16世紀初頭、イラン高原に登場したサファヴィー朝は、シーア派国家として西アジア史の流れを大きく変えた王朝です。
その創始者であるイスマイール1世は、アゼルバイジャン地方を拠点に台頭し、タブリースで即位してシャー(王)を称しました。
彼を支えたのは、宗教的熱情と軍事力を兼ね備えたキジルバシュと呼ばれる戦士集団であり、ここにサファヴィー朝は急速な領土拡大を実現します。
一方で、西方では強大なオスマン帝国と鋭く対立し、イランとアナトリアをめぐる覇権争いが長期化していきました。
やがて王都はガズヴィーンを経てイスファハーンへと移され、特にアッバース1世の時代に国家体制は整備され、サファヴィー朝は「世界の半分」と称されるほどの繁栄を迎えます。
この最盛期には、ペルシア絹織物交易やインド洋ルートにも関与し、ホルムズをめぐってポルトガル勢力とも衝突するなど、対外関係はきわめて国際的でした。
しかし18世紀に入ると王権は動揺し、アフガン人勢力の侵入によって王都イスファハーンは陥落します。
その後、混乱を収拾した軍事的英雄ナーディル=シャーが1736年に即位してアフシャール朝を開き、ここにサファヴィー朝は歴史の幕を閉じました。
本記事では、こうした興亡の流れを軸に、サファヴィー朝がいかにして成立し、最盛期を迎え、そして崩壊へと向かったのかを、入試で問われやすいポイントを意識しながら整理していきます。
第1章 サファヴィー朝の成立 ― イスマイール1世とキジルバシュの結集
サファヴィー朝の出発点は、単なる王朝交代ではなく、「宗教運動」と「軍事勢力」が結びついて国家が形成された点にあります。
若き指導者の下に遊牧的戦士集団が集まり、短期間でイラン高原の覇権を握ったこの過程は、後のイラン史だけでなく、西アジア全体の宗派地図を決定づけました。
この章では、王朝創始のプロセスを、人物・軍事基盤・拠点地域の三点から整理します。
1.イスマイール1世の登場と王朝宣言
サファヴィー朝の創始者イスマイール1世は、アゼルバイジャン地方を基盤とする宗教勢力の家系に生まれました。彼はまだ10代の若さで軍事行動を開始し、1501年にタブリースを制圧してシャー(王)を称します。ここにサファヴィー朝が正式に成立しました。
重要なのは、イスマイール1世が単なる軍事指導者ではなく、宗教的カリスマとして支持を集めていた点です。彼は自らをシーア派の正統な導き手と位置づけ、支配地域に十二イマーム派を強制的に広めました。
これにより、イランはそれまで主流だったスンニ派世界から切り離され、明確にシーア派国家へと転換していきます。この宗派政策こそが、後世まで続く「イラン=シーア派」という構図の出発点でした。
【正誤問題】
イスマイール1世はタブリースで即位し、十二イマーム派を国教としてサファヴィー朝を創始した。
解答:〇 正しい
☞ イスマイール1世は1501年にタブリースでシャーを称し、シーア派(十二イマーム派)を強制的に広めました。ここが「イラン=シーア派国家」の出発点です。
サファヴィー朝の初期を軍事的に支えたのは、スンニ派の都市商人層であった。
解答:× 誤り
☞ 初期の主力はキジルバシュと呼ばれるトルコ系遊牧戦士集団。宗教的忠誠と部族的結束を背景に王朝成立を支えました。
2.キジルバシュとは何者か ― 王権を支えた戦士集団
イスマイール1世を軍事的に支えたのがキジルバシュです。赤い頭巾を身につけていたことからこの名で呼ばれ、宗教的忠誠心と部族的結束を背景に、サファヴィー朝初期の急速な拡大を可能にしました。
彼らは各地の総督や有力貴族としても配置され、国家運営の中枢を担います。しかし同時に、部族的自立性は中央集権化の障害ともなり、後の時代には王権と緊張関係を生む要因にもなりました。
初期サファヴィー国家は、キジルバシュの軍事力に大きく依存した「戦士連合国家」として出発した、と整理できます。
3.アゼルバイジャンからイラン高原へ ― 支配領域の拡大
