対オーストリア戦争とは何か|ジロンド派の理想と革命が国際戦争へ発展した転換点(1792)

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

対オーストリア戦争とは、1792年にフランス革命政府がオーストリアに対して宣戦布告した戦争であり、革命が国内問題から国際問題へと発展する転換点となった出来事です。

立法議会を主導したジロンド派は、国外の王政国家を「自由と平等の敵」とみなし、戦争によって革命を守り、理念を広げようとしました。

背景には、亡命貴族を支援するオーストリアやプロイセンの干渉、そしてピルニッツ宣言(1791)によって高まった国民の危機意識があります。

こうした緊張の中で1792年4月、立法議会は宣戦布告を決定――これが後に第1次対仏大同盟へと発展するフランス革命戦争の幕開けとなりました。

この戦争は当初フランスの敗北続きでしたが、やがて「祖国の危機宣言」やヴァルミーの戦いを経て形勢を逆転。

その過程で「祖国を守る国民」という新たな意識が芽生え、近代ナショナリズムの萌芽を生んだのです。

本記事では、対オーストリア戦争の勃発の背景・展開・歴史的意義を、思想と政治の両面から整理します。

目次

第1章:ジロンド派の戦争政策とその背景 ― 革命を守るための「攻勢外交」

対オーストリア戦争の開戦には、単なる外交上の緊張だけでなく、「革命を守るためには、戦争によって国外の敵を打ち倒すべきだ」というジロンド派の政治的・思想的信念が深く関わっていました。

ここでは、彼らがなぜ戦争を主張したのか、そしてそれがどのように国内の分裂を招いたのかを見ていきます。

1. 革命の防衛か、理念の拡大か ― ジロンド派の主張

1791年、国王ルイ16世の逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)を契機に、国民の不信は王政だけでなく、国外の君主制諸国にも向けられました。

オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王は、同年ピルニッツ宣言を発し、「ルイ16世の権利回復のために必要ならば干渉する」と表明します。

これに反発したのが、立法議会で台頭したジロンド派でした。

彼らは「外国の脅威こそ、革命を守るための好機」と考え、次のような論理を展開します。

「自由の理念を守るためにこそ、武器を取るべきだ。そして、この理念をヨーロッパに広げることが、真の平和への道である。」

つまり、防衛のための戦争=革命の拡大のための戦争という構図でした。

2. 穏健派フイヤン派との対立 ― 戦争をめぐる議会内分裂

一方、国王に近いフイヤン派は、戦争が混乱を拡大させると警戒しました。

彼らは「革命の安定には国内改革が優先」と主張し、開戦には反対。

しかし、フランス国民の多くは「祖国を脅かす外国への怒り」に共鳴し、ジロンド派の声が世論を圧倒しました。

1792年4月20日、立法議会はオーストリアに対して正式に宣戦布告――

ここに対オーストリア戦争が始まります。

この時点でフランスの目的は明確でした。

「国民の自由を守るため、旧体制諸国に立ち向かう」という、まさに理念と現実が結びついた戦争だったのです。

3. 初期の敗北と「革命の試練」

しかし理想とは裏腹に、フランス軍は連戦連敗を喫します。

革命によって旧体制の将校の多くが亡命したため、軍の統率は崩壊し、士気も低下していました。

一方のオーストリア・プロイセン連合軍は、「革命を鎮圧してヨーロッパの秩序を守る」ことを掲げて進軍。

このとき発せられたのが、ブランズウィック宣言(1792年7月)で、フランス市民に「国王を傷つけるならパリを焼き討ちにする」と脅迫するものでした。

この宣言は逆効果となり、フランス国民の怒りを爆発させます。

その結果、祖国の危機宣言が発せられ、義勇兵たちが立ち上がる「国民戦争」の時代が始まったのです。

この章のポイント

  • 対外戦争を主張したのはジロンド派であり、フイヤン派は反対だった。
  • 開戦の直接的契機はピルニッツ宣言(1791)と立法議会の決議(1792.4)
  • ブランズウィック宣言(1792.7)は、祖国の危機宣言の引き金となった。
  • 理念的には「革命の防衛」、実際には「革命の拡大」が目的化した。

第2章:祖国の危機宣言とヴァルミーの戦い ― 市民が国家を守った日

1792年の夏、フランスはまさに崩壊の危機にありました。

国外ではオーストリア・プロイセン連合軍が進撃し、国内では反革命勢力が各地で蜂起。

この未曾有の状況に対して、国民議会は「祖国の危機宣言」を発し、“国民の力で祖国を守る”という新しい国家理念を打ち出します。

ここから、ヨーロッパ史における初の「国民戦争」が始まりました。

1. ブランズウィック宣言と「祖国の危機」

1792年7月、プロイセン軍の指揮官ブランズウィック公は、「ルイ16世と王家に危害を加えるなら、パリを徹底的に破壊する」とするブランズウィック宣言を発表しました。

