バルカン戦争(第一次・第二次)|オスマン帝国の衰退とバルカン諸国の対立がもたらした二度の戦争

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19世紀後半、かつて「ヨーロッパの病人」と呼ばれたオスマン帝国は、領土と権威の両面で急速に衰退していきました。

その空白を埋めようと、バルカン半島の各民族は次々と独立を果たし、さらに勢力拡大をめざして激しく争うようになります。

こうした民族主義の高揚と帝国主義時代の競争が交錯する中で、1912年から13年にかけて2度にわたり第一次・第二次バルカン戦争が勃発しました。

この戦争は、単にオスマン帝国の崩壊過程にとどまらず、列強間の緊張を一気に高め、第一次世界大戦への導火線となった点でも極めて重要です。

この記事では、バルカン戦争の背景から第一次・第二次の経過、そしてその結果と影響までを体系的に整理し、複雑なバルカン情勢の全体像をわかりやすく解説します。

目次

第1章:バルカン戦争の背景と勃発への道

バルカン戦争は突発的に起こったものではありません。

その背景には、長年にわたるオスマン帝国の衰退、バルカン諸民族の独立運動、そして列強の思惑が複雑に絡み合っていました。

ここでは、バルカン戦争を理解するうえで欠かせない歴史的背景を確認していきましょう。

1. オスマン帝国の衰退と東方問題

19世紀、オスマン帝国は内政・財政の混乱により、かつての強大さを失っていました。

列強はこれを「ヨーロッパの病人」と呼び、その領土をめぐる争いを「東方問題」として外交上の最大関心事としました。

ギリシア独立(1821)やエジプト問題(1830年代)を経て、ロシア・イギリス・フランス・オーストリアなどの列強がバルカン半島に介入するようになり、オスマンの支配はますます形骸化していきました。

2. 民族主義運動の高揚

19世紀半ば以降、セルビア・ブルガリア・ルーマニアなどの民族国家が相次いで独立を果たし、バルカン半島は民族主義の高まりに包まれました。

しかし、独立を達成した諸国の間にも領土をめぐる対立が存在し、マケドニア地方の帰属をめぐって緊張が高まります。各国は「自民族の統一」を掲げつつ、他民族との対立を深めていきました。

3. 列強の思惑と勢力均衡

オスマン帝国の衰退は、列強にとって新たな勢力拡大の好機でもありました。

ロシアは正教徒保護と地中海進出を目的に南下政策を推進し、オーストリアはバルカンへの影響力強化を目指しました。

これに対してイギリスは「地中海の安定」を掲げてロシアを警戒します。

こうして、バルカン半島は列強の思惑が交錯する「火薬庫」となっていったのです。

4. バルカン同盟の結成

1912年、セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロの4か国は、ロシアの仲介によってバルカン同盟を結成しました。

彼らの目的は、オスマン帝国をバルカン半島から駆逐すること。

この同盟が、のちに第一次バルカン戦争を引き起こす直接的な引き金となります。

5. 戦争勃発の直接原因

オスマン帝国が国内改革に失敗し、アルバニア独立運動を弾圧するなど混乱を深める中、バルカン諸国は軍事行動を決断します。

1912年10月、バルカン同盟軍は一斉にオスマン帝国に宣戦布告。こうして第一次バルカン戦争が勃発しました。

入試で狙われるポイント

  • 「東方問題」と「バルカン問題」の違いを整理すること。前者は列強によるオスマン帝国の解体をめぐる外交問題、後者はその中での民族独立・領土争いを指す。
  • バルカン同盟の結成(1912)は、オスマン帝国に対抗するための一時的な協力であり、戦後に崩壊する点が重要。
  • 民族主義は自由の理念であると同時に、他民族との対立をもたらす両義的性格を持つ。

