8世紀中頃、フランク王国の小ピピン(ピピン3世)が行った「ピピンの寄進」は、ヨーロッパ中世史の転換点といえる重要な出来事です。
ピピンはランゴバルド王国から奪った土地をローマ教皇に寄進し、その見返りとしてローマ教皇から王位を承認されました。この出来事によって「ローマ教皇領」が成立し、ローマ教皇とフランク王国の強固な同盟が始まります。
さらに、この関係は後のカール大帝の戴冠(800年)や神聖ローマ帝国の成立へとつながる大きな流れの起点となりました。
本記事では、ピピンの寄進の背景・経過・結果を詳しく解説し、大学入試で頻出する論点を整理します。
第1章 ピピンの寄進の背景と経緯
1-1. メロヴィング朝の衰退とカロリング家の台頭
8世紀初頭のフランク王国は、名ばかりの王権しか持たないメロヴィング朝の時代でした。
実権を握っていたのは「宮宰(マヨル・ドムス)」と呼ばれる官職で、その中でもカロリング家が力をつけていきます。
ピピン3世の父、カール・マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラーム勢力を撃退し、カロリング家の威信を高めました。その流れを受け、ピピン3世は王権奪取を狙うようになります。

1-2. ランゴバルド王国とローマ教皇の危機
当時、ローマ教皇はイタリア半島で北方のランゴバルド王国の脅威にさらされていました。東ローマ帝国は十分な援助を送れなかったため、ローマ教皇はフランク王国に救済を求めます。
このとき、ピピン3世は教皇ステファヌス2世と接触し、「軍事支援と引き換えに王位承認を得る」という取引を進めます。
1-3. ピピンの寄進とローマ教皇領の成立
ピピンは754年と756年の2度にわたりランゴバルド王国を討伐し、ラヴェンナ地方などをローマ教皇へ寄進しました。
これにより、ローマ教皇は広大な領地を得てローマ教皇領を成立させ、フランク王国とローマ教皇の同盟関係が確立します。
この出来事は、世俗権力と宗教権力の結びつきを象徴する出来事として、後世に大きな影響を与えました。
1-4. 入試で狙われるポイント
- ピピン3世(小ピピン)はカロリング朝の創始者
- 教皇ステファヌス2世と同盟を結ぶ
- ランゴバルド王国を討伐して土地を寄進(754年・756年)
- ローマ教皇領が成立
- 後のカール大帝の戴冠や神聖ローマ帝国成立につながる重要な前提
- ピピンの寄進がヨーロッパ中世史に与えた影響について、背景と結果を含めて200字程度で説明せよ。
-
8世紀中頃、フランク王国のピピン3世はローマ教皇ステファヌス2世の要請を受け、ランゴバルド王国を討伐した。その結果、754年と756年にランゴバルドから奪取したラヴェンナ地方などをローマ教皇へ寄進し、ローマ教皇領が成立した。この寄進はフランク王国とローマ教皇の同盟を強化し、後のカール大帝の戴冠(800年)を経て、西欧世界における宗教権威と世俗権力の結びつきを強固にする基盤となった。
第1章: ピピンの寄進 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ピピン3世が創始した王朝を何というか。
解答:カロリング朝
問2
ピピン3世が王位を奪取する前の王朝は何か。
解答:メロヴィング朝
問3
ピピン3世の父で、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラームを撃退した人物は誰か。
解答:カール・マルテル
問4
ピピン3世が王位承認を受けたローマ教皇は誰か。
解答:ステファヌス2世
問5
ピピンがローマ教皇に寄進した土地はどの地方か。
解答:ラヴェンナ地方
問6
ピピンの寄進によって成立した領地を何というか。
解答:ローマ教皇領
問7
ピピンの寄進は何年に行われたか(2回)。
解答:754年と756年
問8
ピピンが寄進するきっかけとなった外敵はどこの王国か。
解答:ランゴバルド王国
問9
ピピン3世の後を継ぎ、800年にローマ教皇から帝冠を授けられたのは誰か。
解答:カール大帝(シャルルマーニュ)
問10
ピピンの寄進は後のどの帝国の成立の前提となったか。
解答:神聖ローマ帝国
正誤問題(5問)
問1
ピピン3世はメロヴィング朝最後の王である。(誤)
解答:誤 → ピピンはメロヴィング朝を倒し、カロリング朝を創始した。
問2
ピピンの寄進は一度だけ行われた。(誤)
解答:誤 → 754年と756年の2度行われた。
問3
ピピンの寄進によってローマ教皇領が成立した。(正)
解答:正
問4
ピピン3世が同盟を結んだのは東ローマ皇帝である。(誤)
解答:誤 → 同盟を結んだのはローマ教皇ステファヌス2世。
