ウマイヤ朝北上阻止とキリスト教世界防衛の意義
8世紀前半、西ヨーロッパはイスラーム勢力の拡大によって大きな危機を迎えました。
711年、ウマイヤ朝がイベリア半島を征服すると、イスラーム軍はピレネー山脈を越えてフランク王国領内に侵入。
この脅威に立ち向かったのが、メロヴィング朝フランク王国の宮宰であったカール・マルテルです。
732年、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退したこの勝利は、キリスト教世界防衛の象徴的事件として後世に語り継がれます。
本記事では、この戦いの経緯、意義、そして小ピピンによるカロリング朝成立までを徹底解説します。
第1章 宮宰カール・マルテルとトゥール=ポワティエ間の戦い
メロヴィング朝後期、王権が衰退する中で台頭したのが、王宮を統括する家臣職である宮宰(マヨル・ドムス)です。
特に、ピピン2世の子カール・マルテルは、軍事的才能に優れ、フランク王国の防衛において重要な役割を果たしました。
1-1. ウマイヤ朝のイベリア半島進出
711年、イスラーム勢力であるウマイヤ朝は西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を征服しました。
以降、イスラーム軍はピレネー山脈を越え、フランク王国領にまで進軍します。
- 背景
- イスラーム勢力の急速な拡大
- 地中海西部への影響力増大
- フランク王国にとっての脅威増大
1-2. トゥール=ポワティエ間の戦い(732年)
732年、ウマイヤ朝軍とカール・マルテル率いるフランク軍が現在のフランス中部で激突します。
地形を活かした防御戦を展開したフランク軍は、軽騎兵中心のウマイヤ軍を撃退しました。
- 日付:732年
- 場所:トゥールとポワティエの間(現フランス中西部)
- フランク軍:宮宰カール・マルテル指揮
- 結果:フランク軍の勝利 → ウマイヤ朝は以後ピレネー以北への進出を断念
1-3. 戦いの意義
- イスラーム北上阻止
→ 西欧キリスト教世界への大規模進出を防いだ - 宮宰カール・マルテルの権威確立
→ 王権を凌駕する存在へ成長 - キリスト教世界防衛の象徴化
→ 中世ヨーロッパにおける「キリスト教的統一意識」の形成に寄与
入試で狙われるポイント
- トゥール=ポワティエ間の戦い(732年):フランク軍がウマイヤ軍を撃退
- 宮宰カール・マルテル:王権に代わる実質的支配者
- イスラーム勢力の拡大と西欧世界の防衛
- イベリア半島のアル=アンダルス成立(711年)との関連性
- 732年のトゥール=ポワティエ間の戦いがヨーロッパ史に与えた影響を200字以内で説明せよ。
-
732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルはトゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍を撃退した。
この勝利により、イスラーム勢力のピレネー山脈以北への進出は阻止され、西欧キリスト教世界は存続した。
また、この戦いを契機にカール・マルテルの権威は王を上回るほどに高まり、フランク王国内でのカロリング家の地位を不動にした。さらに、この戦いは「キリスト教世界防衛」の象徴として中世西欧に統一意識を形成する契機となった。
第2章 小ピピンの即位とカロリング朝成立
カール・マルテルの死後、宮宰職を継いだのが小ピピン(ピピン3世)です。
彼は751年、ローマ教皇ザカリアスの承認を得て、メロヴィング朝最後の王を廃し、自ら国王に即位します。
2-1. 小ピピンの王位継承
- 751年:小ピピンがローマ教皇ザカリアスから承認を得て即位
- 意義:王権の正統性が「教皇の承認」によって裏付けられた
- 結果:メロヴィング朝滅亡 → カロリング朝成立
2-2. 教皇とフランク王国の同盟
小ピピンはローマ教皇を軍事的に支援し、ランゴバルド王国に奪われた領地を教皇に返還しました。
このピピンの寄進によって、ローマ教皇領が成立し、フランク王国とローマ教会の結びつきはさらに強化されます。
入試で狙われるポイント
- 小ピピンの即位(751年):教皇ザカリアスの承認
- ピピンの寄進:ローマ教皇領成立の契機
- カロリング朝の成立:メロヴィング朝からの転換点
- 小ピピンの即位が西ヨーロッパ史において持つ意義を150字以内で説明せよ。
-
751年、小ピピンはローマ教皇ザカリアスの承認を得てフランク王国国王に即位し、メロヴィング朝を終焉させた。この即位により、王権の正統性が教皇によって認められるという構図が成立し、教皇と王権の密接な協力体制が確立した。また、ピピンの寄進によってローマ教皇領が形成され、ローマ教会とフランク王国の結びつきはさらに強まった。
第2章: カール・マルテルとトゥール=ポワティエ間の戦い 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
トゥール=ポワティエ間の戦いが起きた年は何年か。
解答:732年
問2
トゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ軍を撃退したフランク王国の宮宰は誰か。
解答:カール・マルテル
問3
ウマイヤ朝がイベリア半島を征服したのは何年か。
解答:711年
問4
ウマイヤ朝がイベリア半島に建設した支配体制の名称は何か。
解答:アル=アンダルス
問5
小ピピンがローマ教皇ザカリアスの承認を得て王位に就いたのは何年か。
解答:751年
問6
小ピピンが寄進した領土により成立した宗教的領域は何か。
解答:ローマ教皇領
問7
小ピピンの王位継承によって滅亡した王朝は何か。
解答:メロヴィング朝
問8
カロリング朝初代国王となった人物は誰か。
解答:小ピピン
問9
カール・マルテルの勝利が西欧世界に与えた最大の影響は何か。
解答:イスラーム勢力の北上阻止
問10
小ピピンの即位により始まった王朝は何か。
解答:カロリング朝
正誤問題(5問)
問1
トゥール=ポワティエ間の戦いはウマイヤ朝軍とフランク王国軍との戦いである。
解答:正しい
問2
カール・マルテルはフランク王国の国王であった。
解答:誤り → 宮宰であり、国王ではなかった
問3
小ピピンはローマ教皇ザカリアスの承認を受けずに即位した。
解答:誤り → 承認を得て即位した
問4
ピピンの寄進によってローマ教皇領が成立した。
解答:正しい
問5
カロリング朝はピピン3世の死後に成立した。
解答:誤り → 小ピピン即位(751年)時に成立した
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
トゥール=ポワティエ間の戦いは西ゴート王国との戦い | × → ウマイヤ朝軍との戦い |
カール・マルテルはフランク国王だった | × → 宮宰で、王ではなかった |
小ピピンは教皇の承認なしで王位に就いた | × → 教皇ザカリアスの承認を得て即位 |
ピピンの寄進はローマ教皇領の成立と無関係 | × → 寄進によってローマ教皇領が成立 |
次回予告
【次回予告】フランク王国シリーズ第3回
「カール大帝とカロリング・ルネサンス」(第3回)
→ 小ピピンの死後、カール大帝が広大な領土を統一し、800年の西ローマ皇帝戴冠、そしてカロリング・ルネサンスを推進した時代を詳しく解説します。
このシリーズ(全4回)
- 第1回:フランク王国の成立とメロヴィング朝
- 第2回:カール・マルテルとトゥール=ポワティエ間の戦い← 今ココ
- 第3回:カール大帝の西ローマ皇帝戴冠|800年の意義とカロリング・ルネサンス
- 第4回:カロリング朝の分裂とヴェルダン条約
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