476年、西ローマ帝国が滅亡すると、ヨーロッパ世界は大きな転換期を迎えました。
ゲルマン民族の大移動は、ローマ帝国を崩壊させただけではありません。西方世界には多くの新しい王国が建設され、それぞれがローマ文化・キリスト教・ゲルマン的伝統を融合させながら、中世ヨーロッパ社会の基盤を形づくっていきます。
本記事では、ゲルマン民族の大移動後に成立した 西ヨーロッパ諸王国の成立と特徴を詳しく解説します。
また、フランク王国の台頭、カトリック改宗の意義、そしてビザンツ帝国との関係や東西対立の萌芽まで、入試頻出論点を体系的に整理します。
この記事は「西ローマ帝国の滅亡とゲルマン民族大移動」の続きの位置づけです。併せて読むことで、より深い理解を目指せます。
第1章 ゲルマン諸王国の成立と特徴
西ローマ帝国が滅亡した後、ヨーロッパ西方には新たな勢力が台頭します。
ゲルマン民族は各地に王国を建設し、ローマ帝国時代の文化や制度を部分的に継承しながらも、自らの風習を融合させて独自の社会を形成していきました。
まずは主要なゲルマン諸王国の特徴と滅亡までの流れを整理しましょう。
1-1. 西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパ情勢
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、帝国領は急速に分裂しました。
しかし、ローマ文化・キリスト教・ラテン語は完全には失われず、新たに建国されたゲルマン諸王国の統治基盤として活用されます。
つまり、ローマ的伝統を受け継ぎながらゲルマン的要素を融合させた「中世ヨーロッパ社会の原型」が誕生したのです。
1-2. 主要ゲルマン諸王国の特徴
① 西ゴート王国
- 建国:418年、現在のフランス南西部に成立
- 発展:イベリア半島に進出し、トレドを首都とする
- 滅亡:711年、ウマイヤ朝の侵攻で滅亡
② 東ゴート王国
- 建国:493年、テオドリック大王がイタリア半島に建設
- 特徴:ローマ文化を尊重しながら支配を確立
- 滅亡:555年、ユスティニアヌス大帝率いる東ローマ帝国に征服され滅亡
③ ヴァンダル王国
- 建国:北アフリカを中心に429年に成立
- 特徴:カルタゴを首都とし、地中海制海権を一時掌握
- 滅亡:534年、東ローマ帝国の攻撃により滅亡
④ フランク王国
- 建国:481年、クローヴィスがガリア北部に建国
- 特徴:カトリック改宗でローマ教会と強い関係を築く
- 影響:後に西ヨーロッパ最大の勢力へ発展
⑤ アングロ=サクソン七王国
- 建国:ゲルマン人がブリテン島に渡り七つの小王国を形成
- 統合:9世紀、ヴァイキング侵入とノルマン征服により統一される
1-3. 入試で狙われるポイント
- 西ゴート王国の滅亡とイスラーム勢力進出
- 東ゴート王国とユスティニアヌス大帝
- フランク王国のカトリック改宗
- アングロ=サクソン七王国とノルマン征服
- ゲルマン諸王国の成立が中世西ヨーロッパ社会に与えた影響について、200字以内で説明せよ。
-
ゲルマン諸王国は、西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパで成立し、ローマ文化とゲルマン的伝統を融合させた。キリスト教受容とラテン語継承は統治基盤を強化し、封建制の原型を生み出すことで中世西ヨーロッパ社会形成の基礎を築いた。
第1章: ゲルマン民族大移動後の西ヨーロッパ諸王国建設 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
西ローマ帝国滅亡後、イベリア半島に建国されたゲルマン王国は?
解答:西ゴート王国
問2
東ゴート王国を建設した王は誰か。
解答:テオドリック大王
問3
カルタゴを首都としたゲルマン王国は?
解答:ヴァンダル王国
問4
クローヴィスが建国した王国は?
解答:フランク王国
問5
アングロ=サクソン七王国が建国された島はどこか。
解答:ブリテン島
問6
ヴァンダル王国を滅ぼしたのはどこの帝国か。
解答:東ローマ帝国
問7
西ゴート王国を滅ぼした勢力は?
解答:ウマイヤ朝
問8
フランク王国を開いた王朝は?
解答:メロヴィング朝
問9
アングロ=サクソン七王国を統合した12世紀の出来事は?