重要論述問題にチャレンジ

バルカン戦争勃発の背景を、オスマン帝国の衰退と民族主義運動の観点から200字程度で説明せよ。

19世紀、オスマン帝国の衰退によりバルカン半島では民族主義が高揚し、セルビアやブルガリアなどの独立国家が成立した。これら諸国はマケドニアなどの領土をめぐり対立しつつも、1912年にオスマン帝国を駆逐するためバルカン同盟を結成した。こうして民族統一と領土拡大の思惑が結びつき、第一次バルカン戦争が勃発した。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第1章:バルカン戦争(第一次・第二次) 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
オスマン帝国が「ヨーロッパの病人」と呼ばれたのはどのような理由か。

解答: 政治・財政の混乱により衰退し、列強の介入対象となったため。

問2
ギリシア独立戦争は何年に始まったか。

解答: 1821年

問3
「東方問題」とは何を指すか。

解答: オスマン帝国の領土・支配をめぐる列強間の外交問題。

問4
19世紀後半、ロシアがバルカン進出を狙った政策を何というか。

解答: 南下政策

問5
セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロが結成した同盟を何というか。

解答: バルカン同盟

問6
バルカン同盟を仲介した列強はどこか。

解答: ロシア

問7
1912年、バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦したことによって起きた戦争を何というか。

解答: 第一次バルカン戦争

問8
オスマン帝国の支配下で、独立運動が最初に起きた国はどこか。

解答: ギリシア

問9
マケドニア地方をめぐり対立した国を2つ挙げよ。

解答: セルビア、ブルガリア

問10
「バルカン半島=ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる理由を説明せよ。

解答: 民族・宗教・列強の思惑が交錯し、紛争が頻発したため。

正誤問題(5問)

問1
オスマン帝国の衰退を受け、列強はその再建を支援した。

解答: 誤り(列強は領土分割・勢力拡大を狙った)

問2
バルカン同盟はオーストリアの仲介で成立した。

解答: 誤り(ロシアの仲介による)

問3
東方問題とは、バルカン諸国間の対立を指す言葉である。

解答: 誤り(オスマン領土をめぐる列強間の対立)

問4
セルビア・ブルガリアはオスマン帝国に対抗してバルカン同盟を結成した。

解答: 正しい

問5
第一次バルカン戦争の勃発は、民族主義運動の高揚を背景としていた。

解答: 正しい

第2章:第一次バルカン戦争 ― オスマン帝国の敗北とロンドン条約

1912年10月、セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロの4か国が結成したバルカン同盟は、ついにオスマン帝国に対して宣戦を布告しました。

この第一次バルカン戦争は、長年バルカン半島に君臨してきたオスマン帝国の支配を終わらせる戦いであり、民族主義と帝国衰退が激突する象徴的な出来事でした。

ここでは、その戦争の経過と講和条約の内容、そして勝利した諸国のあいだに生まれた新たな火種について見ていきましょう。

1. 戦争の経過

開戦当初、バルカン同盟軍は圧倒的な勢いを見せ、オスマン軍を各地で撃破しました。

ブルガリア軍はトラキア方面で勝利を重ね、首都イスタンブル(当時はコンスタンティノープル)へ迫ります。セルビア軍はコソヴォやマケドニアを制圧し、ギリシア軍はテッサロニキを占領しました。

オスマン軍は近代化が進まず、内政の混乱も重なって戦線を維持できず、開戦から半年ほどでバルカン半島のほとんどを失う結果となります。

2. ロンドン条約の締結(1913)

1913年5月、列強の仲介によりロンドン条約が締結されました。

その内容は以下の通りです。

  • オスマン帝国はエーゲ海沿岸を除くヨーロッパ領の大部分を放棄
  • アルバニアの独立を承認(ただし列強の影響下に置かれる)。
  • 新たな国境線は列強による委員会で決定。

