ルイ16世処刑と革命の過激化|ジャコバン派台頭の契機をたどる

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ルイ16世の処刑は、1793年1月、フランス国王ルイ16世が「国家に対する反逆罪」によりギロチンで処刑された絶対王政の終焉国民主権の確立を象徴する事件です。

この出来事によって、国民主権にもとづく共和制の成立が決定づけられました。

背景には、王の逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や外国勢力との戦争(オーストリア・プロイセンとの対立)、宮廷陰謀への不信があり、国民の間に「革命を裏切った王」という感情が広がっていました。

この処刑は国内外に大きな衝撃を与え、フランス革命を一気に過激化させる転換点となりました。国内ではジャコバン派が勢力を拡大し、国外では反仏同盟が結成され、戦争が本格化します。

この記事では、ルイ16世処刑に至るまでの経緯とその政治的・社会的影響を整理し、なぜこの事件が「革命の臨界点」と呼ばれるのかを明らかにしていきます。

目次

第1章:処刑に至る経緯 ― 王政崩壊から共和国宣言まで

ルイ16世の処刑は、突発的な出来事ではなく、王政崩壊から共和国宣言に至る一連の政治的・社会的流れの中で生まれたものでした。

ここでは、処刑に至るまでの主要な転換点を時系列で整理し、フランスが「国王の国」から「国民の国」へと変わっていく過程を見ていきます。

フランス革命の進行とルイ16世処刑までの流れ(チャート)

年月事件概要ポイント
1791年6月ヴァレンヌ逃亡事件国王一家がオーストリアへの逃亡を試み失敗王権神授説が否定され、国王不信が決定的に
1791年8月ピルニッツ宣言オーストリア皇帝とプロイセン王が革命干渉を示唆「外国と通じる国王」への憎悪を招く
1792年6月20日6月20日事件パリ民衆がテュイルリー宮殿に乱入し、国王に抗議立憲王政への最後の信頼が崩壊、8月蜂起の前兆
1792年8月10日王宮襲撃(8月10日事件)義勇兵・国民衛兵・サン=キュロットが王宮を攻撃王が捕らえられ、立憲王政が崩壊
1792年9月国民公会の成立王政廃止と共和政の宣言フランスが君主制から共和国へ転換
1793年1月ルイ16世処刑革命裁判により死刑が決定し、ギロチンで処刑王の死により、国民主権の実現と革命の過激化が進行

