「英蘭戦争ではイギリスとオランダが敵同士だったはずなのに、なぜそのオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王になったの?」
この疑問は、世界史受験生がよくつまずくポイントです。
実は、この背景には イギリス国内の宗教対立、オランダの国際戦略、そして ルイ14世率いるフランスの脅威という3つの要素が複雑に絡み合っています。
名誉革命は単なる「イギリス国内の政変」ではなく、ヨーロッパ全体の国際関係を大きく変えた事件でした。
この記事では、受験で混乱しがちな「ウィリアム3世がイギリス王に迎えられた理由」を、英蘭戦争・宗教対立・対フランス戦略の流れの中でわかりやすく整理します。
第1章 受験生が混乱するポイント
名誉革命を学ぶと、多くの受験生はこう感じます。
「イギリスとオランダは敵同士だったはずなのに、なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス王に?」
ここで混乱する原因は、「英蘭戦争」と「名誉革命」の間にある国際情勢の大転換を見落としがちだからです。
1-1. 「敵」だったはずのイギリスとオランダ
17世紀半ば、イギリスとオランダは3度にわたる 英蘭戦争(1652~1674)で激突しました。
とくに 第三次英蘭戦争(1672~1674)では、なんと イギリス+フランス連合 vs オランダ という構図。オランダにとって、イギリスは「宿敵」だったわけです。
1-2. なのにウィリアム3世がイギリス国王に?
しかし1688年、イギリス議会はオランダ総督ウィリアム3世を招き、翌1689年にイギリス国王として即位させます。
「イギリス負けたの?」と勘違いしやすいポイントですが、実際には 「対フランス政策」への転換が理由でした。
1-3. カギは「ルイ14世の脅威」
フランスの絶対王ルイ14世は積極的な侵略政策を展開し、オランダにも大きな圧力をかけていました。
このためオランダは、かつて敵対していたイギリスとも 「対フランス包囲網」の形成で手を組む必要があったのです
つまり、ウィリアム3世の即位は、単なる王家の交代劇ではなく、国際戦略上の同盟強化策でした。
入試で狙われるポイント
- 英蘭戦争 → 名誉革命 → 対フランス政策の流れを押さえる
- 「オランダ総督=敵」ではなく、プロテスタントの守護者としてのウィリアム3世
- 名誉革命を ヨーロッパ国際政治の中で理解することが差をつけるカギ
- イギリスとオランダが英蘭戦争で敵対していたにもかかわらず、オランダ総督ウィリアム3世が名誉革命でイギリス国王に迎え入れられた理由を、国際関係の変化を踏まえて200字以内で説明せよ。
-
17世紀半ば、イギリスとオランダは海上覇権を争い三度の英蘭戦争で激しく対立した。しかしルイ14世率いるフランスが領土拡張を進めると、状況は一変した。オランダは存亡の危機に直面し、イギリスにとってもフランスは脅威となった。そこで両国は対立を解消し、協力関係を築く必要が生じる。こうした国際情勢の転換を背景に、ウィリアム3世はプロテスタント王として迎えられ、英蘭同盟強化の象徴となった。
第1章: なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王に? 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
名誉革命でイギリス国王に迎えられたオランダ総督は誰か。
解答
ウィリアム3世
問2
ウィリアム3世がイギリス王に迎えられたのは何年か。
解答
1689年
問3
名誉革命の直接の原因となったイギリス国王は誰か。
解答
ジェームズ2世
問4
ジェームズ2世を議会が排除しようとした主な理由は何か。
解答
カトリック政策への反発(国教会支持の議会と対立)
問5
名誉革命後に制定された、議会主権を確立した法律は何か。
解答
権利章典(1689年)
問6
ウィリアム3世がオランダ総督時代に最も警戒していたフランス王は誰か。
解答
ルイ14世
問7
第三次英蘭戦争では、イギリスはどこと同盟してオランダを攻撃したか。
解答
フランス
問8
