1848年、ヨーロッパを席巻した「二月革命」の波はドイツにも及び、民族統一と自由を求める人々が立ち上がりました。
革命の熱気の中で、ドイツ諸邦の代表が集まり、フランクフルト国民議会が開かれます。
ここで議会は、ドイツ統一国家の樹立を掲げ、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に「ドイツ皇帝」の王冠を授けようとしました。
しかし、王はその王冠を拒否します。
「私は人民の手から王冠を受け取ることはできない(Ich kann keine Krone aus dem Dreck aufnehmen.)」
という言葉を残して――。
一見すれば不可解に思えるこの決断の裏には、当時のドイツに根付いていた王権神授説・正統主義・自由主義への抵抗・国際秩序の制約など、複雑な思想的・政治的背景がありました。
本記事では、王がなぜ「ドイツ皇帝の座」を拒否したのか、その真意を多角的に解き明かします。
第1章:フランクフルト国民議会の戴冠提案と拒否の背景
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が皇帝位を拒否した出来事は、1848年革命の理念的敗北を象徴する歴史的事件でした。
ここでは、王冠が彼に授けられるまでの経緯と、当時のドイツ社会の状況を整理します。
1. 1848年革命とドイツ統一への機運
1848年、フランスで二月革命が起こると、その波は全ヨーロッパに広がりました。
ドイツ各地でも自由主義者・民族主義者が蜂起し、検閲廃止や議会設置を求めます。
これにより、各邦の君主たちは譲歩を余儀なくされ、ついにドイツ統一と憲法制定を議論するための議会、すなわちフランクフルト国民議会が召集されました。
議会の目的は明確でした。
- 「統一されたドイツ民族国家をつくること」
- 「立憲的な国家体制を築くこと」
この二つの理念が、議会のすべての議論を方向づけます。
2. 小ドイツ主義的統一案と皇帝即位の提案
議会では、オーストリアを含めるかどうかをめぐって大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立しました。
最終的に、オーストリアを除外し、プロイセンを中心に統一国家を形成する案(小ドイツ主義)が採択されます。
そして、統一国家の象徴として議会が選んだのが、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世でした。
彼に対して議会は「ドイツ皇帝」の地位を申し出ます。
それは、自由主義者たちが夢見た「民族と憲法に基づくドイツ」の誕生を意味するはずでした。
3. 王の拒否:「人民の手から王冠を受け取ることはできない」
しかし、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、議会の申し出を断固として拒否します。
彼の口から出たとされる有名な言葉が、
ここでいう「泥(Dreck)」とは、彼の目には「革命によって秩序を乱した人民」のことを指していました。
彼にとって民衆が議会を通じて王冠を与えることは、神の秩序を冒涜する行為だったのです。
4. 王権神授説と正統主義 ― 拒否の思想的根拠
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はロマン主義的君主であり、深くカトリック的な信仰を持っていました。
彼の政治思想の根幹は、王権神授説(王の権力は神から与えられる)にあります。
つまり、「王は人民によって選ばれる存在ではなく、神の意志に基づいて統治する存在」であるという考えです。
したがって、人民の代表である議会から王冠を受け取るという行為は、彼にとって「神の秩序に背く」ものでした。
彼は自らを“神の僕(servus Dei)”と捉え、王権の正統性は上から与えられるものであり、下から与えられるものではないと信じていたのです。
5. 外交的・政治的要因 ― 秩序を壊す「革命の冠」
彼が拒否した背景には、単なる信仰心だけでなく、現実的な外交・政治的要因もありました。
- オーストリアを排除した案:
長年ドイツ連邦を主導してきたオーストリアを除外する統一案は、ウィーン体制の秩序を崩壊させるものでした。
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は秩序維持を重視する保守的君主であり、これを「反体制的」とみなしました。 - 他の諸侯の同意がない:
他のドイツ諸邦の君主が参加していない議会の決定で皇帝になることは、彼らを臣下に置く行為と同義でした。
これは、伝統的な「君主間の平等原則」にも反します。 - 自由主義的憲法への抵抗:
フランクフルト憲法は議会制を採用しており、王権に制約を課すものでした。
王は「憲法の下に立つ王」を受け入れられなかったのです。
6. 国内事情 ― 保守層との関係と反革命の風潮
プロイセン国内の保守派(ユンカー貴族・官僚層)は、革命運動に強い警戒心を抱いていました。
フランクフルト議会は彼らの目に「革命派の集団」と映っており、その議会から王冠を受け取れば、王が革命に屈したとみなされる危険がありました。
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、自身の支持基盤である貴族層の信頼を失いたくなかったため、政治的にもこの王冠を受け取るわけにはいかなかったのです。
7. 結果 ― 自由主義的統一の挫折
王の拒否によって、議会の構想した立憲的・自由主義的ドイツ統一は崩壊しました。
これは、1848年革命における「理想主義的統一」の終焉を意味します。
以後、ドイツ統一の主導権は、理念ではなく「力」を重視するビスマルク的現実主義(Realpolitik)に移っていくことになります。
第1章まとめ
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が皇帝位を拒否した背景には、単なる個人的感情ではなく、王権神授説・秩序維持・自由主義拒否・貴族との関係維持といった複数の要因が重なっていました。
この出来事は、19世紀ドイツ史における「理念と現実の分岐点」を象徴しています。
入試で狙われるポイント
- フランクフルト国民議会の構想と失敗要因
- 王権神授説と自由主義的統一の衝突
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の「王冠拒否」の歴史的意義
- 自由主義的統一の挫折とビスマルク外交への転換
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝位を拒否した理由を200字程度で説明せよ。
-
1848年のフランクフルト国民議会は、自由主義的立憲体制のもとでドイツ統一を目指し、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に皇帝位を申し出た。しかし彼は王権神授説を信奉しており、人民が与える王冠を正統なものと認めなかった。さらに、オーストリア排除による秩序破壊や他の諸侯の不満、自由主義的憲法への抵抗もあり、政治的にも受け入れ難かったためである。
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否が示す、1848年革命における理念と現実の関係について400字程度で論ぜよ。
-
フランクフルト国民議会は、民族自決と自由主義を掲げてドイツ統一を構想したが、王権神授説を信奉するプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に拒否された。彼は人民が与える王冠を「神の秩序を乱す」とみなし、革命勢力からの戴冠を拒絶した。これは、自由主義的統一理念が当時の保守的王権構造と両立し得なかったことを示すものである。この挫折により、理念による統一は潰え、のちにビスマルクの現実主義外交と軍事力による「上からの統一」へと転換する契機となった。
第1章:なぜドイツ皇帝を拒否したのか 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1848年にドイツ統一を目指して招集された議会を何というか。
解答:フランクフルト国民議会
問2
フランクフルト国民議会が採択した統一案は大ドイツ・小ドイツのうちどちらか。
解答:小ドイツ主義
問3
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が皇帝位を拒否した発言の内容を答えよ。
解答:「人民の手から王冠を受け取ることはできない」
問4
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が信奉していた政治理念を何というか。
解答:王権神授説
問5
彼がオーストリア排除を拒否したのはなぜか。
解答:ウィーン体制の秩序を壊す行為と考えたため
問6
議会の憲法案が採用していた政治体制は何か。
解答:立憲君主制
問7
フランクフルト議会に参加しなかった主要国を答えよ。
解答:オーストリア
問8
プロイセン国内の支持基盤をなしていた保守的土地貴族を何というか。
解答:ユンカー
問9
フランクフルト議会の失敗によって、統一の主導権を握った政治家は誰か。
解答:ビスマルク
問10
この出来事が象徴する1848年革命の本質的な限界は何か。
解答:理念と現実の乖離(自由主義的統一の挫折)
正誤問題(10問)
問11
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は革命勢力からの戴冠を名誉と考え、受け入れた。
解答:誤り
問12
彼が王冠を拒否したのは、王権が神ではなく人民から授けられると考えていたためである。
解答:誤り(逆に神から授かると考えた)
問13
フランクフルト憲法は立憲君主制を定め、議会の立法権を重視していた。
解答:正しい
問14
彼の拒否により、自由主義的統一は挫折した。
解答:正しい
問15
