ファーティマ朝を分かりやすく解説

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ファーティマ朝(909~1171)は、10〜12世紀にかけて北アフリカから東地中海世界に勢力を広げたシーア派(イスマイール派)のカリフ国家です。

チュニジアを出発点とし、969年にエジプトを征服してカイロを建設すると、ここを新たな首都として紅海と地中海を結ぶ交易ネットワークを掌握し、イスラーム世界の経済と宗教の両面で大きな存在感を示しました。

その成立の背景には、アグラブ朝から受け継いだ北アフリカの基盤や、東方ではブワイフ朝が支配するアッバース朝の弱体化、西方ではアブド=アッラフマーン3世による後ウマイヤ朝のカリフ称号宣言など、同時代の「カリフ鼎立」という国際情勢があります。

こうした分裂状況の中で、ファーティマ朝は中継貿易を通じて莫大な富を蓄え、カイロを商業と学問の中心地へと成長させました。その象徴が、現在まで続くアズハル大学です。

一方で、ハーキムの時代に生まれたドルーズ派の分離や、最終的にサラディンによって王朝が滅ぼされる過程は、宗派対立と政治権力の関係を考える上でも重要なポイントです。

本記事では、こうした流れを整理しながら、ファーティマ朝がイスラーム史と地中海交易に残した意義を、入試で問われやすい視点も交えてわかりやすく解説していきます。

【正誤問題】
ファーティマ朝の台頭は、ブワイフ朝によるバグダード支配と後ウマイヤ朝のカリフ称号宣言という、東西両面でのアッバース朝権威低下と同時進行で起こった。
解答:〇
【解説】
ここは論述にも直結:「アッバース朝の権威低下」+「周辺勢力の自立」=ファーティマ朝成立の国際環境。

10世紀は、東でブワイフ朝がアッバース朝を支配し、西でアブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、その間にファーティマ朝が登場した。

目次

第1章 ファーティマ朝の成立と北アフリカ時代

― イスマイール派国家はいかにして誕生したのか

ファーティマ朝は、エジプト征服以前からすでに北アフリカに確かな基盤を築いていました。

この章では、王朝成立の思想的背景であるイスマイール派の特徴、チュニジアを拠点とした初期国家の形成、そして地中海世界と結びついた経済的成長のプロセスを整理します。

後のカイロ繁栄を理解するためにも、「なぜ北アフリカから出発したのか」を押さえることが重要です。

1.イスマイール派のネットワークと革命運動

ファーティマ朝の原動力となったのは、シーア派の一分派であるイスマイール派の地下宣教ネットワークでした。彼らは各地に宣教師(ダーイー)を送り込み、宗教的救済と社会変革を結びつけた思想を広めていきます。

9世紀末から10世紀初頭にかけて、この運動は北アフリカで急速に支持を拡大しました。

背景には、既存支配層への不満を抱えるベルベル人社会の存在や、アッバース朝の権威低下があります。東方ではすでにブワイフ朝がバグダードを実質支配し、カリフ権威は大きく揺らいでいました。

こうした「中心の弱体化」が、周縁からの新王朝誕生を可能にしたのです。

同時代の西方では、後ウマイヤ朝の君主アブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、イスラーム世界は事実上の「カリフ鼎立」状態へ向かいます。ファーティマ朝は、この分裂した国際環境の中で登場した第三のカリフ国家でした。

2.チュニジアを拠点とする国家形成とアグラブ朝の遺産

ファーティマ朝が最初に拠点としたのは現在のチュニジアです。ここはもともとスンニ派王朝であるアグラブ朝が支配していた地域で、すでに都市行政や軍事制度、地中海交易の基盤が整っていました。

ファーティマ朝はこの「既存インフラ」を巧みに継承しつつ、イスマイール派的正統性を前面に出すことで新体制を構築します。単なる武力征服ではなく、宗教理念と現実政治を結びつけた点に、この王朝の特徴があります。

北アフリカ時代のファーティマ朝は、地中海交易とサハラ交易の結節点を押さえることで財政基盤を固め、次なる展開――すなわちエジプト進出への準備を進めていきました。

【正誤問題】
ファーティマ朝はエジプトで成立した後、勢力を西方のチュニジアへ拡大した。
解答:✕
【ポイント】
順番が逆。チュニジアで成立 → エジプト征服(969年) が正しい。

ファーティマ朝はエジプト成立後に紅海交易へ進出したため、当初は地中海世界との結びつきが弱かった。
解答:✕
【ポイント】
北アフリカ時代から地中海圏に基盤があり、エジプト進出で「紅海ルート」が加わったと考える。

3.969年のエジプト征服へ向かう長期戦略

ファーティマ朝の最終目標は、北アフリカに留まることではなく、イスラーム世界の中心地エジプトを手中に収めることでした。

エジプトはナイル流域の穀倉地帯であると同時に、紅海と地中海を結ぶ要衝でもあります。ここを押さえることで、インド洋方面からの中継貿易を掌握できるからです。

こうして周到な準備の末、969年、ファーティマ軍はエジプトを制圧し、新都カイロを建設します。この出来事は、王朝の重心が「北アフリカの地方政権」から「地中海世界の大国」へと転換した決定的瞬間でした。

後に設立されるアズハル大学は、このカイロ建設と不可分の存在であり、ファーティマ朝が単なる軍事国家ではなく「宗教と学問の中心」を志向していたことを象徴しています。

【正誤問題】
969年のエジプト征服後、ファーティマ朝はカイロを建設し、これを首都として紅海と地中海を結ぶ中継貿易を掌握した。
解答:〇
【解説】
「969年・カイロ建設・紅海交易」はセットで押さえる。

第2章 カイロ時代の繁栄と宗派分化

― 紅海交易国家としての最盛期と内部の揺らぎ

969年のエジプト征服以後、ファーティマ朝は新都カイロを中心に、地中海と紅海を結ぶ交易国家として飛躍的な発展を遂げます。

この章では、経済的繁栄の仕組みと宗教政策、そして王朝内部に生じた分裂を整理し、なぜ最盛期のただ中で不安定化が進んだのかを見ていきます。

1.紅海と地中海を結ぶ中継貿易国家の完成

カイロに遷都したファーティマ朝は、インド洋世界と地中海世界をつなぐ結節点を掌握しました。香辛料や絹織物などの東方産品は紅海沿岸の港に集められ、そこから陸路でカイロへ運ばれ、さらに地中海沿岸へと流通します。

この「紅海―カイロ―地中海」という動線を押さえたことで、王朝は莫大な関税収入を得るようになりました。国家財政は安定し、首都カイロには各地の商人が集まり、都市人口と消費市場が急拡大します。ファーティマ朝は、単なる宗派国家ではなく、国際交易を基盤とする経済大国でもあったのです。

同時代の西方では、後ウマイヤ朝の君主アブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、東方ではアッバース朝がブワイフ朝の影響下に置かれていました。こうした「三つのカリフ政権」が並立する状況の中で、ファーティマ朝は経済力によって独自の存在感を示しました。

【正誤問題】
ファーティマ朝は地中海交易のみを基盤とする王朝で、紅海方面の交易にはほとんど関与しなかった。
解答:✕
【解説】
核心は紅海―カイロ―地中海を結ぶ中継貿易。ここを外すと失点。

2.アズハル大学とイスマイール派支配の制度化

ファーティマ朝は、交易国家としての繁栄と同時に、イスマイール派の教義を国家体制として定着させようとします。その象徴が、カイロに設立されたアズハル大学です。

当初のアズハルは、イスマイール派の教義教育と宣教拠点として機能しました。ここで育成された学者や宣教師が各地へ派遣され、宗教と政治が一体となった統治モデルが形成されていきます。

この点は受験でも重要で、「アズハル=現在のスンニ派最高学府」というイメージだけで覚えてしまうと誤解につながります。成立当初は、ファーティマ朝のイスマイール派国家を支える中枢機関だった、という流れで理解しておく必要があります。

アズハル大学は、シーア派王朝(ファーティマ朝)によって創設され、その後、アイユーブ朝のもとでスンニ派の学問機関として再編・継承された。

(正誤問題)
アズハル大学はスンニ派王朝によって創設され、後にシーア派勢力がこれを利用した。
解答:✕
【解説】
完全な逆パターン。シーア派国家(ファーティマ朝)が創設 → サラディンがスンニ派化。この順番が最重要です。

3.ハーキムの急進政策とドルーズ派の分離

11世紀初頭、王朝の内部に大きな動揺をもたらしたのが、カリフ・ハーキムの統治です。彼は宗教政策や社会規制をたびたび変更し、急進的ともいえる措置を繰り返しました。

この時代に、ハーキムを神格化する思想運動が生まれ、やがてドルーズ派として独立します。ドルーズ派は現在もレバノンやシリアなどに信徒を持つ宗派で、ファーティマ朝期の宗教的分裂が現代中東にまで影響を及ぼしている一例です。

ここで押さえておきたいのは、ファーティマ朝が外からの圧迫だけでなく、内部の宗派的分化によっても統合力を失っていった点です。

第3章 サラディンによる滅亡と歴史的意義

― シーア派カリフ国家の終焉

最盛期を迎えたファーティマ朝でしたが、12世紀に入ると王権は次第に弱体化し、宮廷内部の権力闘争が激化します。

そこへ十字軍の進出という外的圧力が加わり、王朝は決定的な転換点を迎えました。

1.実権の軍事化と王朝の形骸化

後期ファーティマ朝では、宰相や軍司令官が実権を握るようになり、カリフは次第に名目的存在へと後退していきます。国家運営は不安定化し、財政も悪化しました。

この混乱の中で台頭したのが、クルド系武将サラディンです。彼はエジプトの実権を掌握すると、1171年、ファーティマ朝を正式に廃し、スンニ派のアッバース朝カリフの名の下で新体制を築きました。

こうして約2世紀にわたって続いたシーア派カリフ国家は終焉を迎えます。

【正誤問題】
後期ファーティマ朝では宮廷内の権力闘争が激化し、カリフの権威は次第に形骸化した。
解答:〇
【解説】
内的弱体化が滅亡の重要要因。

ファーティマ朝は十字軍によって直接滅ぼされた。
解答:✕
【解説】
最終的に廃したのはサラディン。十字軍は外圧の一因。

2.ファーティマ朝が残したもの

ファーティマ朝の歴史的意義は三点に整理できます。

第一に、イスマイール派による唯一の本格的カリフ国家として、宗派と国家を結びつけた統治モデルを提示したこと。

第二に、カイロを紅海交易の中心都市として発展させ、地中海とインド洋を結ぶ国際経済の要となったこと。

第三に、アズハル大学をはじめとする宗教・学問制度が、王朝滅亡後も長く継承されたことです。

ファーティマ朝は滅びましたが、その都市構造・学問機関・宗派的影響は、現在の中東世界にも深く刻まれています。

【入試対策】イスラーム史におけるファーティマ朝はの立ち位置

― 縦(エジプト)×横(10世紀/11世紀の同時代王朝)×世紀(カリフ鼎立の時代)で俯瞰する

イスラーム史はアッバース朝成立以後もしばらくは「カリフ中心」で理解できますが、10世紀に入ると複数のカリフ政権が並立し、世界は急速に多極化していきます。

ここではファーティマ朝を軸に、「縦」「横」「世紀」という三つの視点から位置づけを整理します。

① 縦のライン:エジプト支配の転換点

まず地域をエジプトに固定します。

エジプトでは、

シーア派のファーティマ朝
スンニ派のアイユーブ朝
軍人政権のマムルーク朝

という縦の連続が成立しています。

この中でファーティマ朝が担った役割は決定的です。北アフリカから進出して969年にカイロを建設し、エジプトを自らの直轄領としたことで、イスラーム世界にシーア派カリフ国家を出現させました。

これは単なる王朝交代ではなく、「カリフ権威の分裂」を現実の政治として固定化した出来事でした。

② 横のライン:10世紀と11世紀で入れ替わる同時代世界【拡張版】

ファーティマ朝の時代を理解するうえで重要なのは、同時代にイスラーム世界の各地域で別々の王朝が並立していたという点です。とくに10世紀と11世紀では、主役となる勢力が大きく入れ替わります。

◆10世紀の横軸(イラン系王朝と「カリフ鼎立」の時代)

10世紀のイスラーム世界では、名目的中心であるアッバース朝の権威のもとで、実際にはイラン系諸王朝が各地を支配していました。

東イラン〜中央アジアでは サーマーン朝 が繁栄し、ペルシア文化復興の中心となります。さらに中央アジアではトルコ系の カラ=ハン朝 が台頭し、イスラーム化が進みました。

一方、バグダード周辺では ブワイフ朝 が実権を掌握し、アッバース朝カリフは政治的には傀儡化していきます。

これと同時に、

  • エジプト:ファーティマ朝
  • イラク:アッバース朝(実権はブワイフ朝)
  • イベリア半島:後ウマイヤ朝

という三つのカリフ政権が並立し、いわゆるカリフ鼎立体制が成立しました。

つまり10世紀は、

アッバース(バグダード)
ファーティマ(カイロ)
後ウマイヤ(コルドバ)

という三極構造のもとで、東方ではサーマーン朝・カラ=ハン朝、西方では後ウマイヤ朝が並び立つ、多極化の時代だったのです。

【正誤問題】
アッバース朝は10世紀に入っても実質的な政治権力を保持し、ファーティマ朝のエジプト進出を軍事的に阻止した。
解答:✕
【解説】
当時のアッバース朝はブワイフ朝の支配下にあり、政治的実権を失っていました。この“名目カリフ+実権ブワイフ朝”が超重要。

◆11世紀の横軸(トルコ系王朝による再編)

11世紀に入ると、この構図は大きく変化します。

イラン・イラク方面ではトルコ系の セルジューク朝 が急成長し、バグダードに入城してアッバース朝カリフを保護下に置き、スンニ派秩序の再編を主導します。

一方、アフガニスタン方面から北インドにかけては ガズナ朝 が拡張を進め、イスラーム勢力のインド進出を本格化させました。中央アジアでは引き続き カラ=ハン朝 が存続しています。

西イスラーム圏では後ウマイヤ朝が崩壊し、その後継として ムラービト朝 が北アフリカからイベリア半島へ進出しました。

結果として11世紀のイスラーム世界は、

  • 東:セルジューク朝(スンニ派再編の中心)
  • 南東:ガズナ朝(インド方面への拡張)
  • 中央:ファーティマ朝(シーア派カリフ国家)
  • 西:ムラービト朝(西イスラーム統合)
  • 中央アジア:カラ=ハン朝

という新たな多極構造へ移行します。

ファーティマ朝はこの中で、唯一のシーア派カリフ国家として存続し続けた存在でした。

③ 世紀の性格:カリフ権威が分裂した時代

10〜11世紀の最大の特徴は、イスラーム世界に複数の「正統」が並び立ったことです。

ファーティマ朝は自らを正統カリフと称し、アッバース朝の権威に正面から対抗しました。同時に、西では後ウマイヤ朝もカリフを称しており、宗派と地域の両面でイスラーム世界は分裂していました。

この分裂構造は、後の時代に大きな影響を残します。エジプトがシーア派国家となったことで、12世紀に サラディン がファーティマ朝を廃してスンニ派体制へ転換することは、単なる王朝交代ではなく「分裂時代の清算」という意味を持つ出来事となりました。

④ 重要論述問題

ファーティマ朝はいかなる歴史的背景のもとで成立し、同時代のイスラーム世界にどのような影響を与えたか、説明せよ。

10世紀、東方ではアッバース朝がブワイフ朝の支配下に入り、西方では後ウマイヤ朝の君主アブド=アッラフマーン3世がカリフを称するなど、イスラーム世界は分裂していた。この状況の中で、シーア派イスマイール派を掲げるファーティマ朝は北アフリカで成立し、969年にエジプトを征服してカイロを建設した。こうして第三のカリフ国家として登場し、宗派と政治を結びつけた新たな統治モデルを提示するとともに、紅海と地中海を結ぶ交易国家として大きな影響力を持った。

ファーティマ朝が経済的に繁栄した理由を、地理的条件と交易の観点から説明せよ。

ファーティマ朝はエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ要衝カイロを首都とした。これによりインド洋方面からの香辛料や織物などを紅海経由で集め、地中海世界へ再輸出する中継貿易を掌握した。紅海―カイロ―地中海という流通経路を押さえたことで関税収入が増大し、国家財政が安定した。こうした国際交易の独占が、ファーティマ朝の都市発展と長期的繁栄を支えた。

ファーティマ朝の宗教政策の特徴と、その歴史的意義を述べよ。

ファーティマ朝はイスマイール派を国教とし、宗教と国家権力を一体化させた点に特徴がある。その中心機関としてカイロにアズハル大学を設立し、宣教と学問を通じて教義の制度化を進めた。一方、ハーキムの時代には彼を神格化する思想からドルーズ派が分離するなど、内部の宗派的分裂も生じた。こうした宗教政策は、シーア派国家の可能性を示すと同時に、統合の難しさも浮き彫りにした。

ファーティマ朝はなぜ滅亡したのか。内的要因と外的要因の両面から説明せよ。

後期ファーティマ朝では宮廷内の権力闘争が激化し、カリフの権威は形骸化した。加えて宗派分裂によって社会的統合力も低下した。こうした内的弱体化の中で十字軍の進出という外圧が加わり、軍事指導者が実権を握る体制へと移行する。最終的にサラディンがエジプトを掌握し、1171年に王朝を廃してスンニ派体制へ転換したことで、シーア派カリフ国家としてのファーティマ朝は終焉を迎えた。

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