1670年にチャールズ2世がルイ14世と結んだ秘密条約は何か。
解答
ドーバーの密約
問9
ウィリアム3世が形成しようとした対フランス包囲網を何と呼ぶか。
解答
アウクスブルク同盟
問10
名誉革命は流血を伴わずに終結したことから、別名で何と呼ばれるか。
解答
「無血革命」
正誤問題(5問)
問1
名誉革命で迎えられたウィリアム3世は、ルイ14世の甥であった。
解答
× → ウィリアム3世はルイ14世の甥ではなく、オランダ総督でありルイ14世と敵対していた。
問2
第三次英蘭戦争では、イギリスとフランスが同盟を組んでオランダと戦った。
解答
○
問3
名誉革命はイギリス国内問題にとどまり、ヨーロッパ国際政治には影響を与えなかった。
解答
× → 名誉革命は対フランス同盟の形成に直結し、国際政治に大きく影響した。
問4
権利章典により、イギリスは議会主権を確立した。
解答
○
問5
ウィリアム3世がイギリス王に迎えられた最大の理由は、彼がカトリックだったからである。
解答
× → プロテスタントであったことが最大の理由。
第2章 背景①:イギリスの事情
名誉革命の背景には、イギリス国内の深刻な宗教対立があります。
17世紀のイギリスでは、国教会(イングランド国教会)を支持する議会と、カトリック信仰を進める国王との間で対立が激化していました。
特にジェームズ2世のカトリック政策は、議会や国民の不安を煽り、やがて「外からプロテスタント王を招く」という異例の決断へとつながっていきます。
2-1. ジェームズ2世のカトリック政策
1685年に即位したジェームズ2世は熱心なカトリック信者でした。
彼はカトリック教徒を高位の官職に登用し、宗教寛容政策を進めることで国教会の優位を揺るがそうとしたのです。
しかし、国民の多くはプロテスタントであり、議会も国教会を支持していました。
このため、ジェームズ2世の政策は「王権と議会の対立」を一層深める結果となります。
2-2. 「カトリック王朝の誕生」への恐怖
さらに1688年、ジェームズ2世に男子が誕生します。この瞬間、議会は危機感を募らせました。
「このままでは、カトリック王朝が続いてしまう!」
この恐れが、議会に大胆な発想を促します。それが「外からプロテスタント王を招く」という選択です。
2-3. ウィリアム3世を招いた理由
議会が白羽の矢を立てたのが、オランダ総督ウィリアム3世でした。
理由は大きく2つあります。
- ウィリアム3世がプロテスタントだった
→ 国教会体制を守るうえで理想的な人物 - 妻メアリがジェームズ2世の娘だった
→ 王家の血統を尊重した正統性を確保できる
こうして議会は、ジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世とメアリを共同統治者として迎えるという、極めて異例な政変に踏み切ります。
入試で狙われるポイント
- ジェームズ2世のカトリック政策と議会の対立
- 男子誕生が名誉革命の直接的引き金となった
- ウィリアム3世を招いた理由 → 「プロテスタント+王家の血統」
- 名誉革命で議会がオランダ総督ウィリアム3世を新国王に招いた理由を、イギリス国内事情と宗教対立の観点から200字以内で説明せよ。
-
1685年に即位したジェームズ2世は熱心なカトリックで、カトリック教徒の登用や宗教寛容政策を推進し、国教会支持の議会や国民と深刻に対立した。さらに1688年に男子が誕生し、カトリック王朝の継続が現実味を帯びると、議会は危機感を強める。そこでプロテスタントであるオランダ総督ウィリアム3世を新国王に招く決断を下した。ウィリアムの妻メアリはジェームズ2世の娘であったため、王家の血統も尊重できたことが選定理由の一つとなった。
第2章: なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王に? 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
名誉革命直前に即位していたイギリス国王は誰か。
解答
ジェームズ2世
問2
ジェームズ2世が議会と対立した最大の原因は何か。
解答
カトリック政策(宗教対立)
問3