サファヴィー朝は、アゼルバイジャン地方を起点としてイラン高原へ勢力を広げていきました。タブリースを最初の都としたのも、この地域が軍事・交易の要衝であったためです。
その後、王都は情勢に応じて移動し、最終的にはガズヴィーン、さらにイスファハーンへと遷ります。こうした遷都の背景には、西方から圧力をかけるオスマン帝国との対立がありました。
サファヴィー朝はシーア派、オスマン帝国はスンニ派という宗派の違いも重なり、両国の抗争は単なる領土争いを超えた「宗派対立」を帯びていきます。
この段階で押さえておきたいのは、サファヴィー朝の成立が「イランをシーア派国家として固定化した」点、そしてそれがオスマン帝国との長期的対立構造を生み出した点です。これは後の西アジア国際関係を理解するうえで、極めて重要な出発線になります。
【正誤問題】
イスマイール1世はタブリースで即位し、十二イマーム派を国教としてサファヴィー朝を創始した。
解答:〇 正しい
☞ イスマイール1世は1501年にタブリースでシャーを称し、シーア派(十二イマーム派)を強制的に広めました。ここが「イラン=シーア派国家」の出発点です。
4.チャルディラーンの戦い ― 教団国家から近世国家への転換点
宗派国家として出発した直後のサファヴィー朝に大きな衝撃を与えたのが、1514年のチャルディラーンの戦いです。現在のイラン北西部チャルディラーンで行われたこの戦いで、イスマイール1世の軍は、セリム1世率いるオスマン軍に敗れました。
敗因として重要なのは、オスマン側が大砲や銃といった火器を本格運用していたのに対し、サファヴィー側はキジルバシュ中心の騎兵戦力に依存していた点です。この敗北によりサファヴィー朝はアナトリア方面への拡張を断念し、西方進出の道を閉ざされました。
同時にこの経験は、宗教的カリスマと遊牧的戦士だけでは近世の国家間競争を勝ち抜けないことを示しました。以後のサファヴィー朝が軍制改革と中央集権化へ向かう背景には、この敗戦の教訓があります。後の時代に進む常備軍整備や国家再編は、チャルディラーンの挫折を起点として構想されたものだったのです。
第2章 アッバース1世の改革と最盛期 ― イスファハーン繁栄とホルムズ奪回
サファヴィー朝の歴史において転換点となるのが、アッバース1世の治世です。彼の時代、国家は軍事・行政・経済の各分野で再編され、王権は飛躍的に強化されました。
その結果、サファヴィー朝は領土の安定と都市繁栄を実現し、「世界の半分」と称される最盛期を迎えます。
この章では、アッバース1世の改革の中身と、その国際的広がりを整理します。
1.キジルバシュ依存からの脱却 ― 王権強化の核心(アッバース1世の軍制改革)
即位当初のサファヴィー朝は、依然としてキジルバシュ諸部族の影響力が強く、中央集権国家とは言い難い状態でした。
とくにチャルディラーンの戦いで露呈したように、部族騎兵中心の軍事体制には限界がありました。そこでアッバース1世は、この構造を根本から改めるため、王直属の常備軍を整備する軍制改革を断行します。
彼はコーカサス系の人々などを登用して新たな常備軍を編成し、軍事力を特定部族から切り離しました。あわせて、部族勢力を軍事・行政の中枢から段階的に遠ざけることで、シャーを頂点とする統治体制を確立していきます。
これにより、軍事力がキジルバシュに独占される状況は解消され、王権に直属する近世的軍事体制が完成しました。
このアッバース1世の軍制改革は、単なる軍隊の改編にとどまらず、「遊牧的戦士連合国家」から「官僚制にもとづく中央集権国家」への転換を意味していました。
サファヴィー朝はここで初めて本格的な中央集権国家へと変貌したのであり、入試的にはアッバース1世=軍制改革によって中央集権化を完成させた人物と整理しておくと理解しやすいでしょう。
【正誤問題】
アッバース1世はキジルバシュの力をさらに強めることで中央集権化を進めた。
解答:× 誤り
