フランス革命戦争とは、1792年から1802年にかけてフランス革命政府がヨーロッパ諸国と戦った一連の戦争の総称です。
革命の理念である「自由・平等・主権の確立」を守ろうとする戦いであると同時に、その理念を国外に広げようとする“思想の輸出”でもありました。
背景には、1791年のヴァレンヌ事件やピルニッツ宣言を通じて深まった王政諸国との対立、そして立法議会を主導したジロンド派による「対外戦争による革命防衛」の構想がありました。
1792年の対オーストリア宣戦布告を皮切りに戦火が拡大し、ヨーロッパは「理念」と「旧体制」が激突する新時代を迎えます。
この戦争は、戦術・政治・社会の面でも画期的でした。市民が国家を守るという国民軍(徴兵制)が初めて登場し、従来の傭兵中心の戦争観を一変させます。
また、革命政府の「祖国の危機宣言(1792)」や「総裁政府下の軍事独裁」など、内政にも決定的な影響を及ぼしました。
結果として、革命戦争はナショナリズムの誕生・近代的戦争の幕開け・そしてナポレオン台頭への道を開いた、近代史の転換点と言えます。
本記事では、この革命戦争の全体像を、理念・背景・戦局・影響の4つの観点から時系列で整理していきます。
第1章:革命戦争の勃発 ― 対外戦争と革命の国際化
フランス革命戦争の幕開けは、1792年4月の対オーストリア宣戦布告に始まります。
立法議会の多数派を占めたジロンド派は、国外の王政勢力が革命を脅かしていると主張し、「戦争によって国内を団結
させ、革命を守るべきだ」と訴えました。
これに対して穏健なフイヤン派は戦争による混乱を恐れ、反対の立場を取ります。
1. 宣戦布告の背景 ― ジロンド派の理想と旧体制諸国の警戒
1791年のヴァレンヌ事件で国王一家が逃亡を図り失敗したことにより、国王への信頼は失墜しました。
国外では、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王がピルニッツ宣言を発し、ルイ16世の身の安全と王権の尊重を求め、暗に革命への干渉を示唆します。
この宣言はフランス国内で「外国の脅威」と受け止められ、愛国的熱情を高めました。
ジロンド派は、「革命の理念をヨーロッパへ広げることこそが、自由の防衛である」と訴え、革命を守るための戦争を主張。こうして1792年4月20日、立法議会はオーストリアに宣戦布告しました。
2. 革命戦争の初期 ― 敗北と「祖国の危機」
しかし、革命初期のフランス軍は混乱していました。旧体制の将校の多くが亡命し、軍の統率が取れず、オーストリア・プロイセン軍に次々と敗北します。
1792年7月にはプロイセン軍がフランス領に侵攻し、国民議会は「祖国の危機宣言」を発して全国に義勇兵を募ります。
このときマルセイユから上京した義勇兵が歌った歌が、のちのフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』です。
革命戦争は単なる国際戦争ではなく、「国民と祖国の一体化」を象徴するナショナリズムの原点となりました。
3. 転機 ― ヴァルミーの戦い(1792年9月)
1792年9月20日、フランス義勇軍はヴァルミーでプロイセン軍を撃退。
この勝利は軍事的には小規模でしたが、「自由のために戦う市民軍が職業軍に勝った」という象徴的な意味をもちます。
翌日、国民公会が召集され、王政は廃止、共和政が樹立されました。
こうして、革命はフランス国内の運動からヨーロッパ全体の闘争へと拡大していくのです。
この章のポイント
- 「対オーストリア戦争」は革命戦争の発端であり、ジロンド派の主張によって始まった。
- 祖国の危機宣言(1792)は国民総動員の号令で、義勇兵や国民軍の形成とナショナリズムの萌芽を象徴する。
- ヴァルミーの戦いは、革命軍が初めて職業軍に勝利した戦いで、共和政樹立の直接的契機となった。
第2章:革命戦争の拡大 ― 大同盟の結成とナポレオンの登場
ヴァルミーの勝利によって勢いづいたフランスは、革命の理念を国外へ広げようとします。
しかしこの動きは、王政諸国から見れば「革命の輸出」にほかなりませんでした。
こうしてフランス革命戦争は、ヨーロッパ全体を巻き込む「対仏大同盟戦争」へと発展していきます。
1. 第1次対仏大同盟戦争(1792〜1797) ― 革命フランス vs 旧体制諸国
