オスマン帝国は、13世紀末のアナトリアで誕生し、1453年のコンスタンティノープル陥落によってビザンツ帝国を滅ぼし、東地中海世界の覇者となりました。
しかし、ただ「建国→拡大→コンスタンティノープル陥落」と年号を覚えるだけでは、入試では得点できません。
オスマン帝国の興隆を理解するためには、
- セルジューク朝の衰退とアナトリア情勢
- ガズィー(聖戦戦士)集団とオスマン家の台頭
- 東ローマ帝国・バルカン諸国との抗争
- コンスタンティノープル陥落の世界史的意義
といった文脈を押さえることが重要です。
この記事では、オスマン帝国がどのようにして一大帝国へと成長したのか、その道のりを詳しく解説します。
第1章 オスマン帝国の建国と初期の拡大
オスマン帝国の興隆は、セルジューク朝の衰退とモンゴル帝国の影響下で生まれたアナトリアの小国家群の中から始まりました。
13世紀末、オスマン家は辺境の小侯国に過ぎませんでしたが、イスラームの「ガズィー(聖戦戦士)」思想を掲げることで勢力を拡大し、やがてビザンツ帝国を圧迫する存在となります。
1-1. セルジューク朝衰退後のアナトリア情勢
13世紀後半、モンゴル帝国の西進によってアナトリア地方は混乱期に突入しました。
1243年のキョセダ山の戦いで、ルーム=セルジューク朝はモンゴル軍に大敗し、以後アナトリアはモンゴルの影響下に置かれます。
セルジューク朝は名ばかりの宗主権を維持するのみで、地方には数多くの小侯国(ベイリク)が林立することになりました。
その中の一つが、のちにオスマン帝国へと成長する「オスマン家」です。創始者はトルコ系の首長オスマン1世(在位1299〜1326年)で、彼の名にちなんで「オスマン帝国」と呼ばれるようになりました。
1-2. ガズィー思想とオスマン家の台頭
オスマン家が勢力を拡大できた背景には、ガズィーと呼ばれるイスラームの聖戦戦士集団の存在があります。
当時、ビザンツ帝国との国境地帯では、イスラーム世界の拡大を掲げるガズィーたちがビザンツ領への侵攻を繰り返していました。
オスマン家はこのガズィーたちを積極的に取り込み、宗教的正当性と軍事力を両立させることで、他の小侯国に先んじて力を伸ばします。
また、オスマン家はセルジューク朝から形式的に宗主権を受け継いだことを巧みに利用し、周辺のイスラーム勢力を統合する政治基盤を確立しました。
1-3. 初期の拡大とビザンツ帝国への圧迫
オスマン1世の後を継いだオルハン1世(在位1326〜1362年)は、ビザンツ帝国との対立を深め、1326年にはビザンツ領のブルサを攻略して首都とします。
さらにムラト1世(在位1362〜1389年)の時代になると、オスマン帝国はバルカン半島への進出を開始し、1389年のコソヴォの戦いでセルビアを破って南東ヨーロッパでの優位を確立しました。
入試で狙われるポイント(第1章)
- キョセダ山の戦い(1243年) → ルーム=セルジューク朝の衰退
- オスマン1世の建国(1299年)
- ガズィー思想 → 聖戦戦士集団による勢力拡大
- ブルサ攻略(1326年) → オスマン帝国の最初の首都
- コソヴォの戦い(1389年) → バルカン半島支配の契機
- オスマン帝国が建国からバルカン半島進出までの短期間で勢力を拡大できた要因を、イスラーム世界とビザンツ帝国の関係に触れながら120字程度で説明せよ。
-
セルジューク朝衰退後のアナトリアで、オスマン家はイスラーム世界拡大を掲げるガズィー戦士団を積極的に取り込み、宗教的正当性を確保した。また、ビザンツ帝国が内紛と外敵で衰退していたため、オスマン家は国境地帯で優位を築き、ブルサ攻略やバルカン進出に成功した。
第1章: オスマン帝国の興隆と拡大 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1243年のキョセダ山の戦いで、ルーム=セルジューク朝を破った勢力はどこか。
解答:モンゴル帝国
問2
オスマン帝国の建国者は誰か。
解答:オスマン1世
問3
オスマン家が勢力拡大のために利用した「聖戦戦士集団」を何と呼ぶか。
解答:ガズィー
問4
オスマン帝国が最初の首都とした都市はどこか。
解答:ブルサ
問5
オスマン帝国がバルカン進出の契機とした1389年の戦いは何か。
解答:コソヴォの戦い
問6
オスマン帝国がセルビアを破った戦いはどれか。
解答:コソヴォの戦い
問7
ビザンツ帝国が急速に衰退した要因の一つである1204年の事件は何か。
