神聖ローマ帝国は中世ヨーロッパにおいて「皇帝」と「諸侯」の複雑な権力構造を抱えた特異な国家でした。
その中でシュタウフェン家(ホーエンシュタウフェン家)は、12世紀から13世紀にかけて皇帝として君臨し、帝国の統一と権威の強化を目指しました。
しかし、ローマ教皇との対立、イタリア政策での疲弊、諸侯の台頭などにより、ついには大空位時代(1254〜1273年)を招き、帝国は大きく分裂します。
本記事では、叙任権闘争後からシュタウフェン家の栄光と没落、そして神聖ローマ帝国が分裂していく過程をわかりやすく解説します。
MARCH・早慶レベルの入試に頻出する重要テーマなので、皇帝権・諸侯・教皇・都市国家の関係を体系的に押さえましょう。
第1章 シュタウフェン家の登場と皇帝権の再建をめぐる挑戦
叙任権闘争(1077〜1122)によって神聖ローマ皇帝の権威は大きく失墜しました。
ヴォルムス協約(1122)で教皇が司教任命権を掌握した結果、皇帝は宗教人事の支配力を失い、帝国内での立場は相対的に低下します。
しかし、南ドイツの有力貴族であったシュタウフェン家は、バイエルンやシュヴァーベンを拠点に皇帝権の再建を目指しました。
【重要】ホーエンシュタウフェン家 今どこ?
神聖ローマ帝国の歴史でのホーエンシュタウフェン家の位置関係をつかみましょう!
オットー朝 (962〜1024)
│ 962 オットー1世、皇帝即位 → 神聖ローマ帝国成立
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サリク朝 (1024〜1125)
│ 1077 カノッサの屈辱(ハインリヒ4世が教皇に屈服)
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シュタウフェン朝 (1138〜1254) ⇒今ココ!
│ 1152 フリードリヒ1世(赤ひげ王)即位 → イタリア政策推進
│ 1176 レニャーノの戦い → 都市同盟に敗北
│ 1190 第3回十字軍に参加 → フリードリヒ1世戦死
│ 1215 フリードリヒ2世、イタリア支配強化も諸侯の反発
│ → 皇帝権の弱体化が加速
▼
大空位時代 (1256〜1273)
│ 皇帝不在 → 諸侯の独立化が顕著に
▼
ハプスブルク朝 (1273〜1806)
│ 1356 金印勅書(カール4世)→ 選帝侯制度を法制化
│ 1519 カール5世即位 → 宗教改革・シュマルカルデン戦争
│ 1618 三十年戦争勃発(フェルディナント2世)
│ 1648 ウェストファリア条約 → 皇帝権の弱体化が決定的に
│ 1806 ナポレオンの圧力で帝国解体(フランツ2世)
▼
以後:ドイツは「オーストリア帝国」と「プロイセン王国」を中心に展開
また、神聖ローマ帝国は、弱体化の流れをしっかりつかみましょう。
カノッサの屈辱(1077)
↓
【権威に初めて傷】教皇に屈服 → 皇帝権の弱体化が始まる
↓
シュタウフェン朝のイタリア政策失敗(12〜13世紀)
↓
【支配力の低下】イタリア遠征で消耗 → ドイツ本土の統制力低下
↓
第3回十字軍(1190)
↓
【皇帝戦死で国力に打撃】フリードリヒ1世が遠征中に戦死 → 諸侯の自立に拍車
↓
大空位時代(1256〜1273)
↓
【空洞化】皇帝不在 → 諸侯の独立化が顕著に
↓
金印勅書(1356)
↓
【制度化】選帝侯が皇帝を選出 → 弱体化が法制的に固定
↓
ウェストファリア条約(1648)
↓
【決定的】諸侯が外交権・宗教決定権を獲得 → 皇帝は名目的存在へ
ここは大切ですので、文章でもまとめます。神聖ローマ帝国は、知識がバラバラな受験生が多いです。いっきに直線で串刺しにして、理解しましょう。
弱体化のプロセスと出来事ごとの位置づけ
- カノッサの屈辱(1077)
- 【意味】皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に屈服。
- 【位置づけ】「皇帝の権威に初めて大きな傷がついた」出来事。
- 教皇との力関係が揺らいだ段階 → 弱体化の始まり。
- シュタウフェン朝のイタリア政策(12世紀後半〜13世紀前半)
- 【意味】フリードリヒ1世・2世がイタリア支配を目指すも、都市同盟や教皇の反発で失敗。
- 【位置づけ】イタリア政策に固執したためにドイツ本土で皇帝の支配力が低下。
- → 実質的に諸侯の自立が進み、弱体化が加速。
- 第3回十字軍(1190)
- 【意味】皇帝フリードリヒ1世戦死。
- 【位置づけ】直接「弱体化の決定打」ではないが、皇帝の不在・遠征が続いたことが諸侯独立の進展に拍車。
- → 弱体化を促進する要因の一つ。
- 大空位時代(1256〜1273)
- 【意味】皇帝不在。各地で諸侯が勝手に振る舞う。
- 【位置づけ】「形式的にも皇帝権が空洞化」した時期。
- → 弱体化が顕在化・制度化。
- 金印勅書(1356)
- 【意味】選帝侯7人による皇帝選出を正式化。
- 【位置づけ】皇帝は選ばれる立場になり、諸侯に従属。
- → 弱体化を制度として固定した転換点。
- ウェストファリア条約(1648)
- 【意味】三十年戦争の講和。諸侯に外交権・宗教決定権が認められる。
- 【位置づけ】皇帝は「名目上の存在」に近くなり、実質的に帝国は分裂国家の集合体に。
- → 弱体化が決定的・不可逆的に確定。
1-1. ホーエンシュタウフェン家の台頭
11世紀後半、神聖ローマ帝国ではザクセン家、ヴェルフ家、シュタウフェン家などの有力諸侯が覇権を争っていました。
特にヴェルフ家(バイエルン公)とシュタウフェン家(シュヴァーベン公)の対立は激化し、「ヴェルフ対ヴァイベルク(ヴェルフェン対ギベリン)」の長期抗争につながります。
1138年、コンラート3世(シュタウフェン家)が神聖ローマ皇帝に即位し、シュタウフェン朝が始まりましたが、彼の統治は諸侯との妥協を余儀なくされ、皇帝権強化は容易ではありませんでした。
1-2. フリードリヒ1世「赤髭王」バルバロッサの政策
1152年に即位したフリードリヒ1世(バルバロッサ)は、シュタウフェン家の中でも最も強力な皇帝の一人です。
彼は以下の3つを目指しました。
- ① 皇帝権の強化
皇帝直轄領の支配権を拡大し、諸侯の統制を図る - ② イタリア政策の推進
イタリアの都市国家や教皇庁を支配し、ローマ帝国の伝統的権威を回復 - ③ 教皇との対立
教皇アレクサンデル3世と対立し、ロンバルディア同盟(北イタリア都市連合)との戦争を繰り広げる
しかし、1176年のレニャーノの戦いでロンバルディア同盟に敗北し、皇帝権の強化は頓挫します。
1-3. フリードリヒ2世と「第2の叙任権闘争」
フリードリヒ2世(在位1212〜1250)は、「中世最後の皇帝」と呼ばれる人物です。
彼はシチリア王を兼ね、南イタリアからドイツ、ボヘミアまでを統治下に収め、かつてない規模の神聖ローマ帝国を築きました。
しかし、教皇と激しく対立したため、度重なる破門を受け、帝国統治は不安定化。フリードリヒ2世の死後、シュタウフェン家は急速に衰退し、諸侯の独立傾向が一層強まります。
1-4. 大空位時代と神聖ローマ帝国の分裂
1254年、最後のシュタウフェン朝皇帝コンラート4世が死去すると、神聖ローマ帝国は大空位時代(1254〜1273)に突入します。
諸侯間の対立や教皇の干渉により、皇帝不在の混乱が続き、帝国は事実上「分裂国家」へと転落しました。

1-5. 入試で狙われるポイント
- ヴェルフ家とシュタウフェン家の対立 → ギベリン対ゲルフ抗争
- フリードリヒ1世のイタリア政策とレニャーノの戦い
- フリードリヒ2世と教皇権の対立
- 大空位時代の影響と諸侯権力の強化
- 叙任権闘争後、シュタウフェン家の皇帝たちはなぜ神聖ローマ帝国の統一を維持できなかったのか。フリードリヒ1世・2世の政策と失敗を中心に200字程度で述べよ。
-
タリア政策を推進したが、1176年レニャーノの戦いで北イタリア都市連合に敗北し、権威回復は挫折した。フリードリヒ2世は広大な領土を統治したが、教皇と対立を深めて破門され、統一的支配は困難となった。結果として諸侯の独立傾向が強まり、大空位時代を招き、帝国の分裂が決定的となった。
第1章: シュタウフェン家と神聖ローマ帝国の分裂 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
シュタウフェン家初代皇帝であるコンラート3世が即位した年は何年か。
解答:1138年
問2
シュタウフェン家と対立したバイエルン公家を何というか。
解答:ヴェルフ家
問3
フリードリヒ1世のあだ名は何か。
解答:赤髭王(バルバロッサ)
問4
1176年、フリードリヒ1世が北イタリア都市連合に敗れた戦いは何か。
解答:レニャーノの戦い
問5
レニャーノの戦いでフリードリヒ1世に勝利した都市連合を何というか。
解答:ロンバルディア同盟
問6
フリードリヒ2世が兼ねた南イタリアの王国名は何か。
解答:シチリア王国
問7
フリードリヒ2世の死後、神聖ローマ帝国が混乱した時代を何というか。
解答:大空位時代
問8
大空位時代の混乱を利用して領地を拡大したドイツの諸侯を何というか。
解答:領邦諸侯
問9
シュタウフェン家が滅亡したのは何世紀か。
解答:13世紀
問10
シュタウフェン家滅亡後、神聖ローマ帝国の皇帝位を掌握した王朝は何か。
解答:ハプスブルク家
正誤問題(5問)
問1
シュタウフェン家はバイエルンを拠点とし、ヴェルフ家と対立した。
解答:誤り(シュタウフェン家はシュヴァーベンを拠点とした)
問2
フリードリヒ1世はレニャーノの戦いで勝利し、イタリア政策を成功させた。
解答:誤り(敗北したため失敗に終わった)
問3
フリードリヒ2世は教皇と協調し、帝国内の統一支配を実現した。
解答:誤り(教皇と対立し、統一は実現できなかった)
問4
大空位時代には皇帝が不在となり、諸侯の独立傾向が強まった。
解答:正しい
問5
シュタウフェン家滅亡後、神聖ローマ帝国の皇帝はハプスブルク家が担った。
解答:正しい
よくある誤答パターンまとめ
- フリードリヒ1世はレニャーノの戦いで勝ったと誤解する
→ 実際は敗北。これが皇帝権衰退の転換点。 - フリードリヒ2世は教皇と協力したと勘違いする
→ 実際は対立し続け、破門までされている。 - 大空位時代は短期間だと思いがち
→ 約20年続く長期混乱で、帝国分裂の決定打。 - ヴェルフ家とシュタウフェン家の拠点を混同する
→ ヴェルフ=バイエルン、シュタウフェン=シュヴァーベン。
第2章 ギベリン対ゲルフ抗争と諸侯権力の台頭
シュタウフェン家が皇帝権を強化しようとした一方で、諸侯や都市国家は独立性を高め、帝国は一枚岩ではなくなっていきます。
特に12世紀から13世紀にかけて展開されたギベリン対ゲルフ抗争は、神聖ローマ帝国の分裂を決定づける大きな要因でした。
この対立は単なる皇帝家同士の争いではなく、皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれた、帝国全体を揺るがす長期抗争となります。
2-1. ギベリン対ゲルフ抗争の起源
シュタウフェン家(シュヴァーベン公)とヴェルフ家(バイエルン公)は、領地と皇帝位をめぐって深刻な対立を続けていました。
この対立は次第に「皇帝を支持する諸侯・都市」と「教皇を支持する諸侯・都市」の二大陣営に分かれ、ギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)という名で知られるようになります。
