「イタリア戦争って教科書に少ししか載ってないし、覚えなくてもいいんじゃない?」
そう思っている受験生も多いかもしれません。
しかし、イタリア戦争(1494〜1559年)は、中世から近代への転換点を理解するうえで極めて重要です。
特に、ローマ劫掠(1527年)によるローマ教皇の威信低下や、スペイン=ハプスブルク家の覇権確立、そして軍事革命の進展など、近代史の重要テーマと深く結びついています。
この記事では、
- イタリア戦争の背景と流れ
- ローマ劫掠の衝撃と教皇権の失墜
- 百年戦争 → イタリア戦争 → 三十年戦争の軍事革命の流れ
- 受験対策で押さえるべきポイント
を詳しく解説します。
イタリア戦争の背景と流れ
イタリア戦争(1494〜1559年)の背景と流れを詳しく説明いたします。
イタリアがなぜ戦場になったのか
15世紀末のイタリア半島は、フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ・ナポリ・ローマ教皇領などの都市国家がそれぞれ繁栄していました。
ルネサンス文化の中心地として、経済的にも文化的にもヨーロッパ中の注目を集める地域でしたが、政治的には統一されておらず、軍事力も脆弱でした。
この状況を狙ったのが、フランスとスペインをはじめとする大国です。両国は、豊かな経済圏であるイタリアの都市国家を支配下に置き、地中海貿易の利益やローマ教皇庁への影響力を確保しようとしました。
さらに、イタリア諸都市の内部対立も戦乱を誘発しました。
例えば、ミラノ公国がフランスに援軍を要請したり、フィレンツェがフランスに協力する一方で、ナポリ王国はスペインと結びつくなど、各都市国家は生き残りをかけて大国を引き込む外交戦を繰り広げました。
その結果、イタリア半島は「豊かだが軍事的に弱い地域」として、フランス・スペイン・神聖ローマ帝国・ローマ教皇・諸都市国家が入り乱れる大国の草刈り場と化したのです。
フランスとスペインの覇権争い
イタリア戦争(1494〜1559年)の中心テーマは、フランスとスペインの覇権争いです。当時、イタリア半島はルネサンス文化で繁栄していた一方、政治的には小国分立状態で統一されていませんでした。
この状況を利用し、豊かな経済圏を手に入れようとしたのが、フランス王国とスペイン王国です。
フランスの狙い
中央集権化を進めたフランス王国は、豊かな経済力を誇るイタリア半島への影響力拡大を狙っていました。とくに、北部のミラノ公国や南部のナポリ王国に対して王位継承権を主張し、軍事介入を開始します。
シャルル8世(在位1483〜1498)やルイ12世(在位1498〜1515)は積極的に軍を送り込み、
イタリアでの勢力拡大を図りました。
その目的は、ルネサンス文化で栄えたイタリア経済圏の掌握と、ローマ教皇庁への影響力強化にありました。
スペインの狙い
一方、スペイン王国もイタリア半島での影響力拡大を狙っていました。
フェルナンド2世とイサベル1世の結婚によってカスティリャ王国とアラゴン王国が統合され、1492年のレコンキスタ完成を契機に、スペインはヨーロッパ有数の強国へと成長します。
とくに、南イタリアのナポリ王国やシチリア島は地理的にも重要で、これらの支配権をめぐってフランスと鋭く対立しました。
さらに後期になると、スペイン王カルロス1世(=神聖ローマ皇帝カール5世)が即位し、スペインの豊富な財力と神聖ローマ帝国の軍事力を背景に、フランスに対抗する巨大なハプスブルク帝国を形成します。
こうして、豊かなイタリア経済圏をめぐる覇権争いは、次第に「フランス vs スペイン=ハプスブルク帝国」という構図へと発展していきます。
イタリア戦争(1494〜1559年)を勉強していると、「フランスとスペインの戦争」と書かれている本もあれば、
「フランスと神聖ローマ帝国の戦争」と説明しているものもあります。
どっちが正しいのか迷いやすいですが、実は 時期と文脈で使い分けるのがポイントです。
① ハプスブルク家とスペイン・神聖ローマ帝国の関係を理解しよう
- 1519年、スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として即位。
- これ以降、スペインと神聖ローマ帝国は同じ人物が統治することになります。
- ただし、イタリア戦争で主力となった軍や財力はスペインが中心。
つまり、形式上は「神聖ローマ皇帝カール5世」ですが、実態はスペイン=ハプスブルク帝国の力で戦っていたと考えるとわかりやすいです。
② 時期ごとの使い分け基準
前期(1494〜1519年)
- カール5世即位前 → スペインと神聖ローマ帝国は別勢力
- 主な対立構図は フランス vs スペイン。
