ピューリタン革命(清教徒革命)は、世界史入試で頻出テーマです。
しかし受験生が混乱しやすいのは「革命後」の展開です。クロムウェルの独裁体制、王政復古、名誉革命…と続く中で、宗教対立の「軸」が少しずつ変化していきます。
特に重要なのは、カトリックが直接的対立の中心にはなかったピューリタン革命前にも、議会派や国教会派が常に「カトリック復権」を警戒していたという視点です。
これは、王家の婚姻政策や外交方針、さらにはアイルランド問題とも密接に結びついていました。
本記事では、
- ピューリタン革命前後で宗教対立の「軸」がどう変わったのか
- アイルランド問題やスコットランドとの関係
- ピルグリム・ファーザーズや北米植民地への影響
これらを受験生が理解しやすいように整理します。
ピューリタン革命から名誉革命までの「宗教対立の変化」はこの記事で解説しましたが、メインとも言える議会と国王の政治的対立の流れをより詳しく押さえたい方は、以下の記事もぜひご覧ください。
第1章 ピューリタン革命後の宗教対立構造の変化
ピューリタン革命前後の宗教対立を理解するには、まず「革命前の宗教的警戒心」から押さえることが重要です。
革命直前の17世紀前半では、直接的な対立は国教会 vs ピューリタンでしたが、その背後では常に「カトリック復権の恐怖」が影を落としていました。
この潜在的な不安は、やがてアイルランド問題や王政復古、名誉革命にまでつながる長期的な火種となります。
1-1 ピューリタン革命前:カトリック復権への不安
- 王家の婚姻とカトリックへの警戒
ジェームズ1世・チャールズ1世はしばしばカトリックの王族との縁談を進め、議会は「国教会が骨抜きにされる」と危機感を抱きました。
例:チャールズ1世がフランス王女アンリetteと結婚 → カトリック妃が宮廷内で影響力を持つ - スペインとの関係
エリザベス1世時代にスペインと敵対していた影響で、議会・ピューリタン層は反スペイン=反カトリック感情を強く持つ - アイルランド問題
アイルランドではカトリック多数派が強固に存在 → 「イングランド国教会の権威を揺るがす不安要因」として意識され続けた
このように、ピューリタン革命前の宗教対立の背後には「カトリックへの警戒」があり、これが議会派やピューリタン派の強硬姿勢を生む一因でした。
1-2 ピューリタン革命期:国王派 vs 議会派の主軸とカトリックの影
ピューリタン革命(1642〜1649年)の表面的な構図は、国王派(チャールズ1世) vs 議会派(ピューリタン中心)です。
しかし、国王派にはカトリック勢力が潜在的に接近しており、議会側は「国王は実質カトリック寄りではないか」という疑念を強めていきます。
- 国教会派(王党派)
国王を支持し、イングランド国教会の権威を擁護 - ピューリタン派(議会派)
プロテスタントの中でも改革派。- 長老派:スコットランドに多く、長老会による教会運営を主張
- 独立派:国家権力から独立した信仰を求め、クロムウェルが代表
カトリックは直接的には大勢力ではありませんでしたが、「国王がカトリック寄り」という恐怖は革命の進展を後押ししました。
1-3 クロムウェル体制と宗教対立の拡大
クロムウェルの共和政(1649〜1658年)では、宗教対立はイングランド内部だけでなく、アイルランド・スコットランドとの関係に拡大します。
- アイルランド問題
- カトリック多数派が議会派に反発 → クロムウェル軍が制圧
- ドロヘダ包囲戦などで数万人規模の虐殺
- カトリック土地没収 → プロテスタント入植 → 長期的火種に
- スコットランド問題
- 長老派(ピューリタンの一派)が共和政に反発
- チャールズ2世を擁立 → クロムウェル軍が粉砕
この時代に、「宗派対立=民族対立」という構図が強まります。
1-4 北米植民地と信仰の自由:ピルグリム・ファーザーズ
宗教的迫害を避けるため、1620年にピルグリム・ファーザーズが北米へ移住します。
