17世紀のイギリスは、国王と議会の対立が激化し、ピューリタン革命(清教徒革命)から名誉革命に至るまで、激動の時代を経験しました。
「国王の専制政治」と「議会による立憲政治」をめぐる長い闘争は、イギリスだけでなく、ヨーロッパ全体に影響を与え、近代的な立憲君主制の礎を築きました。
本記事では、ピューリタン革命 → クロムウェル独裁 → 王政復古 → 名誉革命 → 権利章典までを時系列でわかりやすく解説します。
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大学入試では、用語の暗記だけでなくどのような切り口で試験に理解することが重要です。
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第1章 ピューリタン革命の勃発と展開
17世紀初頭のイギリスでは、王権神授説を掲げた国王と、議会を重視するピューリタン勢力との対立が深まりました。
特にチャールズ1世の専制政治は議会との衝突を激化させ、ついにはピューリタン革命(清教徒革命)と呼ばれる内戦へと発展します。
ピューリタン革命 今どこ?
ピューリタン革命のイギリス史全体での位置関係をつかみましょう!
ノルマン朝 (1066〜1154)
│ 1066 ノルマン・コンクエスト(ウィリアム1世)
▼
プランタジネット朝 (1154〜1399)
│ 1215 マグナ=カルタ制定(ジョン王)
│ 1295 模範議会招集(エドワード1世)
│ 1339 百年戦争開始(エドワード3世)
▼
ランカスター朝 (1399〜1461)
│ 1415 アジャンクールの戦い(ヘンリ5世)
│ 1455 薔薇戦争勃発
▼
ヨーク朝 (1461〜1485)
│ 薔薇戦争続行 → ボズワースの戦いでリチャード3世敗死
▼
テューダー朝 (1485〜1603)
│ 1534 首長法制定(ヘンリ8世)→ イギリス国教会成立
│ 1588 アルマダ海戦(無敵艦隊撃破・エリザベス1世)
▼
ステュアート朝 (1603〜1714)
│ 1642 ピューリタン革命(清教徒革命)勃発 ⇒今 ココ!!
→ 1649 チャールズ1世処刑
│ 1660 王政復古(チャールズ2世)
│ 1688 名誉革命(ジェームズ2世退位)
│ 1689 権利章典制定 → 立憲王政確立
▼
ハノーヴァー朝 (1714〜1901)
│ 1775 アメリカ独立戦争開始
│ 1837 ヴィクトリア女王即位 → 大英帝国の最盛期
▼
ウィンザー朝 (1917〜現在)
│ 1914 第一次世界大戦
│ 1939 第二次世界大戦
│ 1952 エリザベス2世即位
│ 2022 チャールズ3世即位
1-1. スチュアート朝と議会の対立
1603年、エリザベス1世の死後、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として即位し、スチュアート朝が始まりました。
ジェームズ1世は「王権神授説」を唱え、議会軽視の姿勢をとります。これに反発したのが、清教徒(ピューリタン)を中心とする議会勢力でした。
ジェームズ1世の死後、1625年に即位したチャールズ1世はさらに専制的で、課税権をめぐって議会と対立を深めます。
議会は1628年、国王に対し「権利の請願」を提出し、課税には議会の承認が必要であると主張しましたが、チャールズ1世はこれを無視し、1629年から11年間議会を解散して専制政治を続けます。これを「議会なき統治」と呼びます。
1-2. 内戦の勃発とピューリタン勢力の台頭
1640年、スコットランドの反乱(長老派戦争)を鎮圧するために資金を必要としたチャールズ1世は、やむなく議会を召集します。これが「短期議会」(1640年4月〜5月)ですが、すぐに解散されました。
同年11月から再び召集された「長期議会」では、国王に対する批判がさらに高まり、ピューリタン勢力が主導権を握ります。
1642年、ついに国王派(騎士党)と議会派(円頂党)との間で内戦が勃発しました。議会派の中心となったのがオリバー=クロムウェルです。彼は「鉄騎隊(ニュー=モデル軍)」を編成し、軍事力で優勢に立ちます。
1-3. チャールズ1世の処刑と共和制の樹立
1649年、議会派が勝利すると、チャールズ1世は裁判にかけられ、国王として初めて公開処刑されました。
イギリスは共和制(コモンウェルス)へ移行し、クロムウェルが実権を握ります。この事件は、ヨーロッパに衝撃を与え、絶対王政に対する抵抗の象徴となりました。
入試で狙われるポイント
- 「権利の請願」(1628年)は権利章典(1689年)と混同注意
- 議会派はピューリタン中心で、王党派は国教会支持層が多い
- 「長期議会」は1640〜1660年まで続き、王政復古につながる
