第4回十字軍(1202〜1204年)は、十字軍史の中でも特異な存在です。
当初はエルサレム奪回を目的としてローマ教皇インノケンティウス3世が提唱したものの、結果的には目的を大きく逸脱し、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領・略奪するという、予想外の展開をたどりました。
その結果、1204年にはラテン帝国が成立し、ビザンツ帝国は一時的に解体。東方正教会と西方カトリック教会の分断は決定的なものとなり、東地中海世界の勢力図にも大きな影響を与えました。

この記事では、
- 第4回十字軍の発端
- コンスタンティノープル占領の経緯
- ラテン帝国成立とその影響
を詳しく解説し、入試で狙われるポイントや論述対策にも触れていきます。
第1章 第4回十字軍の発端と背景
1-1. インノケンティウス3世の十字軍提唱
1198年、ローマ教皇インノケンティウス3世は、イスラム勢力に奪われた聖地エルサレムを奪還するため、第4回十字軍を提唱しました。
しかし、先行した第3回十字軍の失敗や財政難の影響から、諸侯や騎士たちの参加は前回までに比べて少なく、資金調達は困難を極めました。
このとき、十字軍の輸送を引き受けたのがヴェネツィア共和国でした。
ヴェネツィアは莫大な輸送船団を準備する代わりに、多額の報酬を十字軍側に要求します。しかし、参加者が少なかったために資金が不足し、十字軍はヴェネツィアの要求を満たせませんでした。
1-2. ザラ攻撃と目的逸脱の始まり
資金難を解決するため、ヴェネツィアは十字軍に対し、ハンガリー王国領で反乱中の港湾都市ザラ(現クロアチア・ザダル)を攻撃するよう要求します。
本来、キリスト教国同士の争いは禁じられていましたが、十字軍はやむなくこれを承諾。1202年、ザラは占領され略奪されました。
この時点で既に、第4回十字軍は「聖地奪回」という本来の目的から大きく逸脱し始めていたのです。
1-3. ビザンツ帝国内紛への介入
さらに、ビザンツ帝国内で起こっていた皇位継承争いが、十字軍の進路を変えることになります。
追放されていた皇太子アレクシオス4世が十字軍に接触し、「自分を帝位に復帰させてくれれば、多額の資金と軍事支援を提供する」と約束しました。
十字軍はこの提案を受け入れ、1203年にコンスタンティノープルを攻撃し、アレクシオス4世を即位させます。
しかし、約束された資金は支払われず、さらに都内で反乱が起こり、アレクシオス4世は暗殺されました。
1-4. コンスタンティノープル占領とラテン帝国成立
1204年、失望した十字軍はついにコンスタンティノープルを占領し、3日間にわたる大規模な略奪を行います。
聖堂や宮殿は破壊され、財宝はヴェネツィアをはじめとする西欧諸国に持ち去られました。
この結果、ビザンツ帝国領の一部にラテン帝国(1204〜1261)が建設されます。
一方、ビザンツ残党はニカイア帝国などを樹立して抵抗を続け、最終的には1261年にラテン帝国が滅亡し、ビザンツ帝国は復活します。
1-5. 東西教会分裂の決定的要因
第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領は、1054年の東西教会分裂を決定的なものとしました。
ギリシア正教会はローマ教皇を強く非難し、西欧カトリックとの和解は困難になります。
この対立はオスマン帝国の台頭期まで尾を引き、東地中海世界の政治構造を大きく変える結果となりました。
1-6. 入試で狙われるポイント
- 第4回十字軍の提唱者はインノケンティウス3世
- 聖地回復目的から逸脱 → ザラ攻撃 → ビザンツ内紛介入
- 1204年コンスタンティノープル占領
- ラテン帝国(1204〜1261)成立
- 東西教会分裂を決定づけた出来事
- 第4回十字軍が本来の目的を逸脱し、コンスタンティノープルを占領するに至った経緯と、その後の歴史的影響について、120字以内で説明せよ。