- ただし神聖ローマ帝国やローマ教皇、ヴェネツィアなども複雑に絡む。
- この時期は 「フランス vs スペイン」で説明すれば十分。
中期・後期(1519〜1559年)
- カール5世即位後 → スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねる
- 実態は フランス vs カール5世(スペイン=ハプスブルク帝国)。
- 教科書や用語集でも「フランス vs スペイン」と書かれることが多い。
- ただし、ローマ劫掠(1527)のように神聖ローマ帝国軍が主体の事件では、「神聖ローマ帝国軍によるローマ占領」と書いた方が正確です。
個別の戦闘や事件は正確に書き分ける
・ナポリ領有権争い → 「フランス vs スペイン」
・ローマ劫掠(1527) → 「神聖ローマ帝国軍によるローマ占領」
・カトー=カンブレジ条約(1559) → 「フランスがスペインに敗北」
まとめ
- イタリア戦争は基本的に「フランス vs スペイン」でOK
- ただし、カール5世が両国を兼ねた後は「スペイン=ハプスブルク帝国」の視点を意識
- 個別事件では「神聖ローマ帝国軍」と明記した方が正確
こう整理しておけば、選択肢問題でも記述問題でも迷わず答えられるようになります。
ローマ教皇や都市国家の立ち回り
イタリア戦争では、ローマ教皇庁とイタリアの都市国家も積極的に外交工作を行いました。
表向きは「キリスト教世界の守護者」であるはずの教皇庁も、実際には大国間の力関係を利用してローマ教皇領を守るために動いていました。
- 教皇アレクサンデル6世(在位1492〜1503)
→ ボルジア家出身。フランス軍の侵攻を恐れ、時にスペイン側と結びつくなど巧みな外交を展開。 - 教皇ユリウス2世(在位1503〜1513)
→ 「戦う教皇」と呼ばれ、カンブレー同盟戦争(1508〜1516)では
フランス・神聖ローマ帝国・スペイン・ヴェネツィアなどを相手に同盟を組み替え続けた。 - 教皇クレメンス7世(在位1523〜1534)
→ フランス寄りの外交をとった結果、ローマ劫掠(1527年)で神聖ローマ帝国軍にローマを占領される屈辱を味わう。
一方、ヴェネツィアやフィレンツェなどの都市国家も、財力を背景に大国を味方につけたり離反したりを繰り返し、
結果的に戦乱をより複雑化させました。
このように、ローマ教皇や都市国家は戦争の中心勢力ではないものの、大国間の駆け引きを操る重要なプレーヤーとして存在感を示しました。
しかし皮肉にも、その複雑な同盟関係が結果的に大国の介入を招き、イタリア半島はさらに戦乱の舞台となっていったのです。
この章の内容の重要論述問題と解答例
イタリア戦争の流れ(1494〜1559年)
イタリア戦争(1494〜1559年)は、ルネサンス期の豊かなイタリア半島を舞台に、フランスとスペイン=ハプスブルク家を中心とした大国同士の覇権争いとして繰り広げられました。
この戦争は約65年もの長期にわたり断続的に続き、その結果、ローマ劫掠による教皇権威の低下や、カトー=カンブレジ条約によるスペイン覇権の確立など、ヨーロッパ近代史の流れを大きく変える重要な転換点となります。
以下では、第一次イタリア戦争からカトー=カンブレジ条約まで、主要な出来事を時系列で整理していきます。
全体像をつかむことで、宗教改革・スペイン全盛期・軍事革命といった近代史への接続がわかりやすくなります。
第一次イタリア戦争(1494〜1498年)
1494年、フランス王シャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張し、イタリアに侵攻しました。
これに対して、ローマ教皇・神聖ローマ帝国・スペインなどがフランスに対抗。最初はフランス軍が優勢でしたが、強大な対抗勢力に押され、最終的には撤退を余儀なくされます。
第二次イタリア戦争(1499〜1504年)
次に登場したのはフランス王ルイ12世です。
ルイ12世はミラノ公国への侵攻を開始し、さらにナポリ王国も狙いますが、ここでフランスはスペインと激しく対立します。
結果として、ナポリ王国はスペイン領となり、以後スペインが南イタリアに強固な足場を築きました。
第三次〜第四次イタリア戦争(1508〜1516年)
この時期になると、戦争はさらに複雑化します。
フランス・スペイン・神聖ローマ帝国・ローマ教皇・イギリスなど、ヨーロッパ主要国が入り乱れる大規模な国際戦争へと発展しました。同盟は頻繁に組み替えられ、イタリア戦争はヨーロッパ全体の覇権争いという性格を強めていきます。
ローマ劫掠(1527年)
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がローマを占領し、