- メイフラワー号でプリマス植民地を建設
- ピューリタン革命期以降、非国教徒・ピューリタンの移住がさらに加速
- 信仰の自由を求めるこの動きは、後のアメリカ独立思想にもつながる
つまり、ピューリタン革命はイギリス国内史にとどまらず、大西洋世界の宗教地図を変える契機でもありました。
入試で狙われるポイント
- ピューリタン革命前から「カトリック復権の恐怖」が背景にある
- クロムウェル時代に宗教対立は「国内」から「アイルランド・スコットランド」へ拡大
- ピルグリム・ファーザーズは革命前から移住 → 時系列で混乱しやすい
- 王政復古後は「国教会 vs カトリック」へと軸が変化 → 名誉革命につながる
- ピューリタン革命前後におけるカトリックの影響を、アイルランド問題と北米植民地への移住に関連づけて200字以内で説明せよ。
-
ピューリタン革命前、カトリックは直接的な対立軸ではなかったが、国王家のカトリック寄り婚姻政策やアイルランドの存在により、議会派は常にカトリック復権を警戒していた。革命期にはクロムウェルがアイルランドのカトリックを弾圧し土地を没収、長期的対立の原因を作った。一方、信仰の自由を求めたピルグリム・ファーザーズは北米植民地を建設し、後のアメリカ独立思想につながった。王政復古後は国教会とカトリックの対立が激化し、名誉革命への布石となった。
第1章: ピューリタン革命後の宗教対立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ピューリタン革命時、議会派の中心となった宗派は何か。
解答:ピューリタン派
問2
ピューリタン派は長老派ともう一つ、どの派に分かれていたか。
解答:独立派
問3
クロムウェルが征服したアイルランドで多数派を占めていた宗派は何か。
解答:カトリック
問4
1620年に北米プリマス植民地を建設したピューリタンを何と呼ぶか。
解答:ピルグリム・ファーザーズ
問5
ピルグリム・ファーザーズが乗船した船の名前は何か。
解答:メイフラワー号
問6
チャールズ2世が即位した1660年の出来事を何というか。
解答:王政復古
問7
議会がジェームズ2世のカトリック政策に反発して起こした1688年の出来事は何か。
解答:名誉革命
問8
名誉革命後に制定され、国王権を制限した文書は何か。
解答:権利の章典
問9
王政復古期に議会で対立した2大政党の名称は何か。
解答:トーリ党とホイッグ党
問10
アイルランド問題を悪化させたクロムウェルの土地政策を何と呼ぶか。
解答:土地没収・プロテスタント入植
正誤問題(5問)
問1
クロムウェルはアイルランドでカトリック勢力を優遇した。
解答:誤(実際は弾圧し土地を没収)
問2
ピルグリム・ファーザーズはピューリタン革命後に北米へ移住した。
解答:誤(正しくは革命前の1620年)
問3
チャールズ2世はプロテスタントの国教会派を強力に支持した。
解答:誤(むしろカトリック寄り)
問4
議会派の独立派を代表する人物はクロムウェルである。
解答:正
問5
名誉革命後、立憲君主制が確立された。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ピルグリム・ファーザーズはピューリタン革命後に移住した | × → 革命前(1620年)に移住 |
クロムウェルはアイルランドのカトリックに寛容だった | × → 弾圧と土地没収を実施 |
宗教対立は常に国教会 vs ピューリタン | × → 王政復古後は国教会 vs カトリックが軸 |
アイルランド問題は近代以降に発生した | × → クロムウェル時代に根深い対立が始まる |
北米植民地建設は名誉革命後の出来事 | × → 17世紀前半から進行 |
第2章 アイルランド問題と三王国戦争 ― 宗派対立が民族対立へ拡大