この条約によってオスマン帝国はヨーロッパでの地位をほぼ喪失し、支配領域はイスタンブル周辺のみとなりました。

一方、戦勝国となったバルカン同盟諸国は領土を拡大しましたが、マケドニア地方の分配をめぐって対立が深まります。

3. 勝利の影で生まれた対立

戦勝国のうち、最大の軍事的貢献を果たしたブルガリアは、マケドニア全域の獲得を主張しました。
しかし、セルビアとギリシアはこれに反発し、戦後の領土分配をめぐって交渉が決裂。

さらに、セルビアがオーストリア=ハンガリー帝国によってアルバニアへの南下を阻止されたことも不満を募らせました。
こうして、第一次バルカン戦争での「協力関係」は一転して「対立関係」となり、第二次バルカン戦争の勃発へとつながっていきます。

4. 戦争の意義

第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパでの支配権を失い、バルカン半島は新興国家による勢力争いの舞台となりました。

列強にとっても、バルカンの再編は新たな均衡崩壊を意味し、特にオーストリアとロシアの対立が再燃します。

この緊張が、やがてサラエヴォ事件から第一次世界大戦へと連鎖していくのです。

入試で狙われるポイント

  • ロンドン条約(1913)の内容と、アルバニア独立の承認は重要。
  • バルカン同盟の内部対立(マケドニア分配問題)が第二次バルカン戦争の原因。
  • 列強の思惑:オーストリアはセルビア拡大を警戒、ロシアはスラヴ系国家を支援。

第2章: 第一次バルカン戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習

重要論述問題にチャレンジ

第一次バルカン戦争の経過とロンドン条約の意義について200字程度で説明せよ。

1912年、セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロのバルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、各地で勝利を収めた。オスマン帝国はヨーロッパ領の大半を失い、1913年のロンドン条約でアルバニア独立を承認した。しかし、戦勝国間でマケドニア分配をめぐる対立が生じ、第二次バルカン戦争の原因となった。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第2章:バルカン戦争(第一次・第二次) 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
第一次バルカン戦争が勃発したのは西暦何年か。

解答: 1912年

問2
バルカン同盟を構成した4か国をすべて挙げよ。

解答: セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロ

問3
第一次バルカン戦争でオスマン帝国を破った国々は何を目的としていたか。

解答: バルカン半島からオスマン帝国を駆逐し、領土を拡大するため。

問4
ブルガリア軍が進撃した地域はどこか。

解答: トラキア地方(イスタンブル方面)

問5
セルビアが占領した地域の一つを挙げよ。

解答: コソヴォ(またはマケドニア)

問6
第一次バルカン戦争を終結させた講和条約は何か。

解答: ロンドン条約

問7
ロンドン条約において独立が承認された国はどこか。

解答: アルバニア

問8
ロンドン条約でオスマン帝国が失ったのは、主にどの地域か。

解答: ヨーロッパ領(イスタンブル周辺を除く)

問9
ロンドン条約後、戦勝国間で問題となった地域はどこか。

解答: マケドニア地方

問10
第一次バルカン戦争の結果、どの列強の対立が再燃したか。

解答: ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国

正誤問題(5問)

問1
ブルガリアはマケドニア分配をめぐり、セルビアやギリシアと対立した。

解答: 正しい

問2
ロンドン条約では、アルバニア独立が否定された。

解答: 誤り(独立を承認)

問3
ロンドン条約後、バルカン同盟の結束は強化された。

解答: 誤り(分配をめぐって崩壊した)

問4
第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパからほぼ駆逐された。

解答: 正しい

問5
第一次バルカン戦争は、列強の介入なしに終結した。

解答: 誤り(列強の仲介でロンドン条約が成立)