① ヴァレンヌ逃亡事件 ― 革命と国王の決定的決裂

1791年6月、ルイ16世は王妃マリー=アントワネットや王子とともに、オーストリアへの逃亡を試みました。

しかし、国境近くのヴァレンヌで捕らえられ、パリに連れ戻されます。

この事件により、「国王は革命を裏切った」という民衆の不信が爆発。

王権神授説の権威は完全に失われ、立憲王政の形骸化が始まりました。

② ピルニッツ宣言 ― 外圧が国内の憤激を招く

同年8月、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が共同でピルニッツ宣言を発表。

「フランス国王の安全を守るため干渉も辞さない」と表明しました。

これが「国王は外国と通じている」という疑念を強め、王への憎悪をさらに高めました。民衆の怒りは次第に暴発寸前の状態に。

③ 6月20日事件 ― 民衆の抗議と王政への最後の希望

1792年6月20日、民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿に乱入。

国王に革命のシンボルである赤い帽子(フリジア帽)を被せ、「祖国の敵を討て!」と叫びました。

ルイ16世は冷静に振る舞い、憲法への忠誠を口にしましたが、この態度は逆に「偽善」と受け止められ、国民の不信をさらに深めました。

この事件は、後の8月10日事件への直接的な前兆となります。

④ 8月10日事件 ― 王政崩壊の決定的瞬間

1792年8月10日、マルセイユ義勇兵や国民衛兵、そしてサン=キュロットが再びテュイルリー宮殿を襲撃。王の護衛兵を打ち破り、王一家をタンプル塔に幽閉しました。

これによって立憲王政は崩壊し、国民はついに「王なき政治」へと踏み出します。

この日をもって、フランスは君主制国家ではなくなったのです。

⑤ 国民公会の成立と共和国の宣言

8月10日の蜂起後、立法議会は解散し、国民公会が新たに選挙で成立しました。

1792年9月21日、国民公会は王政廃止と共和政の宣言を行い、フランスは正式に共和国となります。

このとき、ルイ16世は「国民の敵」としての立場を失い、翌年、革命裁判にかけられる運命を迎えることになります。

小まとめ:立憲王政から共和政へ ― 国王から国民へ主権の移動

  • ヴァレンヌ逃亡事件:国王の裏切り
  • ピルニッツ宣言:外圧による反王感情の高まり
  • 6月20日事件:民衆の直接行動の始まり
  • 8月10日事件:立憲王政の崩壊
  • 共和国宣言:王政の終焉と新国家の誕生

この一連の流れこそが、ルイ16世の処刑へと至る歴史的な地盤を形成しました。

第2章:革命裁判とルイ16世の最期 ― 一票差で決まった死刑判決

1792年秋に成立した国民公会は、王政を廃止して共和政を宣言したのち、旧体制との決別を象徴する行動に出ました。

それが、ルイ16世の裁判です。国王を「国家の敵」として裁くという前例のない試みは、フランス革命が理念の域を超えて現実政治の段階に踏み込む瞬間でもありました。

① 革命裁判の開始 ― 王は「市民ルイ・カペー」と呼ばれた

1792年12月、国民公会はルイ16世の訴追を正式に決定しました。

このとき彼はもはや“陛下”ではなく、「ルイ・カペー市民」と呼ばれます。

中世カペー朝の始祖の名をあえて用いることで、王権の特権を剥ぎ取り、一個人として法の下に立たせるという象徴的な意味が込められていました。

罪状は次の通りです。

  1. 国の裏切り(ヴァレンヌ逃亡・外国との通謀)
  2. 国民の安全を脅かした行為(戦争と暴力の扇動)
  3. 憲法違反(国民代表を無視した政治行為)

裁判の記録は、政治裁判であると同時に道徳的審判でもありました。

「王は裏切ったのか、それとも国が王を裏切ったのか」という根本的問いが、議場全体を覆います。

② 議会の分裂 ― 死刑か赦免か、国を二分した投票

裁判をめぐって、国民公会は真っ二つに割れました。

  • ジロンド派(穏健派):法の正当性を重視し、流血の拡大を恐れて“寛大な処分”を主張。
  • 山岳派(急進派・ジャコバン派):革命の徹底を訴え、「王の死なくして共和国なし」と強硬に主張。

1793年1月16日、死刑を求めるか否かの投票が行われます。

結果は、賛成361票・反対360票

わずか一票差で死刑が可決されました。

この一票は、革命の理念を現実に変えた歴史的な一票でした。

フランス革命が「法と理念の政治」から「行動と決断の政治」へ転じた瞬間だったのです。

③ 前夜の静寂 ― 家族との最後の面会

判決翌日の1月20日夜、ルイ16世はタンプル塔の自室で、妻マリー=アントワネット、王女マリー=テレーズ、王子ルイ=シャルル、妹エリザベートと面会します。

彼は静かに家族に別れを告げ、「互いに許し合い、神に祈りを」と言い残しました。

王妃は涙をこらえきれず、王子は父にしがみつき離れなかったと記録されています。

この夜の情景は、革命という大義の背後にある人間的悲劇を浮かび上がらせます。

「私の死が人民の平和をもたらすなら、それが私の最大の望みだ。」
— ルイ16世の最後の言葉(監獄記録より)