ピューリタン革命の背景には、単なる宗教対立を超えた民族問題が横たわっていました。
特にアイルランドとスコットランドをめぐる対立は、国王と議会の争いに宗教・民族・政治の要素を複雑に絡ませ、イギリス諸島全体を戦乱に巻き込みます。
この時期のアイルランド問題は、後世に至るまでイギリス史を揺るがす長期的な火種となりました。
2-1 アイルランドの特殊性と宗教的対立
アイルランドは中世以来、イングランド王権の支配下にありましたが、住民の大多数はカトリックで、イングランド国教会を中心とするプロテスタント政策には強く反発していました。
- 16世紀以降の植民政策
ヘンリ8世以降、アイルランドの土地を没収し、イングランド人プロテスタント入植者に分配 - 宗教政策の失敗
エリザベス1世期の国教会強制は失敗し、カトリック信仰が根強く残存 - アイルランド蜂起(1641年)
チャールズ1世の弱体化を見て、アイルランドのカトリック勢力が一斉蜂起
→ 数万人のプロテスタント入植者を虐殺 → イングランド社会に「カトリック恐怖」を拡散
この1641年蜂起は、イギリス国内で「カトリックがイングランドを転覆させる」という強い不安感を煽り、議会派が国王との対立を強める大きな契機となりました。
2-2 三王国戦争の勃発と拡大
ピューリタン革命は、単なるイングランド内戦ではなく、「三王国戦争」としてスコットランド・アイルランドを巻き込んだ広域戦争でした。
- 第一段階:イングランド内戦(1642〜1646年)
議会派(ピューリタン中心) vs 国王派(国教会+王党派)
勝者:議会派 → チャールズ1世投獄 - 第二段階:スコットランド戦争(1648〜1651年)
スコットランド長老派は国王を擁立 → クロムウェル軍が粉砕 - 第三段階:アイルランド制圧(1649〜1653年)
クロムウェルがアイルランド遠征を実施 → ドロヘダ包囲戦などで大量虐殺
この戦争では、宗教対立が民族対立を増幅し、結果としてイギリス史における「アイルランド問題」が深刻化します。
2-3 クロムウェルのアイルランド政策と長期的影響
クロムウェルはアイルランドのカトリックを徹底的に弾圧しました。
- ドロヘダ包囲戦(1649年)
降伏後の住民も含む約3000人を虐殺 → アイルランド人の国民的記憶に刻まれる - 土地没収と植民政策
カトリック貴族の土地を没収し、プロテスタント入植者に分配 - 長期的影響
- カトリック勢力は経済的基盤を失う
- プロテスタント優位の「植民国家」体制が形成
- 以後数世紀にわたり「アイルランド問題」がイギリス政治の不安定要因となる
アイルランドでのカトリック弾圧は、後のアイルランド独立運動や北アイルランド紛争にもつながる長い影響を残しました。
2-4 アイルランド問題とカトリック恐怖の連鎖
1641年蜂起からクロムウェル弾圧に至る過程で、イングランド人の間に「カトリック恐怖症」が形成されます。
- 「カトリックはプロテスタントを皆殺しにする」という恐怖の物語が広がる
- 議会派は国王チャールズ1世がカトリック寄りだと疑い、強硬姿勢をとる
- 後のジェームズ2世即位時(1685年)にも「カトリック国王への恐怖」が噴出し、名誉革命につながる
つまり、アイルランド問題は単なる地方反乱ではなく、17世紀イギリス政治の大きな潮流を動かす重要な要因でした。
入試で狙われるポイント
- 1641年アイルランド蜂起はピューリタン革命の引き金の一つ
- クロムウェルのアイルランド制圧は宗教・民族対立を決定的に悪化
- 「三王国戦争」という広域戦争の視点で押さえると得点しやすい
- カトリック恐怖がジェームズ2世への不信感を高め、名誉革命に直結
- ピューリタン革命期のアイルランド問題がイギリスの宗教対立に与えた影響を、三王国戦争との関係で200字以内で説明せよ。
-
