【世界史】大北方戦争(1700〜1721)を徹底解説|スウェーデン帝国の衰退とロシア・ピョートル大帝の台頭

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18世紀初頭、ヨーロッパ北方で激しい戦争が勃発しました。それが大北方戦争(1700〜1721)です。

17世紀の三十年戦争以来、バルト海を支配して「北方の覇者」となっていたスウェーデン帝国。

しかし、その黄金時代はこの戦争を境に終わりを迎えます。一方で、ロシアのピョートル1世(ピョートル大帝)は近代化改革を進めつつ、バルト海進出を果たすことで帝国としての基盤を固めました。

この戦争は単なる地域的な衝突にとどまらず、ヨーロッパの勢力図を塗り替えるきっかけとなります。

この記事では、大北方戦争の原因・経過・結果を整理しつつ、受験生が理解すべき「スウェーデンの衰退」と「ロシアの台頭」という二大テーマを徹底的に解説していきます。

目次

第1章 大北方戦争の背景と原因

大北方戦争を理解するためには、まず17世紀後半のバルト海地域の国際情勢を知る必要があります。

スウェーデンが「バルト帝国」として君臨する一方で、ロシア・デンマーク・ポーランドといった周辺諸国はその支配を脅威と感じていました。

こうした対立構造が1700年に爆発し、長期戦争へと発展していきます。

1-1. スウェーデン帝国の最盛期

17世紀、スウェーデンはグスタフ=アドルフ以来の軍事力とバルト海支配により、北欧最強の国家として君臨しました。

三十年戦争後のヴェストファリア条約(1648年)では北ドイツの領土を獲得し、「バルト帝国」と呼ばれるほどの影響力を持っていました。

しかし領土拡大と軍事維持には莫大な財政負担が伴い、国内経済は脆弱なままでした。この点がのちの衰退につながっていきます。

1-2. ロシアの近代化と西欧化政策

ピョートル1世(ピョートル大帝)は即位後、ロシアの後進性を克服するため西欧化改革を推進しました。

軍事技術や造船技術を導入し、ロシアを「ヨーロッパの大国」として台頭させる基盤を築きます。

しかしロシアはバルト海に面する領土を持たず、貿易に不利な内陸国家でした。ピョートルは「北方の窓(バルト海)」を手に入れることを最重要課題とし、その野心が戦争の大きな原因となります。

1-3. 対スウェーデン包囲網の形成

1700年、ロシア・デンマーク・ポーランドの3国は、若きスウェーデン王カール12世を侮り、同時に攻撃を仕掛けました。

これが「対スウェーデン包囲網」です。背景にはスウェーデンの覇権に対する不満と、各国の領土的野心がありました。

こうして大北方戦争は勃発し、ヨーロッパ北部を舞台に20年以上にわたる激闘が繰り広げられることになります。

入試で狙われるポイント

  • 大北方戦争は「スウェーデンの衰退」と「ロシアの台頭」を象徴する戦争。
  • ピョートル大帝の「北方の窓」政策と西欧化改革の意義。
  • 戦争開始の背景には「対スウェーデン包囲網」があった。

重要論述問題にチャレンジ

大北方戦争の背景を説明し、その戦争がスウェーデンとロシアの勢力関係にどのような影響を与えたかを論じなさい。(200字程度)

大北方戦争の背景には、17世紀に「バルト帝国」として最盛期を迎えたスウェーデンへの反発があった。ロシアのピョートル1世は西欧化改革を進める中で、貿易のためにバルト海進出を目指した。また、デンマーク・ポーランドも領土的野心からスウェーデン包囲網を形成した。20年以上にわたる戦争の結果、スウェーデンは覇権を失い、ロシアが勝利して「北方の窓」を獲得した。これによりロシアはバルト海大国として台頭し、18世紀ヨーロッパの国際秩序に影響を与えた。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第1章: 大北方戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
大北方戦争が勃発した年はいつか。