1793年1月、国王ルイ16世の処刑が行われると、ヨーロッパの君主国は一斉に反発しました。
イギリスの首相ピットを中心に、オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが結集し、第1次対仏大同盟を結成します。
目的は、「革命の拡散を防ぎ、旧体制秩序を守ること」でした。
一方フランスでは、戦局の悪化と国内の反乱に対応するため、国民公会が非常時体制として公安委員会を設置し、ロベスピエールの下で恐怖政治が始まります。
徴兵制(ルヴェ・アン・マス)が導入され、国民全体が戦争に動員される総力戦体制が生まれました。
【革命政府の戦争体制】
政府機関 | 主な役割 |
---|---|
公安委員会 | 戦争・内政の統制、粛清の指導 |
供給委員会 | 食糧・物資の管理 |
革命裁判所 | 反革命分子の摘発 |
ルヴェ・アン・マス | 男性徴兵・女性生産・老人宣伝の総動員 |
この徹底した統制のもとで軍は再編され、次第に勝利を重ねていきます。
1794年のフルリュスの戦いでオーストリア軍を破り、1795年には第1次同盟が瓦解。
さらに1796年、若き将軍ナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征軍の司令官に任命され、わずか1年で北イタリアを制圧します。
彼の巧みな戦術と宣伝力は、フランス国民の英雄像を形づくり、後の政治的台頭につながっていきました。
2. 第2次対仏大同盟戦争(1799〜1802) ― ナポレオン時代への橋渡し
1797年のカンポ=フォルミオ条約で第1次同盟が崩壊したものの、フランスの拡張政策は止まりませんでした。
1798年にはナポレオンがエジプト遠征を敢行し、地中海支配とイギリス包囲を狙います。
これに対し、イギリス・オーストリア・ロシアなどが再び連合を組み、第2次対仏大同盟戦争が勃発(1799)。
しかし連合軍は連携を欠き、1799年にはフランス国内で政治危機が発生します。
総裁政府は腐敗と経済混乱で信頼を失い、軍の実力者ナポレオンが帰国し、ブリュメール18日のクーデタ(1799)を起こして政権を掌握しました。
ナポレオンは第一統領として戦争を継続し、1800年のマレンゴの戦いでオーストリア軍を破ります。
そして1802年、イギリスとアミアンの和約を結んで戦争は一時的に終結。
これが「革命戦争の終結」であり、次に訪れるのがナポレオン戦争(1803〜1815)です。
3. 革命戦争の意義 ― 「国民戦争」への転換
革命戦争は単なる外交戦争ではなく、「近代的国民国家が初めて行った総力戦」という点で歴史的意義をもちます。
・徴兵制による国民の軍事化
・国家による戦時統制経済
・ナショナリズムと祖国愛の高揚
これらは19世紀以降の「国民国家時代」の基本構造となり、ヨーロッパの戦争のあり方を根本から変えました。
一方で、自由を掲げた革命が、やがて他国支配と拡張主義へ変質していく――その矛盾もまた、理念と現実の狭間に立つ近代の宿命を象徴しています。
この章のポイント
第1次対仏大同盟(1793〜97):国王処刑への反発が発端。ピットが主導。
- ルヴェ・アン・マス(1793):国民皆兵体制の始まり。
- カンポ=フォルミオ条約(1797):ナポレオンがオーストリアを屈服させた講和。
- 第2次対仏大同盟(1799〜1802):エジプト遠征を契機。ブリュメール18日のクーデタと同時期。
- アミアンの和約(1802):革命戦争終結、ナポレオン時代の幕開け。
第3章:革命戦争がもたらした変化 ― ナショナリズムと近代戦の誕生
革命戦争(1792〜1802)は、単なる戦争史の一時期にとどまりません。
それは「国民が自らの理想のために戦う」という新しい戦争の形を生み出し、同時に、国家・社会・思想のあり方を根底から変える契機となりました。
ここでは、革命戦争がもたらした三つの大きな変化――
①戦争の性格の変化、②国民意識の形成、③国際秩序への影響――を整理して見ていきましょう。
1. 「国民戦争」への転換 ― 近代的総力戦の原型
それまでの戦争は、王や貴族が支配する国家間の争いであり、戦うのは傭兵でした。
しかし革命戦争では、フランスの国民議会が国民を直接戦争に動員し、徴兵制を導入します。
この「国民皆兵(ルヴェ・アン・マス)」は、のちの総力戦の原型となりました。
【比較:絶対王政期の戦争と革命戦争】
観点 | 絶対王政期(17〜18世紀) | 革命戦争(1792〜1802) |
---|---|---|
主体 | 君主・傭兵 | 国民・義勇兵 |
目的 | 領土・王位継承 | 自由・平等・国家防衛 |
軍制 | 職業軍(少数) | 徴兵制(大規模) |
戦争観 | 「国家の道具」 | 「国民の使命」 |
象徴的スローガン | 王のために戦う | 祖国のために戦う |
この転換によって、フランス国民の間に「自分たちが国家を支える存在」という意識が芽生えます。
同時に、他国でも愛国心やナショナリズムの萌芽が刺激され、近代国民国家の形成を促すきっかけとなりました。
2. ナショナリズムの誕生 ― 「祖国」の意味の変化
革命戦争期に掲げられた「祖国」という言葉は、単なる“王の領土”ではなく、「国民全体が共有する自由と権利の共同体」を意味するようになります。
つまり、祖国=人民の共同体 という新しい観念の誕生です。
1792年の「祖国の危機宣言」はその象徴でした。
「祖国は危機にあり! 武器を取れ、祖国を守れ!」
この呼びかけは、身分や財産の違いを超え、農民・職人・学生が同じ目的のために立ち上がるという、かつてない国民的運動を生み出しました。
この経験が、19世紀における民族運動・独立運動の原点となり、のちのイタリア統一運動(リソルジメント)やドイツ民族運動にも受け継がれます。
3. 国際秩序の再編 ― 「理念の戦争」がヨーロッパを変えた
革命戦争は、単なるフランスと他国の衝突にとどまらず、ヨーロッパの政治秩序そのものを揺るがせる出来事でした。
フランスが掲げた「自由・平等・人民主権」は、封建的特権に基づく旧体制(アンシャン=レジーム)を根底から否定する思想です。
それを軍事力とともに輸出したことで、「理念が武力を伴って伝播する」という近代的現象が生まれました。
その結果、
- オランダではバタヴィア共和国(1795)
- スイスではヘルヴェティア共和国(1798)
- イタリア北部ではチザルピナ共和国(1797)
といった「姉妹共和国」が次々と誕生し、ヨーロッパの地図は政治的にも思想的にも再編されていきます。
しかし、これらはフランスの支配を伴う“革命の輸出”=帝国的支配へ変質していき、やがて「自由のための戦争」から「ナポレオンの覇権戦争」へと転化していくことになります。
4. 革命戦争の歴史的意義 ― 理念と現実のはざまで
革命戦争の本質を一言で表すならば、「理念の戦争が、現実の国家を作った戦争」といえます。
市民が“祖国”を守る主体となり、国家が国民を代表するものとなる。
ここに、近代国民国家の基本構造が生まれました。
同時に、この戦争は「自由の名のもとに他国を征服する」という逆説をはらみ、以後のヨーロッパ史における理想と現実の葛藤の原型を示しました。
この章のポイント
- 「祖国の危機宣言(1792)」=ナショナリズムと国民皆兵制の象徴。
- 「ルヴェ・アン・マス(1793)」=総力戦の起点。
- 「姉妹共和国」=革命理念を輸出した結果生まれたフランスの衛星国家群。
- 「革命の輸出」→「帝国支配」への変質は、ナポレオン時代の流れを理解する鍵。
- 革命戦争の意義=ナショナリズム・国民国家・近代戦の出発点。
入試で狙われるポイント
この記事の理解度を試せる問題を紹介します。
論述問題と正誤問題にチャレンジしてください。
- フランス革命戦争の歴史的意義を100字以内で説明せよ。
-
革命戦争は、市民が祖国を守る主体となり、徴兵制による国民皆兵体制が成立した。これにより戦争が国民的性格を帯び、ナショナリズムと近代国民国家の形成を促す契機となった。
- フランス革命戦争がヨーロッパ各国に与えた影響を100字程度で述べよ。
-
革命戦争によって自由・平等の理念がヨーロッパに広がり、各地に姉妹共和国が成立した。しかしその過程でフランスの支配が強まり、理念の戦争が覇権的戦争へ変質する契機ともなった。
- 革命戦争とナポレオン戦争の違いを100字程度で説明せよ。
-
革命戦争は自由と平等を守る理念の戦争として始まり、国民の総力戦体制が生まれた。これに対しナポレオン戦争は国家の利益と支配拡大を目的とする現実的な戦争であり、理念が帝国的支配へと変質した。