1641年のアイルランド蜂起では、カトリック住民がプロテスタント入植者を虐殺し、イングランド社会に「カトリック恐怖」を広めた。これにより議会派は国王をカトリック寄りと疑い、対立が激化した。クロムウェルは1649年にアイルランド遠征を行い、ドロヘダ包囲戦で大虐殺を実施、カトリック土地を没収しプロテスタント入植を進めた。結果として宗教対立は民族問題へと転化し、以後のイギリス政治に長期的影響を残した。
第2章: ピューリタン革命後の宗教対立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1641年に発生した、カトリック住民によるプロテスタント虐殺事件を何というか。
解答:アイルランド蜂起
問2
クロムウェルが1649年に行ったアイルランド制圧の象徴的戦闘は何か。
解答:ドロヘダ包囲戦
問3
クロムウェルがアイルランドで実施した土地政策を何というか。
解答:カトリック土地没収とプロテスタント入植
問4
ピューリタン革命期のスコットランドで優勢だった宗派は何か。
解答:長老派(Presbyterians)
問5
三王国戦争の第二段階で、スコットランドが擁立した国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問6
クロムウェル率いる軍がスコットランド軍を破った戦いは何か。
解答:ダンバーの戦い(1650年)
問7
クロムウェル政権下でアイルランドに多数派を占めていた宗派は何か。
解答:カトリック
問8
アイルランド蜂起がイングランド社会にもたらした心理的影響を何というか。
解答:カトリック恐怖症
問9
三王国戦争の三国を答えよ。
解答:イングランド・スコットランド・アイルランド
問10
クロムウェルのアイルランド政策が後世に与えた長期的影響を一言で。
解答:アイルランド問題の深刻化
正誤問題(5問)
問1
アイルランド蜂起ではプロテスタント住民がカトリック住民を虐殺した。
解答:誤(逆にカトリックがプロテスタントを虐殺)
問2
クロムウェルはアイルランド遠征でカトリックを保護した。
解答:誤(徹底的に弾圧した)
問3
三王国戦争はイングランドとスコットランドの二国間戦争であった。
解答:誤(アイルランドを含む三国間戦争)
問4
スコットランド長老派は共和制に反発してチャールズ2世を擁立した。
解答:正
問5
アイルランド問題はピューリタン革命期に端を発し、以後長期的に続いた。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
アイルランド蜂起はピューリタン革命後に発生した | × → 1641年、革命前夜に発生 |
ドロヘダ包囲戦ではプロテスタントが虐殺された | × → カトリック住民が虐殺された |
三王国戦争はイングランド内戦と同義 | × → スコットランド・アイルランドを含む広域戦争 |
クロムウェルはカトリックに寛容だった | × → 徹底弾圧し土地を没収 |
アイルランド問題は19世紀以降の現象 | × → 17世紀クロムウェル時代に深刻化 |
第3章 ピルグリム・ファーザーズと北米植民地 ― 信仰の自由が生んだ新世界
ピューリタン革命はイギリス国内の出来事ですが、その影響は大西洋を越えて北米植民地にも広がっていきます。
特に注目すべきは、ピルグリム・ファーザーズの移住(1620年)と、それに続くピューリタン大量移住です。
「信仰の自由」を求めた彼らの行動は、やがてアメリカ建国思想へとつながり、世界史全体に大きな影響を与えました。
3-1 ピルグリム・ファーザーズの航海とプリマス植民地
17世紀初頭、イングランド国教会の強制に反発した一部のピューリタンは、信仰の自由を求めて移住を決意します。
- 1620年:メイフラワー号の航海
102名のピューリタン(のちのピルグリム・ファーザーズ)が北米に到達 - メイフラワー誓約(Mayflower Compact)
「神のもとで自治する共同体をつくる」という約束 → アメリカ民主主義の萌芽 - プリマス植民地の建設
厳しい環境に耐え、アメリカ最初期の永住型植民地を形成
この出来事はピューリタン革命の20年以上前ですが、国教会への抵抗という点で同じ宗教対立構造の延長線上にあります。
3-2 ピューリタン大移住と北米の宗教空間
ピルグリム・ファーザーズに続き、1630年代にはピューリタン大移住(Great Migration)が始まります。
- マサチューセッツ湾植民地の建設(1630年)
国教会に弾圧されたピューリタンが数千人単位で移住 - 信仰の自由と自治の実験
植民地では国王や国教会の干渉を避け、共同体自治を実践 - 多様な宗派の共存
バプティスト派、クエーカー派なども移住 → アメリカ独特の宗教多元社会の形成へ
この時期に形成された「信仰の自由」や「政教分離」の理念は、後のアメリカ独立宣言や合衆国憲法にも影響を与えます。
3-3 ピューリタン革命と北米植民地の相互作用
ピューリタン革命期には、北米植民地との間に双方向の影響がありました。
- クロムウェル期(1649〜1658年)
- 北米植民地はイギリス本国の内戦に巻き込まれにくかった
- 逆に「信仰の自由」を実践する場として発展
- 王政復古期(1660年〜)
- チャールズ2世のカトリック寄り政策に反発し、さらなる移住者が増加
- 逆に本国が植民地への統制を強化し、緊張が高まる
- アメリカ独立思想へのつながり
北米植民地で培われた自治意識は、後にアメリカ独立運動を推進する原動力となった
このように、ピューリタン革命は間接的に大西洋世界の宗教地図と政治思想を大きく変えたのです。
3-4 信仰の自由と宗教多元社会の誕生
ピルグリム・ファーザーズやピューリタンたちの移住は、結果的に宗教的寛容という新しい価値観を北米に根づかせました。
- ロードアイランド植民地(1636年)
ロジャー・ウィリアムズが創設 → 信仰の自由を全面的に認める - ペンシルベニア植民地(1681年)
クエーカー派のウィリアム・ペンが創設 → 宗教共存の模範 - 結果として
北米植民地は、ヨーロッパでは不可能だった宗教多元社会の実験場となる
この動きは、ヨーロッパの宗教戦争の流れから見ても極めてユニークであり、世界史入試でも狙われやすい視点です。
入試で狙われるポイント
- ピルグリム・ファーザーズはピューリタン革命より前に移住
- メイフラワー誓約はアメリカ民主主義の萌芽
- ピューリタン大移住は国教会の弾圧を背景に起きた
- 信仰の自由を掲げた北米植民地は、アメリカ独立思想へ直結
- ピルグリム・ファーザーズの移住とピューリタン大移住が、アメリカ建国思想に与えた影響を200字以内で説明せよ。
-
1620年、国教会の弾圧を避けたピルグリム・ファーザーズは北米プリマス植民地を建設し、自治を誓うメイフラワー誓約を結んだ。その後1630年代のピューリタン大移住では、マサチューセッツ湾植民地などで信仰の自由と共同体自治を実践した。これらの経験は「信教の自由」や「政教分離」という価値観を北米に根付かせ、18世紀後半のアメリカ独立宣言や合衆国憲法に反映された。結果として、ピューリタンの移住はアメリカ建国思想の源流となった。
第3章: ピューリタン革命後の宗教対立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1620年に北米プリマス植民地を建設した清教徒たちを何と呼ぶか。
解答:ピルグリム・ファーザーズ
問2
ピルグリム・ファーザーズが北米に到達する際に乗った船の名前は何か。
解答:メイフラワー号
問3
メイフラワー誓約の意義を一言で述べよ。
解答:自治の共同体を作ることを誓約した、アメリカ民主主義の萌芽
問4
1630年代に起きたピューリタンの北米大量移住を何というか。
解答:ピューリタン大移住(Great Migration)
問5
ピューリタン大移住の中心となった植民地はどこか。
解答:マサチューセッツ湾植民地
問6
ロードアイランド植民地を建設し信教の自由を実現した人物は誰か。
解答:ロジャー・ウィリアムズ
問7
クエーカー派のウィリアム・ペンが建設した植民地はどこか。
解答:ペンシルベニア植民地
問8
ピューリタン革命と北米植民地建設の時期関係を正しく述べよ。
解答:北米植民地建設はピューリタン革命より前
問9
ピルグリム・ファーザーズが目指した宗教理念を一言で述べよ。
解答:信仰の自由
問10
ピューリタン大移住が後のアメリカ独立に与えた影響は何か。
解答:自治意識と宗教的自由の定着
正誤問題(5問)
問1
ピルグリム・ファーザーズの移住はピューリタン革命後に始まった。
解答:誤(革命前の1620年)
問2
メイフラワー誓約は宗教的自治を誓った文書である。
解答:正
問3
ピューリタン大移住の中心はバージニア植民地だった。
解答:誤(正しくはマサチューセッツ湾植民地)
問4
ロードアイランド植民地は信仰の自由を掲げた。
解答:正
問5
ピューリタン大移住はアメリカ独立思想の形成に影響を与えなかった。
解答:誤(大きな影響を与えた)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ピルグリム・ファーザーズはピューリタン革命後に移住 | × → 1620年、革命より20年以上前 |
メイフラワー誓約は単なる宗教文書 | × → 自治共同体の原則を定めた、政治的意義あり |
ピューリタン大移住の中心は南部植民地 | × → ニューイングランド地方が中心 |
信仰の自由は18世紀以降に確立した | × → 17世紀初頭から北米で実験的に実現 |
ピューリタン革命と北米植民地は無関係 | × → 宗教対立の延長線上にあり思想的に結びつく |
第4章 王政復古と名誉革命 ― 「国教会 vs カトリック」への再編
クロムウェルの死後、イギリスは再び大きな転換期を迎えます。
共和制は長続きせず、1660年にチャールズ2世が即位して王政復古が実現します。
しかし、ここから宗教対立の軸は大きく変化し、次第に国教会 vs カトリックという新しい構図へと再編されていきます。
この変化を正しく理解することが、名誉革命や立憲君主制成立の背景を押さえるカギとなります。
4-1 王政復古と宗教政策 ― チャールズ2世の二枚舌外交
- 王政復古(1660年)
議会と国民の王政回帰願望を背景に、チャールズ2世がフランス亡命先から帰国 - 国教会復権
1662年統一法(Act of Uniformity)でイングランド国教会の礼拝と祈祷書を義務化 - カトリックとの微妙な距離
チャールズ2世は公的には国教会を支持しつつ、私的にはカトリックに接近
→ フランス王ルイ14世と密約(ドーヴァー密約、1670年)を結ぶ
この結果、議会派(特にピューリタン)は国王に対して強い不信感を抱くようになります。
4-2 議会内の分裂と二大政党の誕生
この時期、議会内ではジェームズ公(国王弟、カトリック)を次期国王から排除すべきかをめぐって対立し、二大政党が誕生します。
- トーリ党(Tories)
王権支持派。国王と国教会を守る立場 - ホイッグ党(Whigs)
議会優位派。カトリック国王に強く反対
この対立は、ピューリタン革命期の国王派 vs 議会派という単純な構図から、より複雑な「国教会・カトリック・議会」の三つ巴構造へ移行したことを示しています。
4-3 ジェームズ2世とカトリック復権政策
1685年に即位したジェームズ2世は熱心なカトリックであり、国教会派や議会派と激しく対立します。
- カトリック重用政策
カトリック教徒を高位官職に登用 - 信仰自由宣言(Declaration of Indulgence)
国教会礼拝を強制せず、カトリックに寛容な政策を打ち出す - 議会との対立激化
議会は「カトリック国王による専制」を恐れ、対抗策を模索
