近代の国際法の父と呼ばれるグロティウス(1583–1645)。
彼は「自然法」という思想を神学の枠組みから切り離し、人間理性によって普遍的な秩序を見出そうとした人物でした。
その思想は国際法の成立を準備し、戦争と平和のルールを考えるうえで決定的な役割を果たしました。
しかし、彼の生涯は決して安定したものではなく、宗教的・政治的対立に巻き込まれ、投獄・亡命という波乱に満ちていました。
本記事では、自然法や国際法の理論に触れつつも、それに至る彼の人生の軌跡を中心にたどり、近代思想史における彼の意義を考えていきます。
第1章 少年期から青年期――神童と呼ばれた才能
グロティウスはオランダの知的伝統の中で早くから頭角を現しました。
その類まれな学才は同時代の人々を驚かせ、神童と称されるほどでした。
彼の初期の歩みを知ることは、のちの自然法思想の形成過程を理解する上で欠かせません。

幼少期と教育
1583年、オランダのデルフトに裕福な家庭の子として誕生したグロティウス(本名フーゴー=デ=グロート)は、幼い頃から古典語や神学、法律に強い関心を示しました。
わずか11歳でライデン大学に入学し、学識を磨いていきます。この時点ですでに「神童」と称され、彼の将来を期待する声は高まっていました。
初期の活動
大学在学中から、ラテン語による詩作や歴史著述に取り組み、その才能はオランダ総督マウリッツにも認められます。
17歳のときには外交使節団に随行し、フランスのアンリ4世に謁見。若き知識人として国際舞台にデビューを果たしました。
この経験は、後の国際関係や法思想に深い影響を与えることになります。
神学と法学への関心
グロティウスは当初から神学と法学の双方に強い関心を持っていました。
特に宗教改革後のオランダでは、カルヴァン派内部の対立やスペインとの独立戦争が続いており、信仰と政治をめぐる問題が日常的に議論されていました。
こうした環境は、彼に「普遍的に妥当する規範」を探求させる大きな要因となりました。
第2章 政治的活動と投獄・亡命
グロティウスは若くして政治と宗教論争のただ中に立たされました。
彼は学者であると同時に政治家でもあり、オランダ独立戦争と宗教的対立の渦に巻き込まれていきます。
その過程で投獄と亡命という苦難を経験しましたが、まさにその苦難が彼を「普遍的な法」の探求へと導いたのです。
政治への関与
大学卒業後、グロティウスは法学者として名を成し、若くしてオランダ共和国の法務官(アドヴォカート)となりました。
彼は外交や宗教政策にも関わり、実務家としてのキャリアを歩み始めます。
当時のオランダは、カルヴァン派正統派(ゴマール派)と、信仰の自由を認める寛容派(アルミニウス派)との間で激しい対立を抱えていました。
グロティウスは寛容派に近い立場をとり、信仰の多様性を一定程度認めるべきだと考えていました。
投獄と脱出劇
しかし1618年、ゴマール派が政治的に優勢になると、グロティウスは「異端的である」とされ、国家転覆の疑いで逮捕されます。
デルフトのルーヴェステイン城に投獄され、終身刑を言い渡されました。
ところが、彼の妻マリアの機転によって奇跡的な脱出が実現します。
マリアは夫が読むために届けていた大きな書籍箱の中にグロティウスを隠し、兵士たちの目を欺いて城外へ運び出したのです。
この劇的な脱出は、ヨーロッパ中に広まりました。
亡命生活
脱獄後、グロティウスはフランスへ亡命しました。
パリでは学者としての活動に専念し、神学論争や法学研究を深化させていきます。ここで執筆されたのが、彼の思想の集大成である『戦争と平和の法』(1625年)でした。
この著作こそが「国際法の父」としての名を決定づけることになります。
第3章 主要著作と思想――『戦争と平和の法』の意義
亡命先フランスで執筆された『戦争と平和の法』(1625年)は、グロティウスの思想を集大成した代表作です。
自然法を宗教から切り離し、人間理性を根拠に国際秩序を説明しようとした点で画期的でした。
この著作によって彼は「近代国際法の父」と呼ばれるようになり、その影響は後世にまで及びました。
『戦争と平和の法』の背景
17世紀初頭のヨーロッパは、宗教改革後の対立が続き、三十年戦争(1618–1648)が各地で激化していました。
宗教を名目にした戦争は際限なく続くかに見え、人々は「戦争にルールはあるのか」という問いに直面していました。
こうした混乱のなかで、グロティウスは「人間理性に基づく普遍的な規範」を示そうとしたのです。
内容の要点
『戦争と平和の法』において、グロティウスは次のような原則を示しました。
- 自然法の普遍性:自然法は神の存在に依拠せずとも、人間理性によって理解できる。たとえ神が存在しないと仮定しても自然法は妥当する、とまで述べました。
- 正戦論の整理:戦争には正当な理由(自衛や契約違反の是正)がある場合のみ認められる。無制限な戦争を否定し、一定のルールを提示しました。
- 国際関係の規範化:国家同士の関係も法に基づくべきであり、無秩序な権力闘争ではなく、共通の規範が存在することを強調しました。
影響