- チャールズ1世処刑は王権神授説の崩壊を象徴する事件
- 17世紀前半のイギリスにおける国王と議会の対立の要因と、ピューリタン革命の意義について120字以内で説明せよ。
-
スチュアート朝の国王が王権神授説を唱えて課税を強行したことに対し、ピューリタンを中心とする議会が反発した。内戦の結果、チャールズ1世が処刑され共和制が成立し、王権神授説が否定され、近代的立憲政治への道が開かれた。
第1章: ピューリタン革命から名誉革命まで 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
スチュアート朝を開いた国王は誰か。
解答:ジェームズ1世
問2
ジェームズ1世が唱えた、国王の権力は神から授かったとする政治思想を何というか。
解答:王権神授説
問3
1628年に議会がチャールズ1世に提出した、課税への議会承認を求めた文書は何か。
解答:権利の請願
問4
1629年から11年間続いた、議会を開かないチャールズ1世の政治を何と呼ぶか。
解答:議会なき統治
問5
1640年に開かれた短期間で解散された議会を何というか。
解答:短期議会
問6
1640年11月から始まり、王政復古まで続いた議会を何というか。
解答:長期議会
問7
ピューリタン革命で議会派を率いた人物は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問8
クロムウェルが編成した、鉄の規律を誇る軍隊を何というか。
解答:ニュー=モデル軍(鉄騎隊)
問9
1649年に処刑された国王は誰か。
解答:チャールズ1世
問10
チャールズ1世処刑後、イギリスで成立した共和政体を何と呼ぶか。
解答:コモンウェルス
正誤問題(5問)
問1
ジェームズ1世はエリザベス1世の甥であり、テューダー朝を継いだ。
解答:×(ジェームズ1世はスコットランド王家出身で、スチュアート朝を開いた)
問2
「権利の請願」は議会が国王に対して課税権の承認を求めた文書である。
解答:○
問3
クロムウェルは王党派の中心人物であった。
解答:×(クロムウェルは議会派の指導者)
問4
チャールズ1世は内戦で勝利し、専制君主として権力を強化した。
解答:×(チャールズ1世は敗北し、処刑された)
問5
1649年のチャールズ1世処刑は、王権神授説の否定を象徴する出来事であった。
解答:○
第2章 クロムウェルの独裁から名誉革命へ
ピューリタン革命で国王チャールズ1世が処刑され、共和政(コモンウェルス)が成立したイギリス。しかし、理想とは裏腹に国内は混乱し、議会と軍の対立が深まりました。
この混乱の中で登場したのが、議会派軍を率いたオリバー=クロムウェルです。彼は事実上の独裁者として国政を掌握しますが、その強権政治は民衆の不満を招き、やがて王政復古、そして名誉革命へと続く長い過程を生み出しました。
2-1. クロムウェルの独裁と護国卿政治
チャールズ1世を処刑した後、1649年に共和政(コモンウェルス)が宣言されましたが、議会は分裂し、安定した政権運営は困難でした。そこで軍を掌握していたオリバー=クロムウェルが主導権を握ります。
1653年、クロムウェルは議会を解散し、自らを護国卿(Lord Protector)に任じ、事実上の独裁体制を確立しました。
彼はピューリタン的価値観を重視し、厳格な清教徒的生活を国民に強制します。
さらに外交では、航海法(1651年)を制定し、オランダとの貿易競争に挑みました。
しかし、軍事力に依存した統治は人々の不満を高め、1658年のクロムウェル死去後、共和政は急速に崩壊します。
2-2. 王政復古と専制政治の再来
1660年、議会は亡命していたチャールズ2世を迎え入れ、王政が復活します(王政復古)。
一見、平和的に見えた王政復古ですが、チャールズ2世は父と同様、専制的な政治姿勢をとりました。さらに弟のジェームズ2世が即位すると、問題は一層深刻化します。
ジェームズ2世は公然とカトリックを信仰し、国教会を支持する議会と対立を深めました。議会は国王の権限を制限しようとしますが、ジェームズ2世はそれを拒否し、絶対王政を志向しました。
2-3. 名誉革命と権利章典の成立
議会はジェームズ2世を退位させ、オランダ総督のウィリアム3世とその妻メアリ2世を共同統治者として迎えます(1688年)。
この政変は流血を伴わずに実現したため、「名誉革命(Glorious Revolution)」と呼ばれます。
翌1689年、ウィリアム3世とメアリ2世は議会により制定された権利章典を承認。
この文書は「議会主権」「国王の権限制限」「信教の自由」などを定め、立憲君主制の基盤を築きました。
ここに、長く続いた国王と議会の対立は終結し、近代的なイギリス議会政治が誕生します。
“無血革命”は名誉革命だけでない!