ここで、クロムウェル期から続く「カトリック恐怖症」が再燃します。
4-4 名誉革命と立憲君主制の確立
- 1688年:名誉革命
議会はオランダ総督ウィリアム3世(ジェームズ2世の娘婿)を招聘
→ ジェームズ2世は亡命し、ほとんど流血なく政権交代 - 権利章典(Bill of Rights, 1689年)
国王は議会承認なしに課税・常備軍保持不可
→ 立憲君主制が確立 - 宗教対立の再編
ここで宗派対立の軸は「国教会 vs ピューリタン」から、「国教会 vs カトリック」へと決定的にシフト
ピューリタン革命から名誉革命までを俯瞰すると、イギリスの宗教対立は「複雑化 → 再編 → 安定化」へと変遷したことがわかります。
入試で狙われるポイント
- チャールズ2世は公的には国教会派だが、私的にはカトリック寄り → ドーヴァー密約
- 議会内の分裂(トーリ党とホイッグ党誕生)は入試頻出
- ジェームズ2世のカトリック復権政策が名誉革命の直接原因
- 権利章典で立憲君主制が確立 → 宗教対立の軸が決定的に再編
- 王政復古から名誉革命にかけて、イギリスにおける宗教対立の軸がどのように変化したか、200字以内で説明せよ。
-
クロムウェル死後、1660年に王政復古が実現し、国教会は再び優位に立った。しかしチャールズ2世は私的にカトリック寄りであり、議会との対立を深めた。議会内では王権支持のトーリ党と、カトリック国王に反対するホイッグ党が対立し、宗教問題は政治対立を複雑化させた。1685年に即位したジェームズ2世はカトリック復権を進め、議会は反発。1688年の名誉革命でジェームズ2世は追放され、権利章典による立憲君主制が成立し、宗教対立の軸は国教会対カトリックへと再編された。
第4章: ピューリタン革命後の宗教対立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1660年に実現した、クロムウェル後の国王復活を何というか。
解答:王政復古
問2
王政復古期に即位した国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問3
1662年に制定され、国教会礼拝を義務付けた法律は何か。
解答:統一法(Act of Uniformity)
問4
チャールズ2世がフランス王ルイ14世と結んだ密約は何か。
解答:ドーヴァー密約
問5
議会内で王権を支持した党派は何か。
解答:トーリ党
問6
議会内でカトリック国王を警戒した党派は何か。
解答:ホイッグ党
問7
ジェームズ2世が発した、宗教的寛容を認める宣言は何か。
解答:信仰自由宣言(Declaration of Indulgence)
問8
1688年に議会がオランダ総督ウィリアム3世を招聘した出来事は何か。
解答:名誉革命
問9
名誉革命後に制定され、国王権を制限した文書は何か。
解答:権利章典(Bill of Rights)
問10
名誉革命後、イギリスで確立した政治体制は何か。
解答:立憲君主制
正誤問題(5問)
問1
チャールズ2世は公的にも私的にも国教会派だった。
解答:誤(公的には国教会派、私的にはカトリック寄り)
問2
ドーヴァー密約はイギリスとスペインの間で結ばれた。
解答:誤(フランスとの密約)
問3
ホイッグ党はカトリック国王に反対した議会派である。
解答:正
問4
ジェームズ2世のカトリック政策は名誉革命の原因となった。
解答:正
問5
権利章典によって立憲君主制が確立した。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
王政復古で宗教対立は終結した | × → むしろ国教会とカトリックの対立が激化 |
チャールズ2世は一貫して国教会派 | × → フランス王ルイ14世と密約、カトリック寄り |
名誉革命は流血を伴う大規模内戦だった | × → ほぼ無血で政権交代 |