解答:第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領
問8
オスマン帝国の軍事的主力であった常備歩兵を何と呼ぶか。
解答:イェニチェリ
問9
オスマン家がセルジューク朝から受け継いだ形式的権限は何か。
解答:宗主権
問10
オスマン帝国が勢力拡大を進めた際、宗教的正当性の根拠となった思想は何か。
解答:ガズィー思想
正誤問題(5問)
問1
オスマン帝国は13世紀半ば、ルーム=セルジューク朝の直系として建国された。
解答:× → 独立した小侯国の一つとして成立
問2
ガズィーとは、イスラーム教徒以外の商人を指す言葉である。
解答:× → イスラーム世界拡大を掲げる聖戦戦士
問3
オスマン帝国の最初の首都はイスタンブルである。
解答:× → ブルサ
問4
コソヴォの戦いでオスマン帝国はセルビアを破った。
解答:〇
問5
第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領は1204年の出来事である。
解答:〇
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
オスマン帝国はセルジューク朝の後継国家である | × → 独立した小侯国から発展 |
ガズィーは商人や巡礼者を指す | × → イスラーム拡大を掲げる聖戦戦士 |
最初の首都はイスタンブル | × → 正しくはブルサ |
コンスタンティノープル陥落は1389年 | × → 1453年 |
コソヴォの戦いはビザンツ帝国との戦い | × → セルビアとの戦い |
第2章 コンスタンティノープル陥落とその意義
1453年、オスマン帝国のメフメト2世は長年の悲願であったコンスタンティノープル攻略を果たしました。
この出来事は単にビザンツ帝国の滅亡にとどまらず、ヨーロッパ・イスラーム世界双方に大きな衝撃を与え、西欧世界の発展や大航海時代の契機にもつながります。
ここでは、攻略の過程とその歴史的意義を整理していきます。
2-1. メフメト2世の即位と準備
1451年に即位したメフメト2世(在位1451〜1481年)は、若くして皇帝(スルタン)としての野心を示し、即位直後からコンスタンティノープル攻略を計画しました。
彼はボスポラス海峡を制圧するため、1452年にルメリ・ヒサル要塞を築き、黒海からの補給路を遮断します。
さらに大砲を駆使した新しい戦術を導入し、従来不可能とされた城壁突破を可能にしました。
2-2. 攻城戦とコンスタンティノープルの陥落
1453年4月、オスマン軍は数万の兵を率いてコンスタンティノープルを包囲しました。
最大の特徴は、巨大な火砲「ウルバン砲」を用いた砲撃戦です。ビザンツ帝国の城壁は中世以来最強とされた三重構造でしたが、連日の砲撃により徐々に崩壊していきます。
同年5月29日、総攻撃によってついに城壁が突破され、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は戦死しました。ここに、東ローマ帝国は完全に滅亡しました。
2-3. 世界史における意義
コンスタンティノープル陥落の意義は多方面に及びます。
- ビザンツ帝国の滅亡 → 古代ローマ以来の東方帝国が終焉
- オスマン帝国の首都遷都 → コンスタンティノープルを「イスタンブル」と改称し、イスラーム世界の中心都市に
- ヨーロッパへの衝撃 → 東方貿易路が遮断され、香辛料を求めた大航海時代の動機づけに
- 文化的影響 → ビザンツ学者が西欧に亡命し、ギリシア古典の伝播がルネサンスを刺激
入試で狙われるポイント(第2章)
- 1453年:コンスタンティノープル陥落
- メフメト2世:攻略を実現したスルタン
- ルメリ・ヒサル要塞:攻略準備で築かれた要塞
- 大砲(ウルバン砲):城壁破壊の決定打
- 大航海時代との関係:東方貿易路遮断が航路探索の動機に
- 1453年のコンスタンティノープル陥落が西欧世界に与えた影響について、大航海時代や文化運動に触れながら150字程度で説明せよ。
-
コンスタンティノープル陥落により東方貿易路が遮断され、西欧諸国は新たな香辛料ルートを求めて海外進出を加速させ、大航海時代の契機となった。また、亡命したビザンツ学者が古典文献を西欧に伝え、ルネサンスの進展を促す要因となった。