解答:1700年

問2
大北方戦争の講和条約が結ばれた年はいつか。

解答:1721年

問3
大北方戦争の結果、衰退した国はどこか。

解答:スウェーデン

問4
大北方戦争の結果、台頭した国はどこか。

解答:ロシア

問5
大北方戦争時のスウェーデン国王は誰か。

解答:カール12世

問6
ロシアのピョートル1世が推し進めた改革の総称は何か。

解答:西欧化(近代化)改革

問7
ピョートル1世が獲得を目指した「北方の窓」とは何か。

解答:バルト海への出口

問8
大北方戦争初期に形成された、スウェーデンを取り囲む同盟を何というか。

解答:対スウェーデン包囲網

問9
大北方戦争の講和条約の名前は何か。

解答:ニスタット条約

問10
大北方戦争後、ロシアが新たに首都とした都市はどこか。

解答:サンクト=ペテルブルク

正誤問題(5問)

問1
大北方戦争は、ロシア・デンマーク・ポーランドが同盟してスウェーデンに挑んだ戦争である。

解答:正

問2
大北方戦争中、ピョートル1世はオスマン帝国と同盟を結んでスウェーデンに対抗した。

解答:誤(オスマン帝国との同盟はなかった)

問3
スウェーデン国王カール12世は戦争の初期に敗北し、即位を失った。

解答:誤(カール12世は戦争中も王位にあった)

問4
ニスタット条約により、ロシアはバルト海沿岸を獲得した。

解答:正

問5
大北方戦争後、スウェーデンはバルト帝国として再び最盛期を迎えた。

解答:誤(スウェーデンは衰退した)

第2章 大北方戦争の経過と主要な戦い

大北方戦争は20年以上にわたる長期戦争でした。序盤ではスウェーデンの若き国王カール12世が圧倒的な軍事力を示し、敵国を次々に破ります。

しかし、戦争が長引くにつれてスウェーデンの国力は消耗し、ロシアが着実に力を蓄えていきました。

その象徴が「ポルタヴァの戦い」であり、これを境に戦局は一気にロシア有利へと傾きます。

2-1. 戦争序盤:カール12世の快進撃

1700年、対スウェーデン包囲網を結成したロシア・デンマーク・ポーランドは同時に攻撃を開始しました。

しかし、若干18歳のスウェーデン王カール12世は卓越した軍事指導力を発揮し、同年のナルヴァの戦いでロシア軍を撃破。

その後、デンマークを講和に追い込み、ポーランド王を退位させるなど、序盤戦はスウェーデンの圧勝でした。

2-2. 戦争中盤:ロシアの反撃とポルタヴァの戦い

ロシアは敗北後も国力を立て直し、軍制改革や近代化を進めました。

1709年、ウクライナ地方のポルタヴァで両軍が激突。

カール12世率いるスウェーデン軍は壊滅的敗北を喫し、王はオスマン帝国へ亡命する事態となりました。

この戦いは大北方戦争の最大の転換点であり、以後はロシア優位が続きます。

2-3. 終盤とニスタット条約

戦争はさらに10年以上続き、スウェーデンは疲弊していきました。

1721年に結ばれたニスタット条約により、スウェーデンはバルト海沿岸の多くをロシアに割譲。

ロシアは「北方の窓」を獲得し、ヨーロッパ列強の一員として台頭しました。これにより、スウェーデンの「バルト帝国」としての時代は完全に終焉を迎えました。

入試で狙われるポイント

  • 戦争序盤のカール12世の勝利(ナルヴァの戦い)と中盤のロシアの勝利(ポルタヴァの戦い)を対比して理解。
  • ポルタヴァの戦いは「スウェーデン衰退の決定打」として超頻出。
  • ニスタット条約によりロシアがバルト海進出に成功した。

重要論述問題にチャレンジ

大北方戦争の経過を、戦争序盤・中盤・終盤の三段階に分けて説明し、その歴史的意義を述べなさい。(200字程度)

大北方戦争は序盤にスウェーデンのカール12世が快進撃を見せ、ナルヴァの戦いなどで勝利した。中盤にはロシアが軍制改革を進め、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を大敗させ、戦局を逆転させた。終盤には長期戦でスウェーデンが疲弊し、1721年のニスタット条約でロシアがバルト海沿岸を獲得した。この戦争を通じてスウェーデンは衰退し、ロシアがヨーロッパ列強として台頭した点に歴史的意義がある。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第2章: 大北方戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
大北方戦争のきっかけとなった戦いで、スウェーデンがロシア軍を撃破した戦いは何か。
解答:ナルヴァの戦い