権利章典は国王権を強化した | × → 国王権を制限し議会優位を確立 |
宗派対立の軸は常に国教会 vs ピューリタン | × → 名誉革命期には国教会 vs カトリックに再編 |
まとめ|ピューリタン革命後の宗教対立を時系列で整理
総まとめ
17世紀イギリスでは、宗教対立が時代とともに複雑化・再編されていきます。
ポイントは、宗派対立の軸が変化するタイミングを正しく押さえることです。
- ピューリタン革命前(〜1642年)
- 表の対立:国教会 vs ピューリタン
- 背景に「カトリック復権への恐怖」
- アイルランド蜂起(1641年)が危機感を加速
- ピューリタン革命期(1642〜1649年)
- 議会派(ピューリタン中心) vs 国王派(国教会+王党派)
- クロムウェルの台頭 → 共和政成立
- クロムウェル時代(1649〜1658年)
- 宗教対立が民族問題へ拡大
- アイルランド制圧・スコットランド征服
- 北米への信仰移住が加速
- 王政復古(1660〜1688年)
- 宗教対立の軸が変化:国教会 vs カトリック
- チャールズ2世・ジェームズ2世のカトリック寄り政策
- 議会内でトーリ党とホイッグ党が誕生
- 名誉革命(1688年)以降
- カトリック国王追放
- 権利章典制定 → 立憲君主制確立
- 宗派対立は政治制度に組み込まれ安定化
重要年表|ピューリタン革命と宗教対立の変遷
年 | 出来事 | 宗教対立のポイント |
---|---|---|
1620年 | ピルグリム・ファーザーズの北米移住 | 信仰の自由を求めた初期移住 |
1630年代 | ピューリタン大移住(Great Migration) | 国教会の弾圧を逃れて北米へ |
1641年 | アイルランド蜂起 | カトリック住民によるプロテスタント虐殺 |
1642〜1649年 | ピューリタン革命(清教徒革命) | 議会派(ピューリタン) vs 国王派(国教会) |
1649年 | チャールズ1世処刑 | 共和政(クロムウェル体制)開始 |
1649〜1653年 | クロムウェルのアイルランド遠征 | カトリック弾圧と土地没収 |
1660年 | 王政復古(チャールズ2世即位) | 国教会優位、だが国王はカトリック寄り |
1670年 | ドーヴァー密約 | チャールズ2世がルイ14世と密約 |
1679年 | 排除法案論争 | トーリ党とホイッグ党の誕生 |
1685年 | ジェームズ2世即位 | カトリック復権政策で議会と対立 |
1688年 | 名誉革命 | カトリック国王を追放 |
1689年 | 権利章典制定 | 立憲君主制確立、宗派対立安定化 |
フローチャート|宗教対立の軸の変化
ピューリタン革命前 –>|表面的対立| 国教会対ピューリタン
ピューリタン革命前 –>|潜在的背景| カトリック復権への恐怖
国教会対ピューリタン –> ピューリタン革命
ピューリタン革命 –> クロムウェル共和政
クロムウェル共和政 –>|アイルランド弾圧・民族対立化| アイルランド問題の深刻化
クロムウェル共和政 –>|北米移住加速| 信仰の自由と自治の実験
クロムウェル共和政 –> 王政復古
王政復古 –>|国王のカトリック寄り政策| 国教会対カトリック
国教会対カトリック –> 名誉革命
名誉革命 –> 権利章典制定
権利章典制定 –> 宗教対立は安定化
学習のポイント
- 軸の変化に注目する
「国教会 vs ピューリタン」→「国教会 vs カトリック」への移行を押さえる - アイルランド問題の発火点
1641年蜂起とクロムウェル弾圧 → 長期的火種 - 北米とのつながりを意識
ピルグリム・ファーザーズ → 信仰の自由 → アメリカ独立思想へ - 名誉革命での決着
立憲君主制成立により宗教対立は制度的に安定化
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