- ギベリン(Ghibellini) → シュタウフェン家を支持する皇帝派
- ゲルフ(Guelfi) → ヴェルフ家を支持する教皇派
特にイタリアでは、この抗争が都市国家間の対立をも激化させ、フィレンツェ、ミラノ、ボローニャなどの都市で派閥抗争が頻発しました。
2-2. イタリア政策と北イタリア都市国家の台頭
神聖ローマ皇帝たちは「ローマ帝国の継承者」としての正統性を主張し、イタリア支配に固執しました。
しかし、北イタリアの都市国家は商業・金融活動によって力を増し、皇帝の支配を拒みます。
- 1176年:レニャーノの戦い
→ フリードリヒ1世がロンバルディア同盟に敗北 - 1183年:コンスタンツ協定
→ 皇帝が都市の自治権を承認
結果として、北イタリアの主要都市は形式上皇帝に従いつつも、実質的には独立した都市国家として発展しました。
2-3. 諸侯権力の強化と領邦化の進行
シュタウフェン家がイタリア政策に力を注ぐ間に、ドイツ本土では領邦諸侯の権力が急速に強化されます。
その背景には、皇帝権を制限するために諸侯が獲得した領邦教会制度の存在があります。
- 皇帝が教会人事を握れなくなった結果、諸侯が独自に司教や修道院を支配
- 皇帝のイタリア遠征中、ドイツ本土では諸侯が事実上の支配者に
こうして、神聖ローマ帝国は分権化が進み、「皇帝権が弱い一方で諸侯権力が強い」という独特の政治体制が形成されました。
2-4. 教皇との対立とフリードリヒ2世の破門
フリードリヒ2世(1212〜1250)は、シチリア王国を拠点に南イタリアを掌握し、神聖ローマ帝国の統合を目指しましたが、ローマ教皇との対立が決定的な障害となりました。
- 第5回十字軍への参加を拒否したため、教皇インノケンティウス3世から圧力を受ける
- 第6回十字軍ではエルサレムを一時回復するが、教皇グレゴリウス9世から破門される
- 教皇派諸侯との戦争が激化し、帝国内の混乱がさらに進行
フリードリヒ2世の死後、シュタウフェン家は衰退し、神聖ローマ帝国は事実上「分裂国家」となりました。
2-5. 入試で狙われるポイント
- ギベリン対ゲルフ抗争の起源と展開
- 北イタリア都市国家の自治権獲得
- コンスタンツ協定の意義
- 領邦諸侯の台頭と神聖ローマ帝国の分権化
- フリードリヒ2世と教皇権の対立
- シュタウフェン家のイタリア政策はなぜ失敗に終わり、帝国分裂を招いたのか。北イタリア都市国家の動向と教皇権との関係を中心に200字程度で述べよ。
-
シュタウフェン家の皇帝たちはローマ帝国の伝統的権威を回復するため、北イタリア都市国家を支配下に置こうとした。しかし、商業で発展した都市は皇帝に反発し、1176年レニャーノの戦いでロンバルディア同盟が皇帝を撃退。1183年コンスタンツ協定により都市自治が承認され、イタリア支配は失敗した。さらに教皇と対立を深めたことで、帝国の統一は阻まれ、諸侯の独立傾向が強まった。
第2章: シュタウフェン家と神聖ローマ帝国の分裂 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
シュタウフェン家とヴェルフ家の対立から生まれた皇帝派と教皇派の呼称は何か。
解答:ギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)
問2
ギベリン対ゲルフ抗争が特に激化したのはどの地域か。
解答:北イタリア
問3
フリードリヒ1世が敗北した1176年の戦いを何というか。
解答:レニャーノの戦い
問4
レニャーノの戦いで皇帝軍を破った都市連合を何というか。
解答:ロンバルディア同盟
問5
1183年、北イタリア都市の自治を皇帝が承認した協定は何か。
解答:コンスタンツ協定
問6
神聖ローマ帝国で諸侯権力が強化された大きな要因は何か。
解答:領邦教会制度
問7
フリードリヒ2世は南イタリアでどの王国を支配していたか。
解答:シチリア王国
問8
フリードリヒ2世は第何回十字軍で一時的にエルサレムを回復したか。
解答:第6回十字軍
問9
フリードリヒ2世が教皇から破門を受けた理由の一つは何か。
解答:教皇と対立し、命じられた十字軍遠征を拒否したため
問10
シュタウフェン家滅亡後、皇帝権が著しく低下した原因を一言で何というか。
解答:大空位時代
正誤問題(5問)
問1
ギベリンは教皇を支持する派閥であった。
解答:誤り(ギベリンは皇帝派、ゲルフが教皇派)
問2
ロンバルディア同盟はシュタウフェン家の皇帝を支持した。
解答:誤り(皇帝に対抗した都市連合)
問3
コンスタンツ協定では、北イタリア都市の自治権が承認された。
解答:正しい
問4
フリードリヒ2世は教皇と協調して帝国統一を果たした。
解答:誤り(教皇と対立し、統一には失敗)
問5
領邦教会制度は、諸侯が教会を支配し権力を強化する制度である。
解答:正しい
よくある誤答パターンまとめ
- ギベリンとゲルフを逆に覚える
→ ギベリン=皇帝派、ゲルフ=教皇派。 - コンスタンツ協定で都市自治が否定されたと誤解
→ 実際は自治権を承認した。 - ロンバルディア同盟を皇帝派だと思う
→ 実際は皇帝に対抗した都市連合。 - フリードリヒ2世は教皇と協力したと勘違い
→ 実際は破門されるほど深刻に対立。
第3章 大空位時代とハプスブルク家の台頭
フリードリヒ2世(1212〜1250)の死後、シュタウフェン家は急速に衰退し、1254年にコンラート4世が亡くなると神聖ローマ帝国は大空位時代(1254〜1273)に突入します。
この時代、皇帝位は事実上空席で、教皇と諸侯が帝国の政治を牛耳り、帝国は統一性を失いました。
やがて1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に選出されますが、すでに帝国は「皇帝権の弱体化」と「諸侯の独立」が固定化した分権国家となっていました。
3-1. 大空位時代(1254〜1273)の混乱
大空位時代は、シュタウフェン家断絶後の約20年間にわたり続いた「皇帝不在」の時代です。
帝国内では諸侯が互いに争い、教皇は皇帝選出に積極的に介入して権威を強めました。
- 教皇は「皇帝は自らの承認によって即位する」という立場を強調
- 諸侯は皇帝不在を利用し、自領内の課税権や裁判権を拡大
- 南ドイツでは自由都市(帝国都市)が急増し、皇帝の統制を離れる
これにより、神聖ローマ帝国は名目上「帝国」でありながら、実質的には数百の領邦国家・自由都市の集合体となっていきました。

3-2. 皇帝選挙権と金印勅書への道
大空位時代の混乱は、やがて「皇帝選挙制度」の明文化へとつながります。
当初は多数の諸侯が選挙権を主張しましたが、次第に有力な7人の選帝侯に限定されました。
七選帝侯(1356年 金印勅書で確定)
- マインツ大司教
- ケルン大司教
- トリーア大司教
- ボヘミア王
- プファルツ伯
- ザクセン公
- ブランデンブルク辺境伯
この体制は後の1356年、ルクセンブルク家のカール4世による金印勅書で正式に制度化され、皇帝権はさらに弱体化しました。
3-3. ハプスブルク家の台頭と帝国の分権化
1273年、教皇の承認を得たハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に即位します。
しかし、ルドルフ1世は強力な領邦をまとめる力を持たず、実質的には「諸侯連合の首席」にすぎませんでした。
- ルドルフ1世はオーストリアを拠点とする支配を固め、以降ハプスブルク家は帝国有数の大領主へ
- 皇帝権は形骸化し、諸侯・都市の独立傾向がさらに加速
- 神聖ローマ帝国は統一国家ではなく、分権的連合国家として定着
こうして、シュタウフェン家が夢見た「強力な皇帝権による帝国統一」は実現されることなく、帝国は分裂状態のまま近世を迎えることとなります。
3-4. 大空位時代の歴史的意義
- 神聖ローマ皇帝の権威低下が決定的となる
- 教皇が皇帝選出に強く介入する契機となった
- 領邦諸侯・都市国家の独立が進み、帝国の分権化が固定化
- 選帝侯制度が確立し、「選挙王制」としての神聖ローマ帝国の性格が決まる
3-5. 入試で狙われるポイント
- 大空位時代(1254〜1273)の原因と影響
- 選帝侯制度と金印勅書の意義
- ハプスブルク家の台頭とオーストリア支配
- 神聖ローマ帝国の分権国家化
- シュタウフェン家滅亡後の大空位時代が神聖ローマ帝国に与えた影響を200字以内で説明せよ。
-
1254年、シュタウフェン家のコンラート4世が没すると、神聖ローマ帝国は約20年間にわたる大空位時代に突入した。皇帝権は著しく弱まり、諸侯や自由都市が事実上独立した統治を行うようになる。また、教皇は皇帝選出への介入を強め、皇帝の正統性を左右する存在となった。さらに皇帝選挙権が有力な七選帝侯に限定される過程が進み、1356年の金印勅書により制度化され、帝国は分権的連合国家として固定化された。
第3章: シュタウフェン家と神聖ローマ帝国の分裂 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
シュタウフェン家最後の皇帝は誰か。
解答:コンラート4世
問2
コンラート4世の死後、皇帝不在が続いた時代を何というか。
解答:大空位時代
問3
大空位時代の長さはおよそ何年間か。
解答:約20年
問4
大空位時代に教皇が強めた権限は何か。
解答:皇帝選出への介入権
問5
大空位時代に諸侯や都市国家が強めた権利は何か。
解答:課税権や裁判権などの自治権
問6
1356年に皇帝選出のルールを定めた勅書を何というか。
解答:金印勅書
問7
金印勅書を発布した神聖ローマ皇帝は誰か。
解答:カール4世(ルクセンブルク家)
問8
金印勅書で定められた皇帝選挙権を持つ7人を何と呼ぶか。
解答:選帝侯
問9
1273年に皇帝に選出されたハプスブルク家の人物は誰か。
解答:ルドルフ1世
問10
大空位時代以降、神聖ローマ帝国はどのような政治体制になったか。
解答:分権的連合国家
正誤問題(5問)
問1
大空位時代はフリードリヒ1世の死後すぐに始まった。
解答:誤り(フリードリヒ2世の死後、コンラート4世没後に始まった)
問2
大空位時代には教皇が皇帝選出に積極的に関与した。
解答:正しい
問3
金印勅書はシュタウフェン家の時代に発布された。
解答:誤り(1356年、ルクセンブルク家のカール4世による)
問4
ルドルフ1世はハプスブルク家最初の皇帝である。
解答:正しい
問5
大空位時代は神聖ローマ帝国の統一権力を強める結果となった。
解答:誤り(逆に分権化が進行した)
よくある誤答パターンまとめ
- 大空位時代の開始をフリードリヒ1世の死後と誤解
→ 正しくは**フリードリヒ2世死後→コンラート4世死去(1254)**から。 - 金印勅書をシュタウフェン家の政策だと思う
→ 実際はルクセンブルク家カール4世が発布。 - 選帝侯の人数を誤る
→ 常に7人で固定。 - ハプスブルク家の即位で皇帝権が復活したと誤解
→ 実際は分権化が固定化された。
まとめ章 シュタウフェン家の栄光と神聖ローマ帝国分裂の流れ
叙任権闘争(1077〜1122)以降、神聖ローマ皇帝の権威は大きく揺らぎました。
その中で登場したシュタウフェン家は、皇帝権の再建を掲げて帝国統一を目指しましたが、イタリア政策や教皇との対立、諸侯の台頭に阻まれ、その試みは失敗に終わります。
最終的には大空位時代(1254〜1273)を迎え、神聖ローマ帝国は分権的連合国家としての性格を固定化させました。
1. シュタウフェン家の挑戦と限界
シュタウフェン家の皇帝たちは、失墜した皇帝権を取り戻すため、イタリア政策や教皇権への対抗を積極的に展開しました。
フリードリヒ1世(バルバロッサ)はローマ帝国の栄光を取り戻そうと試みましたが、1176年レニャーノの戦いで北イタリア都市国家連合に敗北。
さらにフリードリヒ2世もシチリア王国を拠点に広大な帝国支配を試みたものの、教皇との対立から破門され、統一支配は実現しませんでした。
2. ギベリン対ゲルフ抗争と諸侯権力の台頭
シュタウフェン家(皇帝派=ギベリン)とヴェルフ家(教皇派=ゲルフ)の対立は帝国内を二分し、長期にわたる抗争を引き起こしました。
さらに、皇帝がイタリア政策に注力する間に、ドイツ本土では領邦諸侯が急速に力を付け、課税権や裁判権を掌握。
北イタリアではロンバルディア同盟によって都市の自治が拡大し、都市国家の独立も進みました。
3. 大空位時代と神聖ローマ帝国の分裂
1254年、コンラート4世の死によりシュタウフェン家は断絶し、大空位時代に突入します。
皇帝不在の中、諸侯や都市国家は事実上の独立支配を確立し、帝国は分裂状態に。
1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に選出されますが、皇帝権はすでに形骸化し、帝国は分権的連合国家としての道を歩むことになります。
4. まとめのポイント
- 叙任権闘争 → 皇帝権の衰退
- シュタウフェン家の挑戦 → イタリア政策・教皇対立で失敗
- ギベリン対ゲルフ抗争 → 皇帝派と教皇派の抗争で帝国分裂が加速
- 大空位時代 → 皇帝権形骸化、諸侯独立、都市国家の自治
- ハプスブルク家の台頭 → 形式的な皇帝位復活、分権体制の固定化
重要年表|シュタウフェン家と神聖ローマ帝国分裂の流れ
西暦 | 出来事 | 意義 |
---|---|---|
1077 | カノッサの屈辱 | 叙任権闘争の象徴、皇帝権の衰退 |
1122 | ヴォルムス協約 | 教皇が司教任命権を掌握 |
1138 | コンラート3世即位 | シュタウフェン朝成立 |
1152 | フリードリヒ1世即位 | 皇帝権強化とイタリア政策開始 |
1176 | レニャーノの戦い | 皇帝軍がロンバルディア同盟に敗北 |
1183 | コンスタンツ協定 | 北イタリア都市の自治承認 |
1212 | フリードリヒ2世即位 | 帝国最大版図を実現 |
1250 | フリードリヒ2世死去 | シュタウフェン家衰退の決定打 |
1254 | コンラート4世死去 | 大空位時代の始まり |
1273 | ルドルフ1世即位 | ハプスブルク家初の皇帝 |
1356 | 金印勅書発布 | 選帝侯制度確立、皇帝権弱体化 |
神聖ローマ帝国分裂の流れ(フローチャート)
叙任権闘争(1077〜1122)
│
▼
皇帝権の衰退
│
▼
シュタウフェン家の台頭(1138〜1254)
├─ フリードリヒ1世 → イタリア政策 → レニャーノ敗北
└─ フリードリヒ2世 → 教皇対立 → 破門・統一失敗
│
▼
ギベリン(皇帝派) vs ゲルフ(教皇派)抗争激化
│
▼
諸侯独立 + 都市国家自治
│
▼
大空位時代(1254〜1273)
│
▼
ハプスブルク家即位(ルドルフ1世)
│
▼
神聖ローマ帝国 → 分権的連合国家へ固定化
まとめ
シュタウフェン家は、失墜した皇帝権を取り戻そうと挑戦したものの、イタリア政策の失敗、教皇との深刻な対立、そして領邦諸侯と都市国家の台頭によって挫折しました。
最終的に大空位時代を経て、神聖ローマ帝国は「名ばかりの帝国」と化し、分権的連合国家として近世を迎えます。
この流れは、MARCH・早慶レベルでの論述・正誤問題・一問一答で頻出です。
特にレニャーノの戦い・コンスタンツ協定・大空位時代・金印勅書は必ず押さえておきましょう。
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