世界史で「無血革命」と呼ばれる事例はいくつかあります。
ただし、「名誉革命(1688)」ほど有名で入試頻出なものは少なく、他は狭い範囲で出題されることが多いです。
ここでは、入試で狙われやすいものに絞って整理します。
1. 名誉革命(イギリス、1688年)★最重要
項目 | 内容 |
---|---|
場所 | イギリス |
背景 | ジェームズ2世のカトリック政策に反発した議会が、オランダ総督ウィリアム3世を招致 |
結果 | ジェームズ2世が亡命し、流血なく政権交代 |
意義 | 権利章典(1689年)で議会主権を確立 → 立憲君主制の成立 |
入試頻度 | ★★★★★(最頻出) |
2. ポルトガル無血革命(1974年)
別名 「カーネーション革命」とも呼ばれます。
項目 | 内容 |
---|---|
場所 | ポルトガル |
背景 | サラザール独裁政権の後継者カエターノ政権への不満、植民地戦争の長期化 |
結果 | 若手将校団のクーデターにより独裁体制崩壊、ほぼ流血なし |
意義 | 民主化とアフリカ植民地の独立を促進 |
入試頻度 | ★★☆☆☆(近現代史の論述や時事問題でたまに出る) |
3. 東欧革命(1989年)内の無血型政変
冷戦末期、東欧諸国で共産党独裁体制が相次いで崩壊しましたが、その中には流血をほぼ伴わないものがあり、「無血革命」と形容される場合があります。
3-1. チェコスロヴァキア「ビロード革命(1989年)」
- 市民デモと体制内改革派の交渉で共産党政権崩壊
- 軍の介入なく民主化達成
- 「ビロード」=流血しない穏やかな変革
- 入試頻度:★★☆☆☆(現代史のテーマ史では出る)
3-2. 東ドイツのベルリンの壁崩壊(1989年)
- 厳密には「革命」というより体制崩壊ですが、東ドイツ共産党政権が無血で崩壊
- 西側への国境開放が象徴的
- 入試頻度:★★☆☆☆
4. エジプトの「アラブの春」(2011年)一部地域
- ムバラク大統領退陣を求めた市民デモ → 流血ほぼなしで政権崩壊
- 世界史Bではまだ出題例は少ないが、時事・現代史強化型大学(早稲田・上智・国際系)で出る可能性あり
- 入試頻度:★☆☆☆☆
5. 試験で狙われやすい「無血革命」まとめ
名称 | 年代 | 地域 | 特徴 | 入試頻度 |
---|---|---|---|---|
名誉革命 | 1688 | イギリス | 権利章典制定、議会主権確立 | ★★★★★ |
カーネーション革命 | 1974 | ポルトガル | 独裁崩壊、植民地独立促進 | ★★☆☆☆ |
ビロード革命 | 1989 | チェコスロヴァキア | 共産党体制崩壊、民主化 | ★★☆☆☆ |
東ドイツ体制崩壊 | 1989 | 東ドイツ | ベルリンの壁崩壊 | ★★☆☆☆ |
アラブの春(エジプト) | 2011 | エジプト | 市民デモでムバラク政権崩壊 | ★☆☆☆☆ |
6. 入試での出題傾向
- 世界史の共通テスト・MARCH・国公立二次では、無血革命=名誉革命とほぼ同義で出題されます。
- ただし、早慶・上智・国際系ではカーネーション革命やビロード革命が選択肢に混ざる可能性あり。
- 最近は現代史比重が増えているため、無血革命系用語の識別が差になる可能性があります。
まとめ
- 世界史で「無血革命」といえば、まず 名誉革命(1688)を完璧に押さえるのが最優先。
- 次点でカーネーション革命(ポルトガル1974)とビロード革命(チェコ1989)は覚えておくと有利。
- 東ドイツ崩壊やアラブの春も現代史対策では軽く触れておくと安心。
入試で狙われるポイント
- クロムウェルは共和政を維持しつつも護国卿として軍事独裁を行った
- 航海法(1651年)はオランダとの貿易競争が背景
- 王政復古後も国王と議会の対立は続き、ジェームズ2世のカトリック政策が決定打に
- 名誉革命は「無血革命」であることがポイント
- 権利章典(1689年)は議会主権の原則を確立した最重要文書
- 名誉革命の意義について、権利章典との関係を踏まえて120字以内で説明せよ。
-
名誉革命は、ジェームズ2世を退位させウィリアム3世とメアリ2世を迎えた政変で、流血なく行われた点が特徴である。権利章典により議会主権と立憲君主制が確立され、イギリスは絶対王政から近代的議会政治へ移行した。
第2章: ピューリタン革命から名誉革命まで 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1649年、チャールズ1世の処刑後に成立した共和政を何というか。
解答:コモンウェルス
問2
共和政で実権を握った人物は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問3
1653年、クロムウェルが就任した役職は何か。
解答:護国卿
問4
1651年、オランダとの貿易競争を背景に制定された法律は何か。
解答:航海法
問5
クロムウェルの死後、1660年に復活した体制を何というか。
解答:王政復古
問6
王政復古で即位した国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問7
ジェームズ2世が支持した宗教は何か。
解答:カトリック
問8
1688年、ジェームズ2世を退位させた政変を何というか。
解答:名誉革命
問9
名誉革命後、共同統治者として即位した2人の名前を答えよ。
解答:ウィリアム3世とメアリ2世
問10
1689年に制定され、議会主権を確立した文書は何か。
解答:権利章典
正誤問題(5問)
問1
クロムウェルは護国卿就任後、寛容な宗教政策で国民の支持を集めた。
解答:×(クロムウェルはピューリタン的価値観を強制し、反発を招いた)
問2
航海法はオランダとの貿易競争を背景に制定された法律である。
解答:○
問3
名誉革命はジェームズ2世のカトリック政策に対する反発が原因であった。
解答:○
問4
権利章典は国王の権限を強化し、絶対王政を確立するための文書であった。
解答:×(議会主権を確立した文書)
問5
名誉革命は流血を伴わない平和的な政変だった。
解答:○
第3章 イギリス立憲政治の確立を時系列で総整理
第1章・第2章で見てきたように、17世紀のイギリスでは、国王と議会の長期的な対立を背景に、ピューリタン革命から名誉革命まで約半世紀にわたる激動の歴史が展開しました。
この章では、年表形式で重要事件を体系的に整理し、入試に頻出の人物・出来事・法令を総まとめします。さらに、立憲政治が確立されるまでの流れを視覚的に理解できるよう構成しました。
3-1. イギリス近代史の主要年表
年代 | 出来事 | 内容・意義 |
---|---|---|
1603 | ジェームズ1世即位 | スチュアート朝開始。王権神授説を唱え議会と対立。 |
1628 | 権利の請願 | 議会が国王に対して課税権承認を要求。 |
1629 | 議会なき統治 | チャールズ1世が議会を解散し専制政治を開始(11年間)。 |
1640 | 長期議会召集 | 王政批判が強まり、ピューリタン勢力が議会を主導。 |
1642 | ピューリタン革命勃発 | 国王派と議会派の内戦が始まる。 |
1649 | チャールズ1世処刑 | 王権神授説を否定し、共和政(コモンウェルス)成立。 |
1651 | 航海法制定 | オランダとの貿易競争激化。イギリス商業覇権確立の契機。 |
1653 | クロムウェル護国卿就任 | 共和政から軍事独裁体制へ移行。 |
1660 | 王政復古 | チャールズ2世即位、スチュアート朝が再開。 |
1685 | ジェームズ2世即位 | 公然とカトリックを支持し議会と対立。 |
1688 | 名誉革命 | 議会がジェームズ2世を退位させ、ウィリアム3世とメアリ2世を迎える。 |
1689 | 権利章典制定 | 議会主権と立憲君主制を確立。近代議会政治の始まり。 |
3-2. 国王と議会の対立構造を整理
3-2-1. 対立の本質
- 国王:王権神授説 → 「王の権力は神から与えられた」
- 議会:課税権・信仰の自由を守る立場 → 国王権力を制限したい
- 宗教対立:国教会支持の国王派 vs ピューリタン中心の議会派
3-2-2. 勢力図
陣営 | 支持基盤 | 宗教 | 主張 |
---|---|---|---|
国王派(騎士党) | 大地主・国教会支持層 | イギリス国教会 | 王権強化・専制支持 |
議会派(円頂党) | 商工業者・ピューリタン | ピューリタン | 議会重視・信仰自由 |
3-3. 立憲君主制確立の意義
3-3-1. 権利章典(1689年)の重要性
- 国王の課税権・軍事権を議会が制限
- 信教の自由の一部を保障(ただしカトリックは除外)
- 議会主権の原則を確立 → 「国王は君臨すれども統治せず」へ
3-3-2. 世界史的影響
- フランスの絶対王政と対照的
- アメリカ独立宣言やフランス人権宣言への思想的基盤となる
- 近代立憲政治のモデルとして世界に影響
入試で狙われるポイント
- 航海法(1651年) → 貿易覇権をめぐるオランダとの対立
- クロムウェルの護国卿政治 → 実質的な軍事独裁
- 王政復古 → 専制が復活し、名誉革命への伏線
- 権利章典(1689年) → 議会主権の確立、超頻出!
- 名誉革命の「無血革命」という特徴は必ず覚える
重要論述問題にチャレンジ
- 17世紀のイギリスにおける議会主権確立の過程を、ピューリタン革命・名誉革命・権利章典の関係に触れて説明せよ(150字以内)。
-
ピューリタン革命ではチャールズ1世の専制に反発した議会派が勝利し、共和政を樹立したが、クロムウェルの軍事独裁後に王政が復活した。ジェームズ2世のカトリック政策に反発した議会は名誉革命でウィリアム3世を迎え、権利章典を制定。これにより議会主権が確立し、立憲君主制が成立した。
第3章: ピューリタン革命から名誉革命まで 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1649年、共和政成立後に実権を握った人物は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問2
1651年、イギリスが制定した貿易法は何か。
解答:航海法
問3
クロムウェルが就任した役職を何というか。
解答:護国卿
問4
クロムウェル死後の1660年に復活した体制を何というか。
解答:王政復古
問5
王政復古で即位したスチュアート朝の国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問6
ジェームズ2世が対立を深めた議会派の宗教勢力は何か。
解答:ピューリタン
問7
1688年、無血で国王交代を実現した政変を何というか。
解答:名誉革命
問8
名誉革命後に制定された文書で、議会主権を定めたものは何か。
解答:権利章典
問9
名誉革命で迎えられた共同統治者は誰か。
解答:ウィリアム3世とメアリ2世
問10
イギリスに立憲君主制をもたらした最も重要な法令は何か。
解答:権利章典
正誤問題(5問)
問1
航海法はオランダとの貿易競争を背景に制定された。
解答:○
問2
権利章典は国王の権限を強化するために制定された。
解答:×(議会の優越を確立した文書)
問3
名誉革命は流血を伴わない政変であった。
解答:○
問4
クロムウェルは護国卿として民主的な政治を行った。
解答:×(実質的には軍事独裁)
問5
権利章典はアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に思想的影響を与えた。
解答:○
第4章 フランス絶対王政との比較で理解するイギリス議会政治の特徴
17世紀のヨーロッパでは、同じ「王権」と「議会(または身分制会議)」の関係をめぐって、イギリスとフランスでまったく異なる政治体制が確立されました。
フランスではルイ14世が「太陽王」として絶対王政を極めたのに対し、イギリスではピューリタン革命や名誉革命を経て立憲君主制が確立します。
入試ではこの「フランス絶対王政 vs イギリス議会政治」の対比が頻出です。ここでは両国の違いをわかりやすく整理します。
4-1. 絶対王政のフランスと立憲政治のイギリス
4-1-1. フランス絶対王政の確立
- ルイ14世(在位1643〜1715)
「朕は国家なり」と宣言したルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿を中心に貴族を統制し、王権を絶対化しました。 - 官僚制と常備軍の整備
行政・財政・軍事を王権に集中させ、議会や身分制会議を形骸化させた。 - 重商主義政策(コルベールの経済政策)
フランスは国家主導で経済を発展させる重商主義を徹底し、植民地拡大にも積極的に進出しました。
4-1-2. イギリスの立憲君主制
- ピューリタン革命・名誉革命を経て、議会が主導権を握る体制を確立。
- 権利章典(1689年)は、国王権を大幅に制限し、議会主権を明確に規定。
- 宗教的寛容も一定程度認められ、社会の安定を実現。
4-2. イギリスとフランスの比較表
項目 | イギリス | フランス |
---|---|---|
政体 | 立憲君主制 | 絶対王政 |
代表的支配者 | ウィリアム3世・メアリ2世 | ルイ14世 |
主要事件 | ピューリタン革命(1642〜49)、名誉革命(1688) | 三十年戦争参戦(1635)、ヴェルサイユ体制 |
権利文書 | 権利の請願(1628)、権利章典(1689) | 特になし(王権に権力集中) |
宗教政策 | 信仰の自由を一定程度容認(ただしカトリック除外) | ナントの勅令廃止(1685)でプロテスタント迫害 |
議会・身分制会議 | 議会主権を確立 | 三部会は1614年以降開催されず形骸化 |
経済政策 | 航海法制定 → イギリス商業覇権の基盤 | コルベールによる重商主義政策 |
社会的特徴 | 市民階級(ジェントリ)が台頭 | 貴族中心の王権支配 |
4-3. 入試で差がつく視点
- 宗教政策の違い
- イギリス:国教会+ピューリタン → 議会派の多くはピューリタン
- フランス:ルイ14世がナントの勅令を廃止し、ユグノーを弾圧
→ 宗教政策が入試で頻出!