問5
ピピンの寄進は、後のカール大帝の戴冠への布石となった。(正)
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- ピピン3世とカール大帝を混同する
→ ピピン3世は父、カール大帝は子。寄進したのはピピン。 - 寄進した土地をランゴバルド王国と誤答
→ ランゴバルドから奪った土地をローマ教皇に寄進した。 - 寄進の回数を1回とする誤り
→ 実際には754年と756年の2回。 - 王位承認を東ローマ皇帝から受けたとする誤り
→ 正しくはローマ教皇ステファヌス2世。
第2章 ピピンの寄進の歴史的意義とその後の影響
2-1. ローマ教皇領の成立とその意義
ピピンの寄進によって成立したローマ教皇領は、単なる土地の獲得ではなく、中世ヨーロッパ政治の構造を変える出来事でした。
この領地を得たことで、ローマ教皇は宗教的権威に加えて 世俗的な支配権も持つようになり、宗教と政治が密接に絡み合う中世的秩序が始まります。
さらに、ローマ教皇領はイタリア半島の中央部を横断する形で広がったため、イタリア統一を妨げる要因ともなり、19世紀まで長く影響を及ぼしました。
2-2. フランク王国とローマ教皇の同盟強化
ピピンの寄進は、フランク王国とローマ教皇の間に強固な同盟関係を築きました。
ピピンはローマ教皇から王位を正式に承認される代わりに軍事力で教皇を守り、見返りとして教皇は王権を神聖化しました。
この「宗教権威による王権の正当化」という構図は、後のヨーロッパ中世国家に広く影響を与えます。
2-3. カール大帝の戴冠と神聖ローマ帝国への布石
ピピンの死後、王位を継いだカール大帝は、800年にローマ教皇レオ3世から帝冠を授けられます(カールの戴冠)。
これは「西ローマ帝国の復活」を意味し、神聖ローマ帝国成立の原点とされます。
この背景には、ピピンの寄進で確立したフランク王国とローマ教皇の強い結びつきがありました。
つまり、ピピンの寄進は単なる土地の寄進ではなく、西欧世界の中世秩序の基礎を形作ったという大きな意義を持つのです。
2-4. 東ローマ帝国との対立激化
ローマ教皇領の成立は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係悪化も招きました。
東ローマ帝国はもともとラヴェンナ地方を支配しており、ピピンが勝手にローマ教皇に寄進したことは、皇帝権威の軽視につながりました。
これにより、東西教会の分裂(1054年)へと続く対立の火種の一つともなります。
2-5. 入試で狙われるポイント
- ピピンの寄進=ローマ教皇領成立の直接的契機
- 宗教と政治の結びつきが強まる
- カール大帝の戴冠への伏線
- 東ローマ帝国との対立を深めた要因
- イタリア半島の分断を長期化させた歴史的影響
- ピピンの寄進が後のヨーロッパ世界に与えた長期的な影響について、200字程度で説明せよ。
-
ピピンの寄進によってローマ教皇領が成立し、ローマ教皇は宗教権威だけでなく世俗的支配権をも得た。この結果、フランク王国とローマ教皇の同盟が強化され、王権を教皇が神聖化するという中世的秩序が形成された。また、この結びつきはカール大帝の戴冠(800年)につながり、西欧世界における宗教と政治の統合を進めた。さらに、寄進は東ローマ帝国の権益を侵害し、東西教会対立の一因ともなった。
第2章: ピピンの寄進 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ピピンの寄進によって成立した領地は何と呼ばれるか。
解答:ローマ教皇領
問2
ピピンの寄進を受けた教皇は誰か。
解答:ステファヌス2世
問3
ピピンの寄進によって教皇が得たのは宗教権威だけか、世俗支配権もか。
解答:世俗支配権も得た
問4
ローマ教皇領の中心となった都市はどこか。
解答:ラヴェンナ
問5
ピピンの寄進がきっかけとなって結びつきが強化された王国はどこか。
解答:フランク王国
問6
ピピンの寄進の結果、800年にローマ教皇から帝冠を授かった人物は誰か。
解答:カール大帝
問7
ピピンの寄進で権益を侵害されたため、対立が深まった国はどこか。
解答:東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
問8
ローマ教皇領の成立は、19世紀のどの出来事まで影響を及ぼしたか。
解答:イタリア統一(1870年)
問9
ピピンの寄進は中世ヨーロッパのどのような秩序の形成に寄与したか。
解答:宗教と政治の結びつきを基盤とした中世的秩序
問10
ピピンの寄進は東西教会分裂の原因の一つである。正しいか誤りか。
解答:正