解答:ノルマン・コンクエスト
問10
東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国の皇帝は?
解答:ユスティニアヌス大帝
正誤問題(5問)
問11
ヴァンダル王国はガリア地方を中心に建国された。
解答:誤り → 北アフリカ中心
問12
クローヴィスのカトリック改宗は、ローマ教会との結びつきを強めた。
解答:正しい
問13
東ゴート王国はイスラーム勢力に滅ぼされた。
解答:誤り → 東ローマ帝国が滅ぼした
問14
西ゴート王国は711年、ウマイヤ朝に滅ぼされた。
解答:正しい
問15
アングロ=サクソン七王国は百年戦争を契機に統合された。
解答:誤り → ノルマン・コンクエスト
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ヴァンダル王国はガリア建国 | × → 北アフリカ |
東ゴート王国はイスラームに滅亡 | × → 東ローマ帝国が滅亡 |
アングロ=サクソン統一は百年戦争 | × → ノルマン・コンクエスト |
第2章 フランク王国の台頭とカトリック改宗
ゲルマン諸王国の中で、最も長く大きな影響を及ぼしたのが フランク王国です。
特に、クローヴィスのカトリック改宗とその後のローマ教会との結びつきは、後の中世ヨーロッパ世界の形成に決定的な影響を与えました。
ここでは、メロヴィング朝からカロリング朝への移行、教皇領の成立、キリスト教世界におけるフランク王国の役割を解説します。
2-1. フランク王国の建国とクローヴィスのカトリック改宗
481年、メロヴィング家の クローヴィス がガリア北部を中心にフランク王国を建国します。
当時、他のゲルマン諸王国は異端とされた アリウス派キリスト教を信仰していましたが、クローヴィスは 496年にカトリックへ改宗しました。
クローヴィス改宗の意義
- ローマ教会とガロ=ローマ人の支持を獲得
- 他のゲルマン諸王国に対する優位性を確立
- 「カトリック世界の守護者」としての地位を確立
この結果、フランク王国は西ヨーロッパ最大のゲルマン勢力へと成長しました。
2-2. 宮宰の台頭とピピン3世のカロリング朝創設
クローヴィスの死後、王国は4人の息子に分割相続され、内紛が続きます。
この混乱の中で、王権は形骸化し、実権は宮宰(マヨル・ドムス)と呼ばれる家臣に移りました。
宮宰の台頭
- ピピン2世:メロヴィング朝後期に実権を掌握
- カール・マルテル:732年、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退し、キリスト教世界防衛の英雄となる
その後、カール・マルテルの息子 ピピン3世 は751年、教皇ザカリアスの承認を得て カロリング朝を創設しました。
2-3. ピピンの寄進と教皇領の成立
ピピン3世は、751年の王位承認に対する謝礼として、ラヴェンナ地方をはじめとする土地をローマ教皇に寄進しました。
これが有名な 「ピピンの寄進」であり、ここから 教皇領が成立します。
ピピンの寄進の影響
- ローマ教皇の権威が大幅に上昇
- フランク王国とローマ教会の結びつきが決定的に強化
- 後の「カール大帝の戴冠」への布石となる
2-4. フランク王国の歴史的意義
- 宗教的意義:カトリック世界の守護者として西欧キリスト教圏を主導
- 政治的意義:ローマ教会との同盟により西欧最大の強国へ
- 文化的意義:ローマ的伝統とゲルマン的慣習を融合し、中世社会形成の基盤を構築
2-5. 入試で狙われるポイント
- クローヴィスのカトリック改宗とその意義
- トゥール=ポワティエ間の戦い(732年)
- ピピン3世によるカロリング朝創設
- ピピンの寄進と教皇領の成立
- クローヴィスのカトリック改宗とフランク王国の役割について、200字以内で説明せよ。
-
クローヴィスは496年にカトリックへ改宗し、ローマ教会およびガロ=ローマ人の支持を得た。これによりフランク王国は他のゲルマン諸王国に対する優位性を確立し、「カトリック世界の守護者」としての地位を得た。さらにピピンの寄進により教皇領が成立し、フランク王国は中世ヨーロッパ統合の中心的役割を果たした。
第2章: ゲルマン民族大移動後の西ヨーロッパ諸王国建設 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問16
フランク王国を建国した人物は誰か。
解答:クローヴィス
問17
クローヴィスが496年に改宗した宗派は何か。
解答:カトリック(アタナシウス派)
問18
クローヴィスの改宗で支持を得た住民層は?
