立法議会(1791〜1792)とは、フランス革命の中で成立した最初の「立憲王政」を担う議会であり、王と議会が協力して統治するという近代政治の理想を掲げた新体制でした。
しかし、その理想はわずか1年で崩壊します。国王ルイ16世と議会の不信、派閥抗争、そして外敵の脅威が複雑に絡み合い、制度は機能不全に陥りました。
結果として、立法議会は革命を穏健化するどころか、むしろ王政崩壊と共和政への転換を加速させる舞台となったのです。
本記事では、立法議会の成立と崩壊を通じて、なぜ立憲王政は持続できなかったのかを制度・政治・社会の3つの観点から探ります。
第1章:立法議会とは何か ― 1791年憲法体制のスタートと限界
1789年のフランス革命が「旧体制(アンシャン=レジーム)」を打ち倒してから2年。
1791年、革命はついに「王を頂く新しい憲法国家」を誕生させました。
それが、1791年憲法によって成立した「立憲王政」であり、その執行機関として発足したのが立法議会です。
しかし、この体制は理念と現実のギャップに苦しみました。
絶対王政からの転換を目指した改革は、王権の縮小・議会の権限拡大をもたらした一方で、国王を国家の象徴として信頼する基盤を欠いていたのです。
さらに、議会の構成や選挙制度にも大きな制約があり、真の「国民代表」とは言い難い仕組みが、体制の弱点として露呈します。
ここでは、立法議会の制度的特徴を整理し、なぜこの議会が「機能しない体制」として出発したのかを明らかにしていきましょう。
1791年憲法の理念 ― 「権力分立」と「立憲王政」
1791年憲法は、啓蒙思想の影響を強く受けた「権力分立」の理念に基づいて制定されました。
モンテスキューの思想を継承し、立法・行政・司法を分けることで専制を防ぎ、自由を保障しようとしたのです。
この体制では、
- 国王は行政権を保持し、法律に対して一時的拒否権(停止的拒否権)を持つ
- 議会(立法議会)は立法権を担う
- 司法は独立した裁判権を行使する
という三権分立構造が導入されました。
しかし、この「拒否権」こそが議会との対立を深める火種となります。
国王は自らの立場を守るためにこの権限を繰り返し行使し、議会はそのたびに「王は革命を妨害している」と非難。
理念上はバランスを取るための仕組みが、現実には政治不信を拡大させる結果となりました。
選挙制度と議会構成 ― 「能動市民」と「受動市民」
1791年憲法は、形式上は「国民主権」を掲げていましたが、実際には制限選挙が採用され、全ての市民が政治に参加できたわけではありません。
有産者(一定額以上の納税を行う男性)だけが「能動市民」として選挙権を持ち、貧困層や女性は「受動市民」として排除されました。
このため、議会を構成したのは主に中産階級(ブルジョワジー)であり、彼らの多くは急進的な民衆運動に対して慎重でした。
つまり、立法議会は民衆を代表する議会ではなく、ブルジョワ的立憲国家の実験場だったのです。
さらに、1791年憲法の規定により、憲法制定議会の議員は立法議会に再選されないことが定められていました。
これにより、政治経験の浅い新人ばかりが議会に集まり、政策運営の一貫性や熟練性を欠くという重大な欠陥を抱えることになりました。
理想と現実のギャップ ― 王と議会の協調はなぜ失敗したのか
立法議会は「王と議会の協力による統治」を掲げた体制でしたが、現実には革命の熱狂と王政への不信が共存していました。
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)によって、ルイ16世が国外逃亡を図ったことが明るみに出ると、「王は祖国を裏切った」とする世論が高まり、王権への信頼は失われます。