☞ 逆です。キジルバシュ依存から脱却し、王直属軍を整備して部族勢力を抑制しました。ここが中央集権化の核心。
2.イスファハーン遷都と都市文明の開花
アッバース1世は王都をイスファハーンへ移し、ここを壮麗な都城へと作り替えました。広大な王の広場(ナクシェ・ジャハーン広場)を中心に、モスク、王宮、バザールが計画的に配置され、政治・宗教・商業が一体化した都市空間が形成されます。
このイスファハーンは、同時代の旅行者から「世界の半分」と称されるほど繁栄しました。ペルシア絨毯や絹織物をはじめとする工芸品はヨーロッパにも輸出され、サファヴィー朝はユーラシア交易網の重要な結節点となります。
ここで押さえたいのは、サファヴィー朝の最盛期が単なる軍事的拡張ではなく、都市文化と国際交易の発展と結びついていた点です。イスファハーンの繁栄は、その象徴的存在でした。
【正誤問題】
アッバース1世の時代、王都はイスファハーンに移され、「世界の半分」と称される繁栄を迎えた。
解答:〇 正しい
☞ イスファハーンは政治・宗教・商業を統合した計画都市。サファヴィー朝最盛期の象徴です。
サファヴィー朝の首都イスファハーンは、同時代の人々から「イスファハーンは世界の半分(イスファハーン・ニスフェ・ジャハーン)」と称えられました。
この表現は単なる誇張ではなく、17世紀初頭の繁栄ぶりを象徴する決まり文句です。
この都市が飛躍的に発展した背景には、アッバース1世による計画的な都市建設があります。王の広場(ナクシェ・ジャハーン広場)を中心に、王宮・モスク・バザールが配置され、政治・宗教・商業が一体化した近世的首都が形成されました。
ペルシア絨毯や絹織物などの手工業も発達し、イスファハーンはヨーロッパ商人も集まる国際交易都市として栄えます。
当時のイスファハーンは、西欧のパリ、イスラーム世界の中心であるイスタンブルと並び称される規模と活気を備えた大都市でした。
重要なのは、「世界の半分」という言葉が、単なる都市の美しさではなく、サファヴィー朝が軍制改革と中央集権化を進めた結果として実現した国家的繁栄を指している点です。
つまりイスファハーンの繁栄は、アッバース1世の改革によって完成した近世国家体制の“目に見える成果”だったのです。
3.ホルムズ奪回と対ポルトガル関係 ― インド洋への進出
アッバース1世の時代、サファヴィー朝は内陸国家にとどまらず、インド洋世界にも積極的に関与します。その象徴が、ホルムズをめぐる攻防です。
ホルムズはペルシア湾とインド洋を結ぶ要衝であり、16世紀以降はポルトガルがここを拠点として海上交易を支配していました。アッバース1世はイギリス勢力とも連携し、最終的にホルムズからポルトガルを駆逐します。これにより、サファヴィー朝はペルシア湾沿岸の主導権を回復し、国際貿易における発言力を大きく高めました。
この出来事は、「ヨーロッパ勢力 vs イスラーム諸国」という単純な構図ではなく、現地王朝が欧州勢力を利用しつつ主導権を取り戻した例としても重要です。
入試では、ホルムズ奪回=アッバース1世の対外政策の成果として整理されることが多いポイントです。
「世界の半分」と称されたイスファハーンの繁栄は、都市整備や手工業の発達だけで完結していたわけではありません。その背後には、アッバース1世による対外政策の転換がありました。
アッバース1世は、内陸の首都イスファハーンを中心に国家を再編する一方で、ペルシア湾方面にも積極的に進出します。その象徴が、ホルムズをめぐる攻防です。ホルムズはインド洋とペルシア湾を結ぶ要衝で、16世紀以降はポルトガルが拠点化し、海上交易を支配していました。
アッバース1世はヨーロッパ勢力とも連携しつつ、最終的にホルムズからポルトガルを排除します。これによりサファヴィー朝はペルシア湾沿岸の主導権を回復し、絹織物などの輸出を軸とする国際交易に本格的に関与できるようになりました。
つまり、イスファハーンの都市的繁栄は、ホルムズ奪回に代表される対外展開と表裏一体でした。入試的には、
- イスファハーンの繁栄=アッバース1世の中央集権化の成果
- ホルムズ奪回=国際交易への本格参加
とセットで整理しておくと、最盛期の姿が立体的に理解できます。
第3章 アフガン人侵入と王朝の崩壊 ― ナーディル=シャーとアフシャール朝の成立
アッバース1世の時代に最盛期を迎えたサファヴィー朝ですが、その繁栄は長く続きませんでした。18世紀に入ると王権は急速に弱体化し、地方支配の動揺と軍事力の低下が進みます。こうした内部の疲弊に乗じて侵入してきたのがアフガン人勢力でした。
この章では、王朝崩壊までの流れと、その後を引き継いだ軍事政権の成立を整理します。
1.王権の動揺とイスファハーン陥落
後期サファヴィー朝では、シャーの統治能力が低下し、官僚制も形骸化していきました。かつてアッバース1世が築いた中央集権体制は次第に崩れ、軍の規律も弱体化します。
この隙を突いたのが、東方から進出してきたアフガン人勢力です。1722年、彼らは王都イスファハーンを包囲し、長期の籠城戦の末に陥落させました。これは単なる首都占領にとどまらず、サファヴィー朝の実質的な崩壊を意味します。
ここで重要なのは、滅亡の直接原因が「外敵の侵入」であった一方、その背景には長年にわたる王権の弱体化と統治機構の弛緩があった点です。入試では、「アフガン人の侵入=突然の滅亡」と単純化せず、内部衰退と結びつけて説明できるかが問われやすくなります。
2.軍事的英雄の登場 ― ナーディル=シャー
アフガン人支配の混乱の中から頭角を現したのが、後にナーディル=シャーと呼ばれる軍事指導者です。彼は卓越した軍事能力によってアフガン人勢力を駆逐し、イラン高原の再統一を進めました。
やがて1736年、ナーディル=シャーは正式に即位し、アフシャール朝を開きます。ここにサファヴィー朝は完全に終焉を迎え、イランは新たな軍事王朝の時代へと移行しました。
ナーディル=シャーの政権は、サファヴィー朝の宗教的正統性とは異なり、ほぼ純粋に軍事力を基盤とした体制でした。この点で、彼の登場は「シーア派王朝サファヴィー」から「征服王朝アフシャール」への質的転換を意味しています。
【正誤問題】
アフガン人侵入後、軍事指導者ナーディル=シャーが1736年に即位し、アフシャール朝を開いた。
解答:〇 正しい
☞ ここでサファヴィー朝は完全に終了。宗教的正統性の王朝から、軍事力中心の王朝へ転換します。
3.サファヴィー朝滅亡の歴史的意義
サファヴィー朝は滅びましたが、その歴史的影響は極めて大きなものでした。最大の遺産は、イランを十二イマーム派シーア派国家として固定化した点です。この宗派構造は王朝交代後も維持され、現在に至るまでイランの国家的アイデンティティの中核となっています。
また、オスマン帝国との長期的対立、イスファハーンに代表される都市文明、ホルムズをめぐる国際交易への関与など、サファヴィー朝はイランを内陸国家から「広域世界と結びつく王国」へと押し上げました。
入試対策としては、
- イスマイール1世による建国とシーア派国教化
- アッバース1世の中央集権化と最盛期
- アフガン人侵入による崩壊と1736年アフシャール朝成立
この三点を一本の流れとして整理できるかが重要になります。
【入試対策】イスラーム史におけるサファヴィー朝の立ち位置
― 縦(イラン)×横(16世紀/17世紀の同時代王朝)×世紀(近世イスラーム三帝国の時代)で俯瞰する
イスラーム史は中世後半になると、アッバース朝中心の世界から完全に離れ、各地に自立した大国が並び立つ段階へと移行します。
とくに16世紀以降は、軍事力と官僚制を備えた強力な王朝が登場し、「近世イスラーム世界」と呼ばれる新しい秩序が形成されました。
ここではサファヴィー朝を軸に、
- 縦(イラン地域の王朝交代)
- 横(同時代に並立した大国)
- 世紀(イスラーム世界全体の構造変化)
という三つの視点から、その歴史的位置づけを整理します。