④ 1793年1月21日 ― 革命広場にて

翌朝、ルイ16世は革命広場(現コンコルド広場)に連行されました。

冷たい冬の朝、群衆の前で馬車を降りた彼は、白いシャツに身を包み、断頭台の階段を静かに上ります。

処刑台の上で彼はこう叫びました。

「国民よ、私は無実の罪で死ぬ! どうか私の血が祖国の災いをもたらさぬように!」

その瞬間、太鼓が鳴り響き、刃が落ちました。

群衆は歓声を上げ、革命の歌を歌い、銃声を天に放ちました。

このとき、フランスは名実ともに王なき共和国となり、世界史の新しい章が開かれました。

⑤ 処刑の意味 ― 理念の完成か、暴力の始まりか

ルイ16世の処刑は、絶対王政と王権神授説の終焉を意味しました。

「主権は国王にあらず、国民にあり」という思想が、初めて法と行動の形を取ったのです。

一方で、この決断はフランス国内の分裂を拡大し、国外の王政諸国を震撼させました。

この出来事を契機に、ヨーロッパ諸国は第1回対仏同盟を結成し、革命は内外から圧力を受ける「生存の革命」へと変わっていきます。

理念と現実が交錯する中で、フランス革命はついに不可逆的な臨界点を越えたのです。

小まとめ:国王を裁くという近代政治の象徴

観点内容
政治的意義王政廃止と共和政確立の象徴。主権の所在を「国王」から「国民」へ転換。
社会的意義国民が法の主体として行動する近代的市民社会の萌芽。
歴史的評価理念実現の頂点であり、同時に恐怖政治への入口。

第3章:処刑の影響と歴史的意義 ― 王の死がもたらした新秩序


ルイ16世の処刑は、単なる政治事件ではなく、ヨーロッパの秩序全体を揺るがす歴史的転換点でした。

国王の死は、国内では共和制の確立を促し、国外では王政諸国の激しい反発を招きました。

ここでは、この事件の内外への影響と、その背後にある思想的意義を整理します。

① 国内への影響 ― 共和政確立と分裂の深化

ルイ16世の処刑によって、フランスは君主なき国家となり、国民公会のもとで本格的な共和政体制が動き始めました。

しかし、処刑がもたらしたのは統一ではなく、むしろ政治的分裂の拡大でした。

  • 穏健派のジロンド派は、「流血は革命の理念を汚す」として処刑に反対し、次第に勢力を失っていく。
  • 一方で山岳派(ジャコバン派)は、「革命の敵を断つ」として民衆の支持を集め、主導権を握る。

さらに地方では、国王の死を「神への冒涜」とみなす保守層が反乱を起こしました。

その代表がヴァンデの反乱(1793)です。

この反乱は革命政府に深刻な脅威を与え、やがて恐怖政治の引き金となります。

こうして、ルイ16世の処刑は国内の緊張を極限まで高め、「自由を守るための抑圧」という新たな矛盾を生み出しました。

② 国際的影響 ― 王政ヨーロッパの結束と対仏同盟の形成

ルイ16世の処刑の報は、ヨーロッパ全土に衝撃を与えました。

「国王を殺す」という行為は、王権神授説に基づく君主たちにとって、自らの存在基盤を否定する暴挙に映ったのです。

この結果、1793年に第1回対仏同盟が結成されます。

イギリス・スペイン・オランダ・オーストリア・プロイセンなど主要国が参加し、「革命の火を封じ込める」ための戦争が始まりました。

この戦争は単なる国家間の対立ではなく、「旧体制」対「新時代」という理念の衝突でもありました。

革命は国境を越えて広がり、ヨーロッパは思想戦の時代へと突入します。

同時に、フランス国内では外敵の脅威を口実にした非常体制が敷かれ、公安委員会の権限が強化されるなど、国家の統制が一気に進みました。

つまり、国際的孤立が国内の独裁化を促す結果となったのです。

③ 思想的意義 ― 「国民主権」の現実化と革命の矛盾

ルイ16世の処刑は、政治的には王政の終焉を告げましたが、思想的には「主権の所在」を根本から問い直す出来事でした。

「王を裁く」という行為そのものが、主権が王から国民に移ったことの証明である。

それまでのヨーロッパでは、王は法の外にあり、人民が王を裁くという発想自体が存在しませんでした。

しかし、フランス革命は「主権在民」の理念を現実の政治行為に転化させ、近代国家の原点を形づくったのです。

一方で、理念を実現する過程では「暴力」と「排除」が伴いました。革命の理念が「自由・平等・友愛」を掲げながら、実際には反対者を処刑し、恐怖によって秩序を維持していく。