問2
ナルヴァの戦いで勝利したスウェーデン王は誰か。
解答:カール12世

問3
カール12世が若干何歳で戦争に参加したか。
解答:18歳

問4
ポルタヴァの戦いが起きたのは何年か。
解答:1709年

問5
ポルタヴァの戦いで敗北した後、カール12世が逃れた国はどこか。
解答:オスマン帝国

問6
ポルタヴァの戦いを契機に戦局がどちらに傾いたか。
解答:ロシア

問7
最終的に大北方戦争を終結させた条約は何か。
解答:ニスタット条約

問8
ニスタット条約が結ばれたのは何年か。
解答:1721年

問9
ニスタット条約でロシアが獲得した海への出口はどこか。
解答:バルト海沿岸

問10
大北方戦争後、ロシアがヨーロッパ列強として台頭するきっかけとなった政策は何か。
解答:ピョートル1世の西欧化改革

正誤問題(5問)

問1
大北方戦争序盤では、スウェーデンが圧倒的に優勢であった。

解答:正

問2
ポルタヴァの戦いでスウェーデンがロシアに勝利し、戦局を優位に保った。

解答:誤(スウェーデンは大敗した)

問3
カール12世はポルタヴァの戦い後、亡命先としてオスマン帝国を選んだ。

解答:正

問4
ニスタット条約によってロシアは黒海への出口を獲得した。

解答:誤(獲得したのはバルト海への出口)

問5
大北方戦争の講和条約は1721年に結ばれた。

解答:正

第3章 大北方戦争の結果とヨーロッパ国際秩序への影響

1721年のニスタット条約で幕を閉じた大北方戦争は、北ヨーロッパの国際秩序を大きく変える結果をもたらしました。

スウェーデンは17世紀以来の「バルト帝国」としての地位を失い、一方でロシアがヨーロッパ列強の一角に躍り出ます。

さらに、この戦争の影響は北欧だけにとどまらず、ヨーロッパ全体の勢力均衡にも影響を与えました。

3-1. スウェーデン帝国の衰退

大北方戦争によって最も大きな打撃を受けたのはスウェーデンでした。

かつてバルト海沿岸を支配し「北方の覇者」と称された国は、戦争による人的・経済的損失で急速に弱体化。

以後、国際政治において主導的役割を果たすことはできなくなりました。

3-2. ロシア帝国の台頭と首都建設

勝者となったロシアは、バルト海沿岸を獲得して「北方の窓」を開き、貿易拠点としての地位を確立しました。

ピョートル1世は新たにサンクト=ペテルブルクを建設し、首都を移すことで西欧との結びつきを強化。

ロシアは以後、プロイセンやオーストリアと並ぶ大国としてヨーロッパ政治に深く関わるようになります。

3-3. ヨーロッパ国際秩序への波及

スウェーデンの衰退とロシアの台頭は、北欧のみにとどまらず国際関係に影響しました。

北ドイツやポーランドもバランスを調整する必要に迫られ、プロイセンの成長にもつながります。

大北方戦争は、18世紀ヨーロッパの「大国システム」の成立において重要な転換点といえます。

入試で狙われるポイント

  • 大北方戦争の結果「スウェーデン衰退・ロシア台頭」という国際秩序の変化が起きた。
  • サンクト=ペテルブルク建設は「西欧化の象徴」として頻出。
  • 18世紀の国際秩序(プロイセン・オーストリア・ロシアの大国化)への流れを押さえる。