ジェームズ2世の男子誕生が議会を動かした理由は何か。
解答
カトリック王朝が続くことを恐れたから
問4
議会がウィリアム3世を招いたもう一つの理由は、彼の妻が誰だったからか。
解答
メアリ(ジェームズ2世の娘)
問5
ウィリアム3世とメアリが共同統治者となったのは何年か。
解答
1689年
問6
イギリス国教会を支持した議会派は何を恐れていたか。
解答
カトリック勢力の拡大
問7
ジェームズ2世の兄であり、ドーバーの密約を結んだ国王は誰か。
解答
チャールズ2世
問8
名誉革命で亡命したジェームズ2世が逃れた国はどこか。
解答
フランス
問9
名誉革命後、王権に制限を加えるため制定された文書は何か。
解答
権利章典
問10
ウィリアム3世とメアリが即位したことで、イギリスで確立した体制を何と呼ぶか。
解答
立憲王政
正誤問題(5問)
問1
ジェームズ2世はプロテスタントで、議会の支持を得ていた。
解答
× → ジェームズ2世はカトリックで、議会と対立していた。
問2
ジェームズ2世の男子誕生が、ウィリアム3世招致のきっかけとなった。
解答
○
問3
ウィリアム3世はメアリと結婚しており、メアリはジェームズ2世の娘であった。
解答
○
問4
議会はウィリアム3世を招いた理由として、彼がルイ14世と親しかったからである。
解答
× → ルイ14世とはむしろ敵対していた。
問5
名誉革命後の権利章典により、イギリスは立憲王政に移行した。
解答
○
第3章 背景②:オランダの事情
ウィリアム3世をイギリス王に迎え入れる決定は、イギリス国内の宗教問題だけでなく、オランダの国際戦略とも密接に結びついていました。
当時、オランダは「海上覇権国」として繁栄していましたが、フランス絶対王ルイ14世の侵略政策によって存亡の危機に直面していたのです。
この状況で、オランダ総督ウィリアム3世はイギリスとの関係改善を模索し、「対フランス同盟」を軸にした外交戦略を進めます。
3-1. フランスの侵略とオランダ危機
1672年、ルイ14世率いるフランス軍は突如としてオランダに大軍を送り込みました。
このとき、フランス軍はわずか数週間でオランダ東部の要衝を次々と制圧し、首都アムステルダムまで迫ります。
同時にイギリス海軍はフランスと連携し、オランダの海上貿易を封鎖。さらにドイツのケルン司教領・ミュンスター司教領までがフランス側に立ち、オランダは四方を敵に囲まれました。
この1672年は、オランダ史上「災厄の年(Rampjaar)」と呼ばれます。
国土の半分以上がフランス軍に蹂躙され、国民はパニック状態に陥り、一時は国家滅亡の危機さえささやかれたほどでした。
この経験から、オランダにとって最大の脅威はイギリスではなく、ルイ14世のフランスであることが明確になったのです。
そのため、かつて激しく戦ったイギリスと和解し、協力する道を選ぶしかありませんでした。
3-2. ウィリアム3世の外交戦略
ウィリアム3世は、単なるオランダのリーダーではなく、「ヨーロッパ全体のプロテスタント防衛者」として行動していました。
彼はフランスの膨張主義を食い止めるため、以下のような戦略をとります。
- イギリスとの和解を進める
- 神聖ローマ帝国、スペインなどと提携し、対フランス包囲網(アウクスブルク同盟)を形成
- プロテスタント国家間の協力を優先する
3-3. イギリス王になることの戦略的意味
1688年、議会がウィリアム3世をイギリス王に招いたことは、ウィリアムにとっても大きなメリットがありました。
- イギリスの軍事・経済力を利用できる
→ フランスと対抗する強力な同盟を構築可能 - 「プロテスタントの守護者」としての地位確立
→ 国際的な正統性が高まる
こうしてウィリアム3世は、オランダ総督でありながらイギリス王という立場を得て、対フランス戦略を有利に進めることができたのです。
入試で狙われるポイント
- オランダにとっての「フランス脅威」とは何か
- ウィリアム3世が「プロテスタント防衛者」として行動した背景
- イギリス王即位が「対フランス包囲網」形成にどうつながったか
- ウィリアム3世がイギリス国王に迎え入れられた背景について、イギリス国内事情とオランダの国際戦略を関連づけながら200字以内で説明せよ。