王はオーストリア排除の案を秩序破壊とみなした。
解答:正しい
問16
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、議会が定めた憲法を積極的に支持した。
解答:誤り
問17
王の拒否は、ビスマルク的現実主義による統一への転換点となった。
解答:正しい
問18
ユンカー層は革命派と協力して自由主義的改革を推進した。
解答:誤り
問19
王が拒否した最大の思想的理由は、王権神授説への信仰である。
解答:正しい
問20
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、のちにドイツ帝国の初代皇帝となった。
解答:誤り(初代皇帝はヴィルヘルム1世)
よくある誤答パターンまとめ
- 「王冠を拒否=臆病」と誤解(実際は神学的・政治的理由)
- 「自由主義=王が支持した」と誤認
- 「この時点でドイツ帝国成立」と混同
第2章:王冠拒否が示す理念と現実の衝突 ― 1848年革命の挫折とビスマルク時代への転換
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が「人民の手から王冠を受け取らない」と宣言した瞬間、それは単なる個人的決断ではなく、19世紀ドイツにおける「理念」と「現実」の決別を意味しました。
この出来事は、自由主義者たちが夢見た「下からの統一」の崩壊を象徴するとともに、のちのビスマルクによる「上からの統一」への転換点となったのです。
ここでは、1848年革命の理想と挫折をたどりながら、なぜこの出来事がドイツ史に深い転換をもたらしたのかを考えます。
1. 1848年革命の理想 ― 民族と自由による統一国家
1848年革命は、フランス二月革命の影響を受けてドイツ諸邦にも広がり、各地で「憲法制定」「検閲廃止」「民族統一」を求める運動が起こりました。
その中心的スローガンは、
すなわち、自由主義(立憲政治)とナショナリズム(民族国家)を両立させようとする理想でした。
フランクフルト国民議会は、この理想を体現する場として誕生し、議会政治を通じたドイツ統一を目指しました。
しかし、当時のドイツ社会は産業革命の進行途上にあり、政治的主導権を握るのは依然として君主と貴族層。
自由主義者たちには、実力も支持基盤も十分ではありませんでした。
2. フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否がもたらした象徴的意味
王の拒否は、単に「王が保守的だった」というだけではなく、自由主義的統一の構想が当時の社会構造の中で不可能だったことを示しています。
彼は「人民の手から冠を受け取らぬ」と言いましたが、この「人民」とは、貴族から見れば秩序を乱す存在であり、議会はまだ「国家を代表する正統な権威」とは認められていませんでした。
つまりこの拒否は、「理念はまだ現実を支えるだけの社会的・政治的基盤を持っていなかった」という歴史的教訓を象徴しています。
3. 自由主義の限界 ― 議会主義の現実的制約
フランクフルト国民議会の議員たちは、理想主義的な議論を重ねたものの、現実的な軍事力や外交交渉の手段を欠いていました。
議会は「国民の代表」として理想の憲法を制定しましたが、その憲法を実際に施行する力――つまり統治の力を持たなかったのです。
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にとって、「力なき議会が授ける王冠」=「空想的な象徴」に過ぎませんでした。
この限界は、のちにビスマルクが唱える「鉄血政策(Eisen und Blut)」の根拠となり、議会主義ではなく武力による統一という新たな現実路線を正当化することになります。
4. 理念から現実へ ― ビスマルク外交への転換
1848年の理想主義的革命が失敗に終わった後、ドイツ統一をめぐる主導権はプロイセンの手に残りました。
その後、1862年に首相に就任したオットー=フォン=ビスマルクは、「言葉や演説ではなく、鉄と血によって問題を解決する」と述べ、力をもって国家を統一する方針を明確にします。
つまり、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否が象徴した「理念の限界」を踏まえ、ビスマルクは「理念を現実に合わせる」形でドイツ統一を遂行しました。
この流れをまとめると次のようになります:
時期 | 主導勢力 | 統一の性格 | 結果 |
---|---|---|---|
1848年 | 自由主義者・議会 | 理念的・立憲的統一(下からの統一) | 失敗 |
1871年 | ビスマルク・プロイセン王権 | 現実主義的・軍事的統一(上からの統一) | 成功 |
この転換こそが、19世紀後半のドイツ史を方向づけた最大の分岐点といえるでしょう。
5. 思想史的意義 ― 「神の冠」と「人民の冠」の対立
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が拒否したのは、単なる「王冠」ではありません。