これは、亡命貴族の支援を受けた恐喝的な宣言で、ヨーロッパの旧体制君主たちが革命を力で押しつぶそうとする意思を示したものでした。

しかし、この宣言はフランス国内で愛国心の炎を燃え上がらせる結果となります。国民議会は7月11日、次の言葉で全国に呼びかけました。

「祖国は危機にあり」

この宣言により、全国の市民が義勇兵として蜂起。

職業軍ではなく、市民が自ら武器を取る時代が始まります。

2. 義勇兵の誕生と「ラ・マルセイエーズ」

このとき南仏マルセイユからパリに向かった義勇兵たちは、行進の途中で一つの歌を歌っていました。

それが、現在フランス国歌となっている「ラ・マルセイエーズ」です。

「立て、祖国の子らよ! 暴君の血で大地を潤せ!」

という力強い歌詞は、自由と祖国を守るという革命的情熱を象徴しました。

この歌を歌いながら進軍した義勇兵たちは、戦争を国民の使命としてとらえる新しい時代の象徴となります。

こうして、革命戦争は「王の戦争」から「国民の戦争」へと転換しました。

3. ヴァルミーの戦い(1792年9月20日) ― “自由を守った一発の砲声”

9月、プロイセン軍はついにフランス領内に侵攻。

情勢は絶望的と思われましたが、シャンパーニュ地方ヴァルミーで、義勇兵中心の革命軍が奇跡的な勝利をおさめます。

この戦いは、軍事的には小規模でしたが、「職業軍に対して市民軍が勝利した」という象徴的意義を持ちました。

詩人ゲーテは現地でこの戦いを目撃し、こう記しています。

「この日、この時から、新しい時代の歴史が始まる。」

ヴァルミーの勝利は、フランス国民に自信を与え、翌9月21日には王政廃止と共和政樹立が宣言されました。

革命が「制度」として完成する、その決定的な瞬間だったのです。

4. 戦争の性格の変化 ― 自由の防衛から理念の拡大へ

ヴァルミーの勝利は、単に軍事的勝利ではなく、「国民の団結によって自由を守れる」という確信をフランスにもたらしました。

その後、フランスは戦争を防衛から攻勢へと転じ、「自由と平等をヨーロッパに広げる」という理念のもとに他国へ進軍します。

この理念の拡大が、のちの革命戦争の拡大化(第1次対仏大同盟戦争)を生み、革命がヨーロッパ全体を揺るがす国際的事件へと発展していくのです。

この章のポイント

  • ブランズウィック宣言(1792)は「国王を守れ」という外国の干渉声明。
  • 祖国の危機宣言(1792.7.11)により国民義勇兵が組織された。
  • ラ・マルセイエーズはマルセイユ義勇兵の愛国歌で、のちに国歌となる。
  • ヴァルミーの戦い(1792.9.20)は、市民軍が職業軍に勝利した象徴的事件。
  • 翌日(1792.9.21)、王政が廃止され共和政が樹立された。

第3章:対オーストリア戦争の結果と歴史的意義 ― 革命戦争への発展と近代ナショナリズムの胎動

1792年に始まった対オーストリア戦争は、当初こそ敗北を重ねたものの、国民の団結と「自由を守る戦い」という理念によって形勢を逆転させました。

ヴァルミーの勝利と共和政の成立は、フランス革命を新たな段階へと押し上げ、その戦いはやがてヨーロッパ全土を巻き込む革命戦争(1792〜1802)へと拡大します。

ここでは、対オーストリア戦争の帰結と意義を、政治・社会・思想の3点から見ていきましょう。

1. 政治的結果 ― 王政の崩壊と共和政の誕生

ヴァルミーの勝利からわずか1日後の1792年9月21日、国民公会は王政廃止を宣言し、フランス共和国の成立を布告しました。

これは、千年以上続いた「フランク王国以来の王制」の終焉を意味します。

ルイ16世は翌1793年1月に処刑され、フランスは「国王なき国家」として、初めて人民主権に基づく政体を実現しました。

この政治的転換こそ、対オーストリア戦争の最大の帰結であり、戦争が「革命の深化」を促す要因となったことを示しています。

2. 外交的影響 ― 革命の国際化と第1次対仏大同盟

フランスが共和政を宣言したことにより、ヨーロッパの王政諸国は革命の拡大を脅威とみなし、翌1793年、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが結集して第1次対仏大同盟を結成します。

この連合は「革命の封じ込め」を目的とし、以後10年間にわたるフランス革命戦争の始まりとなりました。

つまり、対オーストリア戦争は単なる一国間の戦争ではなく、ヨーロッパ全体を巻き込む理念対旧体制の戦いへと転化したのです。

3. 社会的意義 ― 「国民戦争」の時代の幕開け

「祖国の危機宣言」によって義勇兵が組織され、フランスでは国民が国家を守る主体となりました。

それまでの戦争は君主同士の領土争い(職業軍による限定戦争)でしたが、革命戦争では国民一人ひとりが「祖国の防衛」に参加し、戦争が初めて国民的・総力的な性格を持つようになります。

この体験は、のちの国民国家形成やナショナリズムの源流となり、19世紀以降のヨーロッパ史を方向づける大きな転換点となりました。

【比較:絶対王政期の戦争と革命戦争】

項目絶対王政期の戦争革命・国民戦争
主体君主・傭兵国民・義勇兵
目的王朝・領土の拡大理念・祖国の防衛
軍制職業軍徴兵・義勇軍
戦争観君主の道具国民の使命
象徴王の名のもとに「祖国のために」

4. 思想的意義 ― 理念の戦争とその矛盾

対オーストリア戦争は、「自由・平等・人民主権」という革命の理念を守るために始まった戦争でした。

しかし同時に、フランスが勝利を重ねるにつれてその理念は国外への拡張の正当化へと変質していきます。

理念の防衛 → 理念の輸出 → 帝国支配の始まり

この過程は、後のナポレオン戦争で頂点に達し、「自由の名のもとに他国を支配する」という近代ヨーロッパの矛盾を生み出しました。

したがって、対オーストリア戦争は「理念が現実にぶつかった最初の試練」であり、近代の「理念と覇権」の関係を象徴する歴史的事件でもあるのです。

この章のポイント

  • 対オーストリア戦争(1792)は、革命戦争の始まり。
  • ヴァルミーの勝利 → 王政廃止(1792.9.21)→ 共和政成立へ。
  • 国民皆兵・祖国の危機宣言により「国民戦争」の時代が始まる。
  • 第1次対仏大同盟(1793)で革命が国際化。
  • 理念の防衛がやがて覇権の拡大へと転化するという歴史的逆説。

入試で狙われるポイント

この記事の理解度を試せる問題を紹介します。

論述問題と正誤問題にチャレンジしてください。

重要論述問題にチャレンジ

🟦問1:なぜフランスは1792年にオーストリアに宣戦布告したのか。背景と理由を説明せよ。(120字程度)

模範解答例:
1791年のピルニッツ宣言により、王政諸国が革命への干渉姿勢を示したことで危機感が高まった。立法議会のジロンド派は「革命の防衛と理念の拡大」を目的に戦争を主張し、1792年オーストリアへの宣戦布告を決定した。

🟩【ポイント】

  • ピルニッツ宣言(外圧)+ジロンド派の理念(内因)を両立して書けるかが鍵。
  • 「理念と現実の交錯」を示すことで上位校レベルの答案に。

🟦問2:対オーストリア戦争の意義を説明せよ。(120字程度)

模範解答例:
戦争当初は敗北が続いたが、祖国の危機宣言によって市民が義勇兵として立ち上がり、ヴァルミーの戦いで職業軍を破った。この戦争は国民が国家防衛の主体となる契機となり、ナショナリズムと近代的「国民戦争」の時代を開いた点に意義がある。

🟩【ポイント】

  • 「祖国の危機宣言」+「ヴァルミー」+「国民戦争」を三点セットで書ければ満点圏。
  • 100〜130字で「具体(事件)+抽象(意義)」を組み合わせるのが理想。

🟦問3:対オーストリア戦争を通じて、戦争の性格はどのように変化したか。説明せよ。(150字程度)

模範解答例:
それまでの戦争は君主の領土拡張を目的とする職業軍による戦争だったが、革命戦争では自由と祖国を守るために国民が自ら戦うようになった。徴兵制と義勇兵による国民皆兵体制が生まれ、戦争が国家と国民の総力を挙げて行う「国民戦争」へと転換した。

🟩【ポイント】

  • 「誰が」「何のために」「どのように」戦ったかを対比で示す。
  • 「王の戦争→国民の戦争」という対句を明確に書けると高得点。

正誤問題に挑戦しよう!

問1
対オーストリア戦争は、1791年のヴァレンヌ事件を直接の契機として始まった。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
ヴァレンヌ事件(1791)は王への不信と国外干渉への警戒を高めたが、戦争の直接の契機は翌年のピルニッツ宣言と、それを受けたジロンド派の開戦主張です。

問2
ピルニッツ宣言は、フランス革命を支持する内容であった。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
1791年のピルニッツ宣言は、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王が発した革命への干渉警告です。
内容は「ルイ16世の権利を回復せよ」という反革命的声明でした。

問3
立法議会で対外戦争を主張したのは、ジロンド派である。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
ジロンド派は「革命の防衛と理念の拡大」を掲げて開戦を主張しました。
一方、フイヤン派は戦争による混乱を恐れて反対しました。

問4
フイヤン派は、戦争によって国内秩序が強まると考え、開戦を積極的に支持した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
フイヤン派は、戦争が革命を危うくすると考え、開戦に反対しました。
彼らは立憲王政の安定を優先した穏健派です。

問5
1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦布告した。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
1792年4月20日、立法議会が正式にオーストリアに宣戦布告
これが対オーストリア戦争の始まりであり、革命が国際問題化する転機となります。

問6
戦争初期、フランス軍は勝利を重ね、ウィーンを占領した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
革命初期のフランス軍は将校の亡命・士気の低下により連敗します。
オーストリア・プロイセン軍がフランス領に侵攻し、パリ陥落の危機に陥りました。

問7
プロイセンのブランズウィック公は、国王一家を守るためにフランスを脅迫する宣言を出した。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
ブランズウィック宣言(1792年7月)は、「ルイ16世に危害を加えればパリを破壊する」とする脅迫的声明です。
これがフランス国内の愛国心を刺激しました。

問8
「祖国の危機宣言」は、ブランズウィック宣言への反発として発せられた。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
1792年7月11日、国民議会は「祖国は危機にあり!」と宣言し、全国民に義勇兵としての参加を呼びかけました。
これが国民皆兵の始まりです。

問9
祖国の危機宣言では、貴族のみが軍務につくことが求められた。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
革命の理念により、身分を問わず市民全員が祖国防衛の義務を負いました。
農民や職人も義勇兵として戦い、身分制の崩壊を象徴しました。

問10
マルセイユ義勇兵が歌った歌が、のちの国歌「ラ・マルセイエーズ」である。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
マルセイユからパリへ向かう義勇兵たちが歌った「ラ・マルセイエーズ」は、自由と祖国を守る決意を象徴する革命歌で、のちに国歌となりました。

問11
ヴァルミーの戦いでは、プロイセン軍が勝利した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
1792年9月20日、ヴァルミーの戦いでフランス義勇軍がプロイセン軍を撃退しました。
この小規模な勝利が、革命の士気を一気に高めました。

問12
ヴァルミーの戦いの翌日、国民公会が召集され、王政が廃止された。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
1792年9月21日、国民公会が召集され、王政廃止・共和政樹立を決定。
ヴァルミーの勝利が直接の契機となりました。

問13
ヴァルミーの戦いを目撃したゲーテは、「新しい時代の始まり」と述べた。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
詩人ゲーテは戦場に立ち会い、「この日から世界史の新しい時代が始まる」と記しています。
戦争が“市民の戦争”へ変わった象徴とされます。

問14
対オーストリア戦争の勝利によって、ルイ16世の地位は安定した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
戦争の混乱と王への不信が拡大し、ルイ16世はむしろ「敵と通じた」と疑われました。
1793年1月、ルイ16世は処刑されます。

問15
対オーストリア戦争を機に、革命は国内の問題から国際問題へと発展した。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
対オーストリア戦争によって革命はヨーロッパ全体に波及。
以後、第1次対仏大同盟(1793)が結成され、フランス革命戦争が本格化します。

問16
国民義勇兵の多くは貴族階級出身で、給与を目的に戦っていた。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
義勇兵の多くは農民や市民であり、「自由と祖国のため」という理念的動機で志願しました。
職業軍ではありません。

問17
対オーストリア戦争では、女性も兵士として前線に参加した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
女性は直接戦闘には参加しませんでしたが、衣服製作・看護・補給などで重要な役割を果たしました。
国民総動員の一翼を担った点は画期的です。

問18
この戦争の過程で「自由・平等・博愛」の理念がヨーロッパに広まった。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
革命軍は征服地で封建特権を廃止し、姉妹共和国を樹立。
理念の伝播は一方で、フランス支配の正当化にも利用されました。

問19
対オーストリア戦争の結果、フランスではナショナリズムが芽生えた。

解答:〇(正しい)

🟦【解説】
祖国防衛を通じて「国民と国家の一体感」が生まれ、近代的ナショナリズムの原点となりました。

問20
この戦争で生まれた国民皆兵の思想は、ナポレオン時代には完全に消滅した。

解答:✕(誤り)

🟦【解説】
ナポレオンは革命期の皆兵制を制度化(徴兵制)しました。

理念は変質したものの、制度として継承され、19世紀ヨーロッパの軍事体制の基礎となります。

まとめ:頻出ポイント整理

区分重点キーワード出題テーマ
背景ピルニッツ宣言・ジロンド派・フイヤン派開戦理由と政治対立
展開ブランズウィック宣言・祖国の危機宣言国民皆兵と愛国意識
転機ヴァルミーの戦い・共和政樹立勝利の意義と制度変化
影響ナショナリズム・姉妹共和国・徴兵制革命の国際化と理念の変質
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次