第3章:第二次バルカン戦争 ― 戦勝国同士の争いとブルガリアの孤立

第一次バルカン戦争でオスマン帝国を打ち破った諸国は、戦後の領土分配をめぐって早くも対立を深めました。

とくに、マケドニア地方をめぐるブルガリアとセルビア・ギリシアの争いは激化し、ついに同盟国同士の戦争へと発展します。

この第二次バルカン戦争は、民族主義がもたらした「勝者の分裂」の典型例であり、バルカン地域の不安定さを象徴する出来事となりました。

1. 戦争の原因 ― マケドニア分配をめぐる対立

第一次バルカン戦争の講和条約(ロンドン条約)では、マケドニア地方の分割について明確な取り決めがなく、ブルガリア・セルビア・ギリシアの三国間に不満が残りました。

ブルガリアは自国の軍事的貢献を理由に、マケドニア全域を要求しましたが、セルビアとギリシアはこれに反発し、分割協定を拒否します。

この対立により、バルカン同盟は崩壊。1913年6月、ブルガリアはセルビアとギリシアに対して奇襲攻撃を仕掛け、第二次バルカン戦争が勃発しました。

2. 戦争の拡大 ― かつての敵国も参戦

ブルガリアの攻撃に対し、セルビア・ギリシアは反撃を開始し、さらにオスマン帝国とルーマニアまでもがブルガリアに宣戦。

第一次戦争で敗北したオスマン帝国は、この機に乗じてトラキア地方を奪回しようと進軍します。

ブルガリアは四面楚歌の状況に陥り、短期間で敗北を余儀なくされました。

3. ブカレスト条約とブルガリアの孤立

1913年8月、列強の仲介によりブカレスト条約が締結され、戦争は終結しました。

条約の内容は以下の通りです。

  • ブルガリアはマケドニアの大部分を失い、セルビアとギリシアが分割。
  • ルーマニアは南ドブルジャ地方を獲得。
  • オスマン帝国はトラキアの一部を回復。

こうしてブルガリアは領土を大幅に失い、外交的にも孤立します。

一方、セルビアは領土を拡大し、スラヴ民族の統合を進める足がかりを得ました。これがのちにオーストリア=ハンガリーとの緊張を高め、サラエヴォ事件の伏線となります。

4. 第二次バルカン戦争の意義

第二次バルカン戦争は、民族主義がもたらす協調の限界を示しました。

バルカン諸国は共通の敵であったオスマン帝国を倒した後、今度は互いに争い、列強の干渉を再び招く結果となったのです。

この戦争を経て、バルカン半島は再び不安定化し、ロシアとオーストリアの対立が決定的になります。

こうした構図が、1914年の第一次世界大戦勃発へと直結していきました。

入試で狙われるポイント

  • 第二次バルカン戦争(1913)の原因=マケドニア分配問題。
  • ブカレスト条約の内容とブルガリアの孤立。
  • バルカン問題が第一次世界大戦の原因の一つである点を理解。

重要論述問題にチャレンジ

第二次バルカン戦争の原因と結果を200字程度で説明せよ。

第一次バルカン戦争後、マケドニア地方の分配をめぐりブルガリアとセルビア・ギリシアが対立した。1913年、ブルガリアは両国を攻撃して第二次バルカン戦争が勃発したが、ルーマニアとオスマン帝国も参戦し、ブルガリアは敗北。ブカレスト条約で領土を失い、孤立した。一方、セルビアは領土を拡大し、オーストリアとの緊張を高めた。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第3章:バルカン戦争(第一次・第二次) 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
第二次バルカン戦争が起こった年はいつか。

解答: 1913年

問2
第二次バルカン戦争の主な原因は何か。

解答: マケドニア分配をめぐる戦勝国間の対立

問3
第二次バルカン戦争を起こした国はどこか。

解答: ブルガリア

問4
ブルガリアが攻撃した相手国を2つ挙げよ。

解答: セルビア、ギリシア

問5
ブルガリアを攻撃した第三国を1つ挙げよ。

解答: ルーマニア(またはオスマン帝国も可)

問6
第二次バルカン戦争を終結させた講和条約は何か。

解答: ブカレスト条約

問7
ブカレスト条約で領土を拡大した国を2つ挙げよ。

解答: セルビア、ギリシア

問8
ブカレスト条約で領土を失った国はどこか。

解答: