国民議会の成立と国民主権の誕生|人権宣言が示した近代国家の原型

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国民議会とは、1789年のフランス革命初期に第三身分が中心となって結成した立法機関であり、「国民こそ主権者である」という近代政治の理念を初めて明確に示した議会です。

特権身分による議決妨害に反発した第三身分の代表たちは、「自らこそ国民を代表する存在だ」と宣言し、国民議会を設立しました。

この瞬間、国家の正統性は王から国民へと移り、近代立憲主義と民主政治の幕が開かれます。

やがて議会は封建特権の廃止や人権宣言を採択し、旧体制(アンシャン=レジーム)を根底から解体していきました。

本記事では、国民議会の成立過程とその理念をたどり、「国民主権」という思想がいかにして生まれたのかを整理します。

目次

第1章:国民議会の成立 ― 王権から国民主権への転換

1789年、ルイ16世が招集した三部会は、長く続いた絶対王政のもとで初めて国民が政治に参加する場として注目を集めました。

しかし、特権身分(聖職者・貴族)と第三身分の間には、政治的・経済的な利害対立が深く横たわっていました。

この対立がやがて、「誰が国を代表するのか」という根源的な問いを引き出し、第三身分はついに自らの名において「国民議会」を名乗ることになります。

ここに、王を頂点とする旧体制から、国民を主権者とする新体制への歴史的転換が始まりました。

三部会の開催と第三身分の離脱

1789年5月、財政危機に苦しむフランス王ルイ16世は、全国から身分ごとの代表を集める「三部会」を召集しました。

しかし、議決方式を「身分ごと(1票)」とするか「人数ごと(個人票)」とするかで激しい対立が生まれます。

人口の大多数を占める第三身分にとって、身分別投票は常に少数派として扱われる不公平な制度でした。

この不満が頂点に達した6月、第三身分の代表たちは、「われわれこそ国民の代表である」と宣言し、独自の議会を設立。

これが「国民議会」の誕生です。

彼らは自らを“全国民の意思を体現する存在”と位置づけ、国王や貴族を超える正統性を主張しました。

この出来事は、フランス革命における最初の政治的断絶であり、主権の所在が「王」から「国民」へと移る転機となります。

テニスコートの誓い ― 憲法制定を求める国民の結束

第三身分の離脱に危機感を抱いた王は議場を閉鎖し、会議を妨害します。

しかし、代表たちは近くの室内球戯場(テニスコート)に集まり、「憲法が制定されるまで解散しない」と誓いました。

これが有名なテニスコートの誓い(1789年6月20日)です。

この誓いは、単なる抗議ではなく、「法による政治」「憲法の制定」という理念の宣言でした。

以後、国民議会は臨時的な集会から、近代的立法機関へと変貌を遂げていきます。

このとき掲げられた「国民主権」と「憲法政治」の理念は、後のフランス憲法はもちろん、世界各国の立憲制度に影響を与え続けました。

国民議会が持つ歴史的意義

国民議会の結成は、フランス革命の出発点であると同時に、近代政治思想の誕生を告げる象徴的な出来事です。

従来、国家は「神が王に与えた権力」に基づいて統治されていましたが、ここで初めて「国民の合意による権力」へと転換されました。

この変化は単なる政体の変更ではなく、政治の正統性の根拠そのものの革命でした。

その理念はやがて、アメリカ独立宣言やヨーロッパの自由主義運動、さらには明治期の日本の立憲政治にも影響を及ぼします。

続く第2章では、民衆蜂起による「バスティーユ襲撃」や「封建的特権の廃止」を通じて、国民議会が理念を現実へと変えていく過程を見ていきます。

第2章:民衆革命の広がり ― 封建制の崩壊と人権宣言の採択

国民議会が「国民の代表」として立ち上がったものの、1789年の時点では、その政治的力はまだ脆弱でした。
議場での宣言だけでは、王政や貴族の権力を動かすことはできません。