それは、権力の正統性をどこに求めるかという哲学的選択でした。
比較項目 | 神の冠 | 人民の冠 |
---|---|---|
権威の源泉 | 神(上から) | 民(下から) |
統治理念 | 王権神授説 | 国民主権 |
国家の形態 | 封建的秩序・君主制 | 憲法・議会政治 |
象徴する勢力 | 貴族・教会・王 | 自由主義者・市民階級 |
歴史的帰結 | 革命の否定・秩序維持 | 改革・立憲政治 |
王の拒否は、この二つの正統性の衝突の中で、前者(神の秩序)を選んだ行為だったのです。
そして、ドイツがこの時点で後者を選べなかったことが、後の権威主義的国家形成につながっていくことになります。
6. ドイツ史への影響 ― 理想主義の敗北と現実主義の勝利
この拒否を境に、ドイツ統一運動は自由主義者の理想から保守的現実主義へと完全に移行します。
以後のドイツは、経済的には産業国家として急成長しつつも、政治的には皇帝と宰相が実権を握る権威主義的体制を維持する国家として形成されていきます。
つまり、1848年の失敗は「政治的近代化の遅れ」を生み、その影響は20世紀初頭まで残り続けました。
第2章まとめ
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の王冠拒否は、自由主義による統一の理念が現実政治に敗北した瞬間を象徴しています。
1848年革命が目指した「下からの統一」は失敗に終わり、その反動として、ビスマルクによる「上からの統一」が進展しました。
この転換は、ドイツが理念よりも現実を優先する政治文化を形成し、のちの帝国主義的政策や権威主義的傾向の源流となります。
入試で狙われるポイント
- 「下からの統一」と「上からの統一」の違い
- フランクフルト議会の理想と失敗要因
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否が示す思想的意義
- ビスマルクの鉄血政策への思想的転換
- 権力正統性の源泉 ― 神 vs 民の対立
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否が、ビスマルクによる統一への転換点となった理由を200字程度で述べよ。
-
1848年のフランクフルト議会は、自由主義と民族統一を理想としたが、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に拒否された。彼の拒否は、理念的統一が現実政治の中で実現不可能であることを示し、議会主義の限界を露呈させた。この挫折の後、ドイツ統一は軍事力と外交による「上からの統一」へと転換し、ビスマルクの鉄血政策が主導する現実主義的国家形成へと進んだ。
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の王冠拒否を、19世紀ドイツにおける権力正統性の転換という観点から400字程度で論ぜよ。
-
王が「人民の手から王冠を受け取らない」と述べたのは、王権神授説に基づき、王の権威を神に求める立場を明確にした行為である。1848年革命は、国民主権を基盤とした議会による立憲的統一を目指したが、王はこれを「正統性の欠如」とみなし拒否した。これは、当時のドイツ社会で、自由主義的・国民主権的統一がまだ社会的・政治的基盤を欠いていたことを示している。この出来事を契機に、理念による統一は退けられ、プロイセンを中心とした権威主義的現実主義の流れが形成された。ビスマルクによる鉄血政策は、この「上からの正統性」概念を受け継いでいる。
第2章:なぜドイツ皇帝を拒否したのか 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1848年革命のスローガンであった「自由と統一」をドイツ語で答えよ。
解答:Freiheit und Einheit
問2
フランクフルト国民議会が失敗した最大の要因を一言で述べよ。
解答:実効的な統治力・軍事力を欠いていたため
問3
王冠拒否が象徴したのは、どのような対立か。
解答:理念(自由主義)と現実(王権・秩序)の対立
問4
この出来事ののち、ドイツ統一を主導した政治家は誰か。
解答:ビスマルク
問5
ビスマルクの外交方針を象徴する言葉を答えよ。
解答:「鉄と血(Eisen und Blut)」
問6
「上からの統一」とは何を意味するか。
解答:君主制・軍事力による国家統一
問7
「下からの統一」とは何を意味するか。
解答:自由主義者や議会による立憲的統一
問8
ビスマルクが採用した政治思想の特徴を答えよ。
解答:現実政治(リアルポリティーク)
問9
1848年革命期の統一失敗がもたらしたドイツの政治的特徴は何か。
解答:権威主義的体制の定着
問10
ドイツ統一の成功は理念か現実か、どちらに基づいたか。
解答:現実
正誤問題(10問)
問11
1848年革命は自由主義と民族統一を目指した運動であった。
解答:正しい
問12
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否は、自由主義的統一を促進した。
解答:誤り
問13
議会が統治権を持たないまま憲法を制定したことが、失敗の一因である。
解答:正しい
問14
王の拒否によって、ビスマルクの「鉄血政策」が正当化された。
解答:正しい
問15
「人民の冠」は、国民主権に基づく権力正統性を象徴する。
解答:正しい
問16
フランクフルト国民議会の理念は、当時の社会構造に適していた。
解答:誤り
問17
王の拒否は、ドイツにおける権威主義的国家の形成を阻止した。
解答:誤り(むしろ促進した)
問18
ビスマルクは、自由主義者と協力して議会主導の統一を実現した。
解答:誤り
問19
理念的統一の失敗は、現実主義的統一への転換点となった。
解答:正しい
問20
「神の冠」と「人民の冠」は、権力正統性の源泉をめぐる象徴的対立である。
解答:正しい
よくある誤答パターンまとめ
- 「1848年革命=成功」と誤解(実際は挫折)
- 「ビスマルク=自由主義者」と誤認
- 「王の拒否=個人的頑固さ」と単純化
第3章:王冠を拒んだ王の遺産 ― 理想と現実が交錯したドイツ統一の出発点
1849年、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が「人民の手から王冠を受け取ることはできない」と宣言した瞬間、ドイツ統一を夢見た自由主義者たちの理想は砕かれました。
この一言は、単なる拒否ではなく、19世紀ドイツにおける政治思想の方向転換を意味しています。
それは、「理想(理念)」による統一を断念し、「現実(力)」による統一へと進むドイツ史のターニングポイントでした。
ここでは、この出来事の歴史的意義を、三つの視点から整理します。
1. 思想史的意義 ― 「神の冠」か「人民の冠」か
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否は、王権神授説と国民主権の対立を象徴する出来事でした。
観点 | 王権神授説(神の冠) | 国民主権(人民の冠) |
---|---|---|
権力の源泉 | 神・伝統・秩序 | 人民・憲法・議会 |
政治体制 | 封建的君主制 | 立憲的議会制 |
象徴的言葉 | 「神が授ける」 | 「人民が選ぶ」 |
歴史的代表者 | フリードリヒ=ヴィルヘルム4世 | フランクフルト議会の自由主義者 |
帰結 | 秩序維持・保守的統一の遅延 | 理想主義的統一の挫折 |
王は、「神から授かる冠」だけが正統だと信じ、人民による戴冠を「革命的・冒涜的」とみなしました。
この考え方は、ルイ14世の絶対王政の延長線上にあり、ヨーロッパの保守君主の共通意識でもありました。
つまり、この事件は、近代ヨーロッパにおける「正統性の源泉」が神から人民へ移行する過程において、ドイツがいかに保守的であったかを示す象徴的事例なのです。
2. 政治史的意義 ― 自由主義の挫折と「上からの統一」への転換
1848年革命が描いた「議会による民族統一」は、実現しませんでした。
なぜなら、当時のドイツではまだ、
市民階級が政治的・軍事的実力を欠いていたことや、保守的君主や貴族が支配的だったことが大きな壁となっていたからです。
フランクフルト議会は憲法と理念を作ることはできても、それを実行に移す権力を持っていませんでした。
この失敗は、のちのドイツ統一を「上からの統一」、すなわちプロイセン王権と軍事力による統一へと導きます。
ビスマルクは、王の信念(秩序と正統性)を継承しつつ、理念ではなく外交・武力・経済を駆使して現実の統一を成し遂げました。
この流れは、まさに「理想が敗れ、現実が勝った」ドイツ史の核心です。
3. 歴史的意義 ― 権威主義国家への伏線
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否以降、ドイツの政治文化は次第に議会主義よりも君主権を重んじる方向へ傾いていきました。
1871年に成立したドイツ帝国も、立憲制を採用していたものの、実際の権力は皇帝と宰相(ビスマルク)に集中していました。
つまり、この事件はドイツが「立憲的自由国家」ではなく、権威主義的中央集権国家へと進む分岐点になったのです。
この政治文化は、
- 第一次世界大戦期の軍国主義
- ワイマール共和国での議会政治の不安定化
- ナチスの独裁体制
これらへと連続していく長期的な歴史構造の一部とみなすことができます。
4. 年表でみる王冠拒否とその影響
年 | 出来事 | 意義 |
---|---|---|
1848年 | 二月革命(仏)/ドイツ各地で蜂起 | 自由と統一を求める革命の波 |
1848年5月 | フランクフルト国民議会召集 | 民主的統一国家の構想始動 |
1849年3月 | 憲法採択・王への戴冠提案 | 小ドイツ主義による立憲統一案 |
1849年4月 | 王が戴冠を拒否 | 理念的統一の挫折、革命終焉 |
1862年 | ビスマルク首相就任 | 現実主義外交・鉄血政策の開始 |