略奪・破壊・虐殺を行いました。このローマ劫掠により、ルネサンス文化の中心地ローマは壊滅的被害を受け、
教皇庁の権威は決定的に低下します。
この権威低下は、すでに始まっていたルターの宗教改革の拡大を後押しする間接的な要因となりました。
重要なできごとですので、次章で詳しく説明いたします。
終結:カトー=カンブレジ条約(1559年)
約65年にわたるイタリア戦争は、1559年のカトー=カンブレジ条約でついに終結します。
この結果、フランスはイタリア政策を断念し、スペイン王フェリペ2世のもとでスペイン覇権が確立しました。
イタリア半島は名目上の独立を保った都市国家も多かったものの、実質的にはスペインの強い影響下に置かれ、
以後長期間にわたりスペイン支配の時代が続くことになります。
この章の内容の重要論述問題と解答例
ローマ劫掠(1527年)― 教皇権威を揺るがした惨劇
1527年、イタリア戦争の最中、神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がローマを襲撃しました。この事件を「ローマ劫掠(こうりゃく)」といいます。
ルネサンス文化の中心地だったローマは廃墟同然となり、ローマ教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に立てこもって降伏します。
この惨劇により、教皇庁の権威は大きく失墜しました。その影響はイタリア戦争だけでなく、ルターの宗教改革や各国君主の台頭など、ヨーロッパ全体の近代化の流れにもつながっていきます。
ローマで何が起きたのか
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍は、傭兵の大量脱走を防ぐため略奪を黙認。その結果、ローマは地獄と化します。財政難で給料を支払われなかった神聖ローマ帝国軍の傭兵たちは暴徒と化し、サン・ピエトロ大聖堂に押し入って教会財宝を奪い、聖像を破壊しました
修道院や教会も次々と襲撃され、女性や子供も容赦なく暴行を受け、多くの市民が犠牲となります。ルネサンス文化の中心地だったローマは、この事件で廃墟同然の状態に陥ったと伝えられています。
教皇権威の失墜
1527年のローマ劫掠では、ローマ教皇クレメンス7世は神聖ローマ帝国軍に包囲され、サンタンジェロ城へ立てこもりました。
しかし最終的には降伏を余儀なくされ、屈辱的な条件での講和を強いられます。
この事件により、「キリスト教世界の中心」とされた教皇庁の権威は決定的に失墜しました。さらに、この権威低下は、すでに始まっていたルターの宗教改革(1517年〜)を後押しする間接的要因となり、ヨーロッパ各国で王権強化や宗教対立が一層進むきっかけとなりました。
イタリア戦争の終結とカトー=カンブレジ条約(1559年)
1494年に始まったイタリア戦争は、約65年にわたって断続的に続きました。その最終局面となったのが、カトー=カンブレジ条約(1559年)です。
この条約により、長年イタリア支配をめぐって争ってきたフランスはついにイタリア政策を放棄し、イタリア半島から事実上撤退することになりました。
一方、戦争の勝者となったのはスペイン=ハプスブルク家です。スペイン王フェリペ2世は、豊かなイタリア経済圏を掌握し、ヨーロッパ最強の覇権国家としての地位を確立します。
これにより、スペインは「太陽の沈まぬ帝国」へとつながる黄金時代を迎え、フランスはヨーロッパにおける影響力を一時的に低下させることとなりました。
イタリア半島の支配体制
カトー=カンブレジ条約の結果、イタリア半島の政治地図は大きく変わりました。
- ナポリ王国・シチリア島・ミラノ公国
→ スペイン領となり、半島南部から北部にかけてスペインの直接的な支配が広がる。 - ヴェネツィア共和国・フィレンツェ公国などの都市国家
→ 名目上の独立は維持するものの、スペインの強い影響下に置かれる。 - ローマ教皇領
→ 教皇庁は宗教的権威を保つものの、政治的にはスペインに従属せざるを得なくなった。
このように、16世紀後半のイタリアはスペインの勢力圏に組み込まれ、「ヨーロッパの富の中心地」でありながら、
大国の支配を受ける「草刈り場」としての性格を強めていきます。
近代史へのつながり
イタリア戦争の終結は単なる地域紛争の終わりではなく、ヨーロッパの覇権構造を決定づける大きな転換点でした。
- スペイン=ハプスブルク家の覇権確立
→ フェリペ2世時代の全盛期へ - フランスの一時的後退
→ 内部ではカトリックとプロテスタントの宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発 - イタリア半島の従属化
→ ルネサンスの中心地が政治的には大国の支配下に置かれる