この矛盾が、のちの恐怖政治を正当化する理論的背景となります。

④ 歴史的意義の整理 ― 王の死が開いた近代の扉

観点内容
政治的意義絶対王政の終焉と共和政の確立。国民主権の現実化。
社会的意義身分的特権の否定と市民的平等の理念の具体化。
国際的意義旧体制ヨーロッパとの全面対立を引き起こし、革命戦争の時代を開く。
思想的意義主権・自由・国家という近代政治の基本概念を再定義した。

ルイ16世の処刑は、単に王を失った事件ではなく、近代ヨーロッパが誕生する瞬間でもありました。

国家の主権、人民の代表、そして法の支配という理念が、この血の上に築かれていったのです。

小まとめ:革命の臨界点としてのルイ16世処刑

  • 処刑は「国民主権の現実化」と「革命の暴力化」という二面性を持つ。
  • 国内では共和政確立と同時に分裂・反乱を招き、国外では対仏同盟を誘発。
  • 理想と現実の対立が激化し、革命は理念から生存の政治へと変質。

ルイ16世の血は、フランス革命を次の段階――

ジャコバン派独裁と恐怖政治へと導く起点となりました。

入試で狙われるポイント

この章では、これまでの内容を整理しながら、入試で問われやすい視点を確認していきます。

世界史の論述・正誤問題では、事実の暗記だけでなく、「なぜそうなったのか」「何を意味するのか」を説明できる力が求められます。

以下の演習を通して、重要な流れや意義を自分の言葉で説明できるようにしましょう。

重量論述問題にチャレンジ

ルイ16世が処刑された歴史的意義を100字程度で説明せよ。

ルイ16世の処刑は、王権神授説と絶対王政の終焉を象徴し、主権が王から国民へと移行したことを示した。フランス革命が理念を現実の政治制度として確立した転換点である。

ルイ16世処刑がフランス国内外に及ぼした影響を簡潔に120字程度で説明せよ。

国王処刑は、国内ではジロンド派とジャコバン派の対立を激化させ、地方反乱を誘発した。国外では、王政諸国が革命に脅威を感じ、第1回対仏同盟を結成。革命フランスは内乱と外戦の二重の危機に直面し、政治の過激化が進んだ。

ルイ16世処刑が「革命の臨界点」と呼ばれる理由を150字程度で述べよ。

国王処刑は、旧体制の完全な否定とともに、革命の理念を守るための戦いを正当化した。これにより自由と平等を掲げた革命は、恐怖政治や粛清をともなう実力行使の段階へと移行し、理想と現実が鋭く衝突する局面を迎えた。

正誤問題に挑戦しよう!

問1
ルイ16世の処刑は、1793年1月、国民公会の決議によって実行された。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
国民公会は1793年1月17日に死刑を決議し、1月21日に処刑を執行した。
賛成361票、反対360票というわずか一票差の可決だった。

問2
ルイ16世の処刑は、立法議会の決定に基づいて行われた。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
処刑を決定したのは立法議会ではなく国民公会。
立法議会はすでに1792年8月の王政廃止後に解散していた。

問3
ルイ16世が裁かれた罪状の一つに、外国勢力との通謀があった。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
ヴァレンヌ逃亡事件や「鉄の箱」から見つかった書簡により、
国王がオーストリアなどと連絡を取っていたことが発覚した。

問4
ルイ16世は、ヴァレンヌ事件で革命政府からの国外追放処分を受けた。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
国外追放ではなく、タンプル塔への幽閉処分となった。
国外逃亡を試みて失敗した事件であり、これが国民の不信を決定づけた。

