17世紀ヨーロッパは、大国スペインや神聖ローマ帝国が衰退の兆しを見せる一方で、新たに国際舞台へと進出する国々が現れました。その代表がオランダとスウェーデンです。
オランダは八十年戦争と呼ばれる独立戦争を戦い抜き、共和国として独立を達成するとともに、アムステルダムを中心とする金融・商業の拠点を築き上げました。
一方スウェーデンは、三十年戦争に参戦してプロテスタント勢力を主導し、ヴェストファリア条約後には北欧の大国として国際的地位を確立しました。
本記事では、オランダとスウェーデンの台頭を「独立戦争」「金融市場」「三十年戦争」という三つの軸から整理し、入試で頻出する流れをわかりやすく解説します。
第1章 オランダの独立戦争と共和国の成立
16世紀後半、スペインの支配下にあったネーデルラントは重税とカトリック強制に反発し、次第に独立運動へと発展しました。
八十年戦争(1568〜1648)は、ヨーロッパの宗教対立と覇権争いが複雑に絡み合う中で行われ、最終的にオランダ独立を実現させる重要な戦争でした。

スペイン支配への反発
オランダ独立戦争(八十年戦争)は、スペイン・ハプスブルク家のフィリペ2世による支配強化が引き金となりました。
特にプロテスタント弾圧と重税政策が不満を招き、1568年に反乱が勃発します。
オラニエ公ウィレムが指導者として活躍し、次第に独立の機運は高まっていきました。
共和国の成立と分裂
1581年、北部7州はユトレヒト同盟を基盤に独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国を形成しました。
これが現在のオランダの起源です。もっとも、スペインはすぐには独立を認めず、戦争は断続的に続きました。
国際的承認と戦争の終結
戦局は国際的にも拡大し、イギリスやフランスがオランダを支援する一方、スペインは南部を抑え込み、オランダの分裂を招きました。
最終的に1648年のウェストファリア条約によって、オランダの独立は国際的に正式承認されます。
意義と影響
この独立戦争は、単なる地域反乱にとどまらず、「宗教改革以降のプロテスタントとカトリックの対立」「スペインの覇権の衰退」「新興国の台頭」という17世紀ヨーロッパの大きな転換を示す出来事でした。
- オランダ独立戦争の背景と結果を200字程度で説明せよ。
-
16世紀後半、スペイン王フィリペ2世はカトリック信仰と重税をネーデルラントに強制したため、プロテスタント住民を中心に反発が高まった。1568年に反乱が勃発し、オラニエ公ウィレムが独立運動を指導した。1581年、北部7州はネーデルラント連邦共和国を成立させ、1648年のウェストファリア条約で正式に独立が国際承認された。これはスペインの覇権衰退と新興国台頭の象徴であった。
第1章: 新興国オランダとスウェーデンの台頭 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オランダ独立戦争は別名何と呼ばれるか。
解答:八十年戦争
問2
オランダ独立戦争の原因となったスペイン王は誰か。
解答:フィリペ2世
問3
オランダ独立運動の指導者は誰か。
解答:オラニエ公ウィレム
問4
1579年に北部7州が結成した同盟を何というか。
解答:ユトレヒト同盟
問5
1581年に成立した国家は何か。
解答:ネーデルラント連邦共和国
問6
オランダ独立戦争を終結させた条約は何か。
解答:ウェストファリア条約
問7
ウェストファリア条約は西暦何年に締結されたか。
解答:1648年
問8
南部ネーデルラントは誰の支配下に残ったか。
解答:スペイン
問9
南部ネーデルラントはのちにどの国の起源となったか。
解答:ベルギー
問10
オランダ独立戦争の背景には宗教改革後のどの宗派対立があったか。
解答:カトリックとプロテスタント
正誤問題(5問)
問11
オランダ独立戦争はフランスのルイ14世の圧政に対する反発から始まった。
解答:誤り(正しくはスペイン王フィリペ2世の支配に対する反発)
問12
ユトレヒト同盟は南部ネーデルラントのカトリック諸州が中心となって結成した。
解答:誤り(正しくは北部7州のプロテスタント諸州が結成)
問13
ネーデルラント連邦共和国は1581年に成立した。
解答:正しい
問14
ウェストファリア条約でオランダの独立が国際的に承認された。