実際に社会を揺り動かしたのは、飢餓と不安に苦しむ民衆の行動でした。

都市ではパンの高騰に怒ったパリ市民が蜂起し、地方では農民が貴族の館を襲撃。

こうした草の根の動きが、国民議会の改革を後押しし、ついには封建的特権の廃止と人権宣言の採択を実現させていきます。

バスティーユ襲撃 ― 民衆が革命の主役となる

1789年7月14日、パリ市民は国王の軍が革命を弾圧するという噂に恐怖を抱き、武器を求めて牢獄バスティーユを襲撃しました。

この事件は単なる暴動ではなく、民衆が政治の主体として登場した瞬間を象徴しています。

バスティーユは、王政の圧政を象徴する要塞でした。

その陥落は「王の権威よりも、国民の意志が勝った」ことを意味します。

以後、7月14日はフランスの革命記念日として祝われ続け、国民の統合と自由の象徴となりました。

この事件は地方にも波及し、各地で民衆蜂起が勃発します。

人々は貴族の館を襲い、租税台帳や封建文書を焼き払うなど、旧体制の根幹を直接破壊する行動に出ました。

この全国的な動揺は「大恐怖」と呼ばれ、国民議会に改革の決断を迫ることになります。

封建的特権の廃止 ― 社会の根本を変えた一夜

民衆の暴動を受け、国民議会はついに1789年8月4日、封建的特権の廃止を全会一致で可決しました。

これにより、長年フランス社会を支配してきた身分制度と領主権が法的に終焉を迎えます。

これまで聖職者や貴族に認められていた特権――免税・十分の一税・領主裁判権など――が一挙に廃止され、「すべての人が法の前で平等である」という理念が現実の制度として形を取りました。

この決議は、旧体制(アンシャン=レジーム)の崩壊を意味するものであり、以後、フランス社会は出身や家柄に左右されない新しい法秩序へと進んでいきます。

人権宣言の採択 ― 近代社会の基本原理の提示

封建制の廃止と並行して、国民議会は新しい社会の原理を明文化する作業に着手しました。

1789年8月26日に採択された「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」は、近代社会の根本原理を定めた画期的な文書です。

この宣言では、

  • 人は生まれながらにして自由で平等である(第1条)
  • 主権は国民に存する(第3条)
  • 思想・信教・言論の自由を保障する(第10〜11条)

