国民公会と第一共和政|王政廃止から恐怖政治までの激動期をたどる

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国民公会(1792〜1795)は、フランス革命の中でも最も激動した時期にあたります。

この時期、立法議会に代わって成立した国民公会は王政を廃止し、第一共和政を樹立しました。

しかし、その理想は戦争・反乱・経済混乱の中で過激化し、やがて「恐怖政治」と呼ばれる独裁体制へと転じていきます。

本記事では、国民公会の成立からルイ16世の処刑、ジャコバン派独裁とその崩壊まで、理念と現実が交錯した3年間の政治過程をわかりやすく整理します。

目次

第1章:国民公会の成立と王政廃止 ― 革命が共和政へと踏み出す瞬間

1792年、フランス革命は新たな段階に突入します。

立法議会期の混乱と対外戦争の激化のなかで、国民の不満は王政そのものへと向かいました。

こうして召集された国民公会は、ついに約千年続いた君主制を廃止し、共和政国家としての第一歩を踏み出します。

1. 王政廃止の背景 ― 民衆の怒りと政治的転換点

1792年夏、フランスは深刻な危機に陥っていました。

国外では、オーストリア・プロイセンとの戦争が続き、国内では食糧不足やインフレに苦しむ民衆が政府への不満を募らせていました。

特に、王家が外国勢力と通じているという疑惑(いわゆる「国王陰謀説」)は、民衆の怒りを爆発させる引き金となります。

8月10日の「テュイルリー宮襲撃事件」では、民衆と義勇兵が王宮を襲撃し、ルイ16世一家を捕らえました。

これにより、王権の実質的な終焉が決定づけられ、議会は王権停止を宣言。新たな憲法制定のため、普通選挙による国民公会の招集が決定されます。

2. 共和政の宣言 ― 王政廃止から「国民の国家」へ

1792年9月21日、国民公会は王政の廃止を正式に決議し、共和政の樹立を宣言しました。

ここに、フランスはカペー朝以来の君主制を終わらせ、国民が主権を握る新しい国家へと生まれ変わったのです。

これは単なる政治体制の転換ではなく、「国家の正統性を神から人間へ移す」という思想上の革命でもありました。

翌日にはルイ16世の称号「フランス王」を剥奪し、「市民カペー」として扱うことが決定されます。

国民公会の議員たちは、もはや「王のために」ではなく「人民のために」政治を行うことを誓いました。

3. 革命の理念と現実の乖離 ― 国内外の重圧

しかし、共和政の理想を掲げた国民公会の前には、厳しい現実が立ちはだかります。

対外的には、列強諸国(オーストリア・プロイセン・イギリス・スペインなど)が次々と開戦し、革命フランスを「ヨーロッパ秩序の破壊者」と見なしました。

対内的には、王党派や保守的農民によるヴァンデー反乱などが各地で発生し、国家は分裂の危機に陥ります。

こうした状況の中、議会内では穏健派のジロンド派と急進派の山岳派(ジャコバン派)の対立が深まり、革命の進路をめぐる争いが激化していきました。

「自由と平等」を掲げた共和国は、理想と現実のはざまで揺れ動きながら、やがて“自由を守るための暴力”という矛盾に直面していくのです。

次章では、国民公会が迎えた最大の転換点――

ルイ16世の処刑と対仏大同盟の結成、そして革命が「内と外の戦争」に飲み込まれていく過程を詳しく見ていきます。

第2章:ルイ16世の処刑と対仏大同盟 ― 革命が全欧を敵に回した日

王政の廃止によって誕生した第一共和政は、革命の理想が最も高く掲げられた瞬間でした。

しかし、その理想はすぐに現実の重圧にさらされます。

国王ルイ16世の処遇をめぐる議論は、共和政の正統性そのものを問う問題へと発展し、国内の政治対立と国際的な緊張を一気に高めました。

この章では、ルイ16世の裁判・処刑から、第1回対仏大同盟の結成に至るまでの過程を通して、革命がいかにして「全欧を敵に回す戦争国家」へと変貌していったかを見ていきます。

