ときおぼえ世界史– category –
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ライン同盟の結成(1806年)と神聖ローマ帝国の崩壊|ナポレオン支配がもたらしたドイツ再編
ライン同盟とは、1806年にナポレオンの主導で結成されたドイツ諸邦の連合体であり、神聖ローマ帝国の崩壊を決定づけた組織です。ナポレオンのヨーロッパ支配は、単なる征服ではなく、旧体制の秩序そのものを作り替える試みでもありました。1806年に結成さ... -
サライェヴォ事件とは何か|第一次世界大戦の引き金となった暗殺事件をわかりやすく解説
1914年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォで起きた一発の銃弾が、世界を未曾有の戦争へと導きました。 オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア系青年に暗殺されたサライェヴォ事件は、表面上は一つの暗殺事件にすぎません。 しかしその背後... -
ドイツ帝国体制と権威主義|ビスマルク体制が生んだ立憲専制国家の構造
1871年、普仏戦争の勝利によって成立したドイツ帝国は、ヨーロッパにおける新たな大国として君臨しました。 皇帝ヴィルヘルム1世を頂点とし、鉄血宰相ビスマルクが築き上げたこの体制は、憲法を持つ「立憲国家」でありながら、同時に強大な軍と官僚が支配... -
ビスマルクの鉄血政策と現実主義外交|理念を超えたドイツ統一への道
19世紀中葉、ドイツ統一をめぐっては、自由主義的な理念のもとで議会を中心に国民国家を築こうとする動きが高まっていました。 しかし、1848年革命の失敗により理想主義的な統一は頓挫し、現実的な政治力と軍事力による統一が模索されるようになります。そ... -
普墺戦争とオーストリア帝国の衰退|多民族国家の限界と改革への転機
1866年の普墺戦争は、オーストリア帝国にとって歴史的な転換点となりました。 この戦争の敗北によって、長年ドイツ世界の中心に君臨してきたハプスブルク家は、その覇権を失います。 しかし、この敗戦は単なる屈辱ではありませんでした。 むしろ、多民族国... -
普墺戦争とプロイセンの勝利|ビスマルク外交と軍事改革が導いた統一への道
普墺戦争(ふおうせんそう)とは、1866年にプロイセンとオーストリアのあいだで勃発した、ドイツ統一の主導権をめぐる決定的な戦争です。この七週間戦争で、長年ドイツ連邦の中心的存在だったオーストリアを打ち破り、プロイセンは一気にドイツ世界の覇権... -
北ドイツ連邦からドイツ帝国へ|ビスマルクが築いた統一ドイツの軌跡
北ドイツ連邦とは、1867年にプロイセンの主導で結成された、北ドイツ諸邦による連邦国家であり、のちのドイツ帝国(1871)の原型となった政治体制です。1866年の普墺戦争に勝利したプロイセンは、オーストリアを排除してこの連邦を創設しました。ビスマル... -
オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立と意義|大ドイツ主義の終焉とバルカン問題への火種
オーストリア=ハンガリー二重帝国とは、1867年にオーストリアがハンガリーと妥協して成立させた、君主と制度を共有する二重構造の帝国体制です。1866年の普墺戦争でプロイセンに敗れたオーストリアは、ドイツ統一から事実上排除されることになります。し... -
プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はなぜドイツ皇帝を拒否したのか|王権神授説と自由主義の衝突
1848年、ヨーロッパを席巻した「二月革命」の波はドイツにも及び、民族統一と自由を求める人々が立ち上がりました。 革命の熱気の中で、ドイツ諸邦の代表が集まり、フランクフルト国民議会が開かれます。 ここで議会は、ドイツ統一国家の樹立を掲げ、プロ... -
大ドイツ主義と小ドイツ主義の違い|ドイツ統一をめぐる理念と対立
大ドイツ主義とは、19世紀のドイツ統一をめぐる議論の中で、オーストリアを含めた統一を目指す立場を指します。これに対して、小ドイツ主義はプロイセンを中心にオーストリアを除外する統一を志向する構想です。この二つの主義は、単なる領土の範囲をめぐ...