-
17世紀後半のイギリスでは、カトリック国王ジェームズ2世と国教会支持の議会が対立していた。1688年の男子誕生でカトリック王朝継続への危機感が高まり、議会はプロテスタントのオランダ総督ウィリアム3世を招いた。一方オランダは、ルイ14世率いるフランスの侵略に対抗するため、イギリスとの関係改善を模索していた。こうしてイギリスとオランダは協力し、ウィリアム3世はプロテスタント防衛者としてイギリス王に迎えられた。
第3章: なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王に? 一問一答&正誤問題15問 問題演習問題演習
一問一答(10問)
問1
1672年、オランダが直面した国家的危機を何と呼ぶか。
解答
「災厄の年(Rampjaar)」
問2
災厄の年にオランダを攻撃した2つの国はどこか。
解答
フランスとイギリス
問3
ウィリアム3世がオランダ総督として最も警戒した国はどこか。
解答
フランス
問4
ウィリアム3世が形成を主導した対フランス包囲網を何と呼ぶか。
解答
アウクスブルク同盟
問5
ウィリアム3世をイギリス王に迎え入れたのは何年か。
解答
1689年
問6
ウィリアム3世はイギリス王として、誰と共同統治を行ったか。
解答
メアリ2世
問7
ウィリアム3世がイギリス王に即位したことで、イギリスとオランダはどの国と対抗する立場になったか。
解答
フランス
問8
ウィリアム3世がイギリス王になったことは、オランダにとってどのような意味を持ったか。
解答
対フランス戦争を有利に進めるための軍事・経済的同盟の強化
問9
ウィリアム3世が重視したヨーロッパ内の宗教的連携は何か。
解答
プロテスタント国家間の協力
問10
ウィリアム3世が「プロテスタント防衛者」と呼ばれた背景は何か。
解答
ルイ14世のカトリック政策に対抗し、プロテスタント諸国を守る立場をとったから
正誤問題(5問)
問1
1672年、オランダはフランス軍の侵攻を受け、国家存亡の危機に立たされた。
解答
○
問2
ウィリアム3世はフランスと同盟を結び、オランダを守ろうとした。
解答
× → ウィリアム3世はフランスと敵対し、包囲網を形成した。
問3
アウクスブルク同盟は、対フランス包囲網としてウィリアム3世が中心となって結成した。
解答
○
問4
ウィリアム3世がイギリス王に即位したことで、イギリスはフランスと同盟関係を結んだ。
解答
× → フランスではなく、オランダと協力してフランスに対抗した。
問5
ウィリアム3世がイギリス王に迎えられた背景には、オランダの国際戦略も影響していた。
解答
○
第4章 背景③:国際政治の転換
名誉革命は「イギリス国内の政変」として語られることが多いですが、実際にはヨーロッパ全体の国際政治を大きく転換させた事件でした。
それまで敵対関係にあったイギリスとオランダが手を結び、フランスの膨張政策に対抗する「対フランス包囲網」が形成されていきます。
この構造転換を理解すると、なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス王に迎えられたのかがよりクリアになります。
4-1. 17世紀後半のヨーロッパ国際関係
17世紀後半のヨーロッパでは、ルイ14世率いるフランスが領土拡張政策を進め、周辺諸国に大きな脅威を与えていました。
特に オランダ戦争(1672〜1678)でオランダに侵攻し、第三次英蘭戦争でもイギリスと組んでオランダを圧迫します。
当初は「イギリス+フランス vs オランダ」という構図でした。
しかし、この状況は次第に変化していきます。
ルイ14世の侵略姿勢が強まるほど、イギリスにとってもフランスの存在が脅威となり、両国関係は逆転していきました。
4-2. 「イギリス vs オランダ」から「イギリス+オランダ vs フランス」へ
転換点は 1674年の第三次英蘭戦争終結です。
イギリスはルイ14世との同盟を解消し、オランダと和解しました。
その後、ウィリアム3世が主導して、神聖ローマ帝国・スペイン・スウェーデンなどを巻き込んだアウクスブルク同盟(1686年)が成立します。
- 旧構図(1672年ごろ)
