1789年7月14日に起きたバスティーユ牢獄襲撃事件は、フランス革命の始まりを告げた決定的な出来事です。
絶対王政の象徴だった牢獄が、飢餓と不安に苦しむパリ市民の手によって陥落したその瞬間、「王の権威」から「国民の力」へと時代の主役が交代しました。
この事件は、単なる暴動ではなく、旧体制(アンシャン=レジーム)の崩壊と市民社会の誕生を象徴する歴史的転換点です。
本記事では、バスティーユ襲撃の背景・経過・結果・歴史的意義を整理し、なぜこの一日が「自由」と「革命」の象徴として現代まで語り継がれているのかを解説します。
第1章:事件の背景 ― 王政の矛盾と民衆の怒りの蓄積導入文
バスティーユ牢獄襲撃は、突発的な暴動ではありません。
長年の政治的・社会的矛盾が限界に達し、民衆の怒りが一気に爆発した結果でした。
この章では、事件の背景を「経済」「政治」「社会」の3側面から整理します。
1. 経済的危機 ― 財政破綻と物価高騰
18世紀後半のフランスは、七年戦争・アメリカ独立戦争への参戦により国家財政が破綻していました。
税負担のほとんどが第三身分(平民)に集中し、農民や都市労働者の生活は悪化します。
1788年の不作でパンの価格は急騰し、失業と飢餓が拡大。
「パンをくれ!」という民衆の叫びが、やがて「自由をよこせ!」という政治的要求へ変わっていきます。
2. 政治的危機 ― 国民議会の成立と王の弾圧姿勢
1789年5月に召集された三部会では、貴族と聖職者が特権維持に固執。
これに反発した第三身分が国民議会を結成し、「国民こそ主権者」と宣言します。
続く「テニスコートの誓い」で憲法制定を誓ったことは、事実上、王権への挑戦でした。
しかし、ルイ16世はこれを認めず、ヴェルサイユに軍を集めて圧力を強めます。
3. 民衆の怒り ― ネッケル罷免と「革命前夜」
改革派の財務総監ネッケルが罷免されたことは、市民にとって「希望の切り捨て」でした。
7月11日、罷免の知らせがパリに届くと、群衆は激昂し、街頭にバリケードが築かれ始めます。
飢餓と不信、そして恐怖――
これらが重なったとき、歴史を動かす“臨界点”が訪れたのです。
入試で狙われるポイント
- ネッケル罷免 → 直接的な蜂起の契機
- 国民議会とテニスコートの誓い → 政治的前提条件
- パン価格の高騰・財政破綻 → 社会的・経済的要因
- バスティーユ牢獄襲撃事件の発生要因を、経済・政治・社会の三側面から200字程度で説明せよ。
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財政破綻により第三身分の税負担と貧困が拡大する中、国民議会の結成を王が弾圧し、民衆の不満が政治的不信へ転化した。さらに、改革派ネッケルの罷免が「民衆敵視」と受け止められ、飢餓と恐怖の中でパリ市民が蜂起する契機となった。
第2章:襲撃の経過 ― 1789年7月14日、民衆が歴史を動かした日
1789年7月14日、民衆は自らの手で自由を勝ち取るために立ち上がりました。
パリの空気は緊張に包まれ、ついに王権の象徴バスティーユ牢獄が攻撃されます。
この章では、事件当日の経過とその後の国王の対応を追います。
1. 民衆の武装と蜂起の開始
7月13日、民衆は武器を求めてパリ各地を捜索し、ついに軍用火薬を保管するバスティーユ牢獄に狙いを定めました。
牢獄は「囚人の収容所」というより、権力の象徴でした。
翌14日、群衆が門前に集まり、交渉の末に銃撃戦が発生します。
2. バスティーユ陥落と民衆の勝利
戦闘は約3時間に及び、脱走兵や市民が次々と加わっていきます。
ついに午後5時ごろ、牢獄長ド・ローネ伯が降伏。群衆は牢獄を制圧し、門を開け放ちました。
囚人はわずか7名でしたが、事件の意味は象徴的でした。
それは「民衆が王の権力を打ち破った瞬間」だったのです。
3. 王の動揺と「革命」の自覚
翌日、事件を知らされたルイ16世は、「反乱か?」と尋ねたと伝えられます。
側近のラ・ロシュフコー=リャンクールは答えました。
「いいえ、陛下。これは革命です。」
国王は譲歩を余儀なくされ、ネッケルを再任。
また、民衆は国民衛兵を組織し、三色のトリコロールを革命の象徴としました。
この日から、民衆が政治の主体となる時代が始まったのです。
入試で狙われるポイント
- 1789年7月14日=フランス革命の開始日
- 目的は囚人解放ではなく火薬確保
- 国民衛兵・三色旗 → 民衆の政治的主体化の象徴
- バスティーユ牢獄襲撃事件の当日の経過と、その政治的意義を200字程度で説明せよ。
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1789年7月14日、武器と火薬を求めたパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、陥落させた。事件は王権の象徴を打ち砕き、民衆の力が政治を動かすことを示した。国王は譲歩を余儀なくされ、国民衛兵の結成と三色旗の誕生により、「国民の時代」が始まったことを象徴した。
第3章:事件の意義と象徴性 ― 芸術に受け継がれた「バスティーユの精神」
バスティーユの陥落は、単なる武力蜂起ではなく、「市民が自由を勝ち取った瞬間」として永遠に記憶されました。
その精神は、芸術や記念日に形を変えて現代まで受け継がれています。
1. 革命記念日としての7月14日
フランスでは、バスティーユ陥落の日である7月14日が「革命記念日」と定められています。
現在でもパリでは軍事パレードや花火大会が行われ、自由と国民統合の象徴として祝われています。
つまり、バスティーユは「牢獄の破壊」ではなく、「市民社会の誕生」を記念する日なのです。
2. 絵画に描かれた「バスティーユ」 ― 記録と理念の対比
事件当日の様子を生々しく伝えたのは、画家ジャン=ピエール・ウーエです。
彼の版画『バスティーユの襲撃』は、煙と群衆、砲撃の中で民衆が城門を突破する瞬間を克明に描き、「革命の現場の記録画」として高く評価されています。
一方で、ジャック=ルイ・ダヴィドはバスティーユそのものを描かなかったものの、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などの作品を通じて、「人民の覚醒」「革命の理念」を象徴的に表現しました。
ダヴィドが描いたのは、暴動の瞬間ではなく、その意味と精神。
彼の絵は、「バスティーユの炎が灯した理想」を芸術として継承しているのです。
3. 「バスティーユの精神」 ― 自由への信仰と市民意識
牢獄の崩壊は、旧体制(アンシャン=レジーム)の終焉を意味しました。
それは単に王権が倒れたという事実ではなく、「人間は自由であり、国家の主体は国民である」という思想が可視化された瞬間でした。
バスティーユの石は後に各地に運ばれ、新しい広場や記念碑の建材として再利用されました。
まさに、廃墟が新時代の礎となったのです。
入試で狙われるポイント
- ジャン=ピエール・ウーエ『バスティーユの襲撃』:事件当日の記録画。
- ジャック=ルイ・ダヴィド『テニスコートの誓い』『マラーの死』:革命理念の象徴化。
- 7月14日=革命記念日(現フランスの祝日)
- 「バスティーユの精神」=民衆の力と自由への信仰
- バスティーユ牢獄襲撃事件が、後のフランス社会や芸術にどのような影響を与えたか。200字程度で説明せよ。
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バスティーユ襲撃は、民衆が王権を打倒した自由の象徴となり、7月14日は革命記念日として国家的祝日となった。また、ジャン=ピエール・ウーエが現場を描き、ダヴィドが『テニスコートの誓い』などでその理念を表現したように、事件は政治と芸術の両面で「市民の時代」の象徴となった。
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