重要論述問題にチャレンジ

大北方戦争の結果が、18世紀ヨーロッパの国際秩序に与えた影響を200字程度で説明せよ。

大北方戦争の結果、スウェーデンは「バルト帝国」としての地位を失い、国際政治の主導権を喪失した。一方でロシアはニスタット条約によりバルト海沿岸を獲得し、西欧との貿易拠点を確立した。ピョートル1世はサンクト=ペテルブルクを建設して首都を移し、西欧化政策を推進したことでヨーロッパ列強の一員となった。この変化は、プロイセンやオーストリアと並ぶ大国システムを形成し、18世紀ヨーロッパ国際秩序の基盤となった。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第3章: 大北方戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
大北方戦争を終結させた条約は何か。

解答:ニスタット条約

問2
ニスタット条約でロシアが獲得した海はどこか。

解答:バルト海沿岸

問3
ニスタット条約が結ばれたのは何年か。

解答:1721年

問4
大北方戦争後、衰退した国はどこか。

解答:スウェーデン

問5
大北方戦争後、台頭した国はどこか。

解答:ロシア

問6
ロシアの新首都として建設された都市はどこか。

解答:サンクト=ペテルブルク

問7
サンクト=ペテルブルク建設を主導したロシア皇帝は誰か。

解答:ピョートル1世(ピョートル大帝)

問8
スウェーデンは戦争後もヨーロッパの大国として君臨し続けた。

解答:誤(衰退した)

問9
ロシアの台頭はプロイセンやオーストリアの成長と並行して進んだ。

解答:正

問10
大北方戦争後のヨーロッパは「大国システム」が成立していく過程にあった。

解答:正

正誤問題(5問)

問1
大北方戦争の結果、スウェーデンは国際的な影響力を維持した。

解答:誤(影響力を失った)

問2
ロシアはバルト海進出によって「北方の窓」を獲得した。

解答:正

問3
サンクト=ペテルブルクはバルト海沿岸に建設された新首都である。

解答:正

問4
ロシアの台頭は18世紀ヨーロッパの大国システム形成に結びついた。

解答:正

問5
大北方戦争はロシアの衰退とスウェーデンの台頭を決定づけた。

解答:誤(逆で、スウェーデン衰退・ロシア台頭)

まとめ 大北方戦争の歴史的意義

大北方戦争(1700〜1721)は、スウェーデン帝国の最盛期から衰退への転換点であり、同時にロシアがヨーロッパ列強へ仲間入りする契機となった戦争でした。

序盤はカール12世の卓越した軍事力によってスウェーデンが優勢でしたが、ポルタヴァの戦いで大敗してからはロシアが主導権を握り、最終的にニスタット条約によってバルト海沿岸を獲得しました。

スウェーデンの衰退は北欧の国際秩序を大きく変え、ロシアの台頭はプロイセン・オーストリアと並ぶ「大国システム」の形成へとつながりました。

さらにピョートル1世によるサンクト=ペテルブルク建設と西欧化政策は、ロシアが東欧の専制国家からヨーロッパ大国へ変貌する象徴となりました。

受験的には「スウェーデン衰退」「ロシア台頭」「ポルタヴァの戦い」「ニスタット条約」「サンクト=ペテルブルク建設」を押さえておけば万全です。

大北方戦争の年表

出来事
1700年ロシア・デンマーク・ポーランドがスウェーデンに宣戦(大北方戦争勃発)
1700年ナルヴァの戦い:カール12世率いるスウェーデン軍がロシア軍を撃破
1704年カール12世、ポーランド王を退位させる
1709年ポルタヴァの戦い:スウェーデン軍がロシアに大敗、カール12世はオスマン帝国へ亡命
1710年代ロシアがバルト海沿岸を掌握、国力を拡大
1721年ニスタット条約締結:スウェーデンの敗北とロシアの勝利が確定、戦争終結
1721年ロシア帝国成立、サンクト=ペテルブルクが首都となる

大北方戦争の流れ(フローチャート)

大北方戦争勃発(1700)

ナルヴァの戦い(1700)
【スウェーデン優勢】

ポーランド王退位(1704)

ポルタヴァの戦い(1709)
【スウェーデン大敗 → ロシア優勢へ】

ロシア、バルト海沿岸を制圧

ニスタット条約(1721)
【スウェーデン衰退・ロシア台頭】

サンクト=ペテルブルク建設
→ ロシアがヨーロッパ列強の一員に

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