サーマン朝(875~999年)をわかりやすく解説―イスラーム化とペルシア復興の交差点

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サーマン朝は、9〜10世紀に中央アジアからイラン東部にかけて成立したイラン系王朝です。

名目的にはアッバース朝カリフの宗主権を認めつつ、実質的には自立した統治を行い、都ブハラを中心に安定した国家運営と高度な文化的繁栄を実現しました。

この王朝の最大の特徴は、イスラームを受容しながらもペルシア語文化を公的に復興・保護した点にあります。

イスラーム帝国の拡大後、多くの地域ではアラビア語とアラブ的統治様式が優位となりました。

しかしサーマン朝は、行政や文学の場で新ペルシア語を積極的に用い、詩人や学者を庇護することで「イスラーム化されたペルシア世界」という新たな文明モデルを打ち立てます。これは後のガズナ朝やセルジューク朝、さらにはイラン世界全体の文化的基調を形づくる重要な先例となりました。

また政治史の観点でも、サーマン朝はアッバース朝権威の地方化が進む時代において、イラン系官僚層とトルコ系軍事勢力の協働という統治構造を先取りした存在です。この枠組みは後続王朝に広く継承され、イスラーム世界の中世国家の基本形となっていきます。

つまりサーマン朝は、単なる地方王朝ではなく、「アラブ帝国」から「多民族イスラーム世界」への転換点を体現した王朝でした。

本記事では、その成立背景から統治体制、文化的意義、そして後世への影響までを整理し、イスラーム史全体の流れの中でサーマン朝が果たした役割を受験にも役立つ形で読み解いていきます。

目次

第1章 サーマン朝の成立 ― アッバース朝の地方化とイラン系王朝の台頭

サーマン朝は、9世紀の中央アジアに成立したイラン系王朝です。

形式上はアッバース朝カリフの宗主権を認めながらも、実際には高度な自治を行い、独自の政治と文化を発展させました。

その成立は、イスラーム帝国が一体的な「アラブ帝国」から、多民族的な地域国家群へと転換していく過程を象徴しています。

この章では、サーマン朝がどのような歴史的条件のもとで誕生し、いかなる基盤の上に国家を築いたのかを整理します。

【正誤問題】
サーマン朝は「アラブ帝国」的性格から、「多民族イスラーム国家」への転換点を示す王朝である。
解答:〇
☞ 歴史的意義を問う正誤でよく使われる表現です。

1.アッバース朝の地方分権化とサーマン家の台頭

サーマン朝の起点となったサーマン家は、もともとアッバース朝の地方総督として中央アジアを統治していました。9世紀に入ると、アッバース朝は財政難や軍事力の分散により、各地を直接支配する力を失っていきます。

この結果、地方では在地有力者が徴税・軍事・行政を担う体制が広がりました。サーマン家もこの流れの中で勢力を拡大し、名目的にはカリフに忠誠を誓いながら、実質的には世襲王朝として自立していきます。

ここで重要なのは、サーマン朝が「反カリフ的」な王朝ではなかった点です。カリフの権威を利用しつつ、現実の統治は現地で完結させるという構造は、後のガズナ朝やセルジューク朝にも共通する、中世イスラーム国家の典型的なあり方となりました。

【正誤問題】
サーマン朝はアッバース朝から完全に独立し、カリフの権威を否定する王朝として成立した。
解答:×
☞ 名目的にはカリフの宗主権を認めつつ、実質的に自立していました。「完全独立」「反カリフ」は典型的な誤りです。

2.ブハラの発展と東西貿易に支えられた国家基盤

王朝の中心都市となったのがブハラです。ブハラは政治的首都であると同時に、宗教・学問・商業が集中する国際都市へと成長しました。

とくに見逃せないのが、ブハラが東西貿易の要衝に位置していた点です。中国方面からの絹や陶磁器、イラン・西アジア側からの織物・金属製品・書物などがこの地域を経由し、ユーラシア規模の交易ネットワークが形成されていました。サーマン朝の安定した統治は、この東西貿易を活性化させ、国家財政と都市文化の双方を支える重要な土台となります。