解答:正しい
問15
南部ネーデルラントはその後スイスとして独立した。
解答:誤り(正しくはスペイン領に残り、のちのベルギーの起源となった)
よくある誤答パターンまとめ
- フィリペ2世とルイ14世を混同する
- ユトレヒト同盟を「南部」と誤解する
- 南部ネーデルラント=スイスと誤答する
- ウェストファリア条約の年代を間違える(特に30年戦争との関連で混乱しやすい)
第2章 アムステルダム金融市場と近代資本主義の発展
オランダが独立を果たした後、17世紀にはアムステルダムを中心に金融・商業の仕組みが整備され、世界経済の中心地として台頭しました。
証券取引所や銀行の設立は、近代資本主義の萌芽を象徴する出来事であり、受験でも頻出テーマです。
イギリスやフランスをも凌駕する商業覇権を築いたオランダの金融システムは、ヨーロッパ経済の近代化を大きく前進させました。

証券取引所と株式取引
独立を達成したオランダは、16世紀末から17世紀にかけて商業国家として急速に発展しました。
その中心がアムステルダムです。ここには世界初の近代的な証券取引所が設立され、オランダ東インド会社(VOC)の株式が取引されました。
株式の売買は資金調達を容易にし、貿易や植民活動の拡大に直結しました。
アムステルダム銀行の設立
さらに、1609年に設立されたアムステルダム銀行は、統一的な通貨制度と信用取引を可能にし、国際商業活動を支える基盤となりました。
この銀行は、のちの中央銀行の先駆けとされ、金融制度史上きわめて重要な位置を占めます。
商人国家オランダの黄金時代
オランダはまた、海運業や再輸出貿易を通じて「ヨーロッパの商人国家」として繁栄しました。
北海やバルト海を舞台にした穀物貿易や、アジア貿易を独占したVOCの活動は、アムステルダムの金融市場をさらに発展させました。
英蘭戦争への布石
こうして17世紀のオランダは「ネーデルラントの黄金時代」を迎え、経済的な覇権を確立したのです。
しかし、この金融・商業の優位は、やがてイギリスとの英蘭戦争により挑戦を受けることになります。

- アムステルダムが17世紀に「世界の金融中心地」となった理由を200字以内で説明せよ。
-
オランダは独立後、貿易と金融の拠点としてアムステルダムを発展させた。1609年にアムステルダム銀行が設立され、統一的通貨と信用取引を通じて国際商業の基盤を整えた。また世界初の証券取引所が開設され、東インド会社の株式取引を通じて大規模な資金調達が可能になった。さらに北海・バルト海交易やアジア貿易を独占したことで、アムステルダムは17世紀のヨーロッパ経済の中心地として「商人国家オランダ」の黄金時代を築いた。
第2章: 新興国オランダとスウェーデンの台頭 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1609年に設立された近代的銀行は何か。
解答:アムステルダム銀行
問2
アムステルダム銀行はどのような機能で国際取引を支えたか。
解答:統一的通貨制度と信用取引
問3
世界初の近代的証券取引所が設立された都市はどこか。
解答:アムステルダム
問4
アムステルダム証券取引所で取引された代表的な株式は何か。
解答:オランダ東インド会社(VOC)株
問5
VOCが独占したのはどの地域との貿易か。
解答:アジア
問6
オランダが再輸出貿易を盛んに行ったのは主にどの海域か。
解答:北海・バルト海
問7
17世紀のオランダ経済の最盛期を何と呼ぶか。
解答:ネーデルラントの黄金時代
問8
アムステルダム銀行は後世どのような制度の先駆けとされたか。
解答:中央銀行
問9
オランダの金融・商業的優位が挑戦を受けた戦争は何か。
解答:英蘭戦争
問10
オランダの金融市場発展の背景にはどの戦争での独立があったか。
解答:オランダ独立戦争(八十年戦争)
正誤問題(5問)
問11
アムステルダム銀行は1568年に設立され、独立戦争を資金面で支えた。
解答:誤り(正しくは1609年設立)
問12
アムステルダム証券取引所は、VOC株の取引を通じて大規模な資金調達を可能にした。
解答:正しい
問13
オランダは「農業国家」としてヨーロッパ経済の中心となった。
解答:誤り(正しくは商業・金融国家)
問14
ネーデルラントの黄金時代は17世紀のオランダを指す。
解答:正しい
問15