- 身分制会議の役割
- イギリス:議会が課税権を保持し続け、王権を制限
- フランス:三部会が形骸化し、王権に権力集中
- 文書の有無
- イギリスは「権利の請願」「権利章典」で国王権を制限
- フランスは絶対王政を支える文書なし
入試で狙われるポイント
- 「議会主権」と「絶対王政」の対比は頻出
- イギリスでは「航海法」「権利章典」などの文書を覚えることが重要
- フランスでは「ナントの勅令廃止」や「ヴェルサイユ宮殿」がよく問われる
- 「宗教政策」「市民階級の台頭」「経済政策」は比較問題で狙われやすい
- 17世紀ヨーロッパにおけるイギリスとフランスの政治体制の違いを、議会の役割と宗教政策に触れながら120字以内で説明せよ。
-
イギリスではピューリタン革命・名誉革命を経て権利章典が制定され、議会主権に基づく立憲君主制が確立した。一方フランスではルイ14世が絶対王政を強化し、ナントの勅令を廃止してプロテスタントを迫害するなど、議会は形骸化した。
第4章: ピューリタン革命から名誉革命まで 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
17世紀後半のフランスで「太陽王」と呼ばれた国王は誰か。
解答:ルイ14世
問2
ルイ14世が建設し、貴族統制の象徴となった宮殿は何か。
解答:ヴェルサイユ宮殿
問3
ルイ14世が1685年に廃止した、フランス新教徒保護の勅令は何か。
解答:ナントの勅令
問4
航海法を制定したイギリスの指導者は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問5
イギリスで議会主権を確立した法的根拠となる文書は何か。
解答:権利章典
問6
イギリスで無血革命として知られる政変を何というか。
解答:名誉革命
問7
フランスで重商主義政策を推進したルイ14世の財務総監は誰か。
解答:コルベール
問8
フランスでは1614年以降ほとんど開催されなかった身分制会議は何か。
解答:三部会
問9
イギリスの名誉革命で迎えられた共同統治者2人を答えよ。
解答:ウィリアム3世とメアリ2世
問10
イギリスがオランダとの商業覇権を争う契機となった法は何か。
解答:航海法
正誤問題(5問)
問1
イギリスでは権利章典によって議会主権が確立した。
解答:○
問2
ルイ14世はプロテスタントを保護するため、ナントの勅令を発布した。
解答:×(発布したのはアンリ4世、ルイ14世は廃止した)
問3
フランスの三部会は17世紀を通して頻繁に開催された。
解答:×(1614年以降ほぼ開かれなかった)
問4
航海法はオランダとの商業競争に対応するための法律だった。
解答:○
問5
フランスでは議会が課税権を保持し、国王権を制限していた。
解答:×(課税権は国王に集中、議会は形骸化していた)
第5章 まとめ&頻出論述テーマ+差がつく誤答パターン集
ここまで、ピューリタン革命から名誉革命まで、そしてフランス絶対王政との比較までを体系的に学んできました。
この章では、まとめ・頻出論述テーマ・よくある誤答パターンを整理し、入試対策としての最終チェックを行います。
特にこの分野は、論述問題・正誤問題・空欄補充で高確率で出題されるため、ここで知識を最終確認しましょう。
5-1. ピューリタン革命〜名誉革命の重要ポイントまとめ
時期 | 出来事 | 意義・結果 | キーワード |
---|---|---|---|
1628 | 権利の請願 | 課税には議会の同意が必要 | チャールズ1世、議会権限 |
1629 | 議会なき統治 | 議会を解散し専制政治を強行 | チャールズ1世 |
1642 | ピューリタン革命 | 国王派と議会派の内戦 | 騎士党、円頂党 |
1649 | チャールズ1世処刑 | 王権神授説の否定・共和政成立 | コモンウェルス |
1651 | 航海法 | オランダとの貿易競争強化 | クロムウェル、重商主義 |
1653 | クロムウェル護国卿 | 軍事独裁体制確立 | ピューリタン的価値観 |
1660 | 王政復古 | チャールズ2世即位 | 議会との対立再燃 |
1688 | 名誉革命 | ジェームズ2世追放、無血革命 | ウィリアム3世、メアリ2世 |
1689 | 権利章典 | 議会主権・立憲君主制の確立 | 近代議会政治の始まり |
5-2. 頻出論述テーマ集
論述テーマ①:ピューリタン革命の意義
- ピューリタン革命の背景と結果について、王権神授説との関係に触れて説明せよ(120字以内)。
-
スチュアート朝の国王は王権神授説を唱えて課税を強行し、議会の反発を招いた。1642年にピューリタン革命が勃発し、議会派が勝利。1649年にチャールズ1世が処刑され共和政が樹立し、王権神授説は否定され、近代的立憲政治の萌芽が見られた。
論述テーマ②:名誉革命の意義
- 名誉革命が近代イギリスの政治体制に与えた影響について、権利章典との関係を含めて説明せよ(120字以内)。
-
名誉革命はジェームズ2世のカトリック政策に反発した議会が、オランダ総督ウィリアム3世とメアリ2世を迎えて国王を交代させた政変である。権利章典を制定することで議会主権が確立され、イギリスは立憲君主制へ移行した。
論述テーマ③:イギリスとフランスの比較
- 17世紀におけるイギリスとフランスの政治体制の違いを、議会の役割に着目して説明せよ(130字以内)。
-
イギリスではピューリタン革命と名誉革命を経て権利章典が制定され、議会主権に基づく立憲君主制が成立した。一方フランスではルイ14世が三部会を召集せず、ヴェルサイユ宮殿を建設して貴族を統制するなど、絶対王政が強化された。
5-3. よくある誤答パターン集
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
権利の請願は1689年に制定された | × → 1628年に議会が提出 |
権利章典は王権強化のために制定された | × → 議会主権確立のための文書 |
名誉革命は内戦で多くの流血を伴った | × → **「無血革命」**が特徴 |
航海法はオランダとの軍事同盟を結ぶ法律 | × → オランダ商船を制限する法律 |
クロムウェルは民主的な共和制を実現した | × → 軍事独裁を行った |
ナントの勅令を発布したのはルイ14世 | × → 発布はアンリ4世、ルイ14世は廃止した |
5-4. 総仕上げ一問一答+正誤問題
第5章: ピューリタン革命から名誉革命まで 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
チャールズ1世が課税を強行した際、議会が提出した文書は何か。
解答:権利の請願
問2
チャールズ1世が議会を解散して専制政治を行った期間を何というか。
解答:議会なき統治
問3
ピューリタン革命で議会派を率いた人物は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問4
1649年、国王として初めて公開処刑された人物は誰か。
解答:チャールズ1世
問5
1651年、オランダの貿易を制限するために制定された法律は何か。
解答:航海法
問6
クロムウェルが就任した役職を何というか。
解答:護国卿
問7
王政復古で即位したスチュアート朝の国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問8
1688年、ジェームズ2世を退位させた無血革命を何というか。
解答:名誉革命
問9
名誉革命後、共同統治者として迎えられた2人は誰か。
解答:ウィリアム3世とメアリ2世
問10
1689年に制定され、議会主権を確立した文書は何か。
解答:権利章典
正誤問題(5問)
問1
権利章典はイギリスの絶対王政を確立するために制定された。
解答:×(議会主権を確立するための文書)
問2
クロムウェルは共和政を維持しながら軍事独裁を行った。
解答:○
問3
名誉革命は流血を伴う市民革命であった。
解答:×(無血革命が特徴)
問4
航海法はオランダとの貿易競争が背景であった。
解答:○
問5
ナントの勅令はルイ14世が新教徒を保護するために発布した。
解答:×(発布はアンリ4世、ルイ14世は廃止)
第5章 まとめ
学習のポイントをまとめます。
- ピューリタン革命から名誉革命までの流れは年号・人物・文書名で整理すると覚えやすい
- 権利の請願(1628) → 権利章典(1689)の区別は入試頻出
- イギリスとフランスの比較は、議会の役割・宗教政策・経済政策を軸に整理するのがポイント
- 正誤問題は誤答パターンを先に覚えると効率的
この中でも受験生が苦手にする「権利の請願(1628) → 権利章典(1689)の区別」に絞ってまとめます。
① 比較表で一目で整理
項目 | 権利の請願 | 権利章典 |
---|---|---|
年代 | 1628年 | 1689年 |
国王 | チャールズ1世 | ウィリアム3世・メアリ2世 |
背景 | チャールズ1世の専制政治(課税強行)に議会が反発 | 名誉革命で新国王を迎える際の条件 |
内容 | – 国王の課税には議会の承認が必要 – 不当な逮捕・投獄の禁止 | – 議会主権を明記 – 国王の課税権・軍事権を制限 – 信教の自由の一部を保障 |
性格 | 議会の要求文書(拘束力は弱い) | 成文法として強制力大 |
結果 | チャールズ1世は無視 → 議会との対立が激化 → ピューリタン革命へ | 立憲君主制の成立 |
位置づけ | ピューリタン革命の前哨戦 | 名誉革命の最終成果 |
② 正誤問題&一問一答で演習(アウトプット強化)
一問一答+正誤問題に挑戦しよう!
一問一答(10問)
問1
1628年に議会がチャールズ1世に提出した文書は何か。
解答:権利の請願
問2
1689年に制定され、議会主権を明文化した文書は何か。
解答:権利章典
問3
権利の請願は名誉革命の成果として制定された。
解答:×(名誉革命の成果は権利章典)
問4
名誉革命の新国王として迎えられた2人は誰か。
解答:ウィリアム3世とメアリ2世
問5
権利章典により、国王の課税には議会の承認が必要になった。
解答:○
問6
チャールズ1世は権利の請願を受け入れ、専制政治をやめた。
解答:×(無視して議会を解散した)
問7
権利章典は立憲君主制を確立した重要な文書である。
解答:○
問8
権利の請願は国王の軍事権を全面的に制限した。
解答:×(課税制限が主眼、軍事権制限は権利章典)
問9
権利章典はアメリカ独立宣言にも影響を与えた。
解答:○
問10
権利の請願と権利章典の両方に共通する目的は何か。
解答:国王の専制政治を制限すること
正誤問題(5問)
問1
権利の請願はチャールズ1世に対する議会の要求文書である。
解答:正
問2
権利章典は議会主権を確立した最重要文書である。
解答:正
問3
権利の請願は1689年に制定された。
解答:誤(1628年)
問4
権利章典は新国王に対する遵守義務を課した文書である。
解答:正
問5
権利の請願は法律としての拘束力が権利章典より強い。
解答:誤(権利章典の方が拘束力が強い)
③ 年表+フローチャートでストーリー化
年表で整理
年代 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|
1628 | 権利の請願 | 議会がチャールズ1世に課税承認を要求 |
1629 | 議会なき統治 | チャールズ1世が議会を解散 |
1642 | ピューリタン革命 | 国王派 vs 議会派の内戦勃発 |
1649 | チャールズ1世処刑 | 王権神授説の否定 |
1653 | クロムウェル護国卿 | 軍事独裁政治 |
1660 | 王政復古 | チャールズ2世即位 |
1688 | 名誉革命 | ジェームズ2世追放、無血革命 |
1689 | 権利章典 | 議会主権・立憲君主制確立 |
フローチャートで流れを可視化
権利の請願(1628)
│(チャールズ1世無視)
▼
議会なき統治 → ピューリタン革命(1642)
│(共和政→クロムウェル独裁)
▼
王政復古(1660)
│(専制再燃)
▼
名誉革命(1688)
│(無血革命)
▼
権利章典(1689) → 立憲君主制確立
④ よくある誤答パターン集(差がつく問題対策)
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
権利章典は1628年に制定された | × → 1689年制定 |
権利の請願は名誉革命の成果である | × → ピューリタン革命前夜の文書 |
権利章典は国王に対する「要求文書」である | × → 遵守を義務付ける法律文書 |
権利の請願は課税だけでなく軍事権も全面的に制限した | × → 軍事権の制限は権利章典の内容 |
権利章典は宗教の自由を全面的に保障した | × → カトリックは除外 |
権利の請願を受けたチャールズ1世は専制政治をやめた | × → 無視して議会解散 → 議会なき統治 |

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