-
インノケンティウス3世の提唱で始まった第4回十字軍は、資金難からザラ攻撃を行い、さらにビザンツ皇子アレクシオス4世の要請で内紛に介入した。1204年にコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建て、東西教会分裂を決定的にした。
第1章: 第4回十字軍とラテン帝国の成立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第4回十字軍を提唱したローマ教皇は誰か。
解答:インノケンティウス3世
問2
第4回十字軍が最初に攻撃した、現クロアチアの港湾都市はどこか。
解答:ザラ
問3
ザラ攻撃を十字軍に提案したのはどの国か。
解答:ヴェネツィア共和国
問4
ビザンツ帝国内紛に介入するきっかけを作った皇太子は誰か。
解答:アレクシオス4世
問5
第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領したのは西暦何年か。
解答:1204年
問6
コンスタンティノープル占領後に建てられた国家は何か。
解答:ラテン帝国
問7
ラテン帝国が滅亡したのは西暦何年か。
解答:1261年
問8
ラテン帝国滅亡後、ビザンツ帝国を復活させた政権は何か。
解答:ニカイア帝国
問9
第4回十字軍による占領が決定的にした宗教的分裂は何か。
解答:東西教会分裂
問10
第4回十字軍で財宝を大量に獲得した都市国家はどこか。
解答:ヴェネツィア共和国
正誤問題(5問)
問1
第4回十字軍の提唱者はウルバヌス2世である。
解答:誤(正しくはインノケンティウス3世)
問2
第4回十字軍は聖地エルサレムを奪還して成功に終わった。
解答:誤(コンスタンティノープルを占領し、本来の目的は達成できなかった)
問3
ザラ攻撃はヴェネツィアの提案によるものであった。
解答:正
問4
ラテン帝国はビザンツ帝国よりも長く続いた。
解答:誤(ラテン帝国は1204〜1261年の短命政権)
問5
第4回十字軍は東西教会分裂を深める結果となった。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- ウルバヌス2世とインノケンティウス3世を混同
→ 第1回十字軍はウルバヌス2世、第4回はインノケンティウス3世 - エルサレム奪回に成功したと誤解
→ 第4回は聖地に到達すらしていない - ザラ攻撃をハンガリーの提案と誤記
→ 実際はヴェネツィアによる要求 - ラテン帝国の存続期間を過大評価
→ 約60年で滅亡した短命政権
第2章 コンスタンティノープル占領とラテン帝国の成立
2-1. 占領の経緯と市街の略奪
1204年、ビザンツ帝国でアレクシオス4世が失脚し、帝位に就いたアレクシオス5世が十字軍への支払いを拒否すると、十字軍はこれを口実に再びコンスタンティノープルを攻撃しました。
都市は堅固な城壁を誇っていたものの、内紛と裏切りによって防衛は崩壊し、十字軍は首都に突入。
その後、3日間にわたる大規模な略奪が行われ、聖堂や修道院までもが破壊されました。
ハギア=ソフィア聖堂は馬小屋として使われるなど、正教徒にとっては耐えがたい屈辱を受けました。略奪された財宝や聖遺物の多くはヴェネツィアへと運び込まれ、西欧の教会や都市の装飾に利用されました。
2-2. ラテン帝国の建設と支配構造
コンスタンティノープル占領後、十字軍は西欧的な封建制度を導入したラテン帝国を樹立しました。
初代皇帝にはフランドル伯ボードゥアン1世が選出され、西欧騎士による支配が始まりました。
- 皇帝:西欧諸侯から選出(初代はボードゥアン1世)
- 教会:ギリシア正教会は排除され、カトリック教会が強制的に優位を占めた
- 領土分割:コンスタンティノープル周辺はラテン帝国直轄地、アテネなどに封建領主国が成立
- ヴェネツィア:東地中海の重要港湾を多数獲得し、商業覇権を強化