正誤問題(5問)
問1
ピピンの寄進によってローマ教皇は宗教権威だけを得た。(誤)
解答:誤 → 世俗的支配権も得た。
問2
ピピンの寄進は東ローマ帝国との関係を強化した。(誤)
解答:誤 → むしろ対立を深めた。
問3
ピピンの寄進はイタリア半島の分断を長期化させた。(正)
解答:正
問4
ピピンの寄進はカール大帝の戴冠には直接つながらない。(誤)
解答:誤 → 強固な教皇・フランク同盟が戴冠を可能にした。
問5
ピピンの寄進は中世ヨーロッパの政治秩序形成に大きな影響を与えた。(正)
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 「ピピンの寄進=ローマ教皇領成立」とだけ覚える誤り
→ 背景や結果をセットで押さえないと論述で減点。 - 寄進が東ローマ帝国との関係改善につながったと誤答
→ 実際は対立を深めた。 - ピピンの寄進の影響をカール大帝の戴冠まで関連づけられない
→ 流れで覚えることが重要。
第3章 ピピンの寄進と中世ヨーロッパの教会・国家関係
3-1. 宗教権威と世俗権力の結びつき
ピピンの寄進は、フランク王国とローマ教皇の強固な同盟を象徴します。
この寄進により、ローマ教皇は世俗的な領土支配権を得て権威を拡大し、ピピン3世は宗教的権威による王位の正当化を獲得しました。
この「相互依存関係」は中世ヨーロッパの政治秩序の原型となり、以後の国家権力と宗教権威の関係に大きな影響を与えます。
3-2. 王権神授説の基盤
ピピン3世がローマ教皇から王位承認を得たことにより、「王権は神から授かったもの」という観念が強化されました。
これにより、王は単なる武力支配者ではなく、「神に選ばれた存在」としての正統性を持つようになります。
この構図は後の中世ヨーロッパ国家形成に大きな影響を与え、王権神授説の萌芽といえます。
3-3. 教皇と皇帝の対立の起点
ピピンの寄進によってローマ教皇は広大な領地を手に入れたものの、やがて教皇と皇帝の主導権争いが深刻化します。
特にカール大帝の戴冠(800年)以降、教皇は「帝冠を授ける権威者」として振る舞い、皇帝と対立するようになります。
この流れは11世紀の叙任権闘争へとつながり、最終的には宗教と世俗権力の関係性を大きく揺さぶります。
3-4. イタリア半島の分断と長期的影響
ピピンの寄進で成立したローマ教皇領は、イタリア半島中央部を横断する形で配置されました。
これにより、北イタリアと南イタリアの分断が固定化し、最終的には19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)まで影響を及ぼしました。
つまり、ピピンの寄進は中世にとどまらず、近代史にも長期的な影響を与えたのです。
3-5. 入試で狙われるポイント
- 王権神授説の萌芽
- フランク王国とローマ教皇の相互依存関係
- 教皇と皇帝の対立の始まり
- 叙任権闘争の遠因
- イタリア分断の長期化
- ピピンの寄進が中世ヨーロッパにおける教会と国家の関係に与えた影響について、250字程度で説明せよ。
-
ピピンの寄進によりローマ教皇領が成立し、ローマ教皇は宗教権威に加えて世俗的支配権を獲得した。一方、ピピン3世はローマ教皇から王位を承認され、宗教的権威による正統性を得た。この相互依存関係は、王権神授説の基盤となり、中世ヨーロッパの政治秩序を形成した。しかし同時に、ローマ教皇は帝冠を授ける権威を主張するようになり、皇帝と対立する契機を生んだ。これにより、叙任権闘争などの教皇と皇帝の権力闘争へとつながり、宗教と政治の関係は複雑化していった。
第3章: ピピンの寄進 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ピピン3世は王位を誰から正式に承認されたか。
解答:ローマ教皇ステファヌス2世
問2
ピピンの寄進によって教皇が得たのは宗教権威に加えて何か。
解答:世俗的支配権
問3
ピピンの寄進によって成立した領地は何か。
解答:ローマ教皇領
問4
ピピンの寄進によって強化された王の正統性を裏付ける思想は何か。
解答:王権神授説
問5
ピピンの寄進後、800年にローマ教皇から帝冠を授けられたのは誰か。
解答:カール大帝
問6
ピピンの寄進は後にどの対立を引き起こす遠因となったか。
解答:叙任権闘争
問7
ピピンの寄進で成立したローマ教皇領はどの地域の分断を長期化させたか。
解答:イタリア半島
問8
ピピンの寄進は東ローマ帝国にどのような影響を与えたか。
解答:東ローマの権益を侵害し、対立を深めた
問9
ピピンの寄進後、ローマ教皇は帝冠を授与することで何を主張するようになったか。