問5
ルイ16世は処刑前夜にマリー=アントワネットと面会した。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
前夜に家族と最後の面会を許された。翌朝5時に司祭と祈りを捧げ、
8時過ぎに革命広場(現コンコルド広場)に向かったと伝えられる。

問6
処刑に使用されたギロチンは、当時の革命裁判所によって新たに考案された。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ギロチンの考案者は医師ギヨタンであり、
「すべての人が平等に苦痛なく死ぬ」ための人道的処刑具とされた。

問7
ルイ16世の処刑は、国民に恐怖と沈黙を強いた事件であった。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
多くの市民は歓声を上げ、太鼓や銃声が響いた。
当時は「旧体制からの解放」として歓迎された面も強い。

問8
ルイ16世処刑に対し、カトリック教会はこれを「神への冒涜」と非難した。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
王権神授説を前提とする教会にとって、国王の処刑は神の秩序への挑戦であり、
多くの聖職者が強く反発した。ヴァンデ反乱にも影響した。

問9
ルイ16世の処刑によって、国内では革命派の分裂が一時的に収束した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
逆に分裂は深まった。ジロンド派は処刑に慎重だったため批判を受け、
ジャコバン派が次第に主導権を握っていく。

問10
ルイ16世の処刑後、国民公会はただちに共和暦を制定した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
共和暦の制定は1793年10月で、処刑から約9か月後。
処刑直後は主に戦争・反乱への対処に追われていた。

問11
国王処刑により、イギリスやスペインなどが第1回対仏同盟を結成した。
解答:〇 正しい

🟦【解説】
処刑はヨーロッパ王侯に大きな衝撃を与え、
1793年にイギリス・スペイン・オランダなどが参戦した。

問12
ルイ16世の処刑を主導したのは、フイヤン派である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
フイヤン派は穏健な立憲王政派で、処刑に反対。
処刑を推進したのは国民公会内の山岳派(ジャコバン派)であった。

問13
ルイ16世処刑の可否は、国民公会議員の投票で多数決により決定された。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
全議員721名が投票し、361対360で死刑が可決。
民主主義の原理のもとで王を裁いたこと自体が歴史的象徴となった。

問14
ルイ16世は、処刑直前に「無実の罪で死ぬが、祖国の幸福を祈る」と述べたと伝えられる。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
複数の証言による。王としての威厳を保ちつつ、国民への祈りを残したとされる。
群衆の太鼓によってその声はほとんどかき消されたという。

問15
ルイ16世の処刑後、国民公会はただちにナポレオンを最高司令官に任命した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ナポレオンの台頭はまだ後の時期(1796年以降)。
処刑直後は国防委員会や公安委員会が中心となって戦争指導を行った。

問16
ルイ16世処刑は、革命の理念を守るための「非常手段」として正当化された。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
「自由と平等を守るために裏切り者を罰する」という論理で、
処刑が革命の正義として位置づけられた。

問17
国王処刑によって、革命政府は対外的に孤立し、戦争が激化した。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
多くの王政国家がフランスを「反逆国家」とみなし、
包囲戦が展開。戦況悪化は恐怖政治への伏線となった。

問18
ルイ16世処刑ののち、国民は再び王政復古を要求して立ち上がった。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
処刑後の民意は「共和制支持」が優勢。
王政復古の動きは革命後期(1795年以降)に一時的に見られた。

問19
ルイ16世処刑の意義は、国民主権の原理を現実の政治として実現した点にある。

解答:〇 正しい

🟦【解説】
国王を「人民の名で裁く」こと自体が、
主権が王から国民へ移行した象徴である。

問20
ルイ16世処刑をもってフランス革命は終結を迎えた。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
むしろ革命はここから過激化し、恐怖政治・総裁政府・ナポレオン政権へと続く。
処刑は「革命の新たな始まり」であった。

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