この体制は、西欧封建制をビザンツ世界に持ち込む試みであったが、現地住民の反発は強く、統治は不安定でした。
2-3. ビザンツ残党政権の抵抗
ビザンツ帝国が滅亡した後も、亡命した皇族たちは各地で亡命政権を樹立しました。
代表的なのが以下の3つです。
- ニカイア帝国(小アジア西部)
- トレビゾンド帝国(黒海南岸)
- エピロス専制侯国(ギリシア西部)
とくにニカイア帝国は勢力を拡大し、1261年にはコンスタンティノープルを奪回。ラテン帝国は滅亡し、ビザンツ帝国(パレオロゴス朝)が復活します。
ただし、復活したビザンツ帝国は往年の力を失っており、東地中海の覇権はオスマン帝国の台頭にゆだねられることになります。
2-4. 東西関係への決定的影響
第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領は、東西教会分裂を決定的にした事件でした。
ギリシア正教徒にとって、同じキリスト教徒であるはずのラテン人による暴虐は許しがたいものであり、ローマ教皇庁への不信感は絶望的に深まりました。
さらに、ヴェネツィアを中心とする商人勢力がビザンツ経済を支配したことで、東地中海の商業ネットワークは大きく再編されます。
これは、後の大航海時代への遠因とも位置づけられています。
2-5. 入試で狙われるポイント
- 1204年:コンスタンティノープル占領 → ラテン帝国成立
- 初代皇帝はフランドル伯ボードゥアン1世
- ヴェネツィアが東地中海の商業権益を拡大
- ニカイア帝国が1261年にビザンツ帝国を復活
- 東西教会分裂の決定的要因となる
- 第4回十字軍によってラテン帝国が成立した経緯と、ビザンツ帝国側の対応について、120字程度で説明せよ。
-
1204年、第4回十字軍はコンスタンティノープルを占領し、フランドル伯ボードゥアンを皇帝とするラテン帝国を建てた。しかし支配は不安定で、ビザンツ残党がニカイア帝国を建て、1261年に帝国を復活させた。
第2章: 第4回十字軍とラテン帝国の成立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第4回十字軍の占領後、コンスタンティノープルに建てられた国家は何か。
解答:ラテン帝国
問2
ラテン帝国の初代皇帝は誰か。
解答:ボードゥアン1世
問3
第4回十字軍による占領は何年に行われたか。
解答:1204年
問4
ラテン帝国の支配体制に導入された西欧的制度は何か。
解答:封建制度
問5
第4回十字軍で東地中海の権益を拡大した都市国家はどこか。
解答:ヴェネツィア共和国
問6
ラテン帝国滅亡後にビザンツ帝国を復活させた政権は何か。
解答:ニカイア帝国
問7
ニカイア帝国がビザンツ帝国を復活させたのは何年か。
解答:1261年
問8
ニカイア帝国と並ぶビザンツ亡命政権で、黒海南岸に建てられたのは何か。
解答:トレビゾンド帝国
問9
ビザンツ帝国滅亡後、ギリシア西部に成立した亡命政権は何か。
解答:エピロス専制侯国
問10
第4回十字軍の結果、東西関係に決定的となった宗教的問題は何か。
解答:東西教会分裂の決定化
正誤問題(5問)
問1
ラテン帝国の初代皇帝はリチャード1世である。
解答:誤(正しくはボードゥアン1世)
問2
ラテン帝国はおよそ60年ほど存続した。
解答:正
問3
ニカイア帝国は1261年にコンスタンティノープルを奪回した。
解答:正
問4
第4回十字軍による占領は東西教会の和解を進展させた。
解答:誤(分裂を決定的にした)
問5
ヴェネツィアは第4回十字軍で大きな商業的利益を得た。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- ラテン帝国の皇帝を誤認
→ リチャード1世やフリードリヒ2世と混同しがち - ラテン帝国の存続期間を過大評価
→ 約60年のみで、1261年に滅亡 - 東西教会分裂が和解に向かったと誤解
→ 実際は分裂を決定的にした - 亡命政権を混同
→ ニカイア帝国(ビザンツ復活)、トレビゾンド帝国(黒海)、エピロス専制侯国(ギリシア西部)
第3章 第4回十字軍の影響と歴史的評価
3-1. 東西教会関係への決定的打撃
第4回十字軍の最大の歴史的影響は、東西教会分裂を決定的にしたことです。
本来は聖地回復を掲げたはずの十字軍が、同じキリスト教徒であるギリシア正教徒の都コンスタンティノープルを破壊したことは、正教徒にとって忘れられない屈辱でした。
以後、ギリシア正教会とローマ教皇庁の和解はほぼ不可能となり、この宗教的断絶はオスマン帝国時代まで続きます。
入試でも、「第4回十字軍=東西教会分裂の決定的契機」という形で問われやすい点です。
3-2. ビザンツ帝国の衰退と東地中海世界の変容
ラテン帝国によって一時的に解体されたビザンツ帝国は、1261年にニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回し復活しました。
しかし、その後のビザンツ帝国は国力を大きく失い、領土は縮小、軍事力も低下しました。
この衰退はオスマン帝国の台頭を容易にし、最終的に1453年のコンスタンティノープル陥落につながる長期的要因となります。
3-3. ヴェネツィアの商業覇権の確立
第4回十字軍のもう一つの大きな成果は、ヴェネツィア商人の利益拡大です。
彼らは東地中海の要地を手中に収め、ビザンツ経済を支配しました。
この商業的支配は、地中海交易におけるイタリア商人勢力の優位を決定づけ、のちの大航海時代に至るまで影響を及ぼしました。
3-4. 十字軍運動の変質と批判
第4回十字軍は、本来の目的である「聖地回復」から逸脱し、西欧諸侯・都市国家の利害追求の道具へと変質しました。
この逸脱は、十字軍運動全体に対する信頼を大きく損ない、十字軍そのものの衰退のきっかけとなります。
- 教皇権の失墜(インノケンティウス3世の意図は完全に外れた)
- 西欧と東方の断絶
- 「十字軍=宗教戦争」から「十字軍=利権追求の戦争」への転換
こうした点から、第4回十字軍は「十字軍の分岐点」と位置づけられることが多いのです。
3-5. 入試で狙われるポイント
- 第4回十字軍 → 聖地ではなくコンスタンティノープル占領へ
- 東西教会分裂を決定的にした
- ビザンツ帝国衰退の大きな要因 → オスマン帝国台頭につながる
- ヴェネツィアが東地中海の商業権益を独占的に拡大
- 十字軍の本来目的逸脱=「運動の変質」と評価される
- 第4回十字軍が中世ヨーロッパと東地中海世界に与えた宗教的・政治的・経済的影響を、120字程度で説明せよ。
-
第4回十字軍はコンスタンティノープルを占領し、東西教会分裂を決定的にした。ビザンツ帝国は衰退し、オスマン台頭を容易にした一方、ヴェネツィアは商業権益を拡大し、十字軍は宗教運動から利権追求へと変質した。
第3章: 第4回十字軍とラテン帝国の成立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第4回十字軍が東西教会分裂に与えた影響は何か。
解答:分裂を決定的にした
問2
第4回十字軍の占領により一時的に滅亡した帝国はどこか。
解答:ビザンツ帝国
問3
ラテン帝国滅亡後に復活したビザンツ帝国の王朝は何か。
解答:パレオロゴス朝
問4
ビザンツ帝国が最終的に滅亡したのは何年か。
解答:1453年
問5
1453年にビザンツ帝国を滅ぼした国家は何か。
解答:オスマン帝国
問6
第4回十字軍後に地中海交易の覇権を握った都市国家はどこか。
解答:ヴェネツィア
問7
第4回十字軍の結果、教皇権は強化されたか、弱体化したか。
解答:弱体化した
問8
第4回十字軍によって失われた、十字軍本来の目的は何か。
解答:聖地回復
問9
十字軍運動が「利権追求の戦争」とみなされる契機となったのは第何回十字軍か。
解答:第4回十字軍
問10
第4回十字軍の占領は、長期的にどの帝国の台頭を容易にしたか。
解答:オスマン帝国