イギリス+フランス vs オランダ - 新構図(1689年以降)
イギリス+オランダ+神聖ローマ帝国+スペイン vs フランス
これにより、ヨーロッパの国際関係は以下の構図に変化しました:
この新体制の象徴こそが、オランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王を兼任するという事実だったのです。
4-3. 名誉革命と国際政治の連動
1688年の名誉革命は、イギリス国内では議会主権を確立する重要な転換点でしたが、同時にヨーロッパの国際秩序を変える事件でもありました。
- イギリスはウィリアム3世を国王に迎えることで、オランダと完全に同盟関係に
- 両国はルイ14世に対抗する「プロテスタント防衛網」の中心に
- これが後の大同盟戦争(1689〜1697)へとつながる
つまり、名誉革命は国内問題と国際戦略が交差する地点であり、「イギリス史」と「ヨーロッパ史」を結びつけて理解することが重要です。
入試で狙われるポイント
- 英蘭戦争 → 名誉革命 → アウクスブルク同盟 → 大同盟戦争の流れ
- 名誉革命を「イギリス国内問題」ではなく「国際政治の転換点」として理解
- ウィリアム3世の即位が「英蘭同盟強化」の象徴であったこと
- 名誉革命がヨーロッパ国際政治に与えた影響について、ウィリアム3世の即位とフランスへの対抗策に注目して200字以内で説明せよ。
-
名誉革命では、オランダ総督ウィリアム3世がイギリス王に迎えられ、イギリスとオランダの同盟が強化された。当時フランスのルイ14世は積極的な領土拡張を進めており、オランダは存亡の危機にあった。ウィリアム3世の即位により、イギリスはオランダとともに神聖ローマ帝国やスペインを含むアウクスブルク同盟を形成し、フランス包囲網を構築した。この結果、名誉革命は国内政治の転換にとどまらず、ヨーロッパ全体の国際秩序を変える契機となった。
第4章: なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王に? 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
17世紀後半、ヨーロッパで最も領土拡張を進めたフランス王は誰か。
解答
ルイ14世
問2
1672年にフランスがオランダに侵攻した戦争を何と呼ぶか。
解答
オランダ戦争
問3
第三次英蘭戦争が終結したのは何年か。
解答
1674年
問4
1686年に結成された、フランスに対抗するための包囲網を何と呼ぶか。
解答
アウクスブルク同盟
問5
アウクスブルク同盟には、オランダとイギリス以外にどの国が参加したか。
解答
神聖ローマ帝国・スペイン・スウェーデンなど
問6
名誉革命後に起きた、対フランス戦争を何と呼ぶか。
解答
大同盟戦争(1689〜1697年)
問7
ウィリアム3世がイギリス王となったことで、イギリスとオランダの関係はどう変わったか。
解答
同盟関係が強化され、フランスと対抗する立場になった
問8
ルイ14世の侵略政策は、ヨーロッパ諸国にとってどのような脅威だったか。
解答
領土拡大による覇権支配の危険
問9
名誉革命をきっかけに、イギリスは国内的にどのような政治体制を確立したか。
解答
議会主権を基盤とする立憲王政
問10
名誉革命をヨーロッパ史の視点で理解する際、重要なキーワードは何か。
解答
「対フランス包囲網」
正誤問題(5問)
問1
第三次英蘭戦争終結後、イギリスとオランダは協力関係に転じた。
解答
○
問2
アウクスブルク同盟は、ルイ14世とオランダが中心となって結成された。
解答
× → ウィリアム3世率いるオランダ+イギリスが中心で、フランスを包囲する同盟だった。
問3
名誉革命後のイギリスは、フランスと同盟して大同盟戦争に参戦した。
解答
× → イギリスはフランスと敵対し、オランダと協力して参戦した。
問4
名誉革命は国内政治だけでなく、ヨーロッパ全体の国際秩序にも影響を与えた。
解答
○
問5
大同盟戦争は、アウクスブルク同盟とフランスの対立から始まった。
解答
○
第5章 名誉革命とウィリアム3世即位の流れ