解答:ガロ=ローマ人
問19
732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退した人物は?
解答:カール・マルテル
問20
ピピン3世がカロリング朝を開いた年は?
解答:751年
問21
ピピン3世が教皇に寄進した土地を何というか。
解答:ピピンの寄進
問22
ピピンの寄進により成立した領域は何か。
解答:教皇領
問23
メロヴィング朝末期に実権を握った役職名は何か。
解答:宮宰(マヨル・ドムス)
問24
ピピン3世が王位を承認された背景には誰の承認があったか。
解答:ローマ教皇ザカリアス
問25
フランク王国がカトリック世界において果たした役割は?
解答:カトリックの守護者として西欧統合の中心的役割を担った
正誤問題(5問)
問26
クローヴィスはアリウス派に改宗し、ローマ教会と対立した。
解答:誤り → カトリックに改宗し、ローマ教会と結びついた
問27
ピピン3世は教皇の承認を得てカロリング朝を開いた。
解答:正しい
問28
「ピピンの寄進」により、教皇領が成立した。
解答:正しい
問29
トゥール=ポワティエ間の戦いでは、フランク王国がイスラーム勢力を撃退した。
解答:正しい
問30
メロヴィング朝後期も王権は強固で、宮宰は影響力を持たなかった。
解答:誤り → 王権は弱体化し、宮宰が実権を掌握した
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
クローヴィスはアリウス派改宗 | × → カトリック改宗 |
ピピンの寄進はビザンツ帝国への寄進 | × → 教皇への寄進 |
トゥール=ポワティエ間の戦いはイスラーム勝利 | × → フランク王国勝利 |
第3章 ビザンツ帝国との関係と東西対立
西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は地中海東部を中心に強大な勢力を保ち続けました。
しかし、ゲルマン諸王国が西方に建国されると、両者の間には協調と対立が複雑に絡み合う関係が生まれます。
特に、ユスティニアヌス大帝の「ローマ帝国再統一政策」は、西ヨーロッパ世界の秩序に大きな影響を与え、さらには東西教会分裂(大シスマ)への布石ともなりました。
3-1. ビザンツ帝国とゲルマン諸王国の関係
西ローマ帝国滅亡後も、東ローマ帝国は「ローマ帝国唯一の継承者」として強大な権威を維持していました。
このため、西ヨーロッパのゲルマン諸王国との関係は 同盟と対立の両面を持ちます。
- 東ゴート王国:当初はビザンツ帝国の同盟者としてイタリアを支配
- ヴァンダル王国:北アフリカでビザンツと地中海制海権を争奪
- 西ゴート王国:比較的独立を保ちながら、イスラーム勢力への対応に注力
- フランク王国:ローマ教会と結びつきを強め、やがてビザンツと対立構造に移行
この時期、ゲルマン諸王国は単なる「蛮族国家」ではなく、ビザンツとの関係を意識しながら勢力均衡を模索していました。
3-2. ユスティニアヌス大帝のローマ帝国再統一政策
6世紀、ビザンツ帝国の ユスティニアヌス大帝(在位527〜565年)は、「ローマ帝国再興」を目指し積極的な征服政策を展開しました。
ユスティニアヌスの征服戦争
- 533年:ヴァンダル王国を征服 → 北アフリカ回復
- 535〜555年:東ゴート戦争 → 東ゴート王国滅亡、イタリア半島を奪還
- 554年:西ゴート王国の南スペインの一部を占領
これにより、ビザンツ帝国は一時的に「地中海帝国」として復活します。
ユスティニアヌスの政策と影響
- ローマ法大全の編纂 → 西欧中世法制の基礎を築く
- ハギア=ソフィア聖堂の再建 → ビザンツ美術・建築の象徴
- 地中海世界の再統合 → ただし長続きせず、戦費膨張で財政難に陥る
これらの政策は一見成功したかに見えましたが、やがてイスラーム勢力やフランク王国の台頭によってビザンツの影響力は徐々に後退していきます。
3-3. 東西教会分裂の萌芽
この時期、ローマ教会とコンスタンティノープル総主教座を中心とするギリシア正教会の間で、宗教的・文化的対立が進行しました。
対立の背景
- 宗派の違い
- 西方:カトリック(ラテン語・ローマ教皇中心)
- 東方:ギリシア正教(ギリシア語・皇帝権優位)
