ヴェローナ会議(1822)は、ナポレオン戦争後に確立されたウィーン体制のもとで開かれた最後の大規模な国際会議であり、ヨーロッパの「体制維持」と「自由の拡大」をめぐる対立が決定的に表面化した歴史的な分岐点でした。
この時期、スペインでは国王フェルディナンド7世に対して自由主義者たちが立ち上がり、1812年制定のカディス憲法を復活させる「スペイン立憲革命」が発生していました。
ヨーロッパ全体に広がりつつあったこの立憲運動は、ウィーン体制の秩序を根底から揺るがすものであり、
保守勢力にとっては“第二のフランス革命”とも言える脅威でした。
この危機に直面した各国は、イタリア北部ヴェローナに集まり、革命への対応を協議します。
オーストリア・ロシア・プロイセンの三国は、トロッパウ・ライバッハ会議で確立された「革命干渉の原則」を引き継ぎ、正統主義の名のもとに武力干渉を容認すべきだと主張しました。
一方、イギリスは外相カニングのもとで「他国の内政には干渉しない」という立場を明確にし、自由主義的な外交路線へと舵を切ります。
さらにフランスは、国内の保守派の支持を得るため、「革命鎮圧」を名目にスペインへの軍事干渉を決定――
こうして五大国の意見は、完全に分裂しました。
このヴェローナ会議は、ウィーン体制の理念であった五大国協調の終焉と、メッテルニヒ体制の干渉主義外交の限界を象徴する出来事です。
表面的には保守秩序の勝利であっても、その内部では「自由」と「体制」の矛盾がすでに噴出していました。
本記事では、このヴェローナ会議の背景・経過・結果を整理し、なぜこの会議が“ウィーン体制の終わりの始まり”と呼ばれるのかを詳しく解説します。
第1章:スペイン立憲革命の勃発 ― 干渉主義の新たな舞台
1820年、ナポリ革命とほぼ同時期にスペインでも立憲革命が勃発しました。
その舞台はイベリア半島。今度の「革命の火」は、ヨーロッパの西の端で燃え上がったのです。
このスペイン革命こそが、のちにヴェローナ会議を引き起こす直接の契機となりました。
ここではまず、革命の背景と、ウィーン体制諸国の反応を見ていきましょう。
① フェルディナンド7世の復古と絶対王政の復活
ナポレオン没落後の1814年、スペインではブルボン家のフェルディナンド7世が復位しました。
彼は民衆の支持を得ていた「1812年憲法(カディス憲法)」を廃止し、絶対王政を復活させます。
この行動により、自由主義者や軍部の間に強い不満が蓄積され、反乱の土壌が形成されました。
② 自由主義将校による蜂起(1820年)
1820年、南米への派兵を命じられた将校リエゴが反乱を起こし、「憲法の復活」を掲げてマドリードに進軍。国王はこれに屈し、再びカディス憲法の復活を宣言します。
こうしてスペインでは立憲王政が再び成立しました。
しかし、王は自由主義に心から同意していたわけではなく、ウィーン体制の列強はこの動きを「革命の再燃」とみなします。
③ メッテルニヒの危機感と五大国の分裂
オーストリアのメッテルニヒは、ナポリ・ピエモンテに続く「第三の革命」に強い危機感を抱きました。
1822年、彼はイタリア北部の都市ヴェローナで五大国会議を提案します。
しかし、ここで列強の立場は大きく分かれました。
立場 | 主な国 | 内容 |
---|---|---|
干渉主義派 | オーストリア・ロシア・プロイセン | 革命国家に対する武力干渉を正当化 |
消極派 | イギリス | 内政不干渉を主張し、干渉に反対 |
実行派 | フランス | スペイン干渉を自国の利益として容認 |
この対立こそが、ウィーン体制の「協調の原理」に深い亀裂をもたらしました。
④ 会議の開催(1822年ヴェローナ)
1822年10月、ヴェローナ(イタリア北部)で会議が開かれ、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、そしてフランス外相モンモランらが出席しました。
議題はスペイン革命への対応でしたが、結論はすでに明らかでした。
フランスが「干渉の権利」を行使し、スペインへ軍を派遣することを容認する、というものです。
これにより、1823年にフランス軍がスペインへ侵攻(スペイン遠征)し、フェルディナンド7世の絶対王政が再び復活しました。
⑤ ヴェローナ会議の意義 ― 干渉主義の最終段階
ヴェローナ会議は、メッテルニヒ体制下の干渉主義が頂点に達した瞬間であり、同時にその理念が五大国協調の崩壊を招いた転換点でもありました。
ウィーン体制は形式的に維持されたものの、各国の思惑はすでに異なり、特にイギリスの孤立化は、のちの「光栄ある孤立」へと続く外交姿勢の起点となります。
入試で狙われるポイント
- ヴェローナ会議(1822)=スペイン立憲革命への干渉を協議。
- フランスのスペイン遠征(1823)を容認。干渉主義の最終段階。
- イギリスの離脱=五大国協調体制の崩壊。
- メッテルニヒ外交の成果と限界を示す会議。
- 干渉主義の「原則→実行→拡大」の三段階(トロッパウ→ライバッハ→ヴェローナ)を整理。
第2章:ヴェローナ会議後のヨーロッパ秩序の変化 ― 干渉体制から民族運動の時代へ
ヴェローナ会議は、ウィーン体制下の干渉主義が頂点に達した瞬間であり、同時にその崩壊が始まった会議でもありました。
フランスのスペイン干渉は短期的には成功を収めたものの、この時期を境に「体制を守るための干渉」は次第に力を失い、代わって「民族」と「自由」の新しい時代がヨーロッパを動かし始めます。
① フランスのスペイン干渉とその帰結
1823年、ヴェローナ会議の決定を受けて、フランスは「神の息子たるルイ18世の名のもとに」約10万の軍を派遣しました(いわゆるスペイン遠征)。
この軍はわずか数か月でマドリードを制圧し、フェルディナンド7世を王位に復帰させました。
しかし、これは「フランスによるウィーン体制下の最後の干渉」であり、
ヨーロッパ各国に「体制維持のための武力介入はもはや限界に達した」という印象を残します。
② 五大国協調体制の崩壊
ヴェローナ会議では、イギリス代表カニングが干渉に強く反対しました。
彼は「自由を守るために干渉を拒む」姿勢を明確にし、会議後は中南米独立運動を承認するなど、独自の外交路線を進みます。
一方、フランスは「干渉を行う側」に立ちながらも、イギリスとの対立を深め、やがて自らも七月革命(1830)で王政を失うことになります。
こうして、干渉主義の中心だった保守三国(墺・露・普)、干渉に消極的な英仏という構図が決定的になり、「五大国協調」体制は完全に瓦解しました。
③ メッテルニヒ体制の陰り
とくに1820年代後半からは、
- ギリシア独立戦争(1821〜29)
- ラテンアメリカ諸国の独立承認
- ロシアの南下政策の活発化
これらの、ウィーン体制では想定されなかった新しい動きが相次ぎました。
もはや、メッテルニヒが思い描いた「静的秩序」は維持できなくなりつつありました。
④ 自由主義と民族運動の台頭
ウィーン体制の抑圧の下で育まれた自由と民族の思想は、1830年のフランス七月革命をきっかけにヨーロッパ全土へ波及します。
ベルギー独立、ポーランド蜂起、イタリアやドイツでの自由主義運動など、すべての原点には「干渉への反発」がありました。
つまり、ヴェローナ会議で体制が勝利したその瞬間こそ、次の時代の胎動が始まっていたのです。
⑤ 干渉体制の終焉と新時代の幕開け
ウィーン体制は約30年にわたりヨーロッパの平和を保ちましたが、その平和は自由と民族の抑圧の上に成り立っていました。
ヴェローナ会議をもって干渉主義の時代は終わり、19世紀ヨーロッパは「国家の秩序」から「国民の意思」へと価値基準を転換していきます。
この転換こそが、のちの「1848年革命」や「民族統一運動」へと続く、近代史の大きな流れです。
入試で狙われるポイント
- ヴェローナ会議(1822)=干渉主義の最終段階。
- フランスのスペイン遠征(1823)=体制維持の最後の成功例。
- イギリスの離脱=五大国協調の崩壊。
- 干渉主義の終焉が自由主義・民族運動の台頭へつながる。
- ウィーン体制の安定は短期的で、1848年革命により最終的に崩壊する
- ヴェローナ会議の歴史的意義を、ウィーン体制の変化との関係から200字程度で説明せよ。
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1822年のヴェローナ会議は、スペイン立憲革命への干渉を協議し、フランスの出兵を容認した。これによりウィーン体制下の干渉主義は最高潮に達したが、イギリスは内政不干渉を主張して離脱し、五大国協調体制は崩壊した。この会議は、メッテルニヒ体制の頂点でありながら、その限界と自由主義・民族運動の台頭を象徴する転換点となった。
よくある誤答パターンまとめ
誤答例 | 誤りのポイント | 正しい理解 |
---|---|---|
ヴェローナ会議=ナポリ革命への干渉 | ナポリ問題はトロッパウ・ライバッハ | ヴェローナはスペイン問題が議題 |
干渉を主張したのはイギリス | イギリスは内政不干渉派 | 干渉を主張したのはフランス |
カニング=フランス外相 | カニングはイギリス外相 | フランス外相はモンモラン |
スペイン遠征=イギリス軍による介入 | 干渉したのはフランス軍 | イギリスはむしろ反対側 |
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