サライェヴォ事件とは何か|第一次世界大戦の引き金となった暗殺事件をわかりやすく解説

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1914年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォで起きた一発の銃弾が、世界を未曾有の戦争へと導きました。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア系青年に暗殺されたサライェヴォ事件は、表面上は一つの暗殺事件にすぎません。

しかしその背後には、民族主義の高まりと、ヨーロッパ列強の複雑な同盟関係、そしてビスマルク体制崩壊後の危うい国際秩序が潜んでいました。

本記事では、この事件がなぜ第一次世界大戦へとつながったのかを、わかりやすく丁寧に解説します。事件の経緯から、列強が連鎖的に参戦する構造まで、受験にも使える形で整理していきましょう。

目次

第1章 サライェヴォ事件の発端と暗殺の経緯

第一次世界大戦の直接的な原因となった「サライェヴォ事件」は、オーストリア=ハンガリー帝国が抱えていた民族問題と、セルビアの汎スラヴ主義運動が交錯した結果として発生しました。

ここでは事件の舞台となったボスニア=ヘルツェゴヴィナの状況と、当日の暗殺の経緯をたどりながら、背後に潜む緊張の構造を見ていきます。

1. ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合と民族対立

19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国は、スラヴ系住民が多数を占めるボスニア=ヘルツェゴヴィナを1908年に正式に併合しました。

この地域はかつてオスマン帝国の支配下にありましたが、民族構成が複雑で、セルビア人、クロアチア人、ムスリムなどが共存していました。

特にセルビア人は「南スラヴ民族の統一」を掲げる汎スラヴ主義を支持し、オーストリア支配に強く反発していました。

この民族的緊張が高まる中で、オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント大公が、ボスニア視察を計画したことが事件の導火線となります。

2. 暗殺の実行とセルビア青年の行動

1914年6月28日、サライェヴォ市内で、皇太子夫妻を狙った暗殺計画が実行に移されます。

犯行グループは、セルビア民族主義団体「黒手組(ブラックハンド)」の青年たちで、その中心にいたのがガヴリロ=プリンツィプでした。

最初の襲撃は失敗しましたが、偶然通りかかった皇太子夫妻の車をプリンツィプが発見し、至近距離から銃撃。

皇太子フランツ=フェルディナントと妻ゾフィーは即死し、オーストリア国内は激しい衝撃と怒りに包まれました。

事件は「テロリズム」として非難されると同時に、オーストリア政府がセルビア政府の関与を疑うきっかけとなり、外交的危機へと発展します。

3. オーストリアの対応と緊張の拡大

オーストリア=ハンガリー帝国は、この事件をセルビアを屈服させる絶好の機会とみなしました。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「白紙委任状(無条件支持)」を受け、セルビア政府に対して過酷な最後通牒を突きつけます。

通牒の内容には、セルビア国内でのオーストリア官吏の捜査参加など、主権を侵害する要求が含まれており、セルビアは一部を拒否しました。

これにより1914年7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告。

ここから、ヨーロッパ各国が連鎖的に動員・参戦していく「七月危機」が始まります。

入試で狙われるポイント

  • サライェヴォ事件の発生年:1914年6月28日
  • 暗殺された人物:フランツ=フェルディナント大公夫妻
  • 実行犯:ガヴリロ=プリンツィプ(セルビア系青年)
  • 支援組織:黒手組(ブラックハンド)
  • 事件の背景:ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合と汎スラヴ主義の対立
  • 事件後の展開:オーストリアのセルビアへの最後通牒→宣戦布告

重要論述問題にチャレンジ

サライェヴォ事件が第一次世界大戦の引き金となった理由を、民族対立と同盟関係の観点から200字程度で説明しなさい。

サライェヴォ事件は、オーストリア皇太子がセルビア系青年に暗殺された事件であり、オーストリアとセルビアの対立を激化させた。事件を契機に、オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけ、ドイツの支持を得て宣戦布告した。一方、セルビアを支援するロシアが動員を開始し、これに対抗してドイツ・フランス・イギリスが参戦するなど、三国同盟と三国協商の対立が連鎖的に拡大し、第一次世界大戦が勃発した。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第1章: サライェヴォ事件 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
サライェヴォ事件が起こったのは西暦何年か。