- フランク王国とビザンツ帝国の対立
→ フランクはローマ教会と結びつき、西方世界を主導 - 政治的対立
→ 教皇権 vs 皇帝権という構図が次第に鮮明に
これらの積み重ねが、1054年の東西教会分裂(大シスマ)へつながる長期的要因となりました。
3-4. 入試で狙われるポイント
- ユスティニアヌス大帝の征服政策とその意義
- 東ゴート・ヴァンダル王国の滅亡過程
- ローマ法大全とハギア=ソフィア聖堂
- 東西教会分裂の萌芽と宗派的対立
- ユスティニアヌス大帝の「ローマ帝国再統一政策」が西ヨーロッパに与えた影響について、200字以内で説明せよ。
-
ユスティニアヌス大帝はヴァンダル王国・東ゴート王国を征服し、地中海世界の再統合を試みた。しかし、長期戦争による財政悪化と新興勢力フランク王国の台頭により、その統一は短命に終わった。この一連の過程は、西ヨーロッパ世界の独自発展を促し、東西世界分裂の一因となった。
第3章: ゲルマン民族大移動後の西ヨーロッパ諸王国建設 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問31
ヴァンダル王国を征服し、北アフリカを回復した皇帝は?
解答:ユスティニアヌス大帝
問32
ユスティニアヌス大帝が滅ぼしたゲルマン諸王国は?
解答:ヴァンダル王国・東ゴート王国
問33
ユスティニアヌスが一時的に支配したイベリア半島南部を領有していた王国は?
解答:西ゴート王国
問34
ユスティニアヌス大帝が編纂した法典を何というか。
解答:ローマ法大全
問35
ビザンツ帝国の首都はどこか。
解答:コンスタンティノープル
問36
ハギア=ソフィア聖堂を再建したのは誰か。
解答:ユスティニアヌス大帝
問37
フランク王国とローマ教会が結びつきを強めたことで対立構造となった帝国は?
解答:ビザンツ帝国
問38
東方教会の中心言語は何か。
解答:ギリシア語
問39
西方教会の中心言語は何か。
解答:ラテン語
問40
1054年の東西教会分裂では、ローマ教会と対立した東方の教会を何というか。
解答:ギリシア正教会
正誤問題(5問)
問41
ユスティニアヌス大帝は東ゴート王国を支援し、独立を保証した。
解答:誤り → 東ゴート王国を滅ぼしイタリアを奪還した
問42
ヴァンダル王国は北アフリカを拠点とし、地中海制海権を握った。
解答:正しい
問43
東西教会分裂は突然の対立で、この時期の宗派的対立とは無関係である。
解答:誤り → この時期の宗派・文化的対立が原因の一つ
問44
ユスティニアヌス大帝のローマ法大全は、後の西欧法体系に大きな影響を与えた。
解答:正しい
問45
西ゴート王国はユスティニアヌス大帝によって完全に滅ぼされた。
解答:誤り → 南スペインの一部を奪われたが、711年まで存続
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
東ゴート王国はビザンツの同盟国として安泰 | × → 征服され滅亡 |
東西教会分裂は1054年に突然発生 | × → 6世紀から宗派・権威対立が進行 |
ローマ法大全は古代ローマ時代の法典 | × → ユスティニアヌス大帝期に編纂 |
第4章 アングロ=サクソン七王国とヴァイキング時代の到来
ゲルマン民族の大移動の影響は、ブリテン島にも及びました。
5世紀以降、アングル人・サクソン人・ジュート人などのゲルマン人がブリテン島に渡り、七つの小王国を形成します。
この時代は「アングロ=サクソン七王国時代」と呼ばれますが、9世紀以降のヴァイキング(デーン人)侵入によって大きな転換を迎えます。
最終的に11世紀のノルマン・コンクエストによってイングランドは新たな支配体制へと移行し、西ヨーロッパ史における重要な転換点となりました。
4-1. アングロ=サクソン七王国の成立
西ローマ帝国滅亡後、ブリテン島に住んでいたローマ系住民は次第に撤退し、代わってゲルマン人が移住してきます。
七王国時代の特徴
- 主な王国:ノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、エセックス、ケント、サセックス、ウェセックス
- 王国同士の抗争が続き、統一政権は長らく成立しなかった