この著作は国際法学の出発点となり、後のウェストファリア条約(1648)による国際秩序形成にも思想的基盤を与えました。
また、自然法の世俗化を進めたことにより、近代政治思想全般に深い影響を及ぼしました。ロックやカントに至る思想の流れのなかで、グロティウスは重要な橋渡し役を担ったのです。
第4章 晩年と歴史的意義
代表作を著した後も、グロティウスは学者にとどまらず、外交官としても活動しました。
晩年は再び波乱に満ちていましたが、彼の思想はヨーロッパ全体に浸透し、近代国際秩序の形成に大きな役割を果たしました。
ここでは彼の晩年の歩みと歴史的意義を振り返ります。
スウェーデン大使としての活動
1634年以降、グロティウスはスウェーデン女王クリスティーナの外交官としてフランスに派遣されました。
亡命生活を経て国際政治の一線に戻り、ヨーロッパ列強の間を調停する役割を担ったのです。
しかしその外交は思うように成果を上げられず、政治的には孤立する場面も少なくありませんでした。
晩年の帰国と死
やがてスウェーデン政府との関係も悪化し、職を辞したグロティウスは故郷オランダへの帰国を試みました。
しかしその途上、1645年に難破によって体調を崩し、北ドイツのロストックで亡くなりました。享年62。波乱に満ちた一生でしたが、その学問的業績はすでにヨーロッパの知的世界に強い痕跡を残していました。
歴史的意義
グロティウスの意義は大きく三点にまとめられます。
- 自然法の世俗化
自然法を神学から切り離し、人間理性を基盤とした普遍的原理として提示したこと。 - 国際法の父
『戦争と平和の法』は国際法の出発点となり、戦争や国家間関係に法的ルールを与えようとした最初の体系的試み。 - 近代思想への橋渡し
中世的な宗教規範と近代的な合理主義との間をつなぎ、ロックやカントなど後世の思想家に大きな影響を及ぼした。
こうしてグロティウスは「自然法と国際法の父」として歴史に名を刻みました。
その歩みは、単なる学説の構築にとどまらず、戦乱の時代に「理性に基づく秩序」を模索した実践的な試みであったといえるでしょう。
入試で狙われるポイント
グロティウスは「自然法と国際法の父」として必ず押さえておきたい人物です。特に以下の点が試験で問われやすいので注意しましょう。
- 『戦争と平和の法』(1625年)の内容と意義
- 自然法を神学から切り離し、理性を基盤に普遍化したこと
- 「神が存在しないとしても自然法は妥当する」という世俗化の極端な表現
- 三十年戦争期の国際秩序の思想的基盤になった点
- 投獄・亡命・脱出劇などの波乱に満ちた生涯
- グロティウスの思想が「近代国際法の父」と呼ばれる所以について、歴史的背景と著作の内容に触れて説明せよ。(200字程度)
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17世紀初頭、ヨーロッパは宗教対立の激化と三十年戦争により混乱していた。グロティウスは亡命先フランスで『戦争と平和の法』を著し、自然法を神学から切り離し理性に基づく普遍的規範として提示した。彼は戦争に正当な理由を限定し、国家間関係に法を適用すべきと主張した。この思想は戦争に一定のルールを与え、近代的な国際秩序の思想的基盤を築いたことから、グロティウスは「国際法の父」と呼ばれる。
グロティウス 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
グロティウスが生まれた国はどこか。
解答:オランダ(ネーデルラント)
問2
グロティウスが若くして入学した大学はどこか。
解答:ライデン大学
問3
グロティウスが17歳で随行し、国際舞台に登場した相手国の王は誰か。
解答:フランス王アンリ4世
問4
オランダ国内で彼が支持した宗教的立場は何か。
解答:アルミニウス派(寛容派)
問5
グロティウスが投獄された城の名前は何か。
解答:ルーヴェステイン城
問6
妻の助けでグロティウスが脱出した方法は何か。
解答:書物箱に隠れて城外へ運び出された
問7
亡命先のフランスで著した代表作は何か。
解答:『戦争と平和の法』
問8
この著作が執筆されたのは何年か。
解答:1625年
問9
グロティウスが晩年仕えた国はどこか。
解答:スウェーデン
問10
グロティウスは最終的にどこで亡くなったか。
解答:北ドイツのロストック
正誤問題(5問)
問1
グロティウスはカルヴァン派の正統派(ゴマール派)を支持した。
解答:誤(彼は寛容派のアルミニウス派を支持した)
問2
『戦争と平和の法』において、グロティウスは「神が存在しないとしても自然法は妥当する」と述べた。
解答:正
問3
グロティウスの思想はウェストファリア条約(1648年)の思想的基盤ともなった。
解答:正
問4
グロティウスは生涯オランダから出ず、外交活動にも関わらなかった。
解答:誤(彼は外交官として活動し、亡命も経験した)
問5
グロティウスは「国際法の父」と呼ばれる。
解答:正
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