このカトー=カンブレジ条約を境に、「フランス vs スペイン」の対立は終息し、ヨーロッパの主導権は完全にスペイン=ハプスブルク帝国へと移ったのです。
受験では、
「カトー=カンブレジ条約の結果、イタリア半島はどこの勢力圏に入ったか」
「イタリア戦争後のスペインの地位」
といった形で問われることが多いので、条約名・結果・影響をセットで覚えておくと得点源になります。
この章の内容の重要論述問題と解答例
イタリア戦争がもたらしたスペイン全盛期への道
イタリア戦争の最大の勝者は、スペイン=ハプスブルク家でした。
カトー=カンブレジ条約(1559年)によってフランスはイタリア政策から撤退し、スペインはナポリ王国・シチリア島・ミラノ公国といった豊かな地域を手中に収めます。
これらの領土は、ルネサンス期のイタリア経済圏をほぼそのまま支配下に置くことを意味し、莫大な租税収入と戦略的拠点をスペインにもたらしました。
さらに、新大陸からもたらされる銀・金などの膨大な富と合わせ、スペインはヨーロッパでも屈指の経済力を持つ国家へと成長します。
ハプスブルク家とスペインの一体化
イタリア戦争後期、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が両国を兼ねていたため、スペインは事実上、ハプスブルク帝国の中核として機能していました。
- スペイン領:イベリア半島、ナポリ、シチリア、ミラノ
- 神聖ローマ帝国領:ドイツ、オーストリア、ボヘミアなど
- ネーデルラント:経済の中心地もハプスブルク家の支配下
- 新大陸:銀山(ポトシなど)から膨大な資源を獲得
この広大な支配領域は「ハプスブルク帝国」とも呼ばれ、ヨーロッパにおけるスペイン=ハプスブルク家の圧倒的優位を決定づけました。
フェリペ2世の「太陽の沈まぬ帝国」
1556年、カール5世が退位すると、スペイン王位は息子のフェリペ2世に引き継がれます。
この時点でスペインは、
- イベリア半島
- イタリア半島南部・ミラノ
- ネーデルラント
- 中南米植民地
- アジアのフィリピン(名前はフェリペ2世に由来)
を支配する巨大帝国となっていました。
さらに1580年にはポルトガル王位も継承し、ポルトガル領の広大な植民地も手に入れます。こうして、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれる世界帝国が誕生しました。
フェリペ2世時代のスペインは、
- レパントの海戦(1571)でオスマン帝国を撃破
- カトリック勢力の保護者として宗教改革後のヨーロッパに大きな影響力
- 新大陸からの銀を背景に、ヨーロッパ最大の軍事・経済大国として君臨
これらの展開は、イタリア戦争の勝利で得た拠点と財力がなければ実現しなかったことを押さえておくと理解しやすいです。
受験では、
「イタリア戦争後のイタリア半島の支配権」
「カール5世とフェリペ2世の役割」
「太陽の沈まぬ帝国の成立過程」
といった形で出題されやすいので、因果関係ごと理解しておくのがポイントです。
軍事革命の流れをつかむ
イタリア戦争は「軍事革命」の一部として位置づけると理解が深まります。ここでは、百年戦争 → イタリア戦争 → 三十年戦争の流れを意識しましょう。
① 百年戦争(1337〜1453)― 騎士の時代の終焉
- イギリス軍がロングボウを使用し、騎士階級が没落。
- アジャンクールの戦い(1415)などで歩兵中心の戦術が進化。
- → 軍事革命の「入口」
② イタリア戦争(1494〜1559)― 火器導入と戦術変化
- 大砲による城砦突破 → 中世型城塞の終焉。
- 銃兵と槍兵を組み合わせたテルシオ戦術が登場。
- → 軍事革命の「加速期」
③ 三十年戦争(1618〜1648)― 近代型戦争の完成
- スウェーデン王グスタフ・アドルフの改革で、銃兵と砲兵の連携戦術が完成。
- 常備軍の整備と国家財政の密接な関係が生まれる。
- → 軍事革命の「完成形」
まとめ ― イタリア戦争の意義を整理しよう
イタリア戦争(1494〜1559年)は、単なる領土争いではなく、「小国分立のイタリア」を舞台にしたフランスとスペイン=ハプスブルク家の覇権争いでした。
おさらいします。
- ローマ劫掠(1527)
→ 教皇権威低下 → 宗教改革の加速 - カトー=カンブレジ条約(1559)
→ フランス撤退 → スペイン覇権確立 - スペイン全盛期(フェリペ2世時代)
→ イタリア経済圏・新大陸・ポルトガル領を支配 → 「太陽の沈まぬ帝国」誕生 - 軍事革命との関係
→ 百年戦争から三十年戦争まで続く近代戦術の発展の中核
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