16世紀に地中海世界の覇者として君臨したオスマン帝国。しかし、レパント海戦(1571年)を境にヨーロッパ列強との力関係が変化し、17世紀以降は軍事・経済・政治のあらゆる面で「衰退の時代」に突入します。
一方で、帝国は単に没落したわけではありません。18世紀には西欧列強の軍事的優位を痛感し、19世紀には「タンジマート(恩恵改革)」をはじめとする大規模な近代化政策を導入します。
この記事では、オスマン帝国の衰退から近代化への転換期を体系的に解説します。特に、以下のポイントを重視します:
- レパント海戦以降の地中海覇権の喪失
- 西欧列強の台頭と「東方問題」の発生
- 近代化を模索したマフムト2世とタンジマート改革
- 入試頻出の重要人物・用語・年号の整理
- 論述対策と一問一答問題付き
第1章 レパント海戦と地中海覇権の喪失
16世紀半ば、オスマン帝国はスレイマン1世時代に最盛期を迎え、地中海の制海権をほぼ手中にしていました。
しかし、レパント海戦(1571年)でスペイン・ヴェネツィア連合艦隊に大敗したことは、オスマン帝国の海上覇権に大きな影響を与えます。
1-1. レパント海戦(1571年)
16世紀後半、オスマン帝国はキプロス島の支配をめぐってヴェネツィアと争いを深めました。
この対立に対抗するため、スペインやローマ教皇庁などが加わり、いわゆる「神聖同盟」が結成されます。
1571年10月7日、ギリシア西部のレパント沖で両軍は激突しました。
戦いの結果、オスマン艦隊は大敗を喫し、地中海の制海権を直ちに完全に失ったわけではありませんでしたが、「オスマン帝国の無敵神話が崩れた」と象徴的に語られる出来事となりました。
1-2. 陸上覇権の維持と衰退の萌芽
海上では苦境に立たされたオスマン帝国でしたが、バルカン半島や東欧においては依然として軍事的優位を維持していました。
しかし、西欧諸国が火器や軍事技術を急速に発展させる中で、オスマン帝国はその革新に対応しきれず、徐々に遅れをとるようになっていきます。
1538年のプレヴェザ海戦での圧倒的勝利と比較すると、この時期の戦力差はすでに歴然としており、衰退の兆しが見え始めていたといえます。
1-3. 入試で狙われるポイント
- レパント海戦の年号(1571年)
- 神聖同盟の中心国(スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁)
- 海上覇権の転換とヨーロッパ列強の台頭
重要論述問題にチャレンジ
- レパント海戦の意義を、ヨーロッパ列強との関係の変化という観点から120字程度で説明せよ。
-
レパント海戦(1571年)でオスマン帝国はスペイン・ヴェネツィア連合艦隊に敗北し、無敵神話が崩壊した。地中海の制海権を完全には失わなかったが、西欧列強の台頭が明確になり、以後のオスマン帝国は防衛主体の戦略を余儀なくされた。
第1章: オスマン帝国の衰退と近代化への道 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(5問)
問1
レパント海戦が起こったのは西暦何年か。
解答:1571年
問2
レパント海戦でオスマン帝国を破った「神聖同盟」の中心国を2つ挙げよ。
解答:スペイン・ヴェネツィア
問3
レパント海戦当時のスペイン国王は誰か。
解答:フェリペ2世
問4
レパント海戦でスペイン艦隊を率いた人物は誰か。
解答:ドン=フアン
問5
レパント海戦の敗北によって、オスマン帝国の何が崩れたとされるか。
解答:無敵神話
問6
レパント海戦の舞台となったのは、どこの海域か。
解答:ギリシア西部のレパント沖
問7
レパント海戦のきっかけとなったオスマン帝国とヴェネツィアの対立は、どの島の支配をめぐるものか。
解答:キプロス島
問8
レパント海戦の30年以上前、オスマン帝国が制海権を握った戦いは何か。
解答:プレヴェザ海戦(1538年)
問9
プレヴェザ海戦でオスマン艦隊を率いた提督は誰か。
解答:バルバロス(ハイレッディン)
問10
レパント海戦はオスマン帝国の完全な海上覇権喪失を意味するものではなかったが、どのような点で象徴的か。
解答:西欧列強の台頭を明確に示した
正誤問題(5問)
問11
レパント海戦は1571年、オスマン帝国と神聖同盟艦隊の間で行われた。
解答:正しい
問12
神聖同盟にはスペイン・ヴェネツィア・フランスが加わっていた。
解答:誤り(フランスではなくローマ教皇庁が加わっていた)
問13
レパント海戦の敗北によって、オスマン帝国は直ちに地中海の制海権を失った。
解答:誤り(完全に喪失したわけではなかった)
問14
プレヴェザ海戦(1538年)では、オスマン帝国がスペイン・ヴェネツィア連合艦隊を破った。
解答:正しい
問15
レパント海戦をきっかけに、オスマン帝国の衰退が「目に見えるかたち」で始まったとされる。
解答:正しい
第2章 東方問題と列強の干渉
17世紀以降、オスマン帝国はロシア・オーストリア・イギリス・フランスといった列強の圧力を受け、領土の防衛と内政改革の両立を迫られました。
この状況は「東方問題」として、19世紀まで国際政治の焦点となります。
カルロヴィッツ条約(1699年)
1683年の第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、ヨーロッパにおける軍事的優位を失い、その劣勢が明確となりました。
その後の講和によって1699年のカルロヴィッツ条約が結ばれ、オスマン帝国はハンガリーをオーストリアに割譲することとなります。これにより、帝国は初めて大規模な領土を失い、衰退の時代が本格的に始まりました。
東方問題の勃発
18世紀以降、オスマン帝国の弱体化に乗じて列強が影響力を拡大しようとする動きが加速し、「東方問題」と呼ばれる国際的な対立が生まれました。
ロシアはピョートル大帝の時代から不凍港の獲得を目指し、黒海方面へ進出を図りました。
これに対し、イギリスはインド航路を守るため地中海ルートの確保を重視し、フランスは中東地域での影響力拡大を模索しました。
こうしてオスマン帝国の領土をめぐる駆け引きが、ヨーロッパ外交の大きな焦点となったのです。
ギリシア独立戦争(1821〜1829年)
19世紀初頭、民族意識の高揚とフィロヘレニズム運動の支援を背景に、ギリシアが独立を目指して蜂起しました。
戦いは長期化したが、イギリス・フランス・ロシアの三国艦隊がナヴァリノの海戦でオスマン艦隊を撃破したことで情勢が大きく変わりました。
最終的に1829年のアドリアノープル条約により、列強の後押しを受けたギリシアの独立が正式に承認された。
2-4. 入試で狙われるポイント
- カルロヴィッツ条約(1699年)で失った領土
- 東方問題における列強の対立構造
- ギリシア独立戦争の国際的意義
- 東方問題が国際政治の焦点となった理由を、19世紀初頭のオスマン帝国と列強の関係に触れて150文字程度で説明せよ。
-
オスマン帝国が軍事的に衰退する一方、ロシアが黒海進出を狙い南下政策を強化したため、オスマン領の分割を巡る列強の対立が激化した。イギリスはインド航路維持のためオスマンを支援し、フランスも影響力拡大を狙うなど、帝国の領土問題が国際政治の主要課題となった。
第2章: オスマン帝国の衰退と近代化への道 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第二次ウィーン包囲は西暦何年に行われたか。
解答:1683年
問2
第二次ウィーン包囲の失敗後、オスマン帝国がヨーロッパに対して初めて大規模に領土を失った条約は何か。
解答:カルロヴィッツ条約(1699年)
問3
カルロヴィッツ条約で、オスマン帝国がハンガリーを割譲した国はどこか。
解答:オーストリア
問4
カルロヴィッツ条約でオスマン帝国からポーランドに割譲された地域はどこか。
解答:ポドリア地方
問5
東方問題で、ロシアが一貫して追求した外交政策は何か。
解答:南下政策
問6
ロシアの南下政策により対立が激化した海はどこか。
解答:黒海
問7
ギリシア独立戦争が始まったのは西暦何年か。
解答:1821年
問8
ギリシア独立戦争で、イギリス・フランス・ロシアの三国艦隊がオスマン帝国艦隊を破った戦いは何か。
解答:ナヴァリノの海戦(1827年)
問9
ギリシア独立を最終的に承認した条約は何か。
解答:アドリアノープル条約(1829年)
問10
19世紀の東方問題において、オスマン帝国を「瀕死の病人」と呼んだロシア皇帝は誰か。
解答:ニコライ1世
正誤問題(5問)
問11
第二次ウィーン包囲(1683年)は、オスマン帝国が勝利してハンガリーを完全に支配した戦いである。
解答:誤り(オスマン帝国は敗北し、以後の衰退を決定づけた)
問12
カルロヴィッツ条約(1699年)で、オスマン帝国は大規模な領土を失い、衰退が顕在化した。
解答:正しい
問13
東方問題は、19世紀におけるヨーロッパ列強間の外交的対立の焦点となった。
解答:正しい
問14
ギリシア独立戦争では、ロシアはオスマン帝国を支援した。
解答:誤り(ロシアはギリシア側を支援した)
問15
ナヴァリノの海戦(1827年)は、オスマン帝国艦隊がイギリス・フランス・ロシア連合艦隊を破った戦いである。
解答:誤り(オスマン帝国は敗北した)
第3章 近代化の模索:マフムト2世とタンジマート改革
19世紀初頭、オスマン帝国は「瀕死の病人」と称されるほど衰退します。
しかし、このままでは列強に解体される危機に直面していたため、マフムト2世は近代化を推進し、その流れはタンジマート改革へとつながります。
3-1. マフムト2世の改革(1808〜1839年)
マフムト2世は、オスマン帝国の衰退を食い止めるために近代化政策を推し進めました。
特に重要なのは軍制改革で、1826年に「アウスラクト事件」と呼ばれる出来事を起こし、長年帝国の軍事を担ってきたイェニチェリ軍団を解散させました。
これにより、近代的な常備軍の編成が進められ、西欧型の軍事制度が導入されていきます。
さらに行政改革にも取り組み、中央集権化を強化して属州の独立傾向を抑え、国家の統制を取り戻そうとしました。
3-2. タンジマート(恩恵改革、1839〜1876年)
マフムト2世の路線を引き継ぎ、後継者たちのもとで実施されたのが「タンジマート(恩恵改革)」です。
1839年のギュルハネ勅令では、法の下の平等や課税・徴兵制度の透明化が掲げられ、帝国の近代化の方向性が打ち出されました。
さらに1856年の勅令では、キリスト教徒を含む異教徒の権利保障が明記され、宗教的な差別の是正が進められました。
こうした改革は西欧的な制度を取り入れる試みとして大きな意義を持ちましたが、同時に官僚制の肥大化や財政の悪化を招き、期待されたほどの成果を挙げることはできませんでした。
3-3. 入試で狙われるポイント
- アウスラクト事件(1826年)の意義
- ギュルハネ勅令の内容と目的
- タンジマート改革の限界と失敗要因
- タンジマート改革の意義と限界を具体的に150字程度で説明せよ。
-
タンジマート改革は、オスマン帝国が列強に対抗するため西欧型の法制度や軍制を導入した近代化政策である。ギュルハネ勅令により法の平等や徴税改革を掲げたが、地方豪族の抵抗や財政難から十分な成果は得られず、帝国の弱体化を止めることはできなかった。
第3章: オスマン帝国の衰退と近代化への道 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
マフムト2世が即位したのは西暦何年か。
解答:1808年
問2
マフムト2世が1826年にイェニチェリ軍団を解散させた事件を何というか。
解答:アウスラクト事件
問3
アウスラクト事件で解散させられた軍団は何か。
解答:イェニチェリ軍団
問4
マフムト2世の軍制改革で導入されたのは、西欧型の何か。
解答:常備軍(近代的軍隊)
問5
1839年に発布された、タンジマート改革の出発点とされる勅令は何か。
解答:ギュルハネ勅令
問6
ギュルハネ勅令に盛り込まれた三大原則は、生命・財産・何の保証か。
解答:名誉の保証
問7
1856年の勅令で保障されたのは、特にどのような人々の権利か。
解答:キリスト教徒を含む異教徒
問8
タンジマート改革の期間は西暦何年から何年までか。
解答:1839年〜1876年
問9
タンジマート改革の終了とされる1876年に制定されたのは何か。
解答:オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)
問10
オスマン帝国が「瀕死の病人」と称されるようになったのは、主にどの世紀か。
解答:19世紀
正誤問題(5問)
問11
アウスラクト事件(1826年)は、オスマン帝国の近代化を進める契機となった。
解答:正しい
問12
ギュルハネ勅令(1839年)は、すべての宗教を問わず法の下の平等を保障した。
解答:正しい
問13
タンジマート改革は成功を収め、オスマン帝国の解体を防いだ。
解答:誤り(改革は部分的成果にとどまり、帝国の衰退を止められなかった)
問14
1856年の勅令では、キリスト教徒の権利保障が強調された。