第2章: オスマン帝国の興隆と拡大 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1453年、コンスタンティノープルを攻略したオスマン帝国の君主は誰か。
解答:メフメト2世
問2
メフメト2世が攻略前に築いた要塞の名は何か。
解答:ルメリ・ヒサル要塞
問3
コンスタンティノープル攻略で用いられた巨大火砲を何というか。
解答:ウルバン砲
問4
コンスタンティノープル陥落の際に戦死したビザンツ皇帝は誰か。
解答:コンスタンティノス11世
問5
オスマン帝国はコンスタンティノープルを改称して何と呼んだか。
解答:イスタンブル
問6
ビザンツ学者の亡命が西欧に伝えた文化は何か。
解答:ギリシア古典(人文主義の刺激)
問7
東方貿易路の遮断は西欧の何を促したか。
解答:大航海時代
問8
メフメト2世が即位したのは西暦何年か。
解答:1451年
問9
コンスタンティノープルの城壁は何重構造であったか。
解答:三重構造
問10
コンスタンティノープル陥落は、古代以来のどの帝国の終焉を意味するか。
解答:ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
正誤問題(5問)
問1
コンスタンティノープル攻略はメフメト1世によって達成された。
解答:× → メフメト2世
問2
ルメリ・ヒサル要塞はコンスタンティノープル包囲前に建設された。
解答:〇
問3
コンスタンティノープル陥落は16世紀の出来事である。
解答:× → 1453年(15世紀)
問4
コンスタンティノープル陥落は大航海時代の動機づけとなった。
解答:〇
問5
コンスタンティノープル陥落によってルネサンスは衰退した。
解答:× → 促進された
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
攻略者はメフメト1世 | × → メフメト2世 |
陥落は16世紀の出来事 | × → 1453年(15世紀) |
陥落でルネサンスは衰退 | × → 古典が伝播しルネサンスを促進 |
陥落の直接原因は第4回十字軍 | × → 大砲を用いたオスマン帝国の攻撃 |
東方貿易路が拡大した | × → 遮断され、大航海時代の要因に |
第3章 バルカン支配の確立と帝国体制の整備
コンスタンティノープルを首都としたオスマン帝国は、単なる軍事的覇権にとどまらず、支配体制の整備によって強大な帝国へと発展しました。
バルカン半島での支配を確立しつつ、軍事・行政制度を整備し、イスラーム帝国としての性格を強めていきます。
ここでは、帝国が確立した仕組みと支配構造を整理していきましょう。
3-1. バルカン支配の拡大と確立
コンスタンティノープルを掌握した後、オスマン帝国はさらにバルカン支配を強めました。
特にムラト2世(在位1421〜1451年)から続く流れを継いだメフメト2世は、セルビア・ボスニアを征服し、バルカン支配を盤石にしました。
オスマン帝国は現地のキリスト教諸国に対して一定の自治を認めつつ、税の徴収や徴兵制度を通じて服属を維持しました。
3-2. 軍事制度とイェニチェリ
オスマン帝国の軍事的強さを支えたのが、常備歩兵軍団であるイェニチェリ(新軍団)です。
イェニチェリは「デヴシルメ制(徴用制度)」によって集められました。これはバルカン地方のキリスト教徒の少年を徴用し、イスラームに改宗させ、軍人や官僚に育成する制度です。
この仕組みは、オスマン帝国が多民族国家として統合を進める上で極めて有効に働きました。
3-3. ティマール制と統治体制
オスマン帝国は広大な領土を効率的に統治するためにティマール制を導入しました。
これは封土制に似た仕組みで、スルタンから土地の徴税権を与えられた騎士(スィパーヒー)が農民から税を徴収し、その代わりに軍役を負う制度です。
中央集権的な官僚機構と相まって、ティマール制は帝国の安定と持続的な軍事力の基盤となりました。
入試で狙われるポイント(第3章)
- イェニチェリ:常備歩兵軍団
- デヴシルメ制:キリスト教徒少年を徴用・改宗し軍人化
- ティマール制:徴税権と軍役を結びつけた土地制度
- 多民族支配の仕組み:宗教的寛容と自治の併用
- コンスタンティノープル=イスタンブル:新たな首都として帝国の中心に
- オスマン帝国がバルカン半島で支配を安定させるために導入した制度や仕組みについて、軍事・行政の両面から120字程度で説明せよ。
-