ここまでで見てきたように、ウィリアム3世のイギリス王即位は単なる国内政変ではなく、ヨーロッパ国際政治の大転換と深く結びついていました。
しかし受験生が最もつまずきやすいのは、英蘭戦争と名誉革命の間にある「対フランス政策への転換」です。
この章では、年表形式でその流れをわかりやすく整理します。
5-1. 名誉革命前後の年表
年代 | 出来事 | ポイント・影響 |
---|---|---|
1670年 | ドーバーの密約 | チャールズ2世がルイ14世と秘密同盟。イギリスは対仏協調路線へ |
1672年 | 第三次英蘭戦争 | イギリス+フランス vs オランダ → オランダは国家的危機 |
1674年 | 英蘭講和 | イギリスがオランダと和解、対フランス路線へ転換 |
1685年 | ジェームズ2世即位 | 熱心なカトリック政策で議会と対立 |
1686年 | アウクスブルク同盟成立 | ウィリアム3世が対フランス包囲網を形成 |
1688年 | 名誉革命 | 議会がウィリアム3世を招き、ジェームズ2世はフランスへ亡命 |
1689年 | 権利章典の制定 | 議会主権の確立、ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治開始 |
1689〜1697年 | 大同盟戦争 | イギリス+オランダ+神聖ローマ帝国 vs フランス |
5-2. ウィリアム3世即位の3つのポイント
① イギリス国内の事情
- ジェームズ2世のカトリック政策に議会・国民が反発
- 男子誕生で「カトリック王朝継続」の危機感が高まる
② オランダの戦略
- フランスの侵略政策に対抗するため、イギリスとの協力を模索
- ウィリアム3世が「プロテスタント防衛者」として台頭
③ 国際政治の転換
- 英蘭戦争後、イギリス+オランダ vs フランスの構図に変化
- 名誉革命は「国内事件」+「対フランス戦略の強化」という二重の意味を持つ
【フローチャート】名誉革命とウィリアム3世即位の流れ
【イギリス国内問題】 【国際関係】 【結果】─────────────────────────────────────────────────────
チャールズ2世(在位1660〜1685)
│
│1670年
▼
ドーバーの密約
──────────────────────────▶ イギリス+フランスの接近
│
│1672年
▼
第三次英蘭戦争(1672〜1674)
イギリス+フランス vs オランダ
│
│1674年
▼
英蘭講和 → 関係改善
│
│1685年
▼
ジェームズ2世即位
│
│ カトリック政策強行
▼
議会・国民の反発
│
│1688年
▼
名誉革命(無血革命)
│
├── ジェームズ2世亡命(フランスへ)
│
▼
ウィリアム3世+メアリ2世即位(1689)
──────────────────────────▶ イギリス+オランダ同盟強化
│
│1689年
▼
権利章典制定 → 議会主権確立・立憲王政へ
│
│1689〜1697年
▼
大同盟戦争
(イギリス+オランダ+神聖ローマ帝国+スペイン)
vs
ルイ14世フランス
入試で狙われるポイント
- ドーバーの密約から名誉革命までの流れを正確に整理
- ウィリアム3世即位が「英蘭同盟強化+対フランス戦略」の象徴であること
- 権利章典と立憲王政確立の意義もセットで押さえる
問題
名誉革命とウィリアム3世即位の歴史的意義について、国内政治と国際関係の両面から200字以内で説明せよ。
模範解答
名誉革命では、ジェームズ2世を排除し、オランダ総督ウィリアム3世とメアリ2世を共同統治者として迎えた。国内的には、権利章典の制定により議会主権が確立し、立憲王政への転換点となった。国際的には、ウィリアム3世がイギリス王となったことで、イギリスとオランダはフランスに対抗する強力な同盟を形成した。これにより名誉革命は、国内政変であると同時に、ヨーロッパの国際秩序を再編した重要な事件となった。
一問一答(10問)
問1
1670年、チャールズ2世がルイ14世と結んだ秘密条約は何か。
解答
ドーバーの密約
問2
第三次英蘭戦争が起こったのは何年か。
解答
1672年
問3
第三次英蘭戦争でイギリスはどこと同盟してオランダを攻撃したか。
解答
