分け(超要約)

実戦では次のように整理すると便利です。

  • 役割論 → モンゴル+十字軍+香辛料
  • 衰退論 → ペスト+ディウ沖海戦
  • 滅亡論 → 1517年+中心地移動

つまりマムルーク朝は、

守った(モンゴル・十字軍)
☞ 稼いだ(香辛料)
☞ 海に負けた(ディウ沖)
☞ バトンを渡した(オスマン)

という4段構成で覚えると、ほぼ全論述に対応できます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次