① 縦のライン:サーマン朝からサファヴィー朝へ
― イラン世界は「三度つくり直された」
まず地域を「中央アジア〜イラン高原」に固定します。この空間では中世から近世にかけて、王朝が入れ替わっただけでなく、国家のあり方そのものが何度も再編されてきました。
結論から言えば、イラン世界では
- 官僚国家の成立
- モンゴルによる破壊と再建
- ティムールによる再破壊
- サファヴィー朝による宗派国家としての再構築
というプロセスを経て、現在につながる国家構造が形成されています。
その流れを順に追ってみましょう。
サーマン朝 ― イラン型イスラーム国家の原型
縦ラインの起点となるのが、9〜10世紀のイラン系王朝サーマン朝です。
サーマン朝はブハラを中心に中央アジアから東イランを統合し、
・ペルシア語行政の復活
・イラン系官僚による文治
・トルコ系軍人による武断
という統治モデルを確立しました。
ここで初めて、「アラブ中心の帝国」から「ペルシア官僚+トルコ軍人による多民族イスラーム国家」という枠組みが、制度として定着します。
このモデルはその後のガズナ朝やセルジューク朝に継承され、スンニ派を基盤とするトルコ系軍事国家として発展していきました。
ここまでは一貫して、ペルシア官僚制+トルコ系軍事力+スンニ派という「中世イスラーム国家の基本構造」が続いています。
モンゴルとイルハン朝 ― 破壊と再建
この流れを最初に大きく断ち切ったのが、13世紀のモンゴル西征です。イラン一帯はモンゴル軍によって徹底的に破壊され、その後に成立したのがイルハン朝でした。
重要なのは、イルハン朝が単なる征服政権で終わらなかった点です。イルハン朝は次第にイスラームを受容し、ペルシア官僚制を取り込み、
- 行政の再整備
- 財政制度の復活
- 官僚国家としての再構築
を進めました。
つまりモンゴルは、旧秩序を破壊したが、すぐ「国家」として作り直したのです。この段階でイラン世界は、一度目の再編を経験します。
ティムール ―「再破壊」だけを残した征服者
14世紀に入ると、イルハン朝は後継争いの中で崩壊し、イラン世界は再び地方政権が乱立する分裂状態に戻ります。その混乱の中から登場したのが、中央アジア出身の征服者ティムールでした。
ティムールは圧倒的な軍事力によって中央アジアからイラン、西アジアに至る広大な地域を制圧し、ティムール朝と呼ばれる巨大な支配圏を築きます。しかし、ここにモンゴル支配との決定的な違いがあります。イルハン朝が破壊ののちにペルシア官僚制を取り込み、イスラーム化を進めて「国家」として再建されたのに対し、ティムールの支配は個人的軍事力に依存した征服帝国にとどまりました。
彼は持続的な官僚国家も安定した統治機構も残さないまま生涯を終え、その死後、帝国は急速に分裂します。整理すると、イラン世界では
イルハン朝=破壊ののちに再建
ティムール=破壊したまま終結
という対照的な経験が重なりました。
こうしてイランは、モンゴルによる「破壊と再建」に続いてティムールによる「再破壊」を受け、制度的国家が二度にわたって消滅する事態に直面します。
この深刻な国家空白こそが、後に宗教ネットワークを基盤とする新たな統合――すなわちサファヴィー朝の登場――を準備する条件となりました。
国家なき空白と、宗教ネットワークの残存
ティムールの死後、イラン世界には統一王朝も安定した官僚国家も存在しませんでした。王朝的正統性は失われ、軍事エリートは分散し、国家として人々を統合する枠組みは事実上消滅します。
しかし社会そのものが崩壊したわけではありません。国家が消えた後も地方社会には、人々を結びつける基盤が残っていました。それがスーフィー教団を中心とする宗教ネットワークです。各地で聖者崇拝や教団組織が広がり、血統的カリスマや宗教的権威をもつ指導者のもとに信徒集団が形成されました。人々の帰属先は王朝ではなく、こうした宗教的共同体へと移っていったのです。