- ローマ文化は衰退したが、キリスト教布教は進行
4-2. ヴァイキングの侵入とイングランド統合
9世紀以降、北方からヴァイキング(デーン人)がブリテン島へ侵入し、七王国の秩序は崩壊します。
ヴァイキング侵入の影響
- 865年以降、デーン人がブリテン島各地に定住
- イースト・アングリアやノーサンブリアなど北部の王国は壊滅
- 南部ウェセックス王国が抵抗の中心となり、アルフレッド大王がデーン人を撃退
- ウェセックス王国を基盤にイングランド統合が進む
4-3. ノルマン・コンクエスト(1066年)
11世紀、イングランド王国は再び大きな転換点を迎えます。
ノルマンディー公 ウィリアム(征服王) がイングランドに侵攻し、ヘースティングズの戦い(1066年)でアングロ=サクソン系のハロルド2世を破りました。
ノルマン・コンクエストの意義
- イングランドはノルマン朝の支配下に入る
- 大陸文化(フランス語・封建制度)が急速に導入される
- イングランド史と西欧大陸史の結びつきが強化
4-4. 入試で狙われるポイント
- アングロ=サクソン七王国の構成と特徴
- ヴァイキング(デーン人)侵入とアルフレッド大王
- ノルマン・コンクエストとヘースティングズの戦い
- イングランドと大陸ヨーロッパの関係強化
- ヴァイキング侵入とノルマン・コンクエストがイングランド社会に与えた影響について、200字以内で説明せよ。
-
9世紀以降のヴァイキング侵入はアングロ=サクソン七王国の秩序を崩壊させたが、ウェセックス王国のアルフレッド大王が撃退に成功し、イングランド統合の契機となった。さらに1066年のノルマン・コンクエストにより大陸文化が導入され、封建制度の整備が進み、西ヨーロッパ世界との一体化が加速した。
第4章: ゲルマン民族大移動後の西ヨーロッパ諸王国建設 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問46
アングロ=サクソン七王国時代に成立したブリテン島南部の王国で、後に統一の中心となったのはどこか。
解答:ウェセックス王国
問47
アングロ=サクソン七王国時代における七つの王国の総称を何というか。
解答:ヒプタルキー(七王国)
問48
9世紀以降、ブリテン島へ侵入した北方ゲルマン人を何と呼ぶか。
解答:ヴァイキング(デーン人)
問49
ヴァイキング侵入時、ブリテン島防衛の中心となった王国はどこか。
解答:ウェセックス王国
問50
デーン人の侵攻を撃退し「イングランド統一の父」と呼ばれる人物は誰か。
解答:アルフレッド大王
問51
1066年、ヘースティングズの戦いでイングランドを征服した人物は誰か。
解答:ウィリアム1世(征服王)
問52
ノルマン・コンクエスト後、イングランドで支配した王朝を何というか。
解答:ノルマン朝
問53
ノルマン・コンクエストがイングランド社会に与えた文化的影響は何か。
解答:フランス語と封建制度の導入
問54
ヘースティングズの戦いで敗れたイングランド王は誰か。
解答:ハロルド2世
問55
アングロ=サクソン七王国時代において、最も北方に位置した王国はどこか。
解答:ノーサンブリア王国
正誤問題(5問)
問56
アングロ=サクソン七王国は、最初から統一王国として機能していた。
解答:誤り → 七つの小王国に分立し抗争していた
問57
ヴァイキング侵入により、ブリテン島の北部王国は壊滅した。
解答:正しい
問58
アルフレッド大王はヴァイキングに敗北し、イングランドは完全に支配された。
解答:誤り → アルフレッド大王が撃退し統合の契機を築いた
問59
ノルマン・コンクエストは1066年、ヘースティングズの戦いで始まった。
解答:正しい
問60
ノルマン・コンクエストによってイングランドは大陸文化と切り離された。
解答:誤り → むしろ大陸文化の影響が強まった
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
七王国時代は統一王国だった | × → 七つの小王国に分立 |
アルフレッド大王はヴァイキングに敗北 | × → 撃退し統合を進めた |
ノルマン・コンクエストはイングランド孤立化を招いた | × → 大陸との結びつきが強化 |
まとめ章 ゲルマン諸王国と西ヨーロッパ世界の形成
476年の西ローマ帝国滅亡は、単なる古代の終焉ではなく、中世ヨーロッパ世界の幕開けでした。
ゲルマン民族は大移動の波に乗って各地に王国を築き、ローマ文化・キリスト教・ゲルマン的伝統を融合させながら、新たな社会を形成していきます。
さらに、フランク王国の台頭やビザンツ帝国との関係、ヴァイキングの侵入、ノルマン・コンクエストといった出来事が、中世西ヨーロッパ世界の秩序を形づくりました。
この章では、これまでの内容を「年表」と「フローチャート」で視覚的に整理し、入試で問われやすい流れを最終確認します。
重要年表:西ローマ帝国滅亡からノルマン・コンクエストまで
年代 | 出来事 | 影響・意義 |
---|---|---|
410年 | 西ゴート族、ローマを占領 | 大移動の象徴的事件 |
418年 | 西ゴート王国成立(トロサ) | イベリア進出の拠点 |
429年 | ヴァンダル王国成立(北アフリカ) | 地中海制海権を掌握 |
455年 | ヴァンダル族、ローマを略奪 | 西ローマ帝国の衰退加速 |
476年 | 西ローマ帝国滅亡 | 古代西欧秩序の終焉 |
481年 | フランク王国建国(クローヴィス) | 西ヨーロッパ最大の勢力に成長 |
496年 | クローヴィス、カトリック改宗 | ローマ教会との同盟を確立 |
533年 | ヴァンダル王国、ユスティニアヌスに滅亡 | 北アフリカをビザンツ帝国が奪還 |
535年 | 東ゴート戦争開始 | イタリア半島が長期混乱に陥る |
555年 | 東ゴート王国滅亡 | イタリア一時ビザンツ支配下 |
632年 | イスラーム共同体形成 | 後のウマイヤ朝拡大に繋がる |
711年 | 西ゴート王国滅亡 | イベリア半島イスラーム化開始 |
732年 | トゥール=ポワティエ間の戦い | フランク王国、イスラーム軍撃退 |
751年 | ピピン3世、カロリング朝創設 | ローマ教皇承認で王権強化 |
756年 | ピピンの寄進 | 教皇領成立 |
800年 | カール大帝戴冠 | 西ヨーロッパ統合の象徴 |
865年 | ヴァイキング(デーン人)侵入 | 七王国秩序崩壊 |
878年 | アルフレッド大王、デーン人撃退 | イングランド統合の契機 |
962年 | 神聖ローマ帝国成立(オットー1世) | 中世ヨーロッパの枠組み確立 |
1054年 | 東西教会分裂 | キリスト教世界の二分化 |
1066年 | ノルマン・コンクエスト | イングランドに大陸文化流入 |
フローチャート:西ローマ帝国滅亡から中世ヨーロッパ秩序の形成
【西ローマ帝国の滅亡(476)】
↓
【ゲルマン民族の大移動】
↓
┌────────────┬────────────┐
│ 西ゴート王国(418〜711) │ 東ゴート王国(493〜555) │
│ → イベリア進出 │ → イタリア半島支配 │
│ → 711年ウマイヤ朝に滅亡 │ → ビザンツ帝国に滅亡 │
└────────────┴────────────┘
↓
【ヴァンダル王国(429〜534)】
→ カルタゴ中心・地中海制海権 → ビザンツ帝国に滅亡
↓
【フランク王国台頭(481〜)】
→ クローヴィス建国・カトリック改宗
→ ピピン3世カロリング朝創設
→ ピピンの寄進→教皇領成立
↓
【ビザンツ帝国との対立】
→ ユスティニアヌスの再統一政策
→ 東西教会分裂の萌芽
↓
【アングロ=サクソン七王国(5〜9世紀)】
→ ヴァイキング侵入で崩壊
→ アルフレッド大王による撃退
↓
【ノルマン・コンクエスト(1066)】
→ イングランドに大陸文化導入
→ 西欧封建制の発展を加速
まとめのポイント
- 西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸王国はローマ的伝統を受け継ぎつつ独自の国家を形成
- フランク王国の台頭とローマ教会との結びつきが中世西ヨーロッパ統合の中心に
- ビザンツ帝国の再統一政策とイスラーム拡大が西欧世界の独自発展を促進
- ヴァイキング侵入・ノルマン・コンクエストを経て、西欧は封建制社会へ移行
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