解答:正しい
問15
1876年のミドハト憲法は、オスマン帝国で初めて議会制度を導入した。
解答:正しい
まとめ
- レパント海戦(1571年)で海上覇権が動揺
- カルロヴィッツ条約(1699年)以降、領土喪失が加速
- 東方問題は19世紀国際政治の焦点
- マフムト2世とタンジマート改革は近代化の象徴
- しかし、西欧列強の圧力と内部矛盾で帝国の衰退は止められなかった
オスマン帝国の衰退と近代化への道のまとめ
オスマン帝国は、16世紀の最盛期からレパント海戦を境にヨーロッパ列強との力関係が変化し、次第に衰退の道を歩みました。
カルロヴィッツ条約による領土喪失や東方問題の激化は、列強の干渉を招きました。
19世紀にはマフムト2世の改革とタンジマートによって近代化を模索しましたが、帝国の解体を止めるには至りませんでした。
受験対策では、「年号・条約・改革の内容と限界」を押さえることが重要です。
オスマン帝国衰退と近代化の年表
西暦 | 出来事 | 意義 |
---|---|---|
1571年 | レパント海戦 | 無敵神話の崩壊、西欧列強の台頭 |
1683年 | 第二次ウィーン包囲失敗 | オスマン軍の軍事的劣勢が決定的に |
1699年 | カルロヴィッツ条約 | 初めて大規模な領土を喪失(ハンガリーなど) |
1821年 | ギリシア独立戦争勃発 | フィロヘレニズム運動、東方問題の焦点化 |
1826年 | アウスラクト事件 | イェニチェリ軍団の解散、軍制改革の出発点 |
1839年 | ギュルハネ勅令 | タンジマート改革の開始、法の平等を掲げる |
1856年 | 新勅令 | キリスト教徒の権利保障を明文化 |
1876年 | ミドハト憲法制定 | オスマン帝国初の憲法、議会制度導入 |
フローチャート:オスマン帝国の衰退と近代化
レパント海戦(1571)
↓ 無敵神話崩壊
第二次ウィーン包囲失敗(1683)
↓
カルロヴィッツ条約(1699)
↓ 領土喪失 → 衰退顕在化
東方問題の勃発
↓ ロシア南下・列強干渉
ギリシア独立戦争(1821〜1829)
↓
マフムト2世の改革(1826 アウスラクト事件)
↓
タンジマート改革(1839〜1876)
↓
部分的近代化 → しかし衰退は止まらず
入試で狙われるポイント総まとめ
レパント海戦と衰退の始まり
- 1571年 レパント海戦:スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁の神聖同盟がオスマン帝国を破る
- 「無敵神話の崩壊」がキーワード
- 舞台はギリシア西部のレパント沖
- 対立の背景:キプロス島の支配をめぐる争い
東方問題と列強の干渉
- 1683年 第二次ウィーン包囲の失敗 → ヨーロッパ進出が止まる
- 1699年 カルロヴィッツ条約:初めて大規模な領土喪失(ハンガリーなど)
- ロシアの南下政策と黒海進出が国際問題化
- ギリシア独立戦争(1821〜1829年):フィロヘレニズム運動、ナヴァリノの海戦、アドリアノープル条約
近代化とタンジマート改革
- 1826年 アウスラクト事件:イェニチェリ軍団の解散
- 1839年 ギュルハネ勅令:生命・財産・名誉の保証を掲げる
- 1856年 新勅令:キリスト教徒を含む異教徒の権利保障
- 1876年 ミドハト憲法:初の憲法制定、議会制度導入
- 改革は部分的成果にとどまり、帝国の衰退を止められず「瀕死の病人」と称される
最終チェックリスト
- レパント海戦の年号(1571年)を答えられるか
- 神聖同盟の構成国(スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁)を覚えているか
- 第二次ウィーン包囲(1683年)→カルロヴィッツ条約(1699年)の流れを説明できるか
- 東方問題でロシアの南下政策と列強の思惑を整理できるか
- ギリシア独立戦争の国際的意義を述べられるか
- アウスラクト事件(1826年)とその意義を説明できるか
- ギュルハネ勅令の内容(法の平等・徴税改革など)を押さえているか
- タンジマート改革の限界(財政難・地方豪族の抵抗)を理解しているか
- ミドハト憲法(1876年)とその位置づけを答えられるか
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