1871年 | ドイツ帝国成立 | 小ドイツ主義的「上からの統一」完成 |
5. この記事のまとめ
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否は、単なる一時的事件ではなく、自由主義の限界・王権神授説の存続・権威主義的国家形成を理解するうえで欠かせない出来事です。
彼の言葉「人民の手から王冠を受け取ることはできない」は、ドイツがまだ“人民の時代”を迎えるには早すぎたことを象徴しています。
この拒否を経て、ドイツはビスマルクのもとで統一されるものの、その国家は「強くとも自由ではない」――そんな近代国家として出発したのです。
入試で狙われるポイント
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の思想と王権神授説
- 1848年革命の理想(自由と統一)と挫折
- 議会による「下からの統一」とビスマルクによる「上からの統一」
- 理想主義から現実主義への転換
- ドイツ政治文化の権威主義的性格の起源
- フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の王冠拒否が、ドイツ政治文化の形成に与えた影響を200字程度で述べよ。
-
王冠拒否は、自由主義的統一を否定し、王権神授説に基づく保守的秩序を維持する姿勢を示した。この結果、ドイツでは議会主義よりも王権を重んじる政治文化が形成され、自由と統一を両立する道が閉ざされた。のちのビスマルクによる上からの統一もこの流れを継承し、権威主義的国家形成の基盤を築いた。
- 「人民の手から王冠を受け取らない」という言葉の思想的背景と歴史的意義を論ぜよ。
-
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の言葉は、王権神授説を信奉する彼の世界観に基づく。王の権威は神に由来するものであり、革命によって生まれた人民主権から授かることは、神の秩序を破壊する行為とみなされた。彼の拒否は、自由主義的統一の理念が当時の社会・政治構造と両立しえないことを示し、1848年革命の挫折を象徴した。この事件は、議会主義の限界を露呈させ、ドイツが理念よりも現実を重視する政治路線へ転換する契機となった。また、権威主義的体制の萌芽として、のちの帝国主義や軍国主義的傾向の出発点とも評価される。
第3章:なぜドイツ皇帝を拒否したのか 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
王権神授説とは何を意味するか。
解答:王の権力は神から授けられるという思想
問2
「人民の手から王冠を受け取らない」とは、どの思想に基づく発言か。
解答:王権神授説
問3
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が拒否した王冠は、どの議会から与えられようとしたか。
解答:フランクフルト国民議会
問4
1848年革命が目指した政治体制は何か。
解答:立憲君主制
問5
この事件ののち、ドイツ統一を達成した政治家は誰か。
解答:ビスマルク
問6
王の拒否により、1848年革命はどのような結末を迎えたか。
解答:自由主義的統一の挫折
問7
ビスマルクが唱えた現実主義的政治方針を何というか。
解答:鉄血政策(Eisen und Blut)
問8
ドイツ帝国成立後の政治体制を一言で表すと何か。
解答:権威主義的立憲制
問9
「下からの統一」とは誰による統一を指すか。
解答:自由主義者・議会による統一
問10
「上からの統一」とは誰による統一を指すか。
解答:君主・政府による統一
正誤問題(10問)
問11
王権神授説では、王は人民の同意によって統治権を持つとされる。
解答:誤り(神から授かる)
問12
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の拒否は、革命派の力を恐れたためである。
解答:誤り(思想的・正統主義的理由が中心)
問13
この事件は、自由主義的議会運動の限界を示した。
解答:正しい
問14
王の拒否により、ビスマルクによる現実主義外交の道が開かれた。
解答:正しい
問15
ドイツ帝国は完全な民主主義国家として誕生した。
解答:誤り
問16
王の拒否は、神の秩序を守るという保守的信念に基づいていた。
解答:正しい
問17
フランクフルト国民議会の構想は、オーストリア排除の小ドイツ主義だった。
解答:正しい
問18
王が王冠を受け入れていれば、1848年革命は成功していた可能性がある。
解答:正しい(ただし理想論的)
問19
この事件は、ドイツの権威主義的政治文化の原点とされる。
解答:正しい
問20
王は後に自ら皇帝に即位し、ドイツ帝国を創設した。
解答:誤り(統一を成し遂げたのはヴィルヘルム1世)
よくある誤答パターンまとめ
- 「王冠拒否=臆病な行動」と単純化する誤り
- 「人民主権=19世紀ドイツで確立」と過大評価
- 「王権神授説=絶対王政期限定」と誤解
コメント