フランス
問4
1674年、イギリスとオランダが結んだ講和条約は何か。
解答
ウェストミンスター条約
問5
名誉革命のきっかけとなったイギリス国王は誰か。
解答
ジェームズ2世
問6
名誉革命で迎えられた新国王ウィリアム3世の妻は誰か。
解答
メアリ2世
問7
1686年に成立した対フランス包囲網を何と呼ぶか。
解答
アウクスブルク同盟
問8
名誉革命後に制定された、議会主権を確立した法律は何か。
解答
権利章典
問9
名誉革命後に起こった、対フランス戦争を何と呼ぶか。
解答
大同盟戦争
問10
名誉革命の結果、イギリスで確立された政治体制は何か。
解答
立憲王政
正誤問題(5問)
問1
ドーバーの密約で、チャールズ2世はフランスと同盟を結び、カトリック政策を進めた。
解答
○
問2
第三次英蘭戦争終結後も、イギリスとオランダの対立は続いた。
解答
× → 戦後はむしろ協力関係に転換した。
問3
名誉革命は議会主権を確立したが、国際政治には影響を与えなかった。
解答
× → 国際政治にも大きな影響を与えた。
問4
権利章典はウィリアム3世とメアリ2世の即位と同時に制定された。
解答
○
問5
大同盟戦争は、イギリスとオランダがフランスに対抗する形で始まった。
解答
○
第6章 まとめ:受験で差がつく理解ポイント
「なぜオランダ総督ウィリアム3世がイギリス国王に?」
この疑問を解くカギは、名誉革命を国内問題だけでなく国際政治の転換点として捉えることにあります。
英蘭戦争から名誉革命、そして対フランス包囲網までの流れを理解すれば、入試で問われる複雑な設問にも対応できます。
6-1. 重要ポイントまとめ
① イギリス国内の視点
- ジェームズ2世のカトリック政策 → 議会・国民との対立
- 男子誕生による「カトリック王朝継続」への危機感
- ウィリアム3世とメアリを招き、議会主権を確立 → 権利章典(1689)
② オランダの戦略
- ルイ14世の侵略に対抗するため、イギリスとの協力を模索
- ウィリアム3世は「プロテスタント防衛者」としてイギリス王に即位
③ 国際政治の転換
- 英蘭戦争(敵対) → 名誉革命(協力) → 大同盟戦争(共同対仏)という流れ
- ウィリアム3世の即位は、英蘭同盟強化+対フランス戦略の象徴
6-2. 入試対策ポイント
- 英蘭戦争と名誉革命の因果関係を押さえる
- 「国内史」+「国際関係史」を結びつける
- ルイ14世の脅威を背景に、英蘭関係が劇的に変化したことを理解する
【詳細年表】名誉革命とウィリアム3世即位の全体像
年 | イギリス国内の動き | オランダ・国際関係 | ポイント・受験対策 |
---|---|---|---|
1660年 | 王政復古でチャールズ2世即位 | ― | 王政が復活するも議会との対立が残存 |
1670年 | ドーバーの密約 | フランスと秘密同盟 | チャールズ2世がルイ14世と接近、対仏協調路線へ |
1672年 | 第三次英蘭戦争開始 | イギリス+フランス vs オランダ | オランダは「災厄の年(Rampjaar)」と呼ぶ国家危機 |
1674年 | 英蘭講和(ウェストミンスター条約) | 関係改善 | イギリスが対フランス路線へ転換 |
1678年 | テスト法制定 | ― | カトリックの公職就任を禁止、議会と国王の対立激化 |
1685年 | ジェームズ2世即位 | ― | 熱心なカトリック政策で議会・国民と対立 |
1686年 | ― | アウクスブルク同盟成立 | ウィリアム3世が中心となり、対フランス包囲網形成 |
1688年 | 名誉革命(無血革命) | ― | 議会がウィリアム3世を招き、ジェームズ2世はフランスへ亡命 |
1689年 | 権利章典制定 | ウィリアム3世+メアリ2世即位 | 議会主権確立・立憲王政の始まり |
1689年 | ― | 大同盟戦争(〜1697)開始 | イギリス+オランダ+神聖ローマ帝国+スペイン vs フランス |
1697年 | ― | レイスウェイク条約 | 大同盟戦争終結、ウィリアム3世とルイ14世が講和 |
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