総裁政府とは何か|フランス革命が迎えた共和制の限界とナポレオン台頭の必然

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総裁政府(1795〜1799)は、ロベスピエールの恐怖政治を終わらせた後に登場した、フランス革命最後の政体です。

1795年憲法のもとで誕生したこの体制は、「権力分立による安定」と「急進からの脱却」を掲げながらも、腐敗と分裂、そして軍の台頭によって崩壊へ向かいました。

本記事では、総裁政府の成立背景・政治構造・崩壊の過程を通して、フランス革命がいかにして理想から現実へと折り合いをつけ、やがてナポレオンという新たな時代を生んだのかを読み解いていきます。

目次

第1章:総裁政府の成立背景 ― テルミドールの反動と1795年憲法の理念

総裁政府の誕生は、フランス革命が掲げた「自由」と「平等」という理念が、現実政治の中で限界を迎えた瞬間でもありました。

ロベスピエールの失脚後、フランスは恐怖政治の終焉とともに、秩序と安定を最優先する政治へと転換していきます。

しかし、その「安定」こそが革命の精神を変質させ、やがて理想の終焉を意味することになるのです。

ここでは、総裁政府を生み出した1795年憲法の理念と、その背後にある社会的要請を整理します。

1. 恐怖政治の終焉と「安定」への転換

1794年7月、テルミドール9日のクーデタによってロベスピエールが処刑され、恐怖政治は終わりを迎えました。

しかし、その代償はあまりに大きく、国民は「平等」よりも「平穏」を求めるようになります。

このとき政権を握ったのは、ジャコバン派を排除したテルミドール派と呼ばれる中間層でした。

彼らは、急進的な政策による混乱と、王政復古の危険の両方を避けながら、「中庸の共和制」を築こうとします。

つまり、恐怖政治による専制も、民衆運動による暴力も拒否し、秩序の回復こそが最大の政治課題とされたのです。

この「安定志向」は、革命の初期に見られた理念的熱狂とは正反対のものでした。

すでに革命は、思想の戦いではなく「体制の維持」をめぐる現実政治へと変質していたのです。

2. テルミドールの反動 ― 穏健派ブルジョワジーの再台頭

テルミドール派の多くは、財産を有するブルジョワ層でした。

彼らは恐怖政治期に没収・再分配された財産の再安定を望み、革命初期に獲得した「所有権の自由」を再び守ろうとします。

つまり、彼らにとって「自由」とは政治的理想ではなく、経済的安定の保証を意味していたのです。

そのため、民主主義よりも財産資格を重視し、貧困層やサンキュロットが政治に再び関与することを警戒しました。

このようにして、1795年の新体制は「富裕層による穏健な共和国」という性格を帯びていきます。

ロベスピエール体制が「平等のための恐怖」であったなら、総裁政府は「所有のための安定」でした。

それは革命の理念を引き継ぎつつも、方向性を根本的に変えた体制だったのです。

3. 1795年憲法の制定 ― 権力分立と二院制の実験

こうした背景のもとで、国民公会は新たな憲法を起草します。

それが1795年憲法(総裁政府憲法)であり、恐怖政治の再来を防ぐために徹底した権力分立を採用しました。

主な特徴は以下の通りです。

  • 行政権:5人の総裁による合議制(任期5年・毎年1人改選)
  • 立法権:二院制(五百人会と元老院)による分権構造
  • 被選挙権:一定の財産を持つ男性市民に限定
  • 人権宣言の修正:社会権や生存権を削除し、所有権と自由権を中心に再構成

この体制は、モンテスキューの『法の精神』を反映した理想主義的な試みでした。

しかし、問題はその理念の美しさが、政治の有効性を犠牲にしていた点にありました。

権力を細分化するあまり、国家が緊急時に意思決定を下せない――それが総裁政府の宿命的な欠陥となったのです。

4. 分立が生んだ「責任の不在」 ― 理念の裏側

恐怖政治を避けるために設計された分立構造は、結果的に「誰も責任を取らない政治」を生み出しました。

五百人会と元老院の間では法案が行き来するばかりで、決定までに時間がかかり、実行力が失われます。

行政側でも、五人の総裁の意見が一致せず、派閥抗争が常態化しました。

「権力を集中させない」という理念は、逆に「国家を運営できない」現実を招きます。

この矛盾が、フランス国民に「強い指導者」への渇望を生み、のちにナポレオンの台頭を正当化する土壌となりました。

つまり、総裁政府はナポレオンを「倒した英雄」ではなく、「呼び寄せた体制」だったのです。

5. 総裁政府の理念的意義 ― 革命の“制度化”の試み

それでもなお、総裁政府は革命史の中で無意味な過渡期ではありません。

この体制こそ、フランス革命が初めて理念を制度として定着させようとした実験でした。

恐怖政治が理念の暴走なら、総裁政府は理念の冷却化――つまり、理性による統治の試みだったのです。

ただし、それは同時に「理念の生命を失った制度」でもありました。

人々が心から信じる「共和国」ではなく、形だけの「共和国」を維持することが目的となっていたのです。

この自己矛盾が、わずか4年後のブリュメール18日のクーデタへとつながります。

そして、革命の理想はナポレオンという新たな政治的現実の中で再定義されていくことになるのです。

次章では、こうして制度として成立した総裁政府が、なぜ急速に機能不全へと陥ったのか――

「政治腐敗」「民衆の離反」「軍の政治化」という三つの崩壊要因を軸に、共和国最後の数年間を検証していきます。

第2章:政治腐敗と社会不安 ― 理念なき共和国の崩壊

総裁政府は、恐怖政治を否定し安定を掲げて出発したにもかかわらず、わずか4年で崩壊しました。

その原因は単なる個人の失政ではなく、制度そのものが抱えた欠陥――「分立による停滞」と「理念の喪失」にありました。

この章では、政治の腐敗、経済危機、軍の政治化という三つの要素が、いかにして共和国を内部から崩壊させていったのかをたどります。

1. 政治腐敗の構造 ― 「合議制」が生んだ責任の分散

総裁政府の最大の特徴は、5人の総裁による合議制でした。

しかしそれは、権力の集中を防ぐという理念とは裏腹に、責任の分散と腐敗の温床を生み出しました。

五人のうち誰も最終責任を負わず、決定は妥協と取引の産物となります。

派閥は利権と結びつき、職位は売買され、賄賂が政治の潤滑油となっていきました。

総裁の一人、バラスは社交界の中心人物として知られ、豪奢な生活と買収政治の象徴とみなされます。

彼が「恐怖政治を終わらせた英雄」と称えられながら、同時に「腐敗の体現者」とされたのは象徴的です。

この時代のパリでは、政治の理念は取引の言葉に置き換えられ、共和国は形式だけの装飾となっていました。

2. 経済の混乱と民衆の不満 ― 革命の果実の消失

政治的腐敗に拍車をかけたのが、深刻な経済不安でした。

戦費による財政圧迫と、革命期の紙幣(アッシニア)価値の暴落によって、生活物資の価格は高騰します。

さらに、徴兵と戦争の長期化によって農村は荒廃し、都市では失業者が溢れました。

この時期の庶民にとって、「自由」「平等」といった理念は、空腹の前では無力な言葉でした。

1790年代後半のパリでは、パン価格の高騰により暴動が相次ぎ、政府は民衆運動を「治安問題」として抑え込みます。

総裁政府は、社会的安定を経済政策ではなく弾圧で維持しようとしたのです。

その結果、民衆の政治への信頼は失われ、共和制は「ブルジョワのための政府」として疎外されていきました。

3. 革命の理念の空洞化 ― 「自由」は「放任」に、「平等」は「格差」に

ロベスピエール期の「平等のための統制」は、確かに過剰でした。

しかし、その反動として現れた総裁政府の「自由の尊重」は、実質的には国家の統治力放棄でした。

市場は放任され、富裕層と貧困層の格差が拡大。

政治的自由が形式的に認められていても、それを活かす社会的条件が存在しませんでした。

つまり、総裁政府の「自由」は、強者のための自由であり、弱者にとっては不安定と混乱を意味しました。

フランス革命が掲げた三大理念――自由・平等・友愛――は、いずれも実体を失い、制度だけが残る「理念の抜け殻」となっていたのです。

4. 軍の政治化とナポレオンの台頭 ― 信頼の重心の移動

政治が停滞する一方で、軍だけが組織的・機能的に力を発揮していました。

フランス革命以来、軍は「国民の軍」として大量動員され、共和国防衛の象徴とされてきました。

しかし、総裁政府下では軍が唯一「成果を出す組織」となり、民衆の信頼は政治家から軍人へと移っていきます。

この流れの中で頭角を現したのが、若き将軍ナポレオン・ボナパルトでした。

1796〜97年のイタリア遠征で連戦連勝を重ね、オーストリアを屈服させた彼は、「革命の理想を実現する英雄」として熱狂的支持を受けます。

さらに、エジプト遠征(1798〜99)によって名声を高め、敗北すら英雄譚として受け止められました。

総裁政府の権威が失墜する中で、ナポレオンは秩序の回復と国家の再生を象徴する存在となり、民衆にとって「理念を語る政治家」よりも、「結果を出す軍人」が求められるようになったのです。

5. 政府の末期 ― 政争とクーデタへの道

1799年、総裁政府は完全に統治能力を失っていました。

内政ではインフレと汚職が止まらず、外交では第二次対仏大同盟が結成され、戦局は悪化の一途。

議会は分裂し、総裁同士の対立も激化します。

この混乱を終わらせるには、もはや「制度の修正」ではなく、「体制の転換」しかなかった。

そのとき、国民の多くが思い浮かべたのは、戦場の英雄ナポレオンでした。

1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)、ナポレオンは軍を率いて議会を包囲し、クーデタを断行します。

五人の総裁は追放され、憲法は廃止され、統領政府(執政政府)が設立。

革命はここに一つの時代を終え、「理念の共和国」から「秩序の帝国」へと時代が転換していきました。

6. 総裁政府の歴史的意義 ― 「革命の終わり」と「ナポレオンの必然」

総裁政府は失敗の象徴として語られることが多いものの、その意義は決して小さくありません。

それは、革命の理念を現実の政治制度へと翻訳しようとした最初の試みであり、同時に「理念だけでは国家は維持できない」という現実を突きつけた体制でもありました。

ロベスピエールの恐怖政治が「理念の暴走」だったとすれば、総裁政府は「理念の空洞化」でした。

この両極の経験を経て、フランスはようやく「統治と自由の両立」という課題に直面することになります。

そしてその課題に、現実主義の形で答えたのが――ナポレオン・ボナパルトだったのです。

次章では、総裁政府から統領政府(執政政府)への政体移行を中心に、ブリュメール18日のクーデタの経過とその歴史的意味を整理します。

ここで初めて、フランス革命の理念が「国家統治の現実」として再構成される過程を見ていきましょう。

第3章:ブリュメール18日のクーデタと総裁政府の崩壊

1799年、総裁政府はあらゆる意味で限界を迎えていました。

経済は疲弊し、議会は分裂し、国民の支持は地に落ち、戦局も悪化していました。

人々はもはや「誰が正しいか」ではなく、「誰が終わらせてくれるか」を求めていたのです。

この時、フランスの前に現れたのが、戦場で栄光を掴んだ若き将軍――ナポレオン・ボナパルトでした。

ブリュメール18日のクーデタ(1799年11月9日)は、単なる権力奪取ではなく、理念から現実への最終転換点として、フランス革命の幕を閉じる象徴的事件でした。

1. 政治の機能不全 ― 「誰も支配せず、誰も服従しない共和国」

クーデタの直前、総裁政府はまさに崩壊寸前の状態にありました。

5人の総裁のうち3人は互いに不信と敵意を抱き、決定は常に遅れ、国民の信頼は失われていました。

五百人会と元老院もまた、派閥と利害によって分裂し、立法過程は麻痺。

つまり、共和国は「誰も支配せず、誰も服従しない」状態――政治的無政府状態に陥っていたのです。

このような真空状態の中で、「秩序を取り戻す人物」への渇望がフランス社会を覆っていきました。

そして、その期待のすべてが一人の将軍に集約されていきます。

2. ナポレオンの帰還 ― 英雄の政治的覚醒

ナポレオンはエジプト遠征の途中で戦況悪化を知り、密かにフランスへ帰還しました(1799年10月)。

彼がパリに到着した時、民衆は歓呼で迎え、政治家たちは恐怖と期待をもって彼を迎え入れます。

バラスら総裁の一部はナポレオンを利用して政敵を排除しようとし、逆に他の派閥はナポレオンを危険視して牽制を図りました。

しかし、ナポレオンはその混乱すら利用し、自らを「救国の英雄」として巧みに演出します。

彼の言葉は鮮烈でした。

「フランスは革命の混乱に疲れ果てた。いま求められているのは、秩序と力だ。」

この一言が、疲弊したフランス社会の心に深く突き刺さります。

もはや国民は、自由や平等よりも「安定と威厳」を求めていたのです。

ナポレオンは、理念を語らずして革命の空白を埋める存在となりました。

3. クーデタの経過 ― ブリュメール18日の衝撃

1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)、ナポレオンは弟のリュシアン(五百人会議長)と連携し、「議会を守るため」という名目で軍を動かします。

  • 第1段階(ブリュメール18日)
     ナポレオンは議員たちを郊外のサン=クルー宮殿へ移動させ、パリ市内を完全に軍で掌握。
     首都は一夜にして戒厳令下に置かれました。
  • 第2段階(ブリュメール19日)
     議会で反乱の噂が広がり、ナポレオンが演説を試みるも、五百人会から激しい罵声を浴び、混乱が発生。
     リュシアンが「兄を殺そうとしている!」と叫び、衛兵に議場を包囲させて議員を追放します。

こうして、合法性を装った軍事行動によって総裁政府は崩壊しました。

ナポレオンはクーデタ後、兄リュシアンと政治家シエイエスらと共に暫定政権を樹立し、新たな体制「統領政府(執政政府)」を発足させます。

4. 統領政府の成立 ― 権力の再集中と革命の終焉

1799年末に公布された憲法第8年(ブリュメール憲法)では、行政権が三人の統領に委ねられました。

しかし実際には、第1統領ナポレオンが全権を握り、他の統領は名目的存在に過ぎませんでした。

この体制は、表向きは「共和制の再建」を掲げつつ、実質的には個人権力による統治の復活でした。

議会は形式的に存続していたものの、決定権は官僚機構と軍事力に集中。

ナポレオンは法と秩序を回復することで国民の支持を得、革命の理念を「秩序のもとにある自由」へと再定義していきます。

もはやフランスは、ルソーの「一般意志」でも、ジャコバンの「人民の共和国」でもありません。

それは、理念よりも成果を優先する国家――近代的行政国家フランスへの出発点でした。

5. クーデタの意味 ― 革命の「制度的終焉」

ブリュメール18日のクーデタは、表面的には一つの政変にすぎません。

しかし歴史的に見れば、これはフランス革命そのものの「制度的終焉」でした。

  • 王権の否定(1789)
  • 共和制の確立(1792)
  • 急進と恐怖の支配(1793〜94)
  • 穏健の迷走(1795〜99)
  • 権力の再集中と秩序の回復(1799)

この一連の流れの中で、革命は理念から制度へ、制度から現実へと変化し、ついに「革命のない国家」を生み出したのです。

ナポレオンの登場は、決して偶然ではありません。

むしろ総裁政府という分立体制がもたらした空白を埋める、歴史的必然の産物だったといえるでしょう。

6. 革命から帝政へ ― 理念の継承と変容

ナポレオンは、革命の理念を否定したわけではありませんでした。むしろ、彼はそれを行政と法の形に「固定」したのです。

のちのナポレオン法典(1804)は、自由・平等・所有権という革命の三原則を具体的な社会秩序として制度化するものでした。

つまり、ブリュメールのクーデタは、革命の破棄ではなく、その理念の最終的な制度化への一歩だったのです。

フランス革命はここで終わり、ナポレオンの時代が始まりました。

だがそれは同時に、「革命の理想が現実の国家として息づき続ける新たな局面」でもありました。

まとめ ― 総裁政府が残したもの

観点内容
政治構造権力分立による停滞と腐敗
社会状況経済不安・民衆の離反・軍の台頭
崩壊の契機ナポレオンによるブリュメール18日のクーデタ
歴史的意義革命の終焉と行政国家の出発点
理念の継承自由・平等の法的定着(ナポレオン法典へ)

次章では、総裁政府から統領政府への連続性と断絶を整理し、ナポレオンがいかにして「革命を終わらせず、制度として完成させた」のかを探ります。

この変化を理解することは、フランス革命の“終わり”を超えた“継承”を読み解く鍵となるでしょう。

第4章:総裁政府の歴史的意義 ― 革命の終焉とナポレオンへの継承

ブリュメール18日のクーデタによって総裁政府が崩壊したとき、フランス革命はひとつの時代を終えました。

しかしそれは、「革命の失敗」ではなく、「革命理念の転生」でもありました。

総裁政府は、理念の熱狂を冷まし、国家の形に革命を落とし込むための“中間的な期間”でした。

そしてその矛盾と挫折があったからこそ、ナポレオンの時代が到来し、自由・平等・所有という理念が法の支配と行政の秩序の中に定着していったのです。

この章では、総裁政府の歴史的位置づけと、そこから導かれる革命の「終焉」と「継承」の二つの意味を整理します。

1. 「理念の熱狂」から「制度の冷却」へ

フランス革命は、自由と平等を掲げて旧体制(アンシャン・レジーム)を打倒しました。

しかし、理想の実現に向けて突き進んだ結果、ロベスピエールの恐怖政治という暴走を経験します。

その反動として登場した総裁政府は、理念を「制御」することを目的とした体制でした。

つまり、総裁政府は「革命の否定」ではなく、「革命の冷却期間」だったのです。

激情を抑え、理念を現実的な行政へと翻訳しようとする――

この試みは、その後のフランス国家の根幹を形づくる基礎となりました。

ここで初めて、革命は「国家運営」という現実の舞台に立ったのです。

2. 制度の実験としての意義 ― 共和制の限界を可視化した政体

総裁政府はしばしば「腐敗と無能の政体」として描かれますが、その裏には、権力分立という理念の実験的実践がありました。

モンテスキューの理想を忠実に再現しようとした1795年憲法は、行政・立法・司法を分けることで、専制の再来を防ごうとしました。

しかし、結果は逆で、分立しすぎた権力が互いを麻痺させたのです。

この失敗こそが、「共和制の限界」を可視化しました。

そして、この体験がのちの強力な行政権を持つ近代国家モデル(統領政府→帝政)の形成へとつながります。

つまり、総裁政府の崩壊は、単なる瓦解ではなく、近代政治制度への進化過程における“試行錯誤”だったのです。

3. 民主主義の逆説 ― 「自由」を守るための権威の復活

総裁政府が崩壊した理由の一つは、理念と民意の乖離でした。

民衆は自由を求めたが、無秩序に疲れ果てていました。

彼らが望んだのは、もはや「自由な共和国」ではなく、「安心できる秩序」だったのです。

ここに、近代政治の逆説が表れます。

すなわち、自由を守るためには、ある程度の権威が必要になるという現実です。

ナポレオンはこの心理を鋭く読み取り、「革命の成果を守る強い国家」を掲げて登場しました。

彼は共和制を形式的に残しつつ、権威と統制によって秩序を取り戻したのです。

この構造は、のちのヨーロッパ諸国の国家建設モデルにまで影響を与えます。

4. ナポレオン法典へ ― 理念の最終的な制度化

ナポレオンが確立したナポレオン法典(1804)は、総裁政府が試みた「理念の制度化」を法の形で完成させたものでした。

そこでは、

  • 法の下の平等
  • 所有権の不可侵
  • 契約自由の原則

これらが明文化され、革命の理念が“秩序ある社会のルール”として定着しました。

言い換えれば、総裁政府はナポレオン法典の「前夜」だったのです。

理念を冷却し、制度を整え、社会が「革命後の持続的安定」を受け入れる準備を整えた時期――

その功績は、たとえ失敗に終わったとしても、歴史の流れの中では決して無駄ではありませんでした。

5. 革命の「終わり」ではなく「変容」

歴史を長いスパンで見れば、総裁政府は革命の終わりではなく、革命が「理念の運動」から「制度の文化」へと変容した転換点でした。

自由・平等・所有という理念は、総裁政府によって形式的に守られ、ナポレオンによって実務的に実現され、19世紀の市民社会によって国際的に普遍化されていきます。

つまり、総裁政府は“終焉”ではなく“橋渡し”――
理念と現実の接続を果たした「静かな革命の舞台」だったのです。

まとめ ― 総裁政府が残した教訓

観点内容
成立の背景恐怖政治の反動と安定志向の高まり
政治理念権力分立と穏健な共和制の構築
失敗の要因権力の分散による統治不全と腐敗
歴史的意義革命理念の冷却と制度化への試み
継承ナポレオン体制を通じた行政国家の確立

入試で狙われるポイント ― 総裁政府期の核心を問う20題

この章では、入試で頻出の正誤問題を素材に、誤答しやすいポイントをひとつひとつ丁寧に整理していきます。

問1
総裁政府は、ロベスピエールの恐怖政治を強化するために設立された。

解答:×誤り

🟦【解説】
総裁政府は恐怖政治を否定して誕生した体制です。
テルミドールの反動によってジャコバン派が失脚し、穏健な共和制が模索されました。
つまり、「恐怖の継承」ではなく「安定への転換」が目的でした。

📘【出題の狙い】
「恐怖政治=共和制」の印象から、後続体制も急進派と誤解するケースに注意。

問2
1795年憲法では、行政権は1人の総裁に集中していた。

解答:×誤り

🟦【解説】
1795年憲法は権力集中を避けるため、5人の総裁による合議制を採用しました。
各総裁は任期5年で、毎年1人ずつ改選。権力分立を徹底する設計でした。

📘【出題の狙い】
「一人の総裁」と誤解しやすい。「ディレクトワール」=複数体制と覚える。

問3
総裁政府下では、立法権が二院制(五百人会と元老院)に分けられた。

解答:〇正しい

🟦【解説】
1795年憲法で初めて二院制が導入されました。
急進的立法を防ぐため、若年議員が集まる五百人会(下院)と、熟練者の元老院(上院)が設けられました。
この制度は後のフランス議会制度の基礎にもなります。

📘【出題の狙い】
「単院=国民公会」「二院=総裁政府」と整理できるか。

問4
1795年憲法は、すべての成年男性に普通選挙権を与えた。

解答:×誤り

🟦【解説】
普通選挙は1793年憲法(未施行)で規定されていましたが、
1795年憲法では財産資格制(納税者のみ選挙権)が復活しました。
民主化ではなく、ブルジョワ層中心の保守的体制です。

📘【出題の狙い】
「憲法が新しい=民主的」とは限らない。政治的後退を問う良問。

問5
1795年憲法では、ジャコバン派の復活を防ぐため、過去の急進派議員を排除した。

解答:〇正しい

🟦【解説】
テルミドール派は反ジャコバン的政策を徹底しました。
恐怖政治を支えた議員は公職から除外され、クラブ活動も制限。
政治の安定を「除外によって保つ」体制でした。

📘【出題の狙い】
「テルミドールの反動=穏健化」の具体的内容を問う。

問6
総裁政府期の社会は、自由と平等が拡大し、民衆運動が再活発化した。

解答:×誤り

🟦【解説】
自由は拡大しましたが、貧困層には恩恵がなく、むしろ政治的無関心と離反が進行しました。
民衆運動(サンキュロット)は弾圧され、社会は静かな不満の中にありました。

📘【出題の狙い】
「自由=幸福」ではない点を問う。社会構造の変化理解を確認。

問7
経済危機の原因の一つは、紙幣アッシニアの価値暴落である。

解答:〇正しい

🟦【解説】
アッシニアは革命期に発行された土地担保紙幣ですが、乱発によって価値が暴落し、物価上昇とインフレを招きました。
1796年には政府が発行停止を決定します。

📘【出題の狙い】
経済不安=政治不安の要因を問う。貨幣経済への理解を確認。

問8
総裁政府は、農民に対して農地の再分配を実施した。

解答:×誤り

🟦【解説】
農地再分配はジャコバン派の政策であり、総裁政府はむしろ地主層の所有権保護を優先しました。
農村への改革意欲は乏しく、社会的不平等の固定化を招きました。

📘【出題の狙い】
「革命=土地改革」と短絡しない。各体制の社会政策の違いを区別。

問9
総裁政府期には、戦争が続き、軍の発言力が強まった。

解答:〇正しい

🟦【解説】
オーストリアなどとの対仏戦争が継続し、戦争遂行のために軍の影響力が拡大。
政治家が軍人を頼る構造が形成され、ナポレオンの台頭を容易にしました。

📘【出題の狙い】
「軍事の政治化」というキーワードを意識できるか。

問10
ナポレオンのイタリア遠征(1796〜97)は失敗に終わった。

解答:×誤り

🟦【解説】
イタリア遠征はナポレオンの大成功です。
オーストリアを破り、カンポ=フォルミオ条約を締結。
この戦勝でナポレオンは国内外で英雄視されました。

📘【出題の狙い】
遠征ごとの成果の違い(イタリア=成功/エジプト=失敗)を区別。

問11
総裁政府期のエジプト遠征(1798〜99)は、オスマン帝国を完全に征服した。

解答:×誤り

🟦【解説】
エジプト遠征はイギリスとのインド航路争奪を目的としましたが、
ネルソン提督の勝利(アブキール湾の海戦)により失敗。
ナポレオンは兵を残して帰国しました。

📘【出題の狙い】
軍事的成果よりも「政治的帰還の意味(クーデタ準備)」を理解できるか。

問12
ナポレオンは、エジプト遠征中にロンドンで講和条約を結んだ。

解答:×誤り

🟦【解説】
エジプト遠征は戦争継続中であり、講和条約(カンポ=フォルミオ)はイタリア遠征の成果です。
条約の相手はオーストリアで、1797年に締結されました。

📘【出題の狙い】
「遠征」と「講和」を混同させる定番ミス。時系列整理を要確認。

問13
総裁政府の末期、第二次対仏大同盟が結成された。

解答:〇正しい

🟦【解説】
1799年、イギリス・オーストリア・ロシアを中心に第二次対仏大同盟が成立。
国内外の危機が重なり、総裁政府の求心力は崩壊しました。

📘【出題の狙い】
「外圧と内乱が重なったとき、体制は崩壊する」という構造を理解。

問14
総裁政府を倒したのは、ジャコバン派の蜂起である。

解答:×誤り

🟦【解説】
総裁政府を倒したのはナポレオンによる軍事クーデタ(ブリュメール18日)です。
急進派ではなく軍人による体制転覆であり、民衆運動ではありません。

📘【出題の狙い】
「革命=民衆蜂起」ではなく、「革命=軍による安定化」への転換を理解させる問題。

問15
ブリュメール18日のクーデタは1799年に起きた。

解答:〇正しい

🟦【解説】
正確な日付は1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)です。
ナポレオンが議会を包囲し、総裁政府を崩壊させ、統領政府(執政政府)を設立しました。

📘【出題の狙い】
年代・月日を細かく問う設問も多い。「18日=ナポレオン」と結びつけて覚える。

問16
ブリュメール18日のクーデタ後に成立したのは、統領政府である。

解答:〇正しい

🟦【解説】
クーデタ後に誕生したのが統領政府(執政政府)で、ナポレオンは第1統領として実権を掌握。
この体制がのちの第一帝政へとつながります。

📘【出題の狙い】
「総裁→統領→皇帝」という連続の理解を確認。

問17
ナポレオンは、クーデタ後に国王ルイ18世として即位した。

解答:×誤り

🟦【解説】
ルイ18世はナポレオン失脚後(1814年)に即位したブルボン家の王です。
ナポレオンは皇帝(1804)であり、王ではありません。

📘【出題の狙い】
王政復古とナポレオン体制の区別を誤らないこと。

問18
総裁政府期のフランスでは、教会と国家が再び統合された。

解答:×誤り

🟦【解説】
総裁政府は宗教に関しては世俗主義(政教分離)を維持しました。
教会財産の没収は続き、国家と宗教の協調が実現するのは1801年のコンコルダート(ナポレオンとローマ教皇)です。

📘【出題の狙い】
政教関係の時期混同を防ぐ。「協約=ナポレオン期」と整理。

問19
総裁政府期は、国民皆兵制(徴兵制)が廃止された時期である。

解答:×誤り

🟦【解説】
徴兵制は1793年にジャコバン派が導入した「国民皆兵令」で、
総裁政府期にも戦争継続のために維持されました。
むしろ徴兵負担が不満を生み、反乱の一因となりました。

📘【出題の狙い】
徴兵制=ナポレオン期の発明と誤解しないよう注意。

問20
総裁政府は、理念の放棄によって崩壊した体制である。

解答:〇正しい

🟦【解説】
恐怖政治の反動として誕生した総裁政府は、安定を求めるあまり理念を失い、
現実主義に傾きました。
それが民衆の無関心と腐敗を招き、ナポレオンの登場を許したのです。

📘【出題の狙い】
単なる出来事暗記ではなく、「理念と現実の対立構造」を問う記述対策型設問。

📘【まとめ表:体制比較】

政体主な特徴政治理念崩壊の原因
国民公会単院制・急進的共和制平等・人民主権恐怖政治の暴走
総裁政府5人の総裁・二院制安定・権力分立停滞・腐敗・軍の台頭
統領政府3人の統領(実質ナポレオン独裁)秩序・行政改革帝政への移行
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