解答:皇帝を任命する権威を持つ立場であること
問10
ピピンの寄進の影響は19世紀のどの出来事にまで及んだか。
解答:イタリア統一(リソルジメント)
正誤問題(5問)
問1
ピピンの寄進によって王権神授説の基盤が形成された。(正)
解答:正
問2
ピピンの寄進で成立したローマ教皇領は中世だけでなく近代史にも影響を与えた。(正)
解答:正
問3
ピピンの寄進によって教皇と皇帝の対立は解消された。(誤)
解答:誤 → むしろ対立を深めた。
問4
ピピンの寄進は叙任権闘争の原因にはならなかった。(誤)
解答:誤 → 遠因の一つとなった。
問5
ピピンの寄進はフランク王国とローマ教皇の対立を生んだ。(誤)
解答:誤 → むしろ同盟を強化した。
よくある誤答パターンまとめ
- ピピンの寄進=単なる土地寄進と覚える誤り
→ 宗教と政治の結びつき、教皇・皇帝関係の変化まで意識する必要がある。 - 寄進後、教皇と皇帝の関係が安定したと誤答
→ 実際は権力闘争の火種となった。 - 王権神授説を後世だけの思想と誤解する
→ ピピン時代にその基盤が形成されたことを押さえる。
まとめ ピピンの寄進がもたらした中世ヨーロッパの秩序変化
ピピンの寄進の意義を総復習
ピピン3世による寄進は、単なる土地の譲渡ではありません。
フランク王国とローマ教皇の関係を一変させ、中世ヨーロッパにおける宗教と政治の結びつきを決定づけた大事件でした。
- 王権の正統性確立
→ ローマ教皇から王位承認を受けることで、王権が「神から授かったもの」として正当化。 - ローマ教皇領の成立
→ 教皇が世俗権力を手に入れ、宗教と政治の両面で影響力を強化。 - 西欧世界の中世秩序形成
→ 宗教権威と世俗権力の相互依存関係が確立し、その後の中世ヨーロッパの国家構造の基盤となる。 - 東西関係の悪化
→ 東ローマ帝国の権益を侵害し、東西教会対立の火種を作った。 - 長期的影響
→ カール大帝の戴冠(800年)や神聖ローマ帝国成立、さらにイタリア半島分断を通じて19世紀のイタリア統一まで影響。
ピピンの寄進は、宗教・政治・地理・近代への連続的なつながりを理解することが重要です。
ピピンの寄進関連年表
西暦 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|
732年 | トゥール・ポワティエ間の戦い | カール・マルテル(ピピンの父)がイスラーム軍撃退 |
741年 | カール・マルテル死去 | ピピン3世とカールマンが実権掌握 |
751年 | ピピン3世、ローマ教皇ザカリアスから王位承認 | カロリング朝成立 |
754年 | ピピン、ランゴバルド討伐・初回の寄進 | 教皇ステファヌス2世との同盟強化 |
756年 | ピピン、ランゴバルドから奪ったラヴェンナ地方を再度寄進 | ローマ教皇領成立 |
800年 | カール大帝の戴冠 | 教皇・フランク関係の結実 |
1054年 | 東西教会分裂 | 教皇領成立と東ローマ対立が遠因 |
1870年 | イタリア統一 | 教皇領消滅、ピピン寄進の影響が終結 |
フローチャート:ピピンの寄進と中世ヨーロッパ秩序の流れ
ピピンの寄進と中世ヨーロッパ秩序の流れ
メロヴィング朝の衰退(名ばかりの王)
│
▼
カロリング家の台頭
(カール・マルテル → ピピン3世)
│
▼
ランゴバルド王国の脅威
│ 教皇ステファヌス2世、東ローマではなくフランクに救援要請
▼
フランク王国とローマ教皇の同盟成立(751年)
│
▼
【754年・756年】ピピンの寄進
ランゴバルド討伐 → ラヴェンナ地方などをローマ教皇へ
│
▼
ローマ教皇領の成立
宗教権威+世俗支配権を獲得
│
├── フランク王国は王位の正統性を確立(王権神授説の基盤)
│
├── 教皇・フランクの結びつき強化
│
├── 東ローマ帝国との対立激化
▼
【800年】カール大帝の戴冠 → 西ローマ帝国の復活
│
▼
中世ヨーロッパの「教皇 vs 皇帝」対立構造形成
(叙任権闘争・東西教会分裂へ)
│
▼
イタリア半島分断 → 19世紀イタリア統一まで影響
学習のポイント
- 短期的視点:
→ ローマ教皇領の成立とフランク王国の王権正統化 - 中期的視点:
→ カール大帝の戴冠と神聖ローマ帝国の成立 - 長期的視点:
→ 東西教会分裂、イタリア分断、近代イタリア統一への影響
ピピンの寄進は単なる「土地寄進」の暗記では不十分です。
「背景 → 出来事 → 結果 → 長期的影響」の流れで理解することで、論述問題や正誤問題にも対応できます。
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