神聖ローマ帝国といえば、「領邦分立」というキーワードで知られるように、無数の諸侯や都市がバラバラに存在する分裂国家でした。
しかし、16世紀前半、カール5世の時代だけは「神聖ローマ帝国の最盛期」とも呼ばれ、まるで統一された巨大帝国のように見えます。
- なぜこの時代だけ強大に見えるのか?
- 実際に帝国は統一されていたのか?
- 入試ではどこが狙われるのか?
この記事では、神聖ローマ帝国の分裂構造を押さえつつ、カール5世時代の一時的な「強大さ」の背景を徹底解説します。
また、章末にはそれぞれ論述問題・一問一答・正誤問題も収録し、受験勉強に直結する内容にしています。
第1章 神聖ローマ帝国の分裂構造を理解しよう
まず、「カール5世時代だけ強大に見えた理由」を理解するためには、そもそも神聖ローマ帝国がどのような国家だったのかを押さえる必要があります。
帝国は一見「皇帝」が存在する国家に見えますが、実際には諸侯や都市が強い自治権を持つ「分裂国家」でした。この背景には、中世以来の権力闘争と制度が関係しています。
1-1. 大空位時代と帝国の混乱
13世紀半ば以降、皇帝権が弱体化したきっかけが「大空位時代(1254〜1273)」です。
ホーエンシュタウフェン家断絶後、皇帝の座をめぐる争いが続き、帝国は長期間「皇帝不在」の状態となりました。
この結果、各地の諸侯が独自の権力を強め、帝国全体としての統一性は失われていきます。
1-2. 金印勅書と選帝侯制度
1356年、ルクセンブルク家のカール4世が発布した金印勅書は、帝国の分裂傾向をさらに固定化しました。
この勅書では、皇帝を選ぶ権限を持つ選帝侯が7名に限定され、しかも彼らの特権が強化されました。
- 聖職選帝侯(3名):マインツ・ケルン・トリーアの大司教
- 世俗選帝侯(4名):ボヘミア王、プファルツ伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯
選帝侯は事実上「小国の王」として振る舞い、皇帝権は形式的存在にとどまりました。
1-3. 教皇権との対立と分裂の固定化
さらに、神聖ローマ帝国はローマ教皇との叙任権闘争や教皇権争いでも疲弊しました。
特にカノッサの屈辱(1077年)以降、皇帝は教皇に対して劣位に立つことが多く、帝国の中央集権化は進みませんでした。
入試で狙われるポイント
- 大空位時代(1254〜1273)とその影響
- 金印勅書(1356)による選帝侯制度と帝国分裂の固定化
- 皇帝権と教皇権の対立構造
- 「形式上は帝国」「実態は分裂国家」というギャップ
- 金印勅書が神聖ローマ帝国の中央集権化を妨げた理由を100字以内で説明せよ。
-
金印勅書は、皇帝選出権を7人の選帝侯に限定し、その特権を強化したため、皇帝権は形式的存在となり、地方諸侯が独立した権力を維持したことで中央集権化が進まなかった。
第1章: 神聖ローマ帝国とカール5世 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
大空位時代とは何年から何年まで続いたか。
解答:1254年〜1273年
問2
大空位時代に神聖ローマ帝国で権力を強めたのは誰か。
解答:地方諸侯
問3
1356年にカール4世が発布した勅書を何というか。
解答:金印勅書
問4
金印勅書で皇帝を選ぶ権利を持った諸侯を何と呼ぶか。
解答:選帝侯
問5
選帝侯のうち、聖職者は何人か。
解答:3人
問6
金印勅書は皇帝権を強化したか、弱体化したか。
解答:弱体化した
問7
選帝侯の中でボヘミア王は聖職者か世俗諸侯か。
解答:世俗諸侯
問8
神聖ローマ帝国で中央集権化が進まなかった最大の理由を一言で言うと何か。
解答:領邦分立
問9
神聖ローマ皇帝がローマ教皇に屈した事件を何というか。
解答:カノッサの屈辱
問10
ルクセンブルク家出身で金印勅書を発布した皇帝は誰か。
解答:カール4世
正誤問題(5問)
問1
金印勅書は皇帝権を強化した勅書である。
解答:誤(→ 皇帝権を弱体化した)
問2
選帝侯はすべて世俗諸侯である。
解答:誤(→ 聖職3人+世俗4人)
問3
大空位時代はカール5世の時代に起きた。
解答:誤(→ 13世紀、1254〜1273年)
問4
神聖ローマ帝国で中央集権化が進まなかった原因の一つは、教皇権との対立である。
解答:正
問5
ボヘミア王は選帝侯の一人である。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
金印勅書は皇帝権を強化した | × → 皇帝権を弱体化し、選帝侯の権力を強化 |
選帝侯は全員世俗諸侯である | × → 聖職者3人+世俗諸侯4人 |
大空位時代はカール5世の時代 | × → 13世紀(1254〜1273)、カール5世は16世紀 |
神聖ローマ帝国は一枚岩の中央集権国家だった | × → 実態は分裂国家で諸侯の独立性が強い |
教皇権は帝国の分裂と無関係 | × → 教皇との対立が分裂を固定化 |
第2章 カール5世時代だけ神聖ローマ帝国が強大に見えた理由
神聖ローマ帝国は中世以来「領邦分立」のまま推移し、皇帝権は弱体化したままでした。
しかし16世紀前半、カール5世(在位1519〜1556)の時代になると、帝国はヨーロッパ最大級の勢力を誇るように見えます。
その背景には、彼が持つ「ハプスブルク家の広大な支配領域」と、当時の国際情勢が密接に関わっていました。
2-1. ハプスブルク家の大帝国とカール5世の即位
カール5世はハプスブルク家出身で、父フィリップ美公と母フアナの血筋により、広大な領土を継承しました。
- スペイン王国(カスティリャ・アラゴン連合王国)
→ 1516年にスペイン王カルロス1世として即位 - ナポリ王国・シチリア王国
→ アラゴン王位継承に伴い獲得 - 新大陸植民地
→ スペイン王位継承でインカ帝国やアステカ帝国への進出が加速 - オーストリア・ボヘミア・ハンガリー
→ 父フィリップ美公からハプスブルク家の遺産を継承
1519年、カール5世は神聖ローマ皇帝に選出され、ヨーロッパと新大陸にまたがる巨大な帝国を手にしました。
2-2. 教皇との協調とイタリア戦争での優位
当時、イタリア半島をめぐってはフランスと神聖ローマ帝国が激しく対立していました。
このイタリア戦争(1494〜1559)において、カール5世は一時的に優位を占めます。
- ローマ教皇クレメンス7世と一時的に協調し、フランスに対抗
- 1527年、「ローマ劫掠(サッコ・ディ・ローマ)」により教皇権を一時的に従属させる
- 1530年、ボローニャで戴冠式を挙げ、神聖ローマ皇帝としての権威を高める
こうしてカール5世は、ヨーロッパの主要勢力を一時的に掌握することに成功しました。
2-3. 宗教改革と帝国の限界
しかし、帝国が「強大」に見えたのは表面的なものでした。
1517年にルターが宗教改革を開始すると、カール5世は帝国内部の深刻な宗教対立に直面します。
- ヴォルムス帝国議会(1521)
→ ルターに異端撤回を迫るも失敗 - シュマルカルデン同盟(1531)
→ ルター派諸侯が同盟を結成し皇帝に抵抗 - シュマルカルデン戦争(1546〜1547)
→ カール5世が勝利するも、対立は解消されず - アウクスブルクの和議(1555)
→ 「領邦君主の宗教はその領邦の宗教」とする原則を認めざるを得なかった
最終的に、カール5世は宗教対立を収拾できず退位。
帝国は再び分裂状態に戻り、強大な中央集権国家にはなりませんでした。
入試で狙われるポイント
- カール5世の「二重即位」(スペイン王&神聖ローマ皇帝)
- イタリア戦争とローマ劫掠の影響
- 宗教改革による帝国内部の対立
- 「形式上は最盛期」「実態は分裂国家」のギャップ
- カール5世時代に神聖ローマ帝国が一時的に強大に見えた理由を、ハプスブルク家の領土と国際情勢の観点から120字以内で説明せよ。
-
カール5世はスペイン、ナポリ、オーストリアなど広大な領土を継承し、神聖ローマ皇帝に即位したことでヨーロッパ最大級の権力を握った。またイタリア戦争ではフランスを一時的に抑え、教皇との協調により帝国の権威を高めたため、形式上は強大に見えた。
第2章: 神聖ローマ帝国とカール5世 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
カール5世が神聖ローマ皇帝に選出されたのは西暦何年か。
解答:1519年
問2
カール5世は神聖ローマ皇帝以外にどの国の王位を兼ねたか。
解答:スペイン王
問3
カール5世がスペイン王として即位したときの王号は何か。
解答:カルロス1世
問4
カール5世時代に行われたフランスとの戦争を何というか。
解答:イタリア戦争
問5
1527年に発生した、皇帝軍による教皇領蹂躙事件を何というか。
解答:ローマ劫掠(サッコ・ディ・ローマ)
問6
1530年、カール5世はどこで戴冠式を挙げたか。
解答:ボローニャ
問7
1517年、宗教改革を開始した人物は誰か。
解答:マルティン・ルター
問8
ルター派諸侯が1531年に結成した反皇帝同盟を何というか。
解答:シュマルカルデン同盟
問9
1555年のアウクスブルクの和議で認められた原則を何というか。
解答:「領邦君主の宗教はその領邦の宗教」
問10
カール5世が最終的に退位した最大の原因は何か。
解答:宗教対立の収拾失敗
正誤問題(5問)
問1
カール5世はスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねていた。
解答:正
問2
イタリア戦争ではフランスが常に優勢だった。
解答:誤(→ 一時的にカール5世が優位)
問3
ローマ劫掠はプロテスタント諸侯がローマを占領した事件である。
解答:誤(→ 皇帝軍がローマを蹂躙)
問4
アウクスブルクの和議でルター派が合法化された。
解答:正
問5
カール5世は宗教対立を完全に収拾し、帝国を統一した。
解答:誤(→ 対立は解消できず退位した)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
カール5世はスペイン王位を持たなかった | × → スペイン王カルロス1世として即位 |
ローマ劫掠はプロテスタント諸侯の行動だった | × → 皇帝軍による教皇領蹂躙 |
イタリア戦争ではフランスが常に優位だった | × → 一時的にカール5世が優勢 |
アウクスブルクの和議は宗教対立を完全に解決した | × → 対立は解決せず、帝国は分裂したまま |
カール5世退位後、帝国は中央集権国家に変わった | × → 領邦分立はむしろ固定化 |
第3章 カール5世退位後の神聖ローマ帝国と「強大さの幻想」
カール5世の時代は、神聖ローマ帝国が一時的に「最盛期」に見えた特殊な時代でした。
しかし、彼の退位後、帝国は再び分裂状態に戻り、「強大さ」は完全に失われます。
ここでは、退位後の状況と、なぜ「カール5世時代の強大さ」が“幻想”にすぎなかったのかを解説します。
3-1. カール5世の退位と帝国の分割
1555年のアウクスブルクの和議により、ルター派が公認され、帝国は宗教的に分裂したまま存続することになりました。
この結果、カール5世は大きく失望し、1556年に退位します。
退位後、帝国は次のように分割されました。
- 弟フェルディナント1世:オーストリア・ボヘミア・ハンガリー領+神聖ローマ皇帝位
- 息子フェリペ2世:スペイン王国+ナポリ・シチリア・新大陸領
この「ハプスブルク家の分裂」により、帝国は以前のような広大な統合体ではなくなり、形式上の権威だけが残ることになりました。
3-2. 宗教対立の深刻化と三十年戦争への道
カール5世退位後、帝国内部の宗教対立はむしろ激化します。
- カルヴァン派の台頭 → 和議では認められず不満が蓄積
- 三十年戦争(1618〜1648) → カトリック諸侯・プロテスタント諸侯・フランス・スウェーデンが参戦
- ヴェストファーレン条約(1648)
→ 帝国の領邦主権を正式に承認し、分裂が決定的に
結果として、神聖ローマ帝国は「名ばかりの帝国」となり、中央集権国家としての性質を完全に失いました。
3-3. 「強大さの幻想」と受験でのポイント
カール5世時代の神聖ローマ帝国は、見かけ上は強大でも、実態は分裂国家でした。
- 一時的な強大さ → スペイン・新大陸・オーストリア・ナポリを兼ねたハプスブルク家の資源
- 限界 → 宗教改革と地方諸侯の権力構造に阻まれた
- 退位後 → 帝国は権威を失い、領邦分立はむしろ固定化
つまり、「形式上の最盛期」と「実態の分裂」を区別できるかが受験で差がつく重要ポイントです。
入試で狙われるポイント
- アウクスブルクの和議(1555)とカール5世退位(1556)
- ハプスブルク家の分割(オーストリア系とスペイン系)
- 宗教対立の激化と三十年戦争
- ヴェストファーレン条約による領邦主権の承認
- カール5世退位後、神聖ローマ帝国が再び分裂状態に戻った理由を宗教対立とハプスブルク家の分割の観点から120字以内で説明せよ。
-
カール5世退位後、帝国はオーストリア系とスペイン系に分割され、統一的な指導力を失った。また、アウクスブルクの和議でルター派を公認したものの、カルヴァン派を認めなかったため宗教対立が続き、三十年戦争を経て帝国は分裂国家として固定化した。
第3章: 神聖ローマ帝国とカール5世 一問一答&正誤問題15問
一問一答(10問)
問1
カール5世が退位したのは西暦何年か。
解答:1556年
問2
カール5世の退位後、神聖ローマ皇帝位を継いだのは誰か。
解答:フェルディナント1世
問3
カール5世の息子で、スペイン王国を継承した人物は誰か。
解答:フェリペ2世
問4
アウクスブルクの和議が締結されたのは西暦何年か。
解答:1555年
問5
アウクスブルクの和議で合法化されたのはルター派かカルヴァン派か。
解答:ルター派
問6
カルヴァン派が認められなかったことが原因で勃発した大戦争を何というか。
解答:三十年戦争
問7
三十年戦争の終結を定めた1648年の条約を何というか。
解答:ヴェストファーレン条約
問8
ヴェストファーレン条約で正式に承認されたのは何か。
解答:領邦主権
問9
ヴェストファーレン条約後の神聖ローマ帝国は、中央集権国家か分裂国家か。
解答:分裂国家
問10
カール5世時代の「強大さ」が幻想だった理由を一言で言うと何か。
解答:実態は領邦分立だったから
正誤問題(5問)
問1
カール5世退位後、神聖ローマ帝国はハプスブルク家の統一支配のもと強大さを維持した。
解答:誤(→ ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分裂)
問2
アウクスブルクの和議でカルヴァン派は合法化された。
解答:誤(→ ルター派のみ合法化)
問3
ヴェストファーレン条約は神聖ローマ皇帝の権限を強化した。
解答:誤(→ 皇帝権を弱体化し、領邦主権を承認)
問4
三十年戦争は宗教対立に加えて国際政治的対立も絡んでいた。
解答:正
問5
ヴェストファーレン条約以後、神聖ローマ帝国は「名ばかりの帝国」となった。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
カール5世退位後も帝国は統一されていた | × → ハプスブルク家分裂で帝国は再び分裂 |
アウクスブルクの和議でカルヴァン派も合法化 | × → ルター派のみ合法化 |
ヴェストファーレン条約で皇帝権は強化された | × → 皇帝権は弱体化し、領邦主権を承認 |
三十年戦争は宗教問題だけが原因だった | × → 宗教+国際政治の対立が絡む |
ヴェストファーレン条約後に帝国は中央集権国家になった | × → 領邦分立が決定的に固定化 |
まとめ|カール5世時代はなぜ「強大」に見えたのか
神聖ローマ帝国は、基本的に領邦分立が進んだ「分裂国家」でした。
しかし、16世紀前半のカール5世時代だけは「ヨーロッパ最大の帝国」と見える特殊な状況が生まれました。
- カール5世がスペイン・オーストリア・ナポリ・新大陸など広大な領土を継承したこと
- 教皇やフランスを一時的に抑えたことで「権威ある皇帝」に見えたこと
- しかし実態は、宗教改革で帝国内部が分裂し、皇帝の権威は限定的だったこと
退位後、帝国はハプスブルク家が分裂し、三十年戦争を経て領邦分立が決定的に固定化されます。
つまり、「カール5世時代の強大さ」は一時的な幻想であり、入試では「形式上の最盛期」と「実態の分裂」を区別できるかが重要です。
カール5世時代と神聖ローマ帝国の「強大さの幻想」フローチャート
【神聖ローマ帝国:分裂国家】
│
├─1254〜1273 大空位時代 → 皇帝権弱体化
│
├─1356 金印勅書 → 選帝侯権力強化・領邦分立固定化
│
▼
【1519 カール5世即位】
│
├─スペイン王位継承(1516) → 新大陸・ナポリ・シチリア・オーストリアも支配
├─神聖ローマ皇帝即位(1519)
├─イタリア戦争でフランスに優位
├─ローマ劫掠(1527)→ 教皇を一時的に従属
│
▼
【表面的な「強大さ」】
│
├─ルター宗教改革(1517〜)
├─シュマルカルデン同盟 vs 皇帝軍
├─アウクスブルクの和議(1555)
│
▼
【1556 カール5世退位】
│
├─ハプスブルク家分裂
│ ├─スペイン系 → フェリペ2世
│ └─オーストリア系 → フェルディナント1世(皇帝)
│
▼
【再び分裂国家へ】
│
├─カルヴァン派不満 → 三十年戦争(1618〜1648)
├─ヴェストファーレン条約(1648)
│ ├─領邦主権承認
│ └─皇帝権威の弱体化
│
▼
【結論】
形式上は最盛期 → 実態は分裂国家
この記事での入試最重要ポイントまとめ
- カール5世はスペイン王+神聖ローマ皇帝 → 広大なハプスブルク帝国を形成
- イタリア戦争やローマ劫掠で「一時的に権威を高めた」
- 宗教改革が帝国の一体化を阻止
- アウクスブルクの和議(1555)で分裂を事実上容認
- カール5世退位後 → ハプスブルク家分裂・三十年戦争・ヴェストファーレン条約で領邦分立が固定化
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