- フランス革命戦争がもたらした社会的・思想的変化について100字程度で説明せよ。
-
革命戦争では、徴兵制の導入によって国民が国家防衛の主体となり、自由と祖国を守るという意識が芽生えた。この経験はナショナリズムの形成を促し、身分や財産に依存しない「国民平等」の理念を社会に定着させる契機となった。
- フランス革命戦争が「近代戦争の原型」と呼ばれる理由を120字程度で説明せよ。
-
革命戦争は、徴兵制による大規模な国民軍を組織し、国家が経済や社会を総動員して戦う総力戦を初めて実現した。従来の傭兵中心の戦争から、国民全体が理念と祖国のために戦う「国民戦争」へと転換した点で、近代戦争の原型とされる。
- 革命戦争における「理念の輸出」とは何を意味し、その結果どのような影響をヨーロッパにもたらしたか150字程度で説明せよ。
-
フランスは自由と平等の理念を掲げ、軍事力とともにヨーロッパへ革命の理想を広めようとした。その結果、オランダ・スイス・イタリアなどに姉妹共和国が成立し、封建的体制を揺るがした。一方で、フランスの支配が強まるにつれ、理念の戦争は支配の戦争へと変質し、他国の反仏ナショナリズムを刺激した。
問1
フランス革命戦争は、1791年のヴァレンヌ事件をきっかけに勃発した。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
革命戦争の直接的な契機は、1792年4月の対オーストリア宣戦布告です。
ヴァレンヌ事件(1791)は、国王逃亡によって国外勢力の干渉を招き、結果的に戦争の雰囲気を高める“前提”にすぎません。
問2
対外戦争の開始を主張したのは、フイヤン派である。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
戦争を主張したのはジロンド派です。
彼らは「革命を国外へ広め、敵を討つことで国内を団結させる」と考えました。
フイヤン派は混乱を恐れ、戦争に慎重でした。
問3
フランスが宣戦布告した当初の相手はオーストリアである。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1792年4月20日、立法議会はオーストリアに宣戦布告。
これが革命戦争の始まりです。
のちにプロイセンも参戦し、戦争は拡大します。
ピルニッツ宣言は、革命政府が他国への干渉を求めて発したものである。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
ピルニッツ宣言(1791)はオーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が出した声明。
亡命貴族を擁護し、革命政府を牽制しました。
問5
「祖国の危機宣言」は、プロイセン軍の侵入に対抗するために発せられた。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1792年7月、プロイセン軍が国境を越えた際に国民議会が「祖国の危機宣言」を発布。
義勇兵を募り、国民総動員を呼びかけました。
問6
マルセイユ義勇兵が歌った歌が、現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」である。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
南仏マルセイユの義勇兵が行進中に歌った「ラ・マルセイエーズ」は、のちに国歌として制定。
祖国防衛の象徴となりました。
問7
ヴァルミーの戦いでは、革命軍が敗北し、王政復古が決定した。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
1792年9月のヴァルミーの戦いでは、革命軍がプロイセン軍に勝利しました。
これを契機に王政は廃止され、翌日共和政(国民公会)が成立します。
問8
ヴァルミーの戦いの翌日、国民公会が召集され、共和政が樹立された。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1792年9月21日、国民公会が召集され、王政廃止と共和政樹立を宣言しました。
ヴァルミー勝利がその象徴的転換点です。
問9