オランダの金融優位は後の英蘭戦争でイギリスに挑戦されることになった。
解答:正しい
よくある誤答パターンまとめ
- アムステルダム銀行の設立年代(1568年と誤答しやすい → 正しくは1609年)
- オランダの性格を「農業国家」と混同
- 証券取引所の株式をVOC以外と混同
- 英蘭戦争との関連を忘れる(金融覇権が直接の原因の一つ)
第3章 スウェーデンの台頭と三十年戦争
17世紀前半、北欧のスウェーデンは国際政治に大きな影響力を持つようになりました。
その契機となったのが三十年戦争(1618〜1648)です。
プロテスタント勢力の旗手として参戦したスウェーデンは、国王グスタフ=アドルフの指導のもと一時的に神聖ローマ帝国に大きな打撃を与えました。
最終的にはヴェストファリア条約によって国際的地位を確立し、北欧の大国として認められます。

三十年戦争と参戦の背景
三十年戦争は、神聖ローマ帝国内の宗教対立から始まりました。
当初はボヘミアでのプロテスタント反乱に端を発しましたが、やがて国際的な戦争へと拡大します。
スウェーデンが参戦した背景には、バルト海の覇権をめぐる野心と、プロテスタント諸国の支援要請がありました。
グスタフ=アドルフの活躍
1630年、スウェーデン国王グスタフ=アドルフは軍を率いてドイツに上陸しました。
彼は近代的戦術を駆使して皇帝軍を圧倒し、「獅子王」と呼ばれるほどの戦果を挙げます。
特に1631年のブライテンフェルトの戦いは、プロテスタント勢力に大きな勝利をもたらしました。
しかし1632年のリュッツェンの戦いで彼は戦死し、スウェーデン軍の勢いはやや後退します。
ヴェストファリア条約とスウェーデンの地位確立
最終的に1648年のヴェストファリア条約によって戦争は終結します。
スウェーデンはこの条約で西ポメラニアやブレーメンを獲得し、バルト海における影響力を強化しました。
こうしてスウェーデンは「北欧の大国」として国際政治の一角を占めるに至りました。

台頭の意義と限界
スウェーデンの台頭は、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。
プロテスタント側の勝利に貢献したことで宗教的自由が一定程度確立され、神聖ローマ帝国の権威は決定的に弱体化します。
ただし、スウェーデンの優位は長続きせず、18世紀初頭の大北方戦争で衰退し、ロシアの台頭へと道を開けることになりました。

入試で狙われるポイント
- スウェーデン国王グスタフ=アドルフの参戦(1630年)
- ブライテンフェルトの戦い(1631年)での勝利
- リュッツェンの戦い(1632年)での戦死
- ヴェストファリア条約(1648年)での領土獲得
- スウェーデンが「北欧の大国」となったこと
- 三十年戦争におけるスウェーデンの役割とその歴史的意義を200字程度で説明せよ。
-
スウェーデンは1630年、国王グスタフ=アドルフのもとプロテスタント側で三十年戦争に参戦した。ブライテンフェルトの戦いで勝利し、皇帝軍に大打撃を与えたが、1632年のリュッツェンの戦いでアドルフは戦死した。最終的に1648年のヴェストファリア条約で西ポメラニアなどを獲得し、スウェーデンは北欧の大国として国際的地位を確立した。この戦争は神聖ローマ帝国の権威を弱体化させ、宗教的自由の定着にもつながった。
第3章: 新興国オランダとスウェーデンの台頭 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
スウェーデンが参戦した戦争は何か。
解答:三十年戦争
問2
スウェーデン国王で「獅子王」と呼ばれたのは誰か。
解答:グスタフ=アドルフ
問3
グスタフ=アドルフが参戦したのは西暦何年か。
解答:1630年
問4
1631年の戦いでスウェーデン軍が勝利した戦いは何か。
解答:ブライテンフェルトの戦い
問5
グスタフ=アドルフが戦死した戦いは何か。
解答:リュッツェンの戦い
問6
三十年戦争を終結させた条約は何か。
解答:ヴェストファリア条約
問7
ヴェストファリア条約でスウェーデンが獲得した地域の一つを挙げよ。
解答:西ポメラニア
問8
ヴェストファリア条約は西暦何年に締結されたか。
解答:1648年
問9
スウェーデンの台頭は後にどの戦争で終焉を迎えるか。
解答:大北方戦争
問10