などが明記され、国家権力の根拠が王ではなく国民と法にあることを示しました。

人権宣言はルソーの「社会契約論」やロックの「自然権思想」を背景にしており、「自由」「平等」「所有権」「主権在民」という理念を普遍的価値として宣言しました。

これにより、フランス革命は単なる国内改革を超え、世界的な思想運動へと発展していきます。

国民議会期の成果と限界

国民議会は、わずか2年余りの間に、

  • 封建制度の廃止
  • 身分平等の確立
  • 人権宣言の採択
  • 1791年憲法の制定準備

といった大改革を成し遂げました。

しかしその一方で、経済危機や飢餓、そして国王への不信が解消されることはありませんでした。

特に、王政を存続させたまま立憲主義を導入するという折衷案は、改革派と急進派の対立を生み、やがて「王政廃止」の流れを加速させていきます。

このように、国民議会は「理念の宣言」と「旧体制の崩壊」を成し遂げたものの、次に訪れるのは、より急進的な革命――立法議会期の戦争と王政崩壊です。

第3章では、その転換点を見ていきましょう。

第3章:立憲王政の理想と崩壊 ― 1791年憲法の光と影

封建制を打破し、人権宣言によって新たな社会の原理を打ち立てた国民議会は、いよいよその理念を制度として定着させるために、新憲法の制定に着手しました。

それが、1791年に公布されたフランス初の成文憲法です。

この憲法は、国王の権限を制限しつつも、君主制の存続を認める「立憲王政」を掲げていました。

しかし、王権と国民の間の信頼はすでに崩壊しており、この妥協的な制度はやがて、理念と現実の矛盾によって自壊していきます。

1791年憲法の制定 ― 近代立憲主義の出発点

1791年9月、国民議会はフランス史上初めてとなる憲法を制定しました。

この憲法は、「国民主権」「権力分立」「法の支配」という近代国家の三原則を明文化した点で画期的でした。

具体的には、

  • 国王は行政権を持つが、立法権は一院制議会に属する
  • 裁判権は独立し、法の下で平等に行使される
  • 主権は国民にあり、政府はその委任によって存在する

という形で、王政の枠内に民主的要素を導入しました。

この体制は、絶対王政と民主政治の中間を模索する「立憲君主制」として構想されたのです。

制限選挙と政治的排除 ― 理念と現実の乖離

しかし、1791年憲法には重大な限界がありました。

選挙制度は「財産資格制」に基づく制限選挙が採用され、納税額の多い「能動市民」のみが投票権を持ち、貧しい「受動市民」は政治参加を認められませんでした。

これは「平等の理念」に反するものであり、自由主義的な改革が、依然として富裕層中心の体制を維持していたことを示しています。

このような制度的矛盾は、民衆の不満を高め、革命が掲げた「国民主権」の理念と実際の政治との乖離を浮き彫りにしました。

ヴァレンヌ事件 ― 王権への信頼の崩壊

改革に不満を抱くルイ16世は、外国勢力の支援を得て王権を回復しようと企てます。

1791年6月、王は家族とともに変装して国外逃亡を試みましたが、途中のヴァレンヌで捕らえられ、パリへ護送されるというヴァレンヌ事件が発生します。

この事件は、国民の間に残っていた「国王への信頼」を決定的に失わせました。人々は次第に、「王を制限する」ではなく「王を廃する」という方向へと傾いていきます。

議会は体制維持のために事件を隠蔽しようとしましたが、民衆の不信は深まり、急進派(ジャコバン派)と穏健派(立憲君主派)の対立が激化していきました。

ピルニッツ宣言と革命の国際化

同年8月、ルイ16世の義兄であるオーストリア皇帝レオポルト2世と、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世は、

