イスラーム帝国は、7世紀の急速な征服によって誕生した宗教共同体から出発し、やがて地中海世界とイラン世界を統合する巨大国家へと発展しました。
その過程で生まれたのが、マワーリー、ジズヤ、ハラージュ、アターといった独自の統治制度です。これらは単なる税や身分制度ではなく、征服軍団を維持し、異なる宗教・民族を包摂しながら帝国を運営するための実践的な仕組みでした。
しかし同時に、こうした制度はアラブ人優位の支配構造と結びつき、非アラブ系ムスリムへの差別や財政上の矛盾を生み出していきます。その結果、マワーリーの不満や宗派対立が拡大し、やがてアッバース革命へとつながりました。初期イスラーム国家の歴史は、宗教的平等の理念と、現実の国家運営との緊張関係の連続でもあったのです。
本記事では、正統カリフ時代からウマイヤ朝、初期アッバース朝にかけて形成された統治制度を軸に、征服共同体がどのように制度国家へ転換し、さらに多民族帝国へと変貌していったのかを整理します。
マワーリー、ジズヤ、ハラージュ、アター、ミスル、貨幣改革といった主要要素を結びつけながら、初期イスラーム国家の全体像をわかりやすく読み解いていきましょう。
第1章 征服共同体の成立
― 正統カリフ時代の軍事国家
イスラーム帝国の統治制度は、最初から整った官僚国家として始まったわけではありません。
その出発点は、預言者ムハンマドの死後に形成された宗教的共同体と、急速な征服を担ったアラブ軍団でした。
この章では、正統カリフ時代に成立した「征服共同体」としての国家の姿を整理します。
1.アラブ軍団とディーワーン制度
ムハンマドの死後、正統カリフのもとでアラブ軍団は急速に拡大し、シリア・エジプト・イラク・イランへと征服を進めました。
この軍事力を維持するために整えられたのがディーワーン制度です。ディーワーンとは、兵士の名簿を管理する仕組みで、征服に参加したアラブ人兵士はここに登録され、国家から定期的な俸給(アター)を受け取るようになります。
これは、戦利品の分配に頼る段階から、国家財政によって軍団を支える体制への転換を意味していました。アラブ軍団は部族的な集団であると同時に、国家に直属する常備軍として再編されていったのです。
2.ミスル建設と征服地支配の基盤
征服地では、アラブ軍団を現地住民から分離して駐屯させるため、ミスルと呼ばれる軍営都市が建設されました。代表例としてクーファやバスラ、後には北アフリカのカイラワーンなどが挙げられます。
ミスルは単なる軍事拠点ではなく、行政と徴税の中心でもありました。アラブ兵士はミスルに居住し、周辺の農村から徴収される税を原資として生活を維持します。
こうして征服地の農民とアラブ軍団は空間的にも分離され、支配と被支配の関係が制度的に固定化されていきました。
3.征服国家から統治国家へ
この段階のイスラーム国家は、まだ後世の官僚国家とは異なり、アラブ軍団を中核とする征服共同体でした。しかしディーワーンによる兵士管理、アターによる俸給支給、ミスルによる都市建設は、すでに恒常的な統治を前提とした仕組みでもあります。
正統カリフ時代は、宗教的共同体と軍事国家が重なり合う過渡期でした。ここで築かれた軍事・財政・都市の枠組みが、後のウマイヤ朝による制度化と帝国化の土台となっていきます。
第2章 征服地支配の仕組み
― ジンミー・ジズヤ・ハラージュ
イスラーム国家は、急速な征服によって多様な宗教・民族を抱え込むことになりました。そこで重要となったのが、征服地の住民をどのように統治し、財政基盤を確保するかという問題です。
この章では、非ムスリムを包摂する制度としてのジンミー体制と、それを支えたジズヤ・ハラージュの仕組みを整理します。
1.ジンミーという存在
征服地のキリスト教徒やユダヤ教徒は、ジンミー(保護民)としてイスラーム国家に組み込まれました。ジンミーは改宗を強制されることなく信仰を維持でき、その代わりに国家に服属し、一定の税を納める義務を負います。
これは単なる抑圧ではなく、信仰の自由と生命・財産の保護を保障する制度的枠組みでした。イスラーム国家は、異教徒を排除するのではなく、税と引き換えに共同体の内部に取り込む道を選んだのです。
2.ジズヤ――軍役免除の対価としての人頭税
ジズヤは、ジンミーに課された人頭税です。その本来の意味は、軍役を免除される代わりに納める対価でした。イスラーム国家では、ムスリムが軍役の義務を負う一方、非ムスリムは軍役を免除され、その代わりにジズヤを支払うという役割分担が成り立っていました。
重要なのは、ジズヤが宗教的身分に基づく税であり、民族ではなく信仰によって区別されていた点です。原則としてムスリムには課されず、非ムスリムだけが負担する仕組みでした。
3.ハラージュ――征服地農業を支えた土地税
ハラージュは、征服地の農地そのものに課された土地税です。人に課されるジズヤとは異なり、ハラージュは土地から安定的に税収を得るための制度でした。本来は土地所有者であれば宗教や民族を問わず負担する仕組みであり、イスラーム国家の財政基盤を支える中核となります。
この制度によって、イスラーム国家は一時的な戦利品に頼る征服国家から、農業生産を基盤とする統治国家へと移行していきました。ジズヤとハラージュの組み合わせは、異教徒社会と農村経済を同時に包摂する、きわめて実践的な統治モデルだったのです。
第3章 マワーリー問題と制度の歪み
― ウマイヤ朝のアラブ人優位体制
ウマイヤ朝の成立によって、イスラーム国家は初めて本格的な王朝体制へと移行しました。
しかしその過程で、正統カリフ時代に築かれた制度は次第に歪められ、宗教的平等の理念と現実の統治構造との間に深刻な矛盾が生じていきます。
この章では、非アラブ系ムスリムであるマワーリーをめぐる問題を中心に、その制度的歪みを整理します。
1.改宗者の増加とマワーリーの形成
領土拡大が進むにつれて、征服地の住民の中からイスラームへ改宗する者が増えていきました。こうして生まれた非アラブ系ムスリムがマワーリーです。本来、イスラームでは信仰によって共同体が成立するため、改宗者はアラブ人と同等のムスリムとして扱われるはずでした。
しかし現実には、マワーリーはアラブ軍団の正規構成員に組み込まれず、アター(軍団俸給)の対象にもなりませんでした。彼らはムスリムでありながら、征服共同体の外側に置かれるという中途半端な立場に置かれます。
2.ジズヤとハラージュの変質
ウマイヤ朝の下では、ジズヤとハラージュという税制度も本来の性格から逸脱していきます。ジズヤは非ムスリムに課される人頭税であり、ムスリムは免除されるのが原則でしたが、ウマイヤ朝ではマワーリーに対しても課され続けました。
一方、ハラージュは土地そのものに課される税であり、民族を問わない仕組みでした。しかしアラブ人地主は免除され、非アラブ住民に負担が集中するようになります。その結果、マワーリーはムスリムでありながらジズヤとハラージュの双方を負担する立場に追い込まれました。
ここでは二つの原則が同時に崩れていました。ジズヤにおいては「ムスリムは免税」という信仰上の平等が破られ、ハラージュにおいては「土地税は民族を問わない」という制度上の公平性が失われたのです。
3.アター制度と不満の拡大
こうして徴収された税は、アラブ軍団への俸給であるアターとして分配されました。非アラブ住民やマワーリーが負担した税が、アラブ支配層の生活を支える構造が固定化されていきます。
マワーリーは、ムスリムでありながら軍団に参加できず、アターも受け取れず、それでも重い税負担を課されるという状況に置かれました。この制度的不公平は経済的不満だけでなく、宗教的な疎外感をも生み出し、ウマイヤ朝支配への反発を帝国内部に蓄積させていきます。
第4章 改革と再編
― ウマル2世からアッバース朝へ
ウマイヤ朝のもとで拡大した制度的矛盾は、やがて是正の試みと王朝交代という大きな転換を招きました。
この章では、ウマル2世の改革からアッバース朝による再編までを通して、初期イスラーム国家がどのように多民族帝国へと移行していったのかを整理します。
1.ウマル2世の改革とその限界
ウマイヤ朝の中でも、ウマル2世はマワーリーへのジズヤ課税の是正など、差別緩和を試みた数少ない改革派のカリフでした。ムスリムであれば民族を問わず平等に扱うというイスラーム本来の理念を回復しようとしたのです。
しかし国家財政は、ハラージュとジズヤを原資としてアラブ軍団にアターを支給する仕組みに深く依存しており、改革はアラブ支配層の強い反発に遭いました。短い治世ののち改革は頓挫し、制度そのものを変えるには至りませんでした。
2.ホラーサーンとアッバース革命
不満はやがてホラーサーン地方を中心に政治運動へと転化します。ここは非アラブ系ムスリム(マワーリー)が多く、中央の統制が及びにくい辺境でもありました。さらにシーア派的な正統観が浸透しやすい環境も重なり、反ウマイヤ運動が組織化されていきます。
750年、こうした動きはアッバース革命として結実し、ウマイヤ朝は滅亡しました。アッバース家は「預言者一族の政権」を掲げて支持を集め、マワーリーを含む広範な層を新体制に取り込みます。
3.アッバース朝による制度の再編
アッバース朝のもとで、ムスリムであれば民族を問わずジズヤを免除し、土地を持つ者はハラージュを納めるという原則が再確認されました。これにより、信仰と課税の関係は整理され、マワーリーはアラブ人と同様にムスリム共同体へ統合されていきます。
同時に軍制も再編され、アラブ軍団中心のアター体制は次第に解体され、多民族的な軍人層と官僚機構が形成されました。イスラーム国家は、征服共同体から出発し、やがて多民族的な官僚国家へと変貌していったのです。
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