1. ルイ16世裁判 ― 革命の理念が直面した最大のジレンマ

国民公会の最初の大問題は、捕らえられたルイ16世をどう扱うかでした。

王政廃止後も、国王は「反革命の象徴」として議会に重くのしかかります。

ジロンド派は「国外追放」など穏健な処置を主張したのに対し、山岳派(ジャコバン派)は「国王の存在そのものが共和国の否定である」として、処刑を強く求めました。

この対立は、共和政の理念を試す試金石でした。

「人民主権を掲げながら、法によらず王を処刑することは正義か?」
「革命の敵を許せば、自由は再び圧殺されるのではないか?」

議場は連日紛糾し、各地では民衆が「王の死を!」と叫ぶデモが起きました。

最終的に、国民公会は1793年1月17日、わずか1票差で「死刑」を決定。

そして1月21日、ルイ16世はパリの革命広場(現コンコルド広場)でギロチンによって処刑されます。

刃が落ちた瞬間、群衆は歓声を上げたと伝えられますが、それは同時に“国民の手で自らの王を葬った”という歴史的断絶の瞬間でもありました。

2. ヨーロッパの衝撃 ― 第1回対仏大同盟の結成

国王処刑の報はヨーロッパ全土に衝撃を与えました。

王政国家にとって、それは「革命思想が王を殺した」という恐るべき前例であり、自国の秩序をも脅かす危険な出来事に映ったのです。

イギリスのピット首相は「王殺しの共和国」との断交を宣言し、オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどとともに第1回対仏大同盟(1793年)を結成しました。