オスマン帝国は、バルカン諸国のキリスト教徒をデヴシルメ制で徴用し、常備歩兵軍団イェニチェリを形成して軍事力を強化した。また、ティマール制を導入して土地支配と軍役を結びつけ、地方統治を安定させた。
第3章: オスマン帝国の興隆と拡大 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オスマン帝国の常備歩兵軍団を何というか。
解答:イェニチェリ
問2
デヴシルメ制とはどのような制度か。
解答:バルカン地方のキリスト教徒の少年を徴用し、イスラームに改宗させ軍人や官僚に育成する制度
問3
イェニチェリの主な兵種は何か。
解答:歩兵
問4
ティマール制において、徴税権を与えられた騎士を何と呼ぶか。
解答:スィパーヒー
問5
オスマン帝国の新首都イスタンブルは、旧称で何と呼ばれていたか。
解答:コンスタンティノープル
問6
バルカン半島でオスマン帝国が認めた統治上の特徴は何か。
解答:宗教的自治や寛容
問7
メフメト2世が征服したバルカン地方の代表的地域はどこか。
解答:セルビア・ボスニア
問8
ティマール制はどのような制度に似ているか。
解答:封土制
問9
デヴシルメ制の対象となった人々の宗教は何か。
解答:キリスト教徒
問10
イェニチェリを徴収するための制度名は何か。
解答:デヴシルメ制
正誤問題(5問)
問1
イェニチェリはオスマン帝国の常備歩兵軍団であった。
解答:〇
問2
デヴシルメ制ではイスラーム教徒の少年が徴用された。
解答:× → キリスト教徒の少年
問3
ティマール制は領主に土地の所有権を与える制度であった。
解答:× → 所有権ではなく徴税権を与えた
問4
スィパーヒーはティマール制で軍役を負担した騎士である。
解答:〇
問5
オスマン帝国はコンスタンティノープルを首都にしてからも都市名を変更しなかった。
解答:× → イスタンブルと改称した
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
デヴシルメ制はイスラーム教徒が対象 | × → キリスト教徒の少年 |
ティマール制は土地の所有権を与える | × → 徴税権を与える制度 |
イェニチェリは騎兵部隊 | × → 常備歩兵軍団 |
コンスタンティノープルはそのまま都市名を維持 | × → イスタンブルに改称 |
デヴシルメ制は宗教的迫害のみを目的とした | × → 軍事・行政人材確保のための制度 |
まとめ オスマン帝国の興隆と拡大の流れ
オスマン帝国は、セルジューク朝衰退後のアナトリアに誕生し、ガズィー思想を背景に勢力を拡大しました。
ブルサ攻略・コソヴォの戦いを経てバルカン進出を果たし、1453年のコンスタンティノープル陥落によってビザンツ帝国を滅ぼしました。
その後、バルカン支配を確立し、イェニチェリ・ティマール制といった独自の制度を整えることで、帝国としての体制を固めました。
この「興隆期」の流れは、次に訪れる「黄金時代」へとつながり、やがてオスマン帝国はヨーロッパと中東の覇者として歴史の中心に立つことになります。
【オスマン帝国興隆期の重要年表】
年代 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|
1243年 | キョセダ山の戦い | ルーム=セルジューク朝衰退、アナトリア分裂 |
1299年 | オスマン1世、建国 | オスマン帝国の起源 |
1326年 | ブルサ攻略 | 最初の首都を獲得 |
1389年 | コソヴォの戦い | バルカン進出の契機、セルビアを破る |
1451年 | メフメト2世即位 | コンスタンティノープル攻略の準備開始 |
1453年 | コンスタンティノープル陥落 | ビザンツ帝国滅亡、大航海時代・ルネサンスへの影響 |
15世紀後半 | イェニチェリ・ティマール制確立 | 多民族国家支配の制度化 |
【オスマン帝国興隆期の流れフローチャート】
セルジューク朝衰退(1243 キョセダ山の戦い)
↓
アナトリアに小侯国林立 → オスマン家台頭(1299 建国)
↓
ガズィー思想を利用し勢力拡大
↓
ブルサ攻略(1326) → 首都獲得
↓
バルカン進出(1389 コソヴォの戦い)
↓
メフメト2世即位(1451)
↓
コンスタンティノープル陥落(1453)
↓
イスタンブルを首都に → 多民族支配体制整備(イェニチェリ・ティマール制)
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