正誤問題(5問)
問1
第4回十字軍はエルサレム奪回に成功し、教皇権の威信を高めた。
解答:誤(エルサレムには到達せず、教皇権はむしろ失墜)
問2
第4回十字軍の結果、ヴェネツィアは東地中海の商業権益を拡大した。
解答:正
問3
第4回十字軍は東西教会分裂の克服に貢献した。
解答:誤(分裂を決定的にした)
問4
第4回十字軍によるビザンツ帝国の衰退は、オスマン帝国の台頭を容易にした。
解答:正
問5
第4回十字軍は十字軍運動の変質を象徴する出来事とされる。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 「第4回十字軍=エルサレム奪回成功」と誤解
→ 実際はエルサレム到達すらしていない - 教皇権の強化と答えてしまう
→ インノケンティウス3世の意図は完全に外れ、威信は低下 - 東西教会分裂を和解と勘違い
→ 逆に断絶を決定的にした - ビザンツ帝国の復活を「完全復興」と誤認
→ 実際は弱体化し、オスマンに滅ぼされる流れへ
第4章 まとめ|第4回十字軍と世界史への影響
第4回十字軍は、十字軍史の中でも最も大きな逸脱を示した出来事でした。
インノケンティウス3世の提唱により始まったものの、資金難やヴェネツィアの商業的思惑、さらにビザンツ皇位継承争いに巻き込まれたことで、目的は聖地奪回から大きく逸れ、最終的には1204年のコンスタンティノープル占領へと至りました。
その結果、ラテン帝国が成立し、ビザンツ帝国は一時的に滅亡します。
しかし、ニカイア帝国を中心としたビザンツ残党が抵抗し、1261年には帝国が復活しました。とはいえ、この衝撃的な事件によりビザンツ帝国は大きく衰退し、オスマン帝国の台頭を許すことになります。
また、第4回十字軍は東西教会分裂を決定的にした事件でもありました。ギリシア正教徒にとって、同じキリスト教徒による都の略奪は忘れられない屈辱であり、ローマ教皇庁との和解は事実上不可能となりました。
さらに、この戦争はヴェネツィアを中心とするイタリア商人に莫大な利益をもたらし、東地中海における商業の主導権を西欧へと移行させました。これらの変化は後世の世界史にも大きく影響を与え、「十字軍の転換点」として位置づけられています。
4-2. 年表で整理
年 | 出来事 |
---|---|
1198年 | インノケンティウス3世、第4回十字軍を提唱 |
1202年 | 十字軍、ザラを攻撃(ヴェネツィアの要請) |
1203年 | ビザンツ内紛に介入、アレクシオス4世を擁立 |
1204年 | 十字軍、コンスタンティノープルを占領・略奪、ラテン帝国成立 |
1204〜1261年 | ラテン帝国が存続、西欧的支配体制導入 |
1261年 | ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回、ビザンツ帝国復活(パレオロゴス朝) |
1453年 | ビザンツ帝国、オスマン帝国に滅亡 |
4-3. フローチャートで整理
インノケンティウス3世が第4回十字軍提唱(1198)
│
▼
資金難 → ヴェネツィアの要求
│
▼
ザラ攻撃(1202)
│
▼
ビザンツ皇子アレクシオス4世の要請
│
▼
内紛に介入 → 帝位復帰(1203)
│
▼
支払い拒否・反乱 → アレクシオス4世失脚
│
▼
コンスタンティノープル占領(1204)
│
▼
ラテン帝国成立(1204〜1261)
│
▼
ニカイア帝国が奪回 → ビザンツ復活(1261)
│
▼
衰退したビザンツ帝国 → オスマンに滅亡(1453)
4-4. 総括ポイント
- 十字軍運動の転換点:宗教戦争から利権戦争へ
- 宗教的影響:東西教会分裂の決定化
- 政治的影響:ビザンツ帝国の衰退 → オスマン台頭へ
- 経済的影響:ヴェネツィアを中心としたイタリア商人の繁栄
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