目的は、革命の波をヨーロッパに広げないこと――すなわち、「革命封じ込め戦争」でした。

フランスは周囲を敵に囲まれた孤立国家となり、国内でも徴兵制の導入や物価上昇が民衆の不満を煽ります。

こうして、革命は外敵との戦争と内乱という二重の危機に追い込まれていきました。

3. ヴァンデー反乱と国内の動揺 ― 「国民の共和国」が揺らぐ

1793年3月、フランス西部ヴァンデー地方で農民の大規模な反乱が勃発します。

彼らは徴兵令と反宗教政策に反発し、「国王・教会・秩序」を守るために立ち上がったのです。

このヴァンデー反乱は単なる地方暴動にとどまらず、共和政府にとって深刻な「内なる敵」となりました。

この内乱は、政府にさらなる強権を与える口実となり、やがて公安委員会の設置、そして恐怖政治の体制へとつながっていきます。

つまり、ルイ16世の処刑は「旧体制との決別」であると同時に、「革命の自己防衛=国家の暴力装置化」の始まりでもあったのです。

4. 理念の転化 ― 自由のための戦争が自由を脅かす

国民公会は、「祖国は危機にあり」のスローガンのもと、全人民の戦争を呼びかけました。

この戦争は当初、「自由と平等の理念をヨーロッパに広める解放戦争」として正当化されましたが、現実には膨大な犠牲と国内弾圧をもたらします。

「自由を守るために、自由を一時的に抑圧する」という矛盾が、国民公会を蝕み始めていました。

この矛盾を解決しようとしたのが、次章で扱うロベスピエール率いるジャコバン派の独裁恐怖政治です。

第3章:恐怖政治とジャコバン派の独裁 ― 自由の名のもとに行われた統制

ルイ16世の処刑を経て、フランスは「国民による共和国」という理想を掲げていました。

しかし、外では列強諸国との戦争、内ではヴァンデー反乱や物価暴騰が続き、国家は未曾有の混乱に陥ります。

この危機のなかで台頭したのが、急進的な山岳派、すなわちジャコバン派でした。

彼らは「自由を守るためには、革命の敵を徹底的に排除しなければならない」と主張し、公安委員会を中心とした独裁体制を築き上げます。

本章では、恐怖政治の構造とその矛盾、そして崩壊への過程をたどります。

1. ジロンド派の追放 ― 革命が急進化する転換点

1793年春、対外戦争は拡大を続け、国内では反乱が激化しました。

食糧不足・失業・物価上昇に苦しむ民衆(サンキュロット)は、穏健なジロンド派に不満を募らせていました。

そのような中、6月2日、パリの民衆が国民公会を包囲し、山岳派の圧力によってジロンド派の議員が大量に逮捕されます。

これにより、国民公会の実権はジャコバン派に集中しました。

「人民の敵」を排除するという名目のもと、革命はより急進的な方向へと舵を切っていきます。

2. 公安委員会の設置 ― 非常時体制の確立

ジロンド派追放後のフランスは、事実上の戦時国家となります。

1793年4月、国民公会は公安委員会を設立。

この機関は、行政・軍事・警察など国家のあらゆる権限を掌握する「非常時政府」として機能しました。

ロベスピエール、ダントン、サン=ジュストらが中心となり、「祖国は危機にあり」のもと、全人民を動員して国家防衛にあたります。

このとき制定されたのが、徴兵令であり、それまでの常備軍とは異なり、市民すべてが「共和国の兵士」として戦うことが義務づけられました。

こうして、国家と国民が一体化した「戦争国家=近代的国民国家」の萌芽が生まれたとも言えます。

しかし、同時にこの体制は、国家による個人の統制という新たな危険も孕んでいました。

3. 1793年憲法(ジャコバン憲法) ― 理念と現実の乖離

ジャコバン派は理想を掲げることも忘れませんでした。

1793年6月、国民公会はジャコバン憲法(1793年憲法)を制定します。

この憲法は、男子普通選挙や人民主権・生存権の保障など、当時として極めて革新的な内容を持っていました。

しかし、皮肉なことにこの憲法は「非常時ゆえに施行を延期」され、実際には一度も施行されませんでした。

自由・平等をうたう憲法が、国家の統制のもとで凍結された――

まさに、「理想が現実に敗北した瞬間」でした。

4. 恐怖政治の開始 ― 革命裁判所と粛清の嵐

1793年9月、国民公会は「容疑者法」を制定。

革命の敵と見なされた者は、具体的な証拠がなくとも逮捕・裁判・処刑の対象とされました。

この制度の下で設置されたのが、悪名高い革命裁判所です。

反対派は「自由の敵」として次々と処刑され、王妃マリ=アントワネットもこの時期にギロチン台へ送られました。

1年間で1万6000人以上が処刑されたとされるこの時期こそが、「恐怖政治(La Terreur)」と呼ばれる所以です。

ロベスピエールは、粛清の正当化を次のように述べました。

「徳なき恐怖は無力であり、恐怖なき徳は無益である」

すなわち、“徳(美徳)と恐怖”を同時に保つことが革命を守る唯一の道だと考えたのです。

5. 恐怖政治の矛盾 ― 革命が自らを食らう

しかし、この体制はやがて自壊します。

粛清の対象は「反革命派」から「穏健派」、そして「同じ革命家」にまで広がり、ダントンやエベールなど、かつての同志も処刑されました。

革命の理念を守るために行ったはずの暴力が、いつしか目的化し、「誰が敵で誰が味方か」すら曖昧になっていったのです。

こうして恐怖政治は、理想の終焉とともに、次の反動を招くことになります。

6. テルミドールのクーデタ ― 恐怖政治の終焉

1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ついに議会内部からもロベスピエールへの不満が爆発します。

公安委員会の独裁と粛清に恐怖を覚えた議員たちは、ロベスピエールを逮捕・処刑。

これがいわゆるテルミドールのクーデタです。

恐怖政治はここに終焉し、国民公会は再び穏健派の支配へと転じました。

翌1795年、国民公会は新たな1795年憲法を制定し、総裁政府(ディレクトワール)が発足します。

急進期の革命は終わり、安定と妥協を模索する新たな時代が始まったのです。

7. 「恐怖の遺産」 ― 革命の光と影

恐怖政治は、フランス革命の中でも最も評価が分かれる時期です。

確かにこの体制は、外敵を退け、革命を一時的に守り抜きました。

しかし同時に、それは「自由の名のもとに自由を奪う」体制でもありました。

恐怖政治を経て、フランスの政治は「理想から現実へ」「理念から秩序へ」と転換していきます。この経験こそ、のちのナポレオン台頭と“強い国家による統合”という道を開く伏線となったのです。

第4章:入試で狙われるポイント ― 国民公会期の本質を整理する

国民公会期は、フランス革命の中でも最も「理念と現実の乖離」が鮮明に現れた時期です。

王政廃止から恐怖政治、そしてテルミドール反動までのわずか3年間に、革命は理想・暴力・反動のすべてを経験しました。

この章では、入試で頻出の正誤問題を素材に、誤答しやすいポイントをひとつひとつ丁寧に整理していきます。

正誤問題で整理する国民公会期の20ポイント

問1
国民公会は1792年、制限選挙によって選出された議員によって構成された。

解答:×誤り

🟦【解説】
制限選挙ではなく、男子普通選挙によって選出されました。
これはフランス史上初めて「財産や身分の制限なし」に行われた全国的な選挙です。
立法議会期までの「納税資格による制限選挙」との違いがよく出題されます。

国民公会は革命の正統性を「国民の直接意思」に求めたため、普通選挙によって議員を選出し、旧体制の象徴である王政を廃止して第一共和政を樹立しました。

✅【正しくは】
「国民公会は男子普通選挙によって選出された議員から構成された。」

【選挙制度の比較表】

時期政体選挙制度主な特徴
1791年立憲王政(立法議会)制限選挙納税資格を持つ有産市民のみ投票可能
1792年第一共和政(国民公会)男子普通選挙全国民が初めて投票に参加
1795年総裁政府制限選挙に後退財産条件を再導入、ブルジョワ中心に

【ポイント】

  • 「普通選挙=国民公会」「制限選挙=立法議会」と整理しておく。
  • これは革命の理念(人民主権)の実現を象徴する制度的変化。
  • 国民公会=王政廃止+共和政+男子普通選挙という三点セットで押さえよう。

問2
ルイ16世の処刑は、議会の全会一致で決定された。

解答:×誤り


🟦【解説】
ルイ16世の死刑は、わずか1票差という僅差で可決されました。
当時、国民公会の内部では「処刑を主張する山岳派」と「慎重なジロンド派」が激しく対立していました。

ジロンド派は「国外追放や幽閉」を提案し、革命の過激化を避けようとした一方、山岳派は「国王の存在こそが革命の否定」であり、「国家への裏切り」として断固死刑を求めました。

多数決の結果、361対360で死刑が決定。
1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現コンコルド広場)でギロチンにかけられました。

この瞬間、フランスは王政との決別を果たすと同時に、「国民が王を裁いた初めての国家」となったのです。

✅【正しくは】
「ルイ16世の処刑は僅差で可決され、国民公会内部には賛否両論があった。」

【ポイント】

  • 「全会一致」ではなく「僅差」である点を問う設問が多い。
  • 山岳派=処刑推進、ジロンド派=反対(国外追放)をセットで覚える。
  • この事件をきっかけに、第1回対仏大同盟が結成され、フランスは国際的孤立へ。
  • 「王殺し(レジサイド)」がフランス革命をヨーロッパの脅威にした、という歴史的意味も押さえよう。

問3
ヴァンデー反乱は、パリの都市民衆が共和政府の政策に反発して起こした蜂起である。

解答:×誤り

🟦【解説】
ヴァンデー反乱は、都市民衆ではなく地方農民によって起こされた反乱です。
場所はフランス西部のヴァンデー地方(ロワール川下流域)で、1793年3月に勃発しました。

反乱の原因は、徴兵制(ルヴェ・アン・マス)による若者の強制徴集、教会財産の没収・聖職者への弾圧などの反宗教政策、革命政府の過激化への反発、などが重なったことにあります。

蜂起した農民たちは、「国王・教会・秩序のために戦う」として、革命政府の軍と戦いました。

共和政府はこれを「反革命の蜂起」とみなし、徹底的な鎮圧を実施。数十万人が犠牲となる悲惨な内戦となりました。

✅【正しくは】
「ヴァンデー反乱は、西部農民が徴兵制と反宗教政策に反発して起こした内乱である。」

【ポイント】

  • ヴァンデー反乱=農村保守派の反乱、サンキュロット運動=都市民衆の運動
     → この二つを混同しやすい。
  • 反乱のスローガン:「王・教会・秩序のために」。
  • 政府は公安委員会の権限強化(=恐怖政治の口実)につなげた。
  • 「国内反乱+対外戦争」の二重危機の中で、ジャコバン派独裁が成立する流れを意識しよう。

問4
公安委員会は、立法権を持つ議会の監督機関として設置された。

解答:×誤り

🟦【解説】
公安委員会は立法機関ではなく、行政・軍事を統括する非常時政府
国防・内政・裁判・経済統制など全権を握り、事実上の独裁機関となった。

✅【正しくは】
「公安委員会は、行政・軍事の非常時権限を集中した執行機関である。」

【ポイント】
「立法=国民公会」「行政=公安委員会」。

問5
公安委員会の中心人物は、ロベスピエールとサン=ジュストであった。

解答:〇正しい

🟦【解説】
ロベスピエールは“公徳の政治”を掲げ、恐怖政治の理論的中心となった。
若き革命家サン=ジュストは、厳格な理想主義者として知られる。

【ポイント】
公安委員会=ロベスピエール体制。彼らの粛清が恐怖政治の象徴。

問6
ジャコバン派の政権は、1793年にジロンド派を追放して成立した。

解答:〇正しい

🟦【解説】
1793年6月2日、パリ民衆が国民公会を包囲し、穏健派のジロンド派を排除。
これにより山岳派(ジャコバン派)が主導権を握り、恐怖政治体制が始まる。

🧭【ポイント】
“6月2日の蜂起”=政権交代の合図。

問7
ジャコバン派は王政復古を目指し、反革命派と協調した。
解答:×誤り

🟦【解説】
ジャコバン派は急進的共和主義者であり、王政復古に最も強く反対した勢力。
むしろ反革命派の徹底排除を行い、恐怖政治を推し進めた。

✅【正しくは】
「ジャコバン派は、王政打倒と共和政維持を目指した急進派である。」

【ポイント】
「王政維持=フイヤン派」「王政廃止=ジャコバン派」。

問8
1793年憲法(ジャコバン憲法)は、人民主権と男子普通選挙を定めていた。

解答:〇正しい

🟦【解説】
この憲法は革命期で最も民主的内容を持ち、「生存権」まで明記した革新的文書だった。

【ポイント】
理念の頂点=1793年憲法、現実は未施行。

問9
1793年憲法は公布と同時に施行され、全国で選挙が行われた。

正解:×誤り

🟦【解説】
戦時下の非常事態を理由に、施行は延期。結局一度も実施されなかった。
理念と現実の乖離が恐怖政治の象徴である。

✅【正しくは】
「1793年憲法は制定されたが、施行は延期され未実施に終わった。」

【ポイント】
“理念の憲法”と“現実の恐怖政治”を対で理解。

問10
恐怖政治下では、容疑者法によって反革命の疑いがある者も逮捕・処刑の対象とされた。

解答:〇正しい

🟦【解説】
1793年9月の容疑者法で、証拠不要の逮捕・裁判が合法化。
結果として1万6000人以上が処刑された。

【ポイント】
恐怖政治三本柱=公安委員会・容疑者法・革命裁判所。

問11
恐怖政治の犠牲者の多くは貴族階級であり、民衆の処刑はほとんどなかった。

解答:×誤り

🟦【解説】
実際には処刑者の大多数は一般市民や農民だった。
革命は敵を社会階層でなく「忠誠心」で裁いた点に特徴がある。

✅【正しくは】
「恐怖政治では、一般民衆を含む広範な層が粛清の対象となった。」

【ポイント】
“民衆のための革命が民衆を処刑した”という逆説を理解する。

問12
ロベスピエールは「恐怖なき徳は無益」と述べ、恐怖政治を正当化した。

解答:〇正しい

🟦【解説】