この時期、宗教は信仰にとどまらず、地域統合や動員の機能まで担うようになります。国家が機能しない空白期において、教団は事実上の社会インフラとなり、次の国家形成を支える土台となりました。
サファヴィー朝 ― 宗派国家としての再構築
この「国家なき空白」の上に登場するのが、16世紀初頭のサファヴィー朝です。創始者イスマイール1世は、教団的忠誠と血統的カリスマ、さらにキジルバシュの軍事力を結合させてイランを再統一し、ここで決定的な選択を行います。それが十二イマーム派シーア派の国教化でした。
周囲の大国であるオスマン帝国やムガル帝国はいずれもスンニ派でした。同じ宗派では独自の正統性を打ち立てられないため、サファヴィー朝はシーア派を国家アイデンティティとして採用します。
こうしてイランは、宗派を軸とする国家として再構築されました。これは単なる宗教政策ではなく、二度の破壊によって生じた国家空白を埋めるための統合装置でした。サファヴィー朝の本質は、崩壊した官僚国家をそのまま復活させた点にあるのではなく、宗教ネットワークを基盤とする新たな国家モデルを打ち立てた点にあります。
縦ライン最終整理
以上を一本にまとめると、縦の構造は次のようになります。
サーマン朝(イラン官僚国家の原型)
→ ガズナ朝・セルジューク朝(スンニ派軍事国家の展開)
→ モンゴル(イルハン朝:破壊と再建)
→ ティムール(再破壊のみ)
→ サファヴィー朝(宗派国家として再構築)
サファヴィー朝は単なる新王朝ではなく、二度の崩壊を経たイラン世界を、シーア派国家として再編成した存在でした。ここに現在まで続く「イラン=シーア派」という構造が決定的に固定化します。
② 横のライン:16世紀と17世紀で完成する同時代世界
サファヴィー朝を理解するうえで不可欠なのが、同時代に並立した巨大王朝との関係です。
この時代、イスラーム世界は三つの大国によって分割されます。
◆16〜17世紀の横軸(近世イスラーム三帝国の成立)
16世紀以降のイスラーム世界では、
- アナトリア〜東地中海:オスマン帝国
- イラン高原:サファヴィー朝
- インド:ムガル帝国
という三大王朝が並立します。いわゆる「近世イスラーム三帝国」です。
この中でサファヴィー朝は、
- 西でオスマン帝国(スンニ派)と対峙
- 東でムガル帝国と接触
する位置にあり、宗派的にも地政学的にも緩衝国家として機能しました。
とくにオスマン帝国との対立は単なる領土争いではなく、スンニ派 vs シーア派という宗派対立を伴う構造的抗争となります。
一方インド方面では、ムガル帝国と比較的柔軟な外交関係を保ち、ユーラシア交易の結節点としての役割も果たしました。
つまり横の視点から見ると、サファヴィー朝は
オスマン(西)―サファヴィー(中)―ムガル(東)
という巨大ブロックの中央に位置する王朝だったのです。
③ 世紀のライン:中世的分裂から「近世国家」への転換点
さらに大きな時間軸で見ると、サファヴィー朝は「中世イスラーム世界」と「近世イスラーム世界」を分ける境目に位置します。
10〜13世紀は、
- 群雄割拠
- 軍人政権の乱立
- 名目的カリフ支配
という分散的構造が特徴でした。
これに対し16世紀以降は、
- 常備軍
- 官僚制
- 首都建設
- 宗教の国家管理
を備えた集権国家が登場します。
サファヴィー朝もその典型で、アッバース1世の時代には王都イスファハーンを中心に中央集権体制が完成し、「世界の半分」と称される繁栄を迎えました。
ここで重要なのは、サファヴィー朝が単なる地方王朝ではなく、近世型イスラーム国家の一角だという点です。
まとめ
サファヴィー朝はイランをシーア派国家として固定化した最初の王朝である。16〜17世紀にはオスマン帝国・ムガル帝国と並ぶ「近世イスラーム三帝国」の一角を占めた。中世的分裂世界から中央集権国家の時代への転換点に位置する王朝である。
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