ルイ16世の処刑をきっかけに、イギリスが中心となって第1次対仏大同盟が結成された。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1793年1月、国王処刑に反発したヨーロッパ諸国が連携。
ピット首相のイギリスが中心となり、第1次対仏大同盟が成立しました。
問10
「ルヴェ・アン・マス」とは、農地改革政策のことを指す。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
「ルヴェ・アン・マス(levée en masse)」は、国民皆兵制による徴兵令のこと。
1793年、国家の総力を戦争に動員する体制が築かれました。
問11
革命政府が恐怖政治を敷いた背景には、革命戦争の敗北や国内反乱があった。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
内外の危機に直面した国民公会は、公安委員会を中心に非常体制(恐怖政治)を確立。
革命の防衛を名目に、粛清が強化されました。
問12
第1次対仏大同盟の主な敵国には、オーストリア・プロイセン・イギリスなどが含まれる。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
大同盟には、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加しました。
目的は「革命の封じ込め」でした。
問13
第1次対仏大同盟戦争は、フランスの敗北によって終結した。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
1797年、フランスはナポレオンのイタリア遠征で勝利。
オーストリアとのカンポ=フォルミオ条約によって同盟は崩壊しました。
問14
カンポ=フォルミオ条約は、ナポレオンがオーストリアと講和した条約である。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1797年のカンポ=フォルミオ条約により、オーストリアは敗北を認め、
フランスはベルギー・北イタリアを獲得しました。
問15
エジプト遠征は、ナポレオンがイギリスを直接攻撃するために実施したものである。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
1798年のエジプト遠征は、イギリスのインド航路を断つための間接戦略でした。
直接攻撃ではありません。
問16
エジプト遠征を契機に、第2次対仏大同盟が結成された。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1798年の遠征を受け、イギリス・オーストリア・ロシアが反仏連合を形成。
これが第2次対仏大同盟(1799〜1802)です。
問17
ブリュメール18日のクーデタによって、ナポレオンが統領政府を樹立した。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
1799年11月(革命暦ブリュメール18日)、ナポレオンはクーデタで総裁政府を倒し、
統領政府(第一統領)を成立させました。
問18
アミアンの和約(1802)によって、第2次対仏大同盟戦争が終結した。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
ナポレオンはアミアンの和約でイギリスと講和し、革命戦争は一時終結。
これはナポレオン政権の国際的安定を示す象徴的な講和です。
問19
革命戦争は、国民皆兵制を導入し、総力戦の原型をつくった点で近代戦の先駆けである。
解答:〇(正しい)
🟦【解説】
「ルヴェ・アン・マス」に代表されるように、国家と国民が一体となる総力戦が初めて成立しました。
以後の19〜20世紀戦争の原型となります。
問20
革命戦争の過程で生まれた「姉妹共和国」は、ナポレオンの時代にはすべて独立を維持した。
解答:✕(誤り)
🟦【解説】
姉妹共和国(バタヴィア・ヘルヴェティア・チザルピナなど)は、当初は革命理念を共有しましたが、やがてフランスの従属国となり、ナポレオン帝国の支配下に組み込まれました。
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