解答:1914年

問2
暗殺されたオーストリア皇太子の名前を答えよ。

解答:フランツ=フェルディナント

問3
暗殺を実行したセルビア系青年の名を答えよ。

解答:ガヴリロ=プリンツィプ

問4
プリンツィプが所属していた民族主義団体は何か。

解答:黒手組(ブラックハンド)

問5
ボスニア=ヘルツェゴヴィナをオーストリアが併合したのは何年か。

解答:1908年

問6
オーストリアがセルビアに突きつけた最後通牒の一部は、どのような理由で拒否されたか。

解答:主権を侵害する内容だったため

問7
オーストリアがセルビアに宣戦布告したのはいつか。

解答:1914年7月28日

問8
オーストリアに白紙委任状を与えた国はどこか。

解答:ドイツ

問9
サライェヴォ事件の背景となった思想運動は何か。

解答:汎スラヴ主義

問10
サライェヴォ事件の発生地サライェヴォは現在どの国の首都か。

解答:ボスニア=ヘルツェゴヴィナ

正誤問題(5問)

問11
サライェヴォ事件は、オスマン帝国支配下で起こった。

解答:誤(当時はオーストリア領ボスニア)

問12
プリンツィプはクロアチア民族主義者であった。

解答:誤(セルビア系青年)

問13
オーストリアは事件後、セルビアに直ちに宣戦布告した。

解答:誤(最後通牒を経て宣戦布告)

問14
黒手組はオーストリア政府の支援を受けていた。

解答:誤(セルビアの民族主義団体)

問15
サライェヴォ事件の結果、ヨーロッパ諸国は急速に動員を開始し、第一次世界大戦が始まった。

解答:正

第2章 七月危機と第一次世界大戦への連鎖構造

サライェヴォ事件は一国の悲劇にとどまらず、ヨーロッパ全体を巻き込む連鎖反応を引き起こしました。

1914年7月から8月にかけて起こった「七月危機」では、各国が同盟や国益に基づき次々と動員・宣戦布告を行い、最終的に第一次世界大戦が勃発します。

ここでは、わずか1か月で「局地的紛争」が「世界大戦」へと転じたプロセスを整理します。

1. 七月危機の始まり ― 最後通牒と宣戦布告

1914年6月28日の暗殺事件から1か月後、オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけました。

要求には「事件の責任者の逮捕」「オーストリア当局によるセルビア国内捜査」などが含まれており、実質的にセルビアの主権を無視するものでした。

セルビアはこれを一部拒否し、7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告

この瞬間、ヨーロッパの「同盟システム」が次々と作動し始めます。

  • ロシア:汎スラヴ主義の立場からセルビアを支援し動員を開始
  • ドイツ:オーストリアを支援し、ロシアに最後通牒→宣戦布告(8月1日)
  • フランス:ロシアとの同盟を理由に対ドイツ戦に備え動員開始
  • ドイツは中立国ベルギー侵攻(8月4日)を実施し、
  • イギリスはこれを理由にドイツへ宣戦布告(8月4日)

こうして、三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)が全面衝突する構図が完成しました。

2. 「局地戦」から「世界大戦」へ ― 植民地と海戦の拡大

当初、オーストリアとセルビアの対立に過ぎなかった戦争は、わずか数週間で世界規模に拡大しました。

ヨーロッパ列強が世界各地に植民地を持っていたため、戦線はアジア・アフリカにも広がります。

  • イギリス帝国:インド兵やオーストラリア兵を動員
  • フランス:アフリカ植民地(アルジェリア、セネガル)から兵を徴用
  • 日本:日英同盟を根拠にドイツ領青島を攻撃(1914年)

また、ドイツが潜水艦(Uボート)で無制限潜航作戦を展開したことで、アメリカの参戦(1917年)へとつながります。

このように、サライェヴォ事件を起点に、世界中を巻き込む「総力戦」が始まったのです。

3. 同盟システムの暴走と外交の限界

本来、同盟とは戦争を防ぐ「抑止力」として機能するはずでした。

しかし、ビスマルク体制崩壊後のヨーロッパでは、各国の対立が「自動的な連鎖参戦」へと転化します。

オーストリアのセルビア敵視がロシアを刺激し、ロシアの動員がドイツの宣戦を招き、ドイツのベルギー侵攻がイギリス参戦を誘発した。

このような連鎖は、もはや外交交渉では止められない構造的危機でした。

すなわち、事件そのものよりも、事件後の対応と体制の脆弱さこそが、戦争勃発の真の要因だったのです。

入試で狙われるポイント

  • サライェヴォ事件の後に起きた外交危機:七月危機
  • オーストリアがセルビアに宣戦布告した日:1914年7月28日
  • ドイツがロシアに宣戦布告した日:1914年8月1日
  • ドイツがフランスに宣戦布告した日:1914年8月3日
  • ドイツが侵攻した中立国:ベルギー
  • イギリス参戦の理由:ベルギーの中立侵害
  • 世界大戦化の要因:植民地と同盟関係の連鎖
  • 戦争拡大を抑えられなかった理由:同盟システムの自動参戦構造

重要論述問題にチャレンジ

サライェヴォ事件後、ヨーロッパ諸国がどのようにして第一次世界大戦に突入したのかを、七月危機と同盟関係に着目して200字程度で説明しなさい。

サライェヴォ事件を契機に、オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけ宣戦布告した。これに対し、セルビアを支援するロシアが動員を開始し、ドイツはオーストリア支援のためロシアに宣戦布告した。さらにドイツはフランスに宣戦し、中立国ベルギーへの侵攻を行ったため、イギリスが参戦した。このように、三国同盟と三国協商の連鎖的作動によって、局地的紛争が全ヨーロッパ規模の戦争へと拡大した。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第2章: サライェヴォ事件 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
サライェヴォ事件後、各国が連鎖的に動員・宣戦布告を行った外交危機を何というか。

解答:七月危機

問2
オーストリアがセルビアに宣戦布告したのは西暦何年何月何日か。

解答:1914年7月28日

問3
ロシアがセルビアを支援して行った軍事行動を何というか。

解答:動員

問4
ドイツがロシアに宣戦布告したのはいつか。

解答:1914年8月1日

問5
ドイツがフランスに宣戦布告したのはいつか。

解答:1914年8月3日

問6
ドイツが侵攻した中立国はどこか。

解答:ベルギー

問7
イギリスがドイツに宣戦布告した理由は何か。

解答:ベルギー中立侵害

問8
ドイツがベルギーを通過してフランスを攻撃する計画を何というか。

解答:シュリーフェン計画

問9
戦争が世界規模に拡大した要因の一つとして挙げられるのは何か。

解答:列強の植民地支配の広がり

問10
日英同盟を理由に日本が攻撃したドイツ領はどこか。

解答:青島

正誤問題(5問)

問11
オーストリアの最後通牒は、セルビアの主権を尊重した穏健な内容であった。

解答:誤(主権を侵害する内容だった)

問12
七月危機は数年にわたって続いた長期外交交渉のことを指す。

解答:誤(約1か月の急展開)

問13
ドイツがベルギーを通過してフランスを攻撃したことが、イギリス参戦の直接の原因となった。

解答:正

問14
ロシアはドイツの支援を受けてオーストリアに宣戦布告した。

解答:誤(セルビア支援のためオーストリアと対立)

問15
七月危機の結果、ヨーロッパは二大陣営に分かれて全面戦争へと突入した。

解答:正

まとめ章 サライェヴォ事件が示した「火薬庫ヨーロッパ」の現実

1914年6月のサライェヴォ事件は、表面的には一人の青年による暗殺事件に過ぎません。

しかし、その背後には、19世紀末から続くヨーロッパの民族対立・同盟関係・帝国主義的野心が複雑に絡み合っていました。

この事件は、単なる「偶発的な悲劇」ではなく、すでに臨界点に達していた国際秩序の構造的爆発を象徴するものでした。

ここでは、事件の意義とその後の歴史的影響を整理します。

1. 「暗殺事件」から「世界大戦」へ ― 偶然ではなく必然

サライェヴォ事件が「第一次世界大戦の引き金」と呼ばれるのは、事件そのものが原因というより、事件を利用した政治判断が連鎖を生んだからです。

オーストリアはセルビア抑圧の口実として事件を利用し、ドイツは「白紙委任状」で強硬姿勢を後押ししました。

一方、ロシアはスラヴ民族の保護を掲げて動員し、フランスとイギリスもそれぞれの国益から参戦。

このように、事件の背後にあった“同盟システムの自動化”が、局地紛争を世界大戦へと変質させました。

事件は偶発的でも、戦争は必然的だった――これが現代史の教訓です。

2. ビスマルク体制崩壊後の「勢力均衡の崩れ」

ビスマルク時代、ドイツは「ヨーロッパの調停者」としてバランス外交を展開し、フランスを孤立させつつ、露墺の衝突を防いでいました。

しかし、1890年のビスマルク辞任後、再保障条約が破棄され、露仏同盟が成立。

以後、

  • 三帝同盟の崩壊
  • 三国協商の成立
  • バルカン問題の激化

といった流れの中で、ヨーロッパは完全に二極化しました。

この構造的対立が存在する限り、たとえサライェヴォで事件が起きなかったとしても、別の「導火線」が爆発した可能性は高いのです。

3. バルカンの火薬庫 ― 民族主義と帝国主義の交錯

ボスニア=ヘルツェゴヴィナをめぐる対立は、オーストリアの帝国的支配とセルビアの民族統一運動が衝突した象徴でした。

「汎スラヴ主義」と「帝国の維持」という二つの理念が共存できない状況で、暗殺事件は必然的に政治問題化します。

この構図は、のちのバルカン戦争ユーゴスラヴィア紛争にも通じるものであり、民族主義が国家間の枠を超えて戦争の火種となることを示しました。

したがって、サライェヴォ事件は「第一次世界大戦の引き金」であると同時に、20世紀以降の民族紛争の原型でもあります。

4. 歴史的意義と現代への教訓

サライェヴォ事件の歴史的意義は、次の3点に整理できます。

  1. 同盟システムの危険性
     安全保障のはずが、逆に戦争を自動化した。
  2. 民族主義の暴走
     自己決定の理念が、他民族支配と衝突して戦争を誘発した。
  3. 外交の限界
     事件後の交渉は、すでに戦争を止められない段階に入っていた。

現代の国際政治においても、「一国の事件が世界的危機を引き起こす」ことは珍しくありません。

サライェヴォ事件は、国際秩序の脆弱性と、危機管理の重要性を象徴する出来事として、今なお語り継がれるのです。

入試で狙われるポイント

  • サライェヴォ事件の性格:第一次世界大戦の直接的原因
  • 事件の背景:汎スラヴ主義とボスニア併合問題
  • 七月危機:同盟システムの連鎖反応
  • 戦争拡大の要因:ビスマルク体制崩壊による勢力均衡の崩れ
  • 歴史的意義:民族対立と国際秩序の脆弱性を象徴

年表で整理しよう

年月日出来事意義
1908年オーストリアがボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合民族対立の激化
1914年6月28日サライェヴォ事件発生第一次大戦の引き金
1914年7月23日オーストリアがセルビアへ最後通牒七月危機の始動
1914年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告戦争の勃発
1914年8月1日ドイツがロシアに宣戦布告同盟連鎖の始動
1914年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告西部戦線の形成
1914年8月4日ドイツがベルギー侵攻、英が参戦世界大戦化の決定打

フローチャートでつかむ戦争の連鎖

サライェヴォ事件(1914.6.28)

オーストリアがセルビアに最後通牒

セルビア一部拒否 → 宣戦布告(7.28)

ロシアがセルビア支援 → 動員開始

ドイツがロシアへ宣戦(8.1)

ドイツがフランスへ宣戦(8.3)

ベルギー侵攻 → 英国参戦(8.4)

第一次世界大戦勃発

このサライェヴォ事件は、「ビスマルク体制崩壊後の危機外交の帰結」として位置づけられます。

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