彼の言葉「徳なき恐怖は無力、恐怖なき徳は無益」は有名。
秩序を維持するために徳と恐怖の両立を説いた。

【ポイント】
「徳と恐怖」=ロベスピエールの政治理念の核心。

問13
恐怖政治下で制定された革命暦では、キリスト教の祝祭日が廃止された。

解答:〇正しい

🟦【解説】
1793年、宗教色を排した革命暦(共和暦)を導入。
1年を30日×12か月+余日とし、日曜・聖人名も廃止された。

【ポイント】
反宗教政策の象徴。宗教→理性崇拝への転換。

問14
マリ=アントワネットは、国王処刑後に亡命した。
解答:×誤り。

🟦【解説】
ルイ16世の処刑後、彼女も逮捕・裁判にかけられ、1793年10月ギロチン処刑された。

✅【正しくは】
「マリ=アントワネットは、1793年に革命裁判所で処刑された。」

【ポイント】
「王・王妃・貴族」が象徴的に葬られた年=1793。

問15
恐怖政治は1793年から1796年までの3年間続いた。

解答:×誤り

🟦【解説】
恐怖政治の期間は1793年9月〜1794年7月の約1年。
ロベスピエールの失脚(テルミドール9日)が終焉の印。

✅【正しくは】
「恐怖政治は1793〜1794年の約1年間である。」

【ポイント】
「長期ではない」ことを問うひっかけに注意。

問16
テルミドールのクーデタでは、ロベスピエールが逮捕・処刑された。
解答:〇正しい

🟦【解説】
1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、議会が蜂起。
ロベスピエール派は逮捕・即日処刑され、恐怖政治が終焉した。

【ポイント】
「ロベスピエールの処刑=恐怖政治の終わり」

問17
テルミドール反動後に制定された1795年憲法は、男子普通選挙を定めた。

解答:×誤り

🟦【解説】
1795年憲法では再び制限選挙制へ後退。
穏健なブルジョワ層が政治を担う体制に戻った。

✅【正しくは】
「1795年憲法は制限選挙制を採用し、ブルジョワ共和政を確立した。」

【ポイント】
1793=理想/1795=安定。対比で覚える。

問18
1795年憲法に基づく政府は、総裁政府(ディレクトワール)と呼ばれる。

解答:〇正しい

🟦【解説】
5人の総裁による合議制で、権力集中を防ぐ仕組み。
恐怖政治の反省として設けられた体制だった。

【ポイント】
総裁政府=革命の「安定期」への移行。

問19
国民公会期には、第一共和政が一時的に停止された。

解答:×誤り

🟦【解説】
国民公会期はまさに第一共和政の成立期であり、共和政が停止されたことはない。
ただし、恐怖政治によって「民主主義が形骸化」した点が混乱のもと。

✅【正しくは】
「国民公会期は、第一共和政が実質的に始まった時期である。」

【ポイント】
王政廃止=共和政開始(1792年9月21日)。

問20
国民公会期の革命軍は、徴兵による国民皆兵を原則とした。
解答:〇正しい

🟦【解説】
1793年に国民皆兵制が発動。
全国民が「祖国防衛の義務」を負う制度であり、近代的国民軍の原型となった。

【ポイント】
「徴兵制=国民公会期」「常備軍=旧体制期」。

まとめメモ

分類代表キーワード対比構造
政治王政廃止 → 第一共和政 → 恐怖政治 → テルミドール反動理想→暴力→安定
法制度1793年憲法(普通選挙・生存権) ↔ 1795年憲法(制限選挙・秩序重視)理念 vs 現実
対外対仏大同盟との戦争・国民皆兵制自由を守る戦争が統制国家を生む
社会民衆の反乱(ヴァンデー)・粛清・宗教弾圧革命の逆説「自由の名のもとに自由を奪う」

【総合ポイント】

  • 国民公会期=理念の頂点と現実の崩壊が同居する時期
  • 王政廃止(1792)→処刑(1793)→恐怖政治(1793〜94)→テルミドール反動(1794)→総裁政府(1795)。
  • 「政体変化の年号・憲法・選挙制度」の整理が得点差を生む。
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