「フランス国王を害するならば干渉する」という警告を発するピルニッツ宣言を共同で出しました。

この宣言は、ヨーロッパの王侯がフランス革命の拡大を恐れ、干渉の構えを見せたものでした。

しかしフランス国内では逆に、外敵の脅威を前にして「祖国を守るための革命」という愛国心が高まります。

こうして、革命は次第に国際的対立の中へと巻き込まれ、「内なる敵=国王」と「外なる敵=外国勢力」の二重構造のもとで急進化していきました。

立憲王政の終焉 ― 次の段階への扉

1791年憲法に基づく立憲王政は、理想としては国王と国民の協働を目指していましたが、実際には両者の不信と対立が深まり、1792年には王政廃止へと突き進みます。

理性と法に基づく新国家を築こうとした国民議会の試みは、現実の政治的不安と外交的圧力の中で崩れ去りました。

しかし、この立憲王政の試行錯誤こそが、後のフランスにおける共和制の土台を形づくる第一歩でもありました。

このように、国民議会期は理念と制度の誕生を特徴とする一方で、その理念を維持するための政治的・社会的基盤がまだ未成熟だったことが明らかになります。

次の立法議会期では、こうした矛盾がついに臨界点を迎え、王政そのものの崩壊へと至るのです。

第4章:国民議会の意義と限界 ― 近代国家の原型を築いた2年間

1789年から1791年にかけての国民議会期は、フランス革命の初期段階として、理念と制度が結びついた画期的な時期でした。

封建制を廃止し、人権宣言を採択し、立憲王政憲法を制定したことで、フランスは絶対王政から近代国家へと大きく舵を切りました。

一方で、政治的経験の乏しさや社会的不安、そして国王への不信など、多くの矛盾も残しました。

この章では、国民議会が築いた成果と限界を整理し、その歴史的意義を明らかにします。

政治的成果 ― 国民主権と法の支配の確立

国民議会の最大の功績は、「国民主権」という理念を明確に打ち出したことです。

第三身分が自らを「国民の代表」と宣言した瞬間、政治の正統性は王から国民へと移行しました。

さらに、議会は「テニスコートの誓い」によって憲法制定の決意を示し、法の支配の原則を確立します。

それまでの「王の命令が法となる」時代から、「国民の合意に基づく法」が国家を律する時代へと変化したのです。

1791年憲法の制定は、こうした理念を具体的制度へと昇華させた成果でした。

国民議会は、近代政治の三原則――国民主権・権力分立・法の支配――を明文化し、立憲政治の基礎を築いたのです。

社会的変革 ― 封建的秩序の崩壊と平等原則の定着

もう一つの大きな成果は、社会構造そのものの変革でした。

1789年8月の封建的特権の廃止は、聖職者・貴族による支配を根本から覆し、身分に基づく不平等と特権を終わらせました。

同時に、人権宣言によって「すべての人は法の前に平等である」と明記され、出身や家柄ではなく、個人の権利と理性に基づく社会の原理が打ち立てられます。

これは、近代市民社会の出発点であり、のちにヨーロッパ全体へ波及していく自由・平等・所有権の思想的基盤となりました。

理念と現実のギャップ ― 制限選挙と王政の残滓

しかし、国民議会の改革は決して完全なものではありませんでした。

1791年憲法は「国民主権」を掲げながらも、財産に基づく制限選挙を採用し、貧しい人々を政治から排除してしまいました。

また、国王ルイ16世に行政権を残すなど、旧体制の要素も温存されました。

これは、政治的経験の乏しい議会が急進的な変化を避け、妥協による安定を図った結果といえます。

しかしその妥協こそが、民衆の不満を生み、「王を制限する」から「王を否定する」への流れを加速させることになります。

理念と現実のズレは、やがて次の立法議会期で深刻な対立となって噴出していきました。

歴史的意義 ― 近代政治の幕開け

国民議会期の2年間は、フランス革命における理念の確立期であり、政治・社会・思想の各側面で「近代国家の原型」を形づくった時期でした。

特に、「国民こそ主権者である」という発想は、のちのヨーロッパ諸国やアメリカ、日本にまで影響を及ぼし、憲法政治と民主主義の根幹として定着していきます。

確かに、この時期の改革は未熟であり、混乱を招いた側面もありました。

しかし、理念なき安定よりも、理念ある変革を選んだという点で、国民議会は人類史における大きな転換点となったのです。

国民議会が築いた理念と制度は、のちの立法議会・国民公会へと受け継がれ、フランス革命はさらに急進化していきます。

しかし、その原点には常に――「国民が主権者である」という信念がありました。

この思想こそ、現代の民主主義社会にまで続く、国民議会の最大の遺産といえるでしょう。

入試で狙われるポイント ― 頻出・誤答パターンの徹底整理

国民議会期(1789〜1791)は、理念・事件・制度のすべてが詰まっているため、「基本知識+正誤の判断」を問う問題が非常に多く出題されます。

特に、「思想・制度・事件の対応関係」や「理念と現実のズレ」を区別できるかがカギになります。
ここでは、実際の入試で問われやすいポイントを整理し、混同しやすい選択肢の注意点を具体的に解説します。

頻出テーマ① 「国民主権」の登場時期と意味の取り違え

❌ 誤り例:「国民主権」は人権宣言で初めて明文化された。
✅ 正答:「国民主権」は国民議会の成立(1789年6月)時点で政治的理念として登場した。

解説:
「国民主権」はテニスコートの誓い以前、第三身分が「われわれこそ国民の代表」と主張した段階で登場します。
人権宣言ではこれを「第3条:あらゆる主権の原理は本質的に国民にある」として明文化しました。
したがって、「最初に登場=国民議会の結成」「法文化=人権宣言」と区別して覚えましょう。

頻出テーマ② テニスコートの誓いと三部会閉鎖の順序

❌ 誤り例:「国王による議場閉鎖の後に第三身分が国民議会を結成した」
✅ 正答:「第三身分が国民議会を結成した後に、国王が議場を閉鎖した」

解説:
時系列を取り違える受験生が非常に多いです。
「国民議会」結成(6月17日)→「議場閉鎖」→「テニスコートの誓い」(6月20日)という順序が正解です。
議場閉鎖は結成に対する王側の報復措置であり、誓いはそれに対する議会側の抵抗宣言です。
この流れを年号暗記ではなく“原因と結果”で理解しておくと強いです。

頻出テーマ③ バスティーユ襲撃の意義の誤解

❌ 誤り例:「バスティーユ襲撃は囚人解放を目的とした」
✅ 正答:「バスティーユ襲撃は武器調達と王政への抵抗を目的とした」

解説:
バスティーユ牢獄は実際には囚人数名しかおらず、「政治犯解放」の側面は小さいです。
本質は、市民が王権に対抗しうる政治的主体となった事件にあります。
よって、「囚人解放」中心に書かれた選択肢は誤り、「王政への挑戦」「民衆蜂起の象徴」が正答キーワードです。

頻出テーマ④ 封建的特権の廃止の範囲と内容

❌ 誤り例:「封建的特権の廃止により、すべての封建地代が即時に廃止された」
✅ 正答:「封建的特権の廃止では、領主的支配権は撤廃されたが、地代の一部は買い上げ制で残存した」

解説:
この論点は教科書によって説明が異なりますが、正確には封建制の完全廃止ではない点が狙われます。
1789年8月4日の決議では、

  • 領主裁判権・十分の一税などの支配的特権は即時廃止
  • 地代収入などの経済的権利は、地代買い上げ(補償金支払い)による廃止
    となっており、完全平等ではなかった点が問われます。

「封建的特権=即廃止」と丸暗記していると誤答します。

頻出テーマ⑤ 人権宣言の理念と内容の取り違え

❌ 誤り例:「人権宣言では、国王を主権者とする立憲王政が明記された」
✅ 正答:「人権宣言では、国民を主権者とする社会契約の原理が示された」

解説:
「立憲王政」は1791年憲法の制度であり、人権宣言はあくまで理念の提示です。
両者を混同する誤答が多く、

  • 人権宣言=理念・原理(国民主権・自由・平等・法の支配)
  • 1791年憲法=制度(立憲王政・制限選挙)
    と区別することが得点の鍵です。

頻出テーマ⑥ 1791年憲法の体制と限界

❌ 誤り例:「1791年憲法では、すべての成年男性に参政権が与えられた」
✅ 正答:「1791年憲法では、財産資格を基準とした制限選挙が採用された」

解説:
この誤答は非常に多く、立憲主義=民主主義と誤解しているケースです。
実際には、納税額に応じて「能動市民(有権者)」と「受動市民(無権者)」を分ける仕組みでした。
つまり、国民主権の理念を掲げつつも、政治参加は富裕層に限定されたわけです。
入試では「すべての国民が政治参加した」という選択肢が誤りになります。

頻出テーマ⑦ 王政の崩壊との境界線

❌ 誤り例:「ヴァレンヌ事件の後、国民議会は王政を廃止した」
✅ 正答:「ヴァレンヌ事件後も王政は存続し、廃止は次の国民公会期(1792年)で行われた」

解説:
国民議会期=立憲王政期です。
「王政廃止」「共和国成立」は国民公会期(1792〜95)の出来事です。
この時期区分を混同する問題は非常に多く、
「国民議会=立憲王政」「国民公会=共和政」とセットで押さえておくことが重要です。

受験的まとめ ― “理念の登場年”と“制度の成立年”を区別せよ

国民議会期で問われる最大のポイントは、

  • 理念の登場(国民主権・法の支配・自由・平等)
  • 制度としての実現(封建制廃止・人権宣言・1791年憲法)
    年次と性格のズレを理解できるかです。

つまり、「理念がいつ出て、いつ制度化されたのか」を因果で押さえることが、正誤問題を見抜くカギとなります。

まとめ:国民議会が切り開いた近代政治の原点

1789年から1791年にかけての国民議会期は、フランス革命の中でも最も理念的で創造的な時期でした。

第三身分が自らを「国民の代表」と名乗り、テニスコートの誓いを通じて「憲法による政治」を宣言した瞬間、フランス社会は、王の命令が支配する旧体制から、法と国民の合意による政治へと一歩を踏み出しました。

国民議会は、封建的特権を廃止し、人権宣言を採択し、1791年には立憲王政憲法を制定しました。

これらの改革によって、身分に縛られない社会と、国民の自由・平等・所有権を保障する法体系が整えられたのです。
まさにここに、近代国家の原型が誕生しました。

しかし、その理想は現実の政治基盤に支えられていませんでした。

王政の存続、制限選挙による格差、貧困と不安――

これらの矛盾がやがて、民衆の不信と怒りを呼び起こし、革命は次の段階へと進みます。

国民議会期の終焉は、理想の終わりではなく、新たな政治的模索の始まりでした。

この時期に確立された「国民主権」と「人権の理念」は、後の共和政や現代の民主主義にも受け継がれています。

まとめのひとこと

国民議会は、短期間ながらも旧体制を打破し、新しい原理を提示した時代でした。

革命が「理念」を生み、民衆が「力」を持ち、そして国家が「法の支配」を受け入れる――

この3つの要素が交わったとき、世界は近代へと動き出したのです。

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