トロッパウ会議とライバッハ会議|革命干渉の原則とその実行 ― メッテルニヒ体制の強化と限界

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トロッパウ会議(1820)とライバッハ会議(1821)は、ナポレオン戦争後のヨーロッパで築かれたウィーン体制を守るために開かれた、きわめて重要な国際会議です。

フランス革命以来、ヨーロッパ各地では「自由」や「憲法」を求める運動が絶えず、王政復古後もその火種は各地に残っていました。

とくに1820年前後には、ナポリ王国やピエモンテ王国で相次いで立憲革命が起こり、保守的な王政秩序は再び動揺します。この危機に最も敏感に反応したのが、オーストリア宰相メッテルニヒでした。

彼は「革命の波は感染症のように広がる」と考え、いかなる自由主義的運動も放置すれば、ウィーン体制そのものが崩壊すると危惧しました。

その結果、オーストリア・ロシア・プロイセンの三国はシレジアのトロッパウに集まり、「革命を起こした国家は正統な秩序を乱す存在であり、他国はその内政に干渉する権利をもつ」とする革命干渉の原則(干渉主義)を確認します。

これがトロッパウ会議(1820)です。そして、翌1821年に開かれたライバッハ会議では、この原則を実際に適用し、オーストリア軍がナポリやピエモンテへ介入して革命を鎮圧しました。

つまりトロッパウ会議が「理念の確認」だとすれば、ライバッハ会議はその「実行の段階」にあたります。

この一連の会議は、ウィーン体制の正統主義秩序を守るうえで短期的には成功を収めましたが、同時に「自由を抑圧する干渉の体制」という批判を招き、のちの自由主義・民族運動の高まりへとつながる矛盾を抱えていました。

メッテルニヒ外交の輝きと影、その両方を象徴するのが、まさにこのトロッパウ=ライバッハ体制だったのです。

本記事では、両会議の背景・内容・意義を整理し、メッテルニヒ体制の強化とその限界を明らかにします。

目次

第1章:革命干渉の時代 ― トロッパウ会議の成立とその背景

ナポレオン戦争後のヨーロッパは、ウィーン体制のもとで秩序を回復したかに見えました。しかし、自由と憲法を求める革命の波は止まず、1820年にはナポリやスペインで相次いで蜂起が発生します。

こうした動きに危機感を抱いたのが、保守主義の守護者メッテルニヒでした。

「革命の火を一国にとどめておけば、いずれ全欧に燃え広がる」——その恐れが、トロッパウ会議の開催を促すことになります。

① ナポリ革命とメッテルニヒの危機感

1820年、ナポリ王国ではカルボナリ党(秘密結社)による立憲革命が発生し、ブルボン朝の王フェルディナンド1世が憲法を承認する事態となりました。

これは「王が人民に屈する」ことを意味し、ウィーン体制の正統主義原則に真っ向から反するものでした。
この知らせを受けたメッテルニヒは、「革命は感染する病」として徹底した封じ込めを主張します。

② トロッパウ会議の開催(1820)

メッテルニヒの呼びかけにより、オーストリア・ロシア・プロイセンの三国が、オーストリア領シレジアの都市トロッパウ(現チェコのオパヴァ)に集まりました。

フランスとイギリスは自由主義的立場から距離を置き、正式な参加を見送りました。

このため、実質的には保守三国による「反革命ブロック会議」となりました。

③ 干渉原則(革命介入の正当化)

会議では、「革命によって成立した政府は、正統な秩序を乱す存在であり、列強はその国内問題に干渉する権利をもつ」という「トロッパウ議定書」が採択されます。

これは、メッテルニヒが唱える「正統主義の防衛」=「干渉の権利」という理論の確立でした。

すなわち、国際法上の原則ではなく、政治的・道徳的正統性を根拠に革命国家への介入を正当化したのです。

④ 反発する自由主義諸国

イギリスのカスルレーやフランスのリシュリューらは、この「干渉原則」に強く反発しました。

彼らは、「他国の内政に干渉することは主権侵害であり、かえって混乱を招く」と主張し、ウィーン体制の「協調」から一歩引く姿勢を示します。

この段階で、ウィーン体制の“綻び”はすでに始まっていたといえるでしょう。

⑤ ライバッハ会議への移行

トロッパウ会議では原則は確認されたものの、実際の行動は決まりませんでした。

そのため翌1821年、オーストリア皇帝フランツ1世とメッテルニヒ、ロシア皇帝アレクサンドル1世らがイタリア北部
ライバッハ(現スロヴェニア・リュブリャナ)に再び集まり、「干渉原則を実行に移す」ための方策を協議します。

——ここで、理論が現実となる「ライバッハ会議」へと続いていくのです。

入試で狙われるポイント

  • トロッパウ会議(1820)=革命干渉の原則を確認した会議。
  • ライバッハ会議(1821)=ナポリ革命への干渉を実行。
  • メッテルニヒの外交方針=正統主義と干渉主義の融合。
  • イギリス・フランスの不参加=五大国協調の亀裂の始まり。

第2章:ライバッハ会議 ― 革命干渉の実行とウィーン体制の強化

1821年のライバッハ会議は、前年のトロッパウ会議で定めた「革命干渉の原則」を、実際の行動として具体化した国際会議でした。

ナポリ革命への軍事介入を承認し、メッテルニヒ外交が「理念」から「実行」へと転じた瞬間です。

同時に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の思想変化や、五大国間の温度差も明らかになり、ウィーン体制の限界が見え始めました。

① ライバッハ会議の開催と参加国

1821年1月、オーストリア皇帝フランツ1世の主導で、ライバッハ(現リュブリャナ)に各国代表が再び集まりました。

メッテルニヒは「ナポリ革命の鎮圧を実行すべき」と主張し、ロシア・プロイセンがこれに賛同。

前年のトロッパウ会議で不参加だったイギリスとフランスも、形式上の代表を派遣しましたが、干渉には依然として慎重な立場を取りました。

この段階で、「五大国の協調」から「保守三国の行動」へと重心が移ることになります。

② ナポリ革命への干渉決定

会議では、ナポリ王フェルディナンド1世本人が出席し、「自国の立憲革命に対する外国干渉を要請する」という異例の事態が起こります。

これにより、オーストリア軍の介入は「同盟国からの正式な要請によるもの」として正当化されました。

こうして、オーストリア軍がナポリに侵攻し、1821年3月には革命政府を崩壊させるに至ります。

この干渉成功により、メッテルニヒ体制の権威は一時的に頂点に達します。

③ ピエモンテ革命の鎮圧

ナポリ鎮圧の余波で、同年ピエモンテ(サルデーニャ王国)でも立憲革命が発生します。

ライバッハ会議はこの事態にも即応し、再びオーストリア軍を派遣。

ここでも短期間で革命を鎮圧し、北イタリアの秩序を回復させました。

この一連の行動により、イタリア半島は再び保守的支配下に置かれ、メッテルニヒ外交の威信は回復します。

④ アレクサンドル1世の転換と「正統主義連合」の完成

トロッパウ会議のころまでは自由主義的傾向も見せていたロシア皇帝アレクサンドル1世でしたが、ライバッハ会議を機に急速に保守化します。

彼は「神聖同盟の精神」を掲げて、革命弾圧を「道徳的義務」とまで語るようになります。

こうして、ウィーン体制の基盤は「勢力均衡」だけでなく、「道徳的秩序維持」という名のもとに強化されていきました。

⑤ メッテルニヒ外交の成果と限界

短期的には、ライバッハ会議によってウィーン体制は維持され、ヨーロッパは一見安定を取り戻しました。

しかし、メッテルニヒの干渉主義は「反動」として自由主義者の反感を買い、後の1830年の七月革命や1848年革命へと連鎖する火種を残しました。

つまり、ライバッハ会議は、体制を守るための成功でありながら、体制を崩壊へ導く矛盾の始まりでもあったのです。

入試で狙われるポイント

  • ライバッハ会議(1821)=ナポリ革命干渉を実行した会議。
  • トロッパウ会議(1820)=干渉原則の確認。ライバッハ=実際の軍事行動。
  • オーストリアが主導し、イタリア半島を再び保守体制下においた。
  • ロシア皇帝アレクサンドル1世の保守化=神聖同盟の精神の実践化。
  • 干渉主義の成功が、のちの自由主義・民族運動の反発を招く。

重要論述問題にチャレンジ

トロッパウ会議とライバッハ会議の意義を、ウィーン体制とメッテルニヒ外交の関係から200字程度で説明せよ。

ナポリやピエモンテの革命をきっかけに開かれたトロッパウ会議では、革命国家への干渉を正当化する「革命干渉原則」が確認された。翌年のライバッハ会議では、この原則に基づきオーストリア軍がナポリに実際に介入し、体制秩序を回復した。両会議は、メッテルニヒ体制による反動的秩序の強化を象徴する一方、自由主義運動の反発を招き、ウィーン体制の限界を露呈させた。

よくある誤答パターンまとめ

誤答例誤りのポイント正しい理解
トロッパウ会議=スペイン革命への対応スペイン問題はヴェローナ会議(1822)トロッパウ会議はナポリ革命への対応
ライバッハ会議=理念の確認実際の軍事干渉を決定トロッパウ=原則、ライバッハ=実行
イギリスも干渉を支持した干渉に反対(自由主義的立場)英仏は消極的で不参加傾向
アレクサンドル1世は自由主義者初期は自由主義的だが1821年以降保守化ライバッハ以降、神聖同盟の中心に回帰

第3章:トロッパウ=ライバッハ会議の歴史的意義 ― 干渉主義の光と影

1820〜21年にかけて開かれたトロッパウ会議とライバッハ会議は、メッテルニヒ体制の絶頂期を象徴する出来事でした。

ウィーン体制の理念である「正統主義」と「勢力均衡」は、この時点で一見安定して見えましたが、その裏には自由と民族のうねりを抑圧する強力な干渉主義が存在していました。

本章では、これら二つの会議が果たした役割と、その後のヨーロッパ史に残した功罪を整理します。

① メッテルニヒ体制の頂点 ― 正統主義秩序の再強化

トロッパウとライバッハの成功により、ヨーロッパの保守体制は一時的に安定を取り戻しました。

オーストリアはイタリア半島における主導権を再確立し、ロシア・プロイセンとの三国協調は「神聖同盟」の枠を超えて実践的な反革命同盟として機能しました。

この段階で、メッテルニヒ外交は「干渉主義=平和の維持」という論理を完成させます。

つまり、自由を抑えることこそ秩序を守ることという発想です。

これは、保守主義の理想を現実政治に適用した典型例でもありました。

② 干渉主義の理念 ― 秩序か、抑圧か

メッテルニヒの干渉主義は、単なる軍事政策ではなく、道徳的・政治的哲学に基づいていました。

彼は「国家は相互に道徳的責任を負う」という考えから、革命を“感染症”にたとえ、「一国の病を全欧が防ぐ」ことを正当化しました。

しかしこの発想は、主権国家の内政不干渉という近代国際法の原則と矛盾します。ウィーン体制は、「安定」と引き換えに「自由」を犠牲にするシステムだったとも言え、19世紀前半のヨーロッパ外交を特徴づけた反動の思想でした。

③ 干渉主義の限界 ― 潜伏する自由主義と民族運動

干渉主義によって一時的に革命は抑えられたものの、自由主義・民族主義の潮流は地下に潜っただけでした。

特にイタリアでは、カルボナリ党の活動が続き、後の「リソルジメント運動(イタリア統一運動)」の母体となります。

また、各地の知識人や青年層の間では「自由は抑圧されるほど強くなる」という意識が芽生え、1830年の七月革命、1848年の諸国民の春へとつながっていきました。

つまり、干渉主義は体制を守ると同時に、革命の火種を深く根付かせたともいえるのです。

④ 五大国協調体制のひずみ

トロッパウ・ライバッハの時点で、すでに五大国の間には温度差が生じていました。

とくにイギリスは「他国の内政への干渉は主権の侵害」として距離を取り、のちに自由主義陣営としてヨーロッパ政治の流れから離れていきます。

この時点で、「五大国協調」の原則は実質的に崩壊し始めたのです。

その後のヴェローナ会議では、フランスがスペイン干渉を主導するなど、列強間の足並みはさらに乱れました。

——ここに、ウィーン体制の終焉の予兆を見ることができます。

⑤ 「理念としての安定」と「現実としての弾圧」

ウィーン体制がめざしたのは、戦争のない安定したヨーロッパでした。

しかし、その安定の上に築かれたのは、検閲・密告・弾圧による沈黙の秩序でした。

トロッパウとライバッハは、「平和」という言葉の裏に潜む「自由の抑圧」を象徴しています。

つまり、ウィーン体制とは“戦争なき戦争状態”だったのです。

それを可能にしたのが、メッテルニヒの外交的手腕であり、同時に彼の最大の矛盾でもありました。

比較で整理:三会議の流れ

会議名主な議題結果意義
1820トロッパウ会議ナポリ革命干渉原則を確認干渉主義の理念確立
1821ライバッハ会議ナポリ・ピエモンテ革命オーストリア軍の干渉決定干渉主義の実行
1822ヴェローナ会議スペイン革命フランス干渉を容認干渉主義の拡大と体制の限界

入試で狙われるポイント

  • トロッパウ=原則、ライバッハ=実行、ヴェローナ=拡大の流れを整理しておく。
  • 干渉主義の背景は「正統主義+保守主義+神聖同盟思想」。
  • イギリスの離脱=五大国協調体制の崩壊の始まり。
  • 干渉主義は短期的安定をもたらすが、長期的には自由主義・民族運動を刺激した。
  • メッテルニヒ体制の頂点=同時にその矛盾の露呈点。
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