三十年戦争の結果、最も権威が弱体化したのは何か。
解答:神聖ローマ帝国
正誤問題(5問)
問11
グスタフ=アドルフは「太陽王」と呼ばれた。
解答:誤り(正しくは「獅子王」、太陽王はルイ14世)
問12
ブライテンフェルトの戦いは1631年に行われた。
解答:正しい
問13
グスタフ=アドルフはヴェストファリア条約の調印に立ち会った。
解答:誤り(1632年に戦死している)
問14
ヴェストファリア条約でスウェーデンは領土を獲得し、北欧の大国となった。
解答:正しい
問15
大北方戦争でスウェーデンの優位は持続的に強化された。
解答:誤り(正しくは衰退し、ロシアの台頭につながった)
よくある誤答パターンまとめ
- 「獅子王」と「太陽王」を混同する(アドルフとルイ14世)
- グスタフ=アドルフがヴェストファリア条約に関与したと誤解
- スウェーデンの衰退を「強化」と逆に覚える
- ブライテンフェルトの戦い(1631)とリュッツェンの戦い(1632)の順序を混乱
第4章 オランダとスウェーデンの台頭の意義
17世紀は、ヨーロッパにおいて新興国が国際舞台に進出し、旧来の大国の勢力を揺さぶった時代でした。
オランダは独立戦争を通じてスペインの支配から脱し、金融・商業国家として黄金時代を迎えました。
一方スウェーデンは、三十年戦争でプロテスタント勢力を主導し、ヴェストファリア条約で北欧の大国としての地位を確立しました。
両国の台頭は、宗教戦争から国際政治へと展開した近世ヨーロッパの変動を象徴しており、入試でも頻出のテーマです。
1. オランダ台頭の意義
- 独立戦争によりスペインの覇権を揺るがした
- アムステルダム金融市場を中心に「近代資本主義の先駆け」を形成
- 商業・海運によって「ヨーロッパの商人国家」と呼ばれる黄金時代を築いた
2. スウェーデン台頭の意義
- 三十年戦争でプロテスタント勢力を牽引
- ヴェストファリア条約で領土を獲得し、国際的地位を確立
- 北欧の大国としてヨーロッパの勢力均衡に大きな役割を果たした
3. 共通点と違い
- 共通点:宗教戦争を契機に台頭し、大国スペイン・神聖ローマ帝国を揺さぶった
- 違い:オランダは「経済・金融」の中心、スウェーデンは「軍事・政治」の主導権を担った
年表:オランダとスウェーデンの台頭
年代 | 出来事 | 関連国 |
---|---|---|
1568 | オランダ独立戦争(八十年戦争)開始 | オランダ vs スペイン |
1581 | ネーデルラント連邦共和国成立 | オランダ |
1609 | アムステルダム銀行設立 | オランダ |
1618 | 三十年戦争勃発 | 神聖ローマ帝国、欧州諸国 |
1630 | グスタフ=アドルフ、三十年戦争に参戦 | スウェーデン |
1631 | ブライテンフェルトの戦い(プロテスタント軍勝利) | スウェーデン |
1632 | リュッツェンの戦い、グスタフ=アドルフ戦死 | スウェーデン |
1648 | ウェストファリア条約:オランダ独立承認、スウェーデン領土拡大 | オランダ・スウェーデン |
17世紀 | オランダの「黄金時代」 | オランダ |
フローチャート:オランダとスウェーデンの台頭
【オランダの台頭】
スペイン覇権の衰退
↓
オランダ独立戦争(1568〜1648)
↓
ネーデルラント連邦共和国成立
↓
アムステルダム金融市場の発展
↓
「商人国家オランダ」の黄金時代
↓
英蘭戦争へ
【スウェーデンの台頭】神聖ローマ帝国の宗教対立
↓
三十年戦争(1618〜1648)
↓
グスタフ=アドルフ参戦(1630)
↓
ブライテンフェルトの戦い勝利(1631)
↓
リュッツェンの戦いで戦死(1632)
↓
ヴェストファリア条約で領土獲得
↓
「北欧の大国」スウェーデン誕生
↓
大北方戦争で衰退、ロシア台頭へ
まとめ
オランダとスウェーデンの台頭は、17世紀ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えました。
オランダは経済と金融を、スウェーデンは軍事と外交を通じて新しい秩序を築きました。
この二国の活躍は、宗教戦争の時代を終わらせ、近代国際社会の枠組みを生んだ大転換の象徴といえるでしょう。
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