こうした商業的繁栄を背景に、サーマン朝は官僚制度を整備し、学者や詩人を保護する余力を持つようになります。政治的自立だけでなく、文化的発展が可能となったのは、この交易ネットワークの存在が大きかったといえるでしょう。

3.イラン系官僚とトルコ系軍人、そしてカラハン朝の圧迫

サーマン朝の統治体制は、イラン系官僚による行政運営と、トルコ系軍人による軍事力を組み合わせた点に特徴があります。これは後のイスラーム諸王朝に広く継承されるモデルで、「文治」と「武断」の分業構造がこの時期に明確化しました。

しかし10世紀後半になると、北東からトルコ系のカラハン朝が台頭し、サーマン朝の領域を圧迫します。最終的に999年、ブハラが占領されることでサーマン朝は滅亡しました。

もっとも、その政治制度、都市文化、そしてペルシア語復興の流れは、後続のガズナ朝やセルジューク朝へと受け継がれていきます。サーマン朝は短命に終わったものの、イスラーム世界東部の国家モデルを形づくった点で、きわめて大きな歴史的意義を持っていました。

【正誤問題】
サーマン朝はトルコ系王朝であり、中央アジアの遊牧勢力を基盤として成立した。
解答:×
☞ サーマン朝はイラン系王朝です。軍事にトルコ系を用いただけで、王朝そのものはペルシア系。

第2章 文化政策とペルシア復興 ― イスラーム世界における新たな文明モデル

サーマン朝がイスラーム史上で特別な位置を占める最大の理由は、単なる地方王朝にとどまらず、「イスラーム化されたペルシア文化」という新しい文明のかたちを確立した点にあります。

アラブ人主導で始まったイスラーム帝国の中で、サーマン朝はイラン的伝統を積極的に復活させ、それをイスラーム世界の正統文化として再構築しました。この章では、その具体像を見ていきます。

1.新ペルシア語の公的採用と文学の保護

初期イスラーム世界では、行政や学問の中心言語はアラビア語でした。しかしサーマン朝は、宮廷や行政の場で新ペルシア語を積極的に用いるようになります。これは単なる言語選択ではなく、「イラン世界の復権」を意味する象徴的な政策でした。

このもとで詩人や学者が庇護され、ペルシア語文学が本格的に発展します。後世に叙事詩『シャー・ナーメ』を完成させた詩人フェルドウスィーも、このサーマン朝文化圏の流れの中から生まれた人物です。

ここで重要なのは、ペルシア文化が「イスラーム以前への回帰」としてではなく、イスラーム的価値観と融合した形で再生された点です。これにより、以後の東方イスラーム世界では、アラビア語=宗教・学問、ペルシア語=宮廷文化・文学という役割分担が定着していきます。

【正誤問題】
フェルドウスィーはサーマン朝文化圏の流れの中で活動した詩人であり、ペルシア文学復興と深く関係する。
解答:〇
☞ サーマン朝=ペルシア語復興 → フェルドウスィー、という文化史ラインはよく問われます。

サーマン朝ではアラビア語行政が徹底され、ペルシア語は公的には用いられなかった。
解答:×
☞むしろ逆で、新ペルシア語を行政・宮廷文化に積極採用した点が最大の特徴です。

2.ブハラを中心とする学問と都市文化

文化復興の中心となったのが首都ブハラでした。ブハラは政治都市であると同時に、モスク・マドラサ・図書館が集まる学術都市として発展します。

ここではイスラーム法学や神学だけでなく、医学・数学・天文学などの世俗的学問も盛んに研究されました。サーマン朝は学者を国家的に保護し、知的活動を都市の中核に据えた点で、後のイスラーム都市文化の原型を示したといえます。

また前章で触れた東西貿易の繁栄は、こうした学問活動を物質的に支える基盤でもありました。交易によって富が集まり、その余力が文化投資へと回された構図です。政治・経済・文化が連動して発展した点は、サーマン朝の大きな特徴でした。

【正誤問題】
首都ブハラは、東西貿易の結節点として発展し、学問・宗教・商業が集中する都市となった。
解答:〇
☞ ブハラの繁栄=東西貿易+学術都市、は定番セットです。

3.後世への影響 ― ガズナ朝・セルジューク朝への継承

サーマン朝そのものは10世紀末に滅亡しますが、その文化的遺産は消えませんでした。むしろ、後継政権であるガズナ朝やセルジューク朝に受け継がれ、さらに広い地域へと拡散していきます。

とくに、

・ペルシア語を宮廷文化の中心とする体制
・イラン系官僚による行政運営
・学者・詩人を保護する国家姿勢

といった要素は、その後のイスラーム東方世界の「標準モデル」となりました。

つまりサーマン朝は、自らの王朝寿命以上に長い影響力を持ち、イランから中央アジアにかけてのイスラーム文明の方向性を決定づけた存在だったのです。

第3章 政治制度と軍事構造 ― イラン系官僚とトルコ系軍人の分業体制

サーマン朝のもう一つの重要な特徴は、政治と軍事を明確に分離した統治構造にあります。これは後のイスラーム諸王朝に広く継承されるモデルであり、「中世イスラーム国家の原型」ともいえる体制でした。

この章では、サーマン朝がどのように国家を運営し、なぜトルコ系軍人の存在が決定的になっていったのかを見ていきます。

1.イラン系官僚による行政国家の形成

サーマン朝の行政運営を支えたのは、伝統的なイラン系官僚層でした。彼らは徴税、司法、文書行政などを担当し、王朝の実務を一手に担います。

この官僚制は、ササン朝以来のペルシア的統治技術を継承しつつ、イスラーム法と結びついた形で再編されたものでした。王権はこれらの官僚機構を通じて地方社会を管理し、都市と農村の双方から安定した税収を確保します。

ここで重要なのは、サーマン朝が単なる軍事政権ではなく、「書記官僚による文治国家」であった点です。ペルシア語行政の定着や文書主義の発達は、この官僚層の存在なしには実現しませんでした。

2.トルコ系軍人の登用と常備軍化

一方、軍事面を担ったのは主としてトルコ系の軍人たちでした。彼らは中央アジア草原地帯から導入された騎馬戦闘に長けた兵士で、多くは奴隷身分から訓練された職業軍人(いわゆるマムルーク的存在)として編成されます。

サーマン朝は彼らを常備軍として組織し、王朝直属の軍事力としました。これは、地方豪族の私兵に依存しない体制を作る試みであり、中央集権的支配を維持するための重要な工夫でした。

この結果、

・行政=イラン系官僚
・軍事=トルコ系軍人

という役割分担が明確化します。文治と武断を分離するこの構造は、その後のイスラーム世界で繰り返し採用される基本パターンとなります。

【正誤問題】
サーマン朝は短命であったため、後世のイスラーム国家にはほとんど影響を与えなかった。
解答:×
☞ 実際は逆。ペルシア語行政+官僚国家+トルコ系常備軍というモデルが、以後の標準になります。

3.軍事力の自立化と王朝衰退への伏線

しかしこの仕組みは、同時に王朝の不安定化要因も内包していました。トルコ系軍人は次第に発言力を強め、宮廷政治に介入するようになります。軍事力を握る者が実権を持つという構図が生まれ、官僚と軍人の緊張関係が拡大していきました。

やがてサーマン朝の内部統制は弱まり、配下のトルコ系将軍たちは独自の政権を樹立します。その代表例がガズナ朝です。ガズナ朝は形式上サーマン朝の家臣から出発しましたが、実質的には独立国家として東方イスラーム世界に新たな勢力圏を築きました。

このように、サーマン朝が育成したトルコ系軍事勢力は、王朝を支える柱であると同時に、最終的にはその解体を促す存在にもなったのです。

第4章 滅亡と歴史的意義 ― 王朝は消えても、モデルは残った

サーマン朝は10世紀末に滅亡しますが、その政治制度と文化的枠組みは、後続王朝によって広く継承されました。つまりサーマン朝は「短命な地方王朝」ではなく、イスラーム世界東部の国家モデルを決定づけた転換点だったのです。

この章では、王朝滅亡の過程と、その後に残した長期的な影響を整理します。

1.カラハン朝の侵入とブハラ陥落

10世紀後半、サーマン朝は内政の混乱と軍事力の弱体化に直面します。イラン系官僚とトルコ系軍人の緊張関係、地方勢力の自立化が進み、中央の統制は次第に崩れていきました。

そこへ北東から圧力をかけてきたのが、トルコ系王朝のカラハン朝です。999年、首都ブハラが占領され、ここにサーマン朝は正式に滅亡しました。

注目すべきは、この滅亡が単なる外敵侵入だけで説明できない点です。すでに内部では軍事勢力の自立が進み、王朝の統合力は大きく低下していました。カラハン朝の侵攻は、その「最後の一押し」にすぎなかったともいえます。

2.ガズナ朝の台頭と勢力圏の再編

サーマン朝の崩壊と並行して、東方ではトルコ系将軍を基盤とするガズナ朝が急成長します。もともとサーマン朝の配下にあった軍事勢力が独立し、新たな王朝としてイラン東部からインド方面へ勢力を広げていきました。

この結果、

・中央アジア北部はカラハン朝
・イラン東部〜インド方面はガズナ朝

という形で、サーマン朝の旧領は再編されます。

ここで重要なのは、支配者が交代しても、行政制度や文化の基盤はサーマン朝時代の枠組みが引き継がれた点です。ペルシア語行政、イラン系官僚、トルコ系軍人という構造は、そのまま次の時代へ移行していきました。

【正誤問題】
ガズナ朝はサーマン朝を直接滅ぼした王朝である。
解答:×
☞ サーマン朝を滅ぼしたのはカラハン朝。ガズナ朝は「配下のトルコ系軍人勢力が独立した国家」
ここは頻出ひっかけです。

3.サーマン朝の歴史的意義 ― 中世イスラーム国家の原型

サーマン朝の最大の意義は、以下の三点に集約できます。

第一に、イスラームとペルシア文化を融合させ、「イスラーム化されたペルシア世界」という新しい文明モデルを確立したことです。これは後のガズナ朝・セルジューク朝、さらにはイラン世界全体の文化的基調となりました。

第二に、イラン系官僚とトルコ系軍人の分業体制を制度化し、中世イスラーム国家の基本構造を提示した点です。このモデルは以後何世紀にもわたって繰り返し採用されます。

第三に、東西貿易と都市文化を結びつけ、ブハラのような学術都市を中心とする国家運営を実現したことです。政治・経済・文化を一体化させたこのあり方は、イスラーム都市文明の完成形の一つといえます。

王朝そのものは消滅しましたが、サーマン朝が作り上げた「国家のかたち」は生き残りました。だからこそサーマン朝は、イスラーム史において「滅びた王朝」ではなく、「後世を方向づけた王朝」と評価されるのです。

【入試対策】イスラーム史におけるサーマン朝の立ち位置

― 縦(中央アジア)×横(10世紀/11世紀の同時代王朝)×世紀(多極化の時代)で俯瞰する

イスラーム史はアッバース朝成立以後もしばらくは「カリフ中心」で理解できますが、10世紀に入ると各地で自立政権が並立し、世界は急速に多極化していきます。

ここではサーマン朝を軸に、「縦」「横」「世紀」という三つの視点から、その歴史的位置づけを整理します。

① 縦のライン:中央アジア支配の転換点

まず地域を中央アジア〜東イランに固定します。

この地域では、

イラン系のサーマン朝
トルコ系のカラハン朝
トルコ系軍人国家のガズナ朝

という縦の連続が成立しています。

この中でサーマン朝が担った役割は決定的です。

9〜10世紀にかけて、首都ブハラを中心に中央アジアを統合し、イスラーム世界東方における最初の本格的な「イラン系官僚国家」を築きました。

サーマン朝は、

・ペルシア語行政の復活
・イラン系官僚による文治
・トルコ系軍人による武断

という統治モデルを確立し、以後の東方イスラーム国家の基本構造を提示した王朝でした。

言い換えれば、ここで初めて「アラブ中心の帝国」から「多民族イスラーム国家」への転換が、中央アジアでも制度として固定化したのです。

② 横のライン:10世紀と11世紀で入れ替わる同時代世界

サーマン朝を理解するうえで重要なのは、同時代にイスラーム世界の各地域で別々の王朝が並立していた点です。とくに10世紀と11世紀では、主役となる勢力が大きく入れ替わります。

◆10世紀の横軸(イラン系王朝と「カリフ鼎立」の時代)

10世紀のイスラーム世界では、名目的中心であるアッバース朝の権威のもとで、実際にはイラン系諸王朝が各地を支配していました。

東イラン〜中央アジアではサーマン朝が繁栄し、ペルシア文化復興の中心となります。さらに中央アジア北部ではトルコ系のカラハン朝が台頭し、遊牧世界のイスラーム化が進みました。

一方、バグダード周辺ではブワイフ朝が実権を掌握し、アッバース朝カリフは政治的には傀儡化していきます。

これと同時に、

エジプト:ファーティマ朝
イラク:アッバース朝(実権はブワイフ朝)
イベリア半島:後ウマイヤ朝

という三つのカリフ政権が並立し、いわゆるカリフ鼎立体制が成立しました。

つまり10世紀は、

バグダード(アッバース)
カイロ(ファーティマ)
コルドバ(後ウマイヤ)

という三極構造のもとで、東方ではサーマン朝・カラハン朝、西方では後ウマイヤ朝が並び立つ、多極化の時代だったのです。

【正誤問題】
10世紀のアッバース朝は中央集権的支配を維持し、サーマン朝の自立を軍事的に抑え込んだ。
解答:✕
☞ 当時のアッバース朝はブワイフ朝の支配下にあり、政治的実権を失っていました。サーマン朝は「名目上は服属・実態は自立」という典型例です。

◆11世紀の横軸(トルコ系王朝による再編)

11世紀に入ると、この構図は大きく変化します。

イラン・イラク方面ではトルコ系のセルジューク朝が急成長し、バグダードに入城してアッバース朝カリフを保護下に置き、スンニ派秩序の再編を主導します。

一方、アフガニスタン方面から北インドにかけてはガズナ朝が拡張を進め、イスラーム勢力のインド進出を本格化させました。中央アジアでは引き続きカラハン朝が存続しています。

結果として11世紀のイスラーム世界は、

西:ムラービト朝
中央:ファーティマ朝
東:セルジューク朝
南東:ガズナ朝
中央アジア:カラハン朝

という新たな多極構造へ移行します。

この再編の出発点にあったのが、10世紀サーマン朝体制の崩壊でした。

③ 世紀の性格:イラン系からトルコ系へ移る転換期

10〜11世紀の最大の特徴は、支配主体が以下のように移行した点にあります。

イラン系官僚国家(サーマン朝など)

トルコ系軍事国家(ガズナ朝・セルジューク朝)

サーマン朝はこの転換の「起点」に位置する王朝でした。

サーマン朝自身はイラン系王朝ですが、トルコ系軍人を常備軍として組織したことで、結果的にガズナ朝のようなトルコ系国家を生み出します。つまりサーマン朝は、自らの後継勢力を内部から育ててしまった王朝でもありました。

この意味でサーマン朝の滅亡(999年)は、「イラン系主導の時代」から「トルコ系主導の時代」への構造転換を象徴する出来事だったのです。

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