一方で、議会内でも「王を守るべきか」「王を罰するべきか」をめぐって意見が分裂。
王政を残したいフイヤン派、改革を急ぐジロンド派、革命の急進化を恐れる穏健派が対立し、議会は早くも機能不全に陥ります。
こうして、立憲王政の理想は出発点から揺らぎ始め、「王のいない立憲王政」――つまり、制度上は王を戴きながら、実質的には不在の政治体制という矛盾が生まれていったのです。
続く第2章では、こうした制度的な脆弱性の上に、派閥間の対立と国王不信がどのように政治危機を拡大させたのかを見ていきます。
第2章:議会内の派閥対立と国王不信の拡大 ― 協調体制の崩壊
制度としての立憲王政は、「王と議会が協力して国家を運営する」という理念のもとに設計されていました。
しかし、現実の政治は理想とはほど遠く、議会内部の派閥争いと王政への不信が、体制の根幹を揺るがします。
立法議会は、憲法制定議会とは異なり、政治経験の浅い議員が多数を占めました。
彼らは革命の理念に共感しつつも、現実の統治には不慣れで、王政をどの程度まで容認するかをめぐって激しく対立します。
さらに、国外逃亡を試みたルイ16世の行動が「裏切り」として国民の怒りを買い、「王を信じるべきか」「処罰すべきか」という根本的な問いが政治議論を分断していきました。
ここでは、議会内部の勢力構図と、ルイ16世をめぐる不信の拡大がどのように体制崩壊へとつながっていったのかを整理していきます。
フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派 ― 分裂する議会
立法議会では、旧憲法制定議会に比べて政治経験の浅い議員が多く、明確な政党制も存在しませんでした。
そのため、政治的立場に応じていくつかの派閥が形成されます。
- フイヤン派:立憲王政の維持を重視し、急進的な改革に反対する穏健派。ブルジョワ層を中心とし、国王との協調を模索。
- ジロンド派:地方出身の弁護士や知識人が多く、自由主義的で改革推進を主張。王政への警戒心が強く、外交問題にも積極的に関与。
- ジャコバン派:当初はジロンド派を含む広いクラブだったが、やがてパリを基盤に急進化し、民衆の支持を背景に勢力を拡大。
これらの派閥は、国家運営をめぐって折り合うことができず、議会内ではたびたび非難合戦と責任転嫁が繰り広げられました。
とりわけ、国王の拒否権行使や聖職者問題をめぐっては、穏健派と急進派の対立が決定的となります。
聖職者の宣誓問題と王の拒否権
革命期のフランスでは、教会財産の没収と聖職者の国家公務員化を定めた「聖職者民事基本法」が制定されました。
これにより、聖職者は憲法への忠誠宣誓を義務づけられますが、ローマ教皇の支持を得られず、宣誓拒否者が続出。
社会には「宣誓派」と「非宣誓派」が分裂し、宗教問題が政治対立を激化させました。
立法議会はこの混乱を抑えるため、非宣誓派聖職者の国外追放を決定します。
しかし、ルイ16世はカトリック信仰への配慮からこれに拒否権を発動。
議会は「国王は反革命勢力に加担しているのではないか」と疑念を深め、王権と議会の関係は修復不能な亀裂を生みました。
ヴァレンヌ逃亡事件の後遺症 ― 信頼の崩壊
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)は、立法議会が開かれる“直前”に発生した出来事であり、国王ルイ16世が国外逃亡を試みたことで、王政への信頼を決定的に失わせました。
この事件の衝撃は新体制にも尾を引き、立法議会が発足した時点(同年10月)で、国王に対する国民の不信はすでに深刻なものとなっていました。
そのため、ルイ16世がどれほど協力を示そうとしても、議会も民衆ももはや彼を信用できず、「形式上の王」と「実質的に信頼を失った王」というねじれた構図が、立憲王政の出発点から体制を蝕んでいったのです。
民衆の圧力と「サン=キュロット」の登場
議会の外では、生活苦や物価上昇に苦しむ民衆が急速に政治化していきます。
パリでは、労働者や小商人層を中心とするサン=キュロット(半ズボンをはかない人々)が登場し、街頭デモや蜂起を通じて政治に直接影響を与えるようになりました。
彼らはジロンド派やジャコバン派の急進勢力と連携し、「国王は敵」「祖国を守るのは我々だ」というスローガンを掲げます。
この民衆の圧力が、議会内の穏健派を追い詰め、王政の存続をますます困難にしていったのです。
こうして立法議会は、王と議会の対立・派閥争い・民衆の政治参加という三つの要因に引き裂かれ、統治機能を失いました。
次章では、この混乱の中で起こった対外戦争の勃発と「祖国の危機」宣言が、革命をいかに急進化させたのかを見ていきます。
第3章:対外戦争と祖国の危機 ― 民衆が政治の主導権を握る
議会内の分裂が深まる中、フランスをさらに揺さぶったのが対外危機でした。
ヨーロッパ諸国の君主たちは、フランス革命の拡大を警戒し、ルイ16世の救出を名目に干渉の構えを見せます。
この外圧に対し、立法議会は革命の防衛を掲げてオーストリアへの宣戦布告を決断しました。
しかし、戦争は当初から失敗続き。指揮官の多くは旧貴族で、革命政府への忠誠心も薄く、軍の士気は低迷していました。
敗北が続く中で「外敵の脅威」と「国内の裏切り」への恐怖が高まり、民衆はついに政治の舞台へ躍り出ます。
この章では、外圧がいかに王政を崩壊させる引き金となったのかを、戦争と民衆運動の連動から見ていきましょう。
革命戦争の勃発 ― 宣戦布告の背景
1792年春、立法議会はついにオーストリアに対して宣戦布告します。
この決断の背後には、ジロンド派の強い主張がありました。
彼らは「戦争こそが革命を試す試金石であり、祖国の自由を守る道だ」と訴え、国民の愛国心を高めようとしました。
一方、フイヤン派は戦争に慎重で、「軍はまだ整っていない」「国外勢力を刺激すべきではない」と警告していました。
ルイ16世は表向き開戦を承認しつつも、内心では敗北を期待していました。
もし戦争に負ければ、国外の君主国が革命を抑え込み、自身の地位を回復してくれると考えたのです。
こうして、革命を守るための戦争は、実際には「王政・議会・民衆の思惑が食い違った戦争」として始まりました。
当初の目的からして統一を欠いたこの開戦は、すぐに国家全体を混乱へと陥れます。
敗戦と動揺 ― 軍内部の不信と士気低下
開戦後、フランス軍は各地で敗北を重ねました。
その理由は、軍隊内部に深く残る旧貴族と革命政府の対立でした。
将軍や高官の多くは旧体制の出身で、革命政府への忠誠を疑われる存在でした。
実際、指揮官が敵側へ寝返る事件も起こり、兵士たちの士気は著しく低下していきます。
戦線での混乱が伝わると、パリの民衆の間では「政府内部に裏切り者がいるのではないか」という噂が広がりました。
革命は「内なる敵」と「外なる敵」の板挟みとなり、社会は猜疑と恐怖の空気に包まれます。
こうした敗戦の報は、やがて民衆の怒りを「宮廷」「貴族」「王政」へと向けていくことになります。
革命はもはや穏健な議論では収まらず、生存を賭けた闘争へと姿を変えつつありました。
「祖国は危機にあり」宣言 ― 国家総動員のはじまり
1792年7月、立法議会はついに「祖国は危機にあり」という歴史的な宣言を発します。
この文言は、国民に対し「祖国を守るのは政府ではなく、我々一人ひとりだ」という責務を呼びかけるものでした。
この宣言は、単なるスローガンではなく、国民皆兵・総動員の理念を初めて掲げたものといえます。
それまで政治に直接関わることのなかった民衆が、祖国防衛の名のもとに街頭へ、戦場へと動員されていきました。
パリや各地では、義勇兵が自発的に結成され、自由と平等の旗のもとに行進を始めます。
彼らは国王や貴族に代わって国家を守る存在として登場し、「民衆こそが国家の主体」という新しい意識を生み出しました。
革命の急進化 ― 民衆が政治を動かす
この「祖国の危機」宣言は、フランス社会に決定的な変化をもたらしました。
もはや国家を支えているのは議会や国王ではなく、武器を取った市民=民衆だという認識が共有されていったのです。
パリでは義勇兵とサン=キュロットが結集し、議会に対して「裏切り者の追放」「王政の廃止」を要求する声を高めます。
彼らにとって、王はすでに“祖国を危機に陥れた象徴”であり、もはや存在を許す理由がありませんでした。
議会が分裂と混迷に陥る中、街頭の民衆は自らが政治の正統性を持つ存在だと確信し始めます。
こうして、フランス革命は「王と議会の政治」から「民衆の政治」へと転換し、翌年の共和政樹立へとつながっていくのです。
この章では、立法議会が国内問題に加えて外圧を受けたことで、革命が「防衛の名のもとに急進化」していった過程を描きました。
次章では、ついに民衆が蜂起し、チュイルリー宮殿を襲撃して王政を終わらせる瞬間を見ていきます。
第4章:8月10日蜂起と王政の崩壊 ― 立憲王政の終焉
「祖国は危機にあり」――この言葉が発せられた時、すでに王政は形骸化していました。
民衆は武器を手に取り、国家を守る主体として政治の表舞台に登場します。
一方、国王ルイ16世は相変わらず議会との協調を欠き、国外勢力に希望を託していました。
その中で起きたのが、1792年8月10日のチュイルリー宮殿襲撃事件。
これは単なる暴動ではなく、民衆が「主権の所在」を議会から奪い返す行為でした。
この蜂起を境に、王政は事実上崩壊し、革命は立憲王政から共和政へと一気に進化します。
ここでは、蜂起の背景と経過、そしてその象徴的意義を整理し、「民衆の政治」が始まった瞬間を見ていきます。
外敵の侵攻と恐怖の高まり ― 王政への怒り
1792年夏、プロイセン軍がフランス領内へ進撃を開始します。
この軍を率いていたのは、王党派の亡命貴族たちで、彼らはルイ16世の名を掲げて「王政復古」を唱えていました。
つまり、外敵が“国王の名のもとに侵攻してくる”という、フランスにとって最大の皮肉が現実となったのです。
この事実は、民衆の怒りに火をつけました。
「国王は敵と通じているのではないか」「祖国を危機に陥れたのは王自身だ」との不信が広がり、議会も国王をもはや擁護できなくなっていきます。
さらに、プロイセン軍の司令官が発した「ブラウンシュヴァイク宣言」が決定的でした。
この宣言は、「国王一家に危害を加えた場合、パリを焼き払う」と脅迫するもので、
結果的に民衆は「王を守るために外国が脅している」と感じ、王政への憎悪をさらに強めました。
h3:8月10日蜂起 ― 民衆が王政を打倒する
こうした緊張の中、1792年8月10日、パリの民衆と義勇兵たちはついに蜂起します。
彼らはチュイルリー宮殿へ突入し、国王一家を拘束。王を守っていたスイス衛兵は徹底的に討たれ、王権は完全に沈黙しました。
議会はただちに国王の職務停止を決定。これにより、1791年憲法の根幹であった「国王と議会の協調」という原理は、完全に崩壊します。
この蜂起は、単なる暴力の発露ではなく、民衆が国家の主権を奪還した政治行動でした。
立法議会が王と協調できなかった一方で、民衆は「主権は国民にある」という革命原理を、自らの手で実現したのです。
ヴァルミーの戦い ― 民衆軍の勝利がもたらした確信
8月の蜂起からわずか1か月後、1792年9月20日、フランス軍はヴァルミーの戦いで初めて外敵に勝利します。
これは、義勇兵を中心とした「国民軍」が、職業軍を打ち破った歴史的な瞬間でした。
ゲーテはこの戦いを目の当たりにし、
この勝利によって、民衆は「王なしで国を守れる」「主権は人民にある」という確信を得ました。
翌日、議会は国王を廃位し、国民公会の招集を決定。
フランスは、ついに王政を捨て、共和政の時代へと踏み出します。
立憲王政の崩壊が意味したもの
1791年憲法によって掲げられた立憲王政は、わずか1年で崩壊しました。
その理由は、制度の欠陥や政治的不信にとどまらず、革命の主体が変化したことにありました。
はじめ、革命を主導していたのは議会やブルジョワ層でした。
しかし、戦争と危機の中で登場した民衆は、彼らを追い越し、国家の運命を自らの手に握りました。
立法議会は「王政と議会の協調」を目指しましたが、民衆はそれを超えて「王なき国家」の実現へと進んだのです。
この転換点をもって、革命は制度改革から体制転換へと進化しました。
王政を打倒した民衆は、これ以後、革命の方向性を左右する新たな主役となっていきます。
ここで、立法議会の1年間は終わりを告げます。
その短い期間に、フランスは立憲王政から民衆主導の共和革命へと劇的に変貌しました。
次章では、立法議会が残した遺産――「国民主権」「戦時動員」「民衆の政治参加」という3つの柱を総括し、この時期がフランス革命史において果たした意義を振り返ります。
第5章:立法議会の1年が示した教訓 ― 理想と現実の交錯
1791年から1792年にかけての立法議会期は、フランス革命の中で最も短く、しかし最も密度の濃い1年間でした。
立憲王政という新体制は、王と議会の協力を理想に掲げ、自由と秩序の両立を目指しました。
しかし、制度の欠陥、国王への不信、外敵の脅威、そして民衆の政治化が重なり合い、
その理想はわずか一年で崩れ去ります。
それでも、この短い実験はフランス革命史において決定的な意味を持ちました。
なぜなら、この過程で初めて、「主権とは何か」「誰が国家を代表するのか」という近代政治の核心が、抽象的理念ではなく、現実の政治行動の中で問われたからです。
ここでは、立法議会の経験が後世に残した三つの教訓――
①制度の限界、②民衆の台頭、③国民主権の実践――を整理し、その歴史的意義を考察します。
制度の限界 ― 王と議会の「協調」が不可能だった理由
立法議会期における最大の教訓は、理念としての協調と、現実としての不信が両立しなかったことです。
1791年憲法は、王権と議会の均衡を保つことを目的としていましたが、革命を経た社会ではすでに「王を信じる基盤」が失われていました。
形式上の権力分立は整っていても、国王は拒否権を行使し、議会はそれを裏切りとみなす。
どちらも正当性を主張しながら、実際には相互不信の泥沼に陥っていったのです。
この体制的矛盾は、やがて近代国家が直面する「立憲君主制の脆弱さ」を先取りするものでした。
立法議会の崩壊は、単なる一政体の失敗ではなく、「権力を分けること」と「信頼を築くこと」は別問題であるという現実を突きつけました。
民衆の台頭 ― 主権の担い手が交代した瞬間
立法議会期を通じて最も劇的に変化したのは、政治の主役が変わったことです。
当初、政治を担っていたのはブルジョワ層を中心とする議員たちでした。
しかし、戦争と危機の中で、街頭の民衆が登場し、次第に国家の方向を左右する存在となっていきます。
「祖国は危機にあり」という宣言は、民衆にとって単なる号令ではなく、「自分たちが国家を守る」という自覚の始まりでした。
彼らはチュイルリー宮殿を襲撃し、国王を打倒し、王政を終わらせました。
この瞬間、フランス革命は「上からの改革」から「下からの革命」へと性格を変えたのです。
民衆の政治参加は、その後の共和政を支える力となる一方で、時に暴走し、後の恐怖政治を生み出す土壌ともなります。
しかし、立法議会の崩壊を通じて確立したのは、政治が民衆の手に戻るという近代民主主義の根原理でした。
国民主権の実践 ― 理念が現実に試された初めての瞬間
1789年の人権宣言以来、フランス革命は「主権は国民にある」と唱えてきました。
しかし、それが実際に試されたのは、まさにこの立法議会期です。
戦争・危機・不信という極限状況の中で、「誰が祖国を守るのか」「誰が政治を決めるのか」という問いが現実の政治問題となりました。
王政の崩壊は、単に一人の君主の失脚ではなく、「主権を君主に委ねる時代の終わり」を意味します。
立法議会の1年は、国民主権という理念が初めて歴史の現場で試された時間だったのです。
この経験は、のちの国民公会や第一共和政に受け継がれ、さらに19世紀ヨーロッパの自由主義革命に連鎖していくことになります。
立法議会の遺産 ― 失敗の中に芽生えた近代政治
立法議会は、確かに制度としては失敗でした。
1年足らずで崩壊し、王政も議会も信頼を失いました。
しかし、その「失敗の中」にこそ、近代政治の核心が芽生えたのです。
それは、
- 合意なき制度のもろさ
- 民衆の政治的覚醒
- 主権をめぐる闘争
という三つの経験でした。
この時期に生まれた「国民」「祖国」「主権」という概念は、のちのナポレオン時代や19世紀の国民国家形成へと受け継がれていきます。
立法議会の崩壊は終わりではなく、近代政治の出発点だったのです。
結論:立法議会が残した問い
立法議会の1年は、理想と現実の衝突の記録でした。
理念としての立憲王政は美しく響きながらも、信頼なき制度は長く続かない。
そして、政治の空白を埋めたのは、王でも議会でもなく、民衆の意思でした。
「誰が国家を導くのか」
「主権とは何か」
この問いは、立法議会期に初めて現実の問題として立ち現れ、それ以後のフランス革命と近代世界を方向づけていきます。
入試で狙われるポイント ― 「立法議会の崩壊過程」を正誤問題で理解する
立法議会(1791〜1792)は、理想的な立憲王政としてスタートしました。
しかしそのわずか1年後、王政は崩壊し、共和政への転換が起こります。
この「立法議会の崩壊過程」は、入試でもしばしば問われる*転換点”の典型テーマです。
特に、
- 国王ルイ16世の拒否権と議会対立
- 派閥の構図(フイヤン派・ジロンド派・ジャコバン派)
- 対外戦争の勃発と「祖国の危機」宣言
- 8月10日蜂起と王権停止
などが定番の出題ポイントです。
ここでは、それらを中心に正誤問題5問+解説+整理表で、「理念の崩壊」を見抜く力を養いましょう。
問1
立法議会の目的は、国王と議会が協力して国家を統治することであった。
✅ 正しい。
🟦【解説】
1791年憲法の理念は、「王と議会の協調による立憲王政」でした。
絶対王政を否定しつつも、王そのものを排除せず、行政権(王)と立法権(議会)の均衡を目指しました。
しかし実際には、ヴァレンヌ逃亡事件以後の不信が根強く、協調は成立しませんでした。
📘【出題の狙い】
理念上の「協力」と、現実の「不信・対立」を混同させる問題が頻出。
→ 理念としては正しいが、結果的には崩壊した体制である点を明確に。
問2
ルイ16世は、議会が可決した法律に拒否権を行使できた。
✅ 正しい。
🟦【解説】
1791年憲法は「停止的拒否権」を国王に与えていました。
これは、国王が法律公布を一時的に拒否できる制度で、三権分立の一環でした。
しかし、これがかえって「王が革命を妨害している」と非難を招き、政治的不信を拡大。
結果的に、制度が理念どおりに機能しなかった代表例となります。
📘【出題の狙い】
「拒否権=君主専制の名残」と誤解しやすいが、意図はむしろ専制防止。
理念と結果の乖離を整理しておくと論述でも強い。
問3
対外戦争を主張したのは、穏健派のフイヤン派である。
✕ 誤り。
🟦【解説】
戦争を推進したのは、ジロンド派(急進的自由主義派)です。
彼らは「革命の理念をヨーロッパに広げる」「外敵を倒して国内の団結を強める」ことを狙いました。
一方、フイヤン派は戦争による混乱を恐れ、反対の立場でした。
📊【派閥構成の整理】
派閥 | 主な立場 | 王政への態度 | 戦争姿勢 |
---|---|---|---|
フイヤン派 | 穏健・立憲王政維持 | 協調 | 反対 |
ジロンド派 | 改革推進・地方出身 | 不信 | 推進 |
ジャコバン派 | 急進・民衆結合 | 打倒 | 当初は反戦 |
📘【出題の狙い】
「フイヤン=穏健」「ジロンド=急進」の軸を逆に書く選択肢がよく出る。
また、「開戦=愛国心=革命推進派」と覚えると混乱しない。
問4
「祖国は危機にあり」宣言(1792年7月)は、国民公会によって発せられた。
✕ 誤り。
🟦【解説】
この宣言を出したのは立法議会です。
プロイセン軍の侵攻や国内反乱に直面した議会が、国民に総動員を呼びかけたもの。
「祖国を守るのは政府ではなく国民である」という意識を広め、民衆の政治参加を促す契機となりました。
🧭【重要語句】
→ 「国民皆兵」「義勇兵」「サン=キュロット」などと連動して出題。
この宣言を機に、革命は民衆の政治へ転換していきます。
📘【出題の狙い】
「祖国の危機宣言=国民公会」との混同が非常に多い。
正確には、「立法議会が宣言」「国民公会が共和政を樹立」です。
問5
8月10日蜂起によって、フランスは共和政となった。
✕ 誤り。
🟦【解説】
8月10日蜂起は王権停止を決定した段階で、共和政が正式に始まるのは翌月(1792年9月21日)の国民公会による王政廃止宣言です。
つまり、蜂起は立憲王政の実質的終焉ではあるが、まだ共和政ではない「過渡期」でした。
📘【時系列の整理】
日付 | 出来事 | 体制 |
---|---|---|
1792.7 | 祖国の危機宣言 | 王政下の立法議会 |
1792.8.10 | チュイルリー襲撃・王権停止 | 王政崩壊(過渡期) |
1792.9.20 | ヴァルミーの戦い(初勝利) | 過渡期 |
1792.9.21 | 王政廃止・共和政樹立 | 国民公会期 |
📘【出題の狙い】
時系列の混同が頻出。「蜂起=共和政成立」ではなく、「蜂起→勝利→共和政」。
一日ずれの罠に注意。
総まとめ:「立法議会の崩壊」を3段階でとらえる
入試で高得点を取るためには、立法議会の崩壊過程を以下の三段階で理解しておくことが鍵です。
段階 | 出来事 | 意味 |
---|---|---|
① 内部対立 | 王の拒否権・派閥抗争 | 制度が機能不全に陥る |
② 外圧の増大 | 宣戦布告・敗北・祖国の危機 | 国家の存続が危うくなる |
③ 民衆蜂起 | 8月10日蜂起・ヴァルミー勝利 | 民衆が主権を奪還、王政崩壊 |
この三段階を「内部→外圧→民衆」の流れで整理できると、「なぜ立憲王政が1年で崩壊したのか」という問いに的確に答えられます。
よくある誤答パターンまとめ
誤答例 | 誤りの原因 | 正答 |
---|---|---|
ヴァレンヌ逃亡事件は立法議会期 | 時期混同 | 憲法制定直前(1791年6月) |
「祖国の危機」は国民公会 | 時期混同 | 立法議会 |
8月10日蜂起で共和政成立 | 段階混同 | 王政崩壊・共和政は翌月 |
戦争を主張したのはフイヤン派 | 派閥逆転 | ジロンド派が主導 |
国王の拒否権は権力集中の象徴 | 理念誤解 | 本来は抑制制度だが機能せず |
まとめ:理念が現実に負けた1年
立法議会は、理想の立憲王政が現実に崩れた過程そのものです。
理念では「王と議会の協力」、現実では「王不信と民衆政治」──このギャップをどう捉えるかが入試の核心です。
問6
立法議会は、民衆の政治活動を抑制するために「祖国は危機にあり」宣言を発した。
✕ 誤り。
🟦【解説】
「祖国の危機」宣言(1792年7月)は、民衆の政治参加を奨励するために発せられたものであり、抑制策ではありません。
当時、オーストリア・プロイセン連合軍の侵攻で国家が危機に陥り、議会は国民に武装と団結を呼びかけました。
この宣言をきっかけに義勇兵が集まり、民衆が国家防衛の主役となります。
📘【狙い】
「抑制」ではなく「動員」。民衆を抑え込む目的ではなかった点が重要。
問7
ヴァルミーの戦い(1792年)は、国民公会軍による最初の勝利である。
✕ 誤り。
🟦【解説】
ヴァルミーの戦い(1792年9月20日)は、まだ国民公会成立の前日にあたります。
この時点では立法議会期(王政停止後の過渡期)であり、戦ったのは立法議会が動員した義勇兵・国民軍でした。
勝利の翌日(9月21日)に国民公会が招集され、共和政が宣言されます。
📘【狙い】
時期の混同を突く良問。ヴァルミー=「王政崩壊後・共和政成立前」。
問8
立法議会期の対外戦争は、開戦当初からフランス軍が連戦連勝した。
✕ 誤り。
🟦【解説】
実際には当初、フランス軍は敗北続きでした。
指揮官の多くが旧貴族で、革命政府への忠誠が疑われ、軍内の統制も不十分。
この敗戦が「裏切り者がいる」「王は敵と通じている」という噂を招き、民衆の不満が爆発します。
結果的に、これが8月10日蜂起の直接的要因となりました。
📘【狙い】
「勝利→士気上昇→共和政」ではなく、
「敗北→不信→蜂起→王政崩壊」という正しい因果関係を押さえること。
問9
立法議会期の宗教政策では、非宣誓聖職者が寛容に扱われた。
✕ 誤り。
🟦【解説】
むしろ逆で、非宣誓聖職者は迫害・追放対象となりました。
立法議会は1791年の「聖職者民事基本法」に基づき、憲法への忠誠を誓わない聖職者を「国家の敵」と見なします。
これにルイ16世が拒否権を発動したことで、議会との対立が一層深まりました。
📊【関連法の整理】
政策 | 内容 | 結果 |
---|---|---|
聖職者民事基本法(1790) | 聖職者を国家公務員化、忠誠宣誓を義務化 | 教会の分裂 |
立法議会の処置(1791〜92) | 非宣誓聖職者の国外追放を可決 | 王が拒否権、対立激化 |
📘【狙い】
宗教問題は政治対立の象徴。宗教=信仰問題ではなく、国家忠誠問題として問われる。
問10
立法議会の崩壊後、すぐに恐怖政治が始まった。
✕ 誤り。
🟦【解説】
恐怖政治(1793〜94)は、立法議会の次の次――つまり国民公会期の後半にあたります。
立法議会崩壊(1792年9月)直後は、むしろ共和政樹立と戦争の拡大が中心で、恐怖政治はまだ始まっていません。
崩壊直後の国民公会期前半は、共和政の理想と現実の模索期です。
📘【狙い】
立法議会期→国民公会期→恐怖政治(ジャコバン独裁)という流れを明確に。
最終整理:立法議会崩壊のメカニズムを一目で理解する
崩壊の要因 | 具体的出来事 | 結果 |
---|---|---|
政治的不信 | 王の拒否権・ヴァレンヌ事件の余波 | 協調体制の崩壊 |
派閥対立 | フイヤン派 vs ジロンド派 vs ジャコバン派 | 政策が迷走 |
外圧 | 対外戦争・敗北 | 王への不信増大 |
民衆蜂起 | 8月10日チュイルリー襲撃 | 王権停止 |
転換点 | ヴァルミー勝利 | 民衆が主権を自覚、共和政へ |
🟨【攻略のまとめ】
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