三部会の成り立ちと崩壊|中世の身分制議会がフランス革命で終焉を迎えるまで

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

1789年に召集された三部会は、実に175年ぶりに開かれたフランス全国会議でした。

もともと三部会とは、中世フランスで王が聖職者・貴族・平民の三つの身分の代表を集め、国家の重要事項を協議した身分制議会です。

しかし、時代が進むにつれて王権が強化され、ルイ14世の絶対王政期にはその機能を失い、長く開かれることのない“名ばかりの制度”となっていました。

ところが18世紀末、国家財政の破綻をきっかけにルイ16世がこの古い制度を復活させたことで、
三部会は再び歴史の表舞台に登場します。

しかしその議会は、改革を求める第三身分と特権を守ろうとする聖職者・貴族との対立によってすぐに行き詰まり、やがて第三身分が離脱して「国民議会」を宣言する事態へと発展しました。

こうして三部会は、封建的身分制の終焉と近代政治の幕開けを象徴する舞台となり、フランス革命の出発点として歴史に刻まれます。

本記事では、三部会の起源(中世的な身分制議会としての成り立ち)から、1789年の召集と決裂、そしてその崩壊に至るまでの過程をわかりやすく整理します。

目次

第1章:三部会の召集 ― 財政危機と旧体制の行き詰まり

三部会の開催は、ルイ16世の政治的決断というよりも、国家財政の破綻がもたらした“必然”でした。

しかし、この議会が「175年ぶり」であったことは見逃せません。

その背後には、中世以来の「身分制議会」の歴史と、絶対王政による長い空白の時代が存在していたのです。

覚えるポイント備考
1302年:第1回三部会(フィリップ4世)教皇との対立(アナーニ事件期)
1614年:最後の三部会(ルイ13世)絶対王政確立、以後175年間開催されず
1789年:175年ぶりの三部会(ルイ16世)財政危機・革命の発端

1. 三部会の起源 ― 中世の身分制議会から絶対王政へ

三部会は、もともと中世フランスの身分制社会を反映した代表制会議でした。

その起源は13世紀末、フィリップ4世(美王)の時代にまでさかのぼります。

フィリップ4世 今どこ?

フィリップ4世は、フランス最初の三部会を開催したのと、テンプル騎士団の弾圧もおさえましょう。

また、フランス史全体でのフィリップ4世の位置関係を確認しましょう。

カロリング朝 (843〜987)
│ 843 ヴェルダン条約(シャルル2世)

カペー朝 (987〜1328)
│ 1214 ブーヴィーヌの戦い(フィリップ2世)
│ 1302年 フィリップ4世が第1回三部会を開催 ⇒ 今ココ
 1303 アナーニ事件(フィリップ4世) 

ヴァロワ朝 (1328〜1589)
│ 1339 百年戦争開始(フィリップ6世)
│ 1429 ジャンヌ・ダルク登場 → オルレアン解放(シャルル7世)
│ 1453 百年戦争終結

ブルボン朝 (1589〜1792)
│ 1598 ナントの勅令(アンリ4世)
│ 1643 ルイ14世即位 → 絶対王政確立
│ 1701 スペイン継承戦争(ルイ14世)
│ 1789 フランス革命勃発(ルイ16世)

第一共和政・ナポレオン帝政 (1792〜1815)
│ 1804 ナポレオン皇帝即位 → ナポレオン法典制定
│ 1815 ワーテルローの戦い → ナポレオン失脚

ブルボン復古王政 (1814〜1830)
│ 1830 七月革命 → オルレアン朝成立

オルレアン朝 (1830〜1848)
│ 七月王政時代 → 二月革命で崩壊

第二共和政・第二帝政 (1848〜1870)
│ 1852 ナポレオン3世即位 → 普仏戦争敗北で失脚

第三共和政 (1870〜1940)
│ 1871 パリ=コミューン成立

(第四共和政・第五共和政は受験頻度低めのため省略)

当時、国王は教皇ボニファティウス8世との対立(アナーニ事件など)や戦費の負担をめぐって、聖職者・貴族・平民(都市代表)からの同意を得るために全国会議を招集しました。

これが1302年第一回三部会です。

その後も王権と民衆の協議の場として数回開かれましたが、次第に国王の専制が強まるにつれ、三部会は形骸化していきます。

とくにルイ13世・ルイ14世の絶対王政期には、国王が自らの権威で政策を決定する体制が確立し、三部会は完全に停止状態となりました。

したがって、1789年の召集は1614年以来、実に175年ぶりであり、これは「絶対王政の象徴的終焉」を意味する出来事だったのです。

2. 財政危機が招いた異例の議会

18世紀後半のフランスは、七年戦争やアメリカ独立戦争への軍事介入により、国家財政が深刻な赤字に陥っていました。

ルイ16世は財務総監ネッケルやカロンヌらに財政再建を命じましたが、彼らが提案した課税の平等化(特権身分への課税)は、貴族層の強い反発を招きます。

特権階級の抵抗によって改革が頓挫するなか、1788年、国王はついに「全国三部会の召集」を決定します。

これは、国王が自らの権威では解決できない事態に追い込まれたことを示していました。

3. 三部会の構成 ― 旧体制の縮図

三部会は、社会の三つの身分を代表する議会として構成されていました。

身分構成員人数の目安代表的主張
第一身分聖職者約300人教会の特権維持
第二身分貴族約300人貴族特権の防衛
第三身分平民(市民・農民)約600人不平等の是正・課税の公平化

表面的には「国民の代表」を名乗りながらも、実際には身分別に審議・投票する仕組みが維持され、「一身分=一票」という方式では、第三身分が常に少数派となる構造的な不平等が存在していました。

4. 改革を求める第三身分の高まり

啓蒙思想の影響を受けた市民層は、「国家の主権は国民にある」とする新しい政治意識を育んでいました。

その中心には、法律家や官僚、商工業者などのブルジョワジーがいました。彼らは「不平等な身分制度の改革」「納税の公平化」を強く要求します。

一方で、第一身分(聖職者)の中にも一部改革派が現れ、第三身分との連携を模索しました。

しかし、貴族と保守的聖職者は依然として特権の維持に固執し、議会は早くも対立の火種を抱えることになります。

5. 投票方法をめぐる決裂

最大の争点は「投票方法」でした。

第三身分は「身分別」ではなく「個人別(頭数)」での投票を要求しましたが、貴族・聖職者の反対により、従来の身分別投票が維持されます。

こうして改革は前に進まず、第三身分は「自分たちこそが国民の代表だ」と主張するようになります。

この主張が、やがて国民議会の宣言へとつながっていくのです。

入試で狙われるポイント

  • 三部会の起源はフィリップ4世(1302年)まで遡る。
  • 絶対王政のもとで長く開かれず、1789年の召集は1614年以来175年ぶり
  • 財政危機を背景に、課税の平等化をめぐる特権身分との対立が決裂の原因。
  • 「投票方法(身分別か頭数か)」が最大の争点。
  • 第三身分の台頭=ブルジョワジーの政治的覚醒として重要。

重要論述問題にチャレンジ

1789年の三部会が、どのようにしてフランス革命の出発点となったのかを200字程度で説明せよ。

財政破綻に直面したルイ16世は、特権身分にも課税を課すため三部会を召集した。しかし、身分別投票の制度が不平等を固定化していたため、第三身分は改革を阻まれた。啓蒙思想に影響を受けた彼らは、自らを国民の代表と位置づけ、国民議会を宣言する。この決裂が、旧体制崩壊と革命の出発点となった。

第2章:第三身分の台頭と国民議会の成立 ― 「国民」が政治の主体へ

三部会での決裂は、一時的な政治的対立ではなく、社会構造そのものの亀裂を意味していました。

旧体制の秩序が崩れ始める中で、第三身分は「国家とは国王ではなく国民である」という新しい原理を打ち立てていきます。

この章では、1789年6月にかけて進行した国民議会の成立過程を中心に見ていきます。

1. シェイエスの主張 ― 第三身分こそ「すべて」である

この転換を理論的に支えたのが、聖職者出身の思想家シェイエスした。

彼は小冊子『第三身分とは何か』の中で、次のように主張します。

「第三身分とは何か?——すべてである。
これまで政治的には何であったか?——何ものでもなかった。
これから何を望むのか?——何かたらんとすることである。」

この文章は、第三身分の人々に深い共感を呼び起こしました。

シェイエスは、国家を構成する主体は「国民」であり、王権や貴族の特権に依存しないと論じたのです。

この理念が、やがて「国民主権」という革命の核心原理へと発展していきます。

2. 国民議会の宣言 ― 第三身分の“独立”

1789年6月17日、第三身分の代表たちはついに「国民議会」の名を掲げ、自らを「国民を代表する唯一の正統な議会」と宣言しました。

これは、もはや国王の召集による身分制議会ではなく、国民の意思による政治機関の誕生を意味していました。

一部の改革派聖職者や貴族もこれに合流し、三部会は実質的に分裂します。

この決裂が、後の「テニスコートの誓い」へとつながっていきます。

3. 「テニスコートの誓い」― 不退転の決意

1789年6月20日、国王の圧力で会場を閉鎖された第三身分は、近くの屋内球技場(ジュ・ド・ポーム)に集結しました。

彼らは「新しい憲法が制定されるまでは解散しない」と誓いを立てます。

このテニスコートの誓いは、「国民が主権を握る」という新時代の象徴的宣言でした。

画家ジャック=ルイ・ダヴィドの未完成作品『テニスコートの誓い』は、その決意と団結の象徴として今もフランス革命を語る際に欠かせません。

4. 国王の譲歩と革命の幕開け

ルイ16世は当初、国民議会を否定し、軍を動員して弾圧を試みました。

しかし、改革派聖職者や貴族の合流が相次ぎ、圧力では抑えられなくなります。

6月27日、ついに国王は三部会の合同審議を認め、国民議会が正式に国家の代表機関として承認されました。

この瞬間、絶対王政の政治的基盤は崩れ去り、革命の第一歩が踏み出されたのです。

🏛入試で狙われるポイント

  • 『第三身分とは何か』を著したシェイエスが国民主権を理論化。
  • 1789年6月17日:第三身分が国民議会を宣言
  • 6月20日:「テニスコートの誓い」で憲法制定を誓う。
  • 6月27日:ルイ16世が三部会の合同を承認。
    旧体制の政治秩序が完全に崩壊。

重要論述問題にチャレンジ

シェイエスの思想と「国民議会」宣言の関係を200字程度説明せよ。

シェイエスは『第三身分とは何か』で、国家を構成する主体は国民であると説き、特権身分を否定した。この思想に鼓舞された第三身分は、三部会の不平等な構造を拒否し、自らを国民の代表と位置づけて国民議会を宣言した。これにより政治の正統性は国王から国民へと移行し、フランス革命の理論的基盤が築かれた。

終章:三部会の歴史的意義 ― 旧体制の崩壊と近代政治の出発点

1789年の三部会は、単なる「会議の失敗」ではありませんでした。

それは、中世以来の身分制社会が政治的に終焉を迎えた瞬間であり、「国王の召集による議会」から「国民の意思による政治」への転換点でした。

フィリップ4世の時代に始まった三部会は、王権を支える協議機関として生まれ、絶対王政によって忘れ去られました。

しかし、その“古い制度”が再び召集されたとき、それは自らの矛盾をあらわにし、近代の幕を開ける舞台となったのです。

フランス革命はこの瞬間、理念としての「自由・平等・国民主権」を形にし始めました。

三部会はその出発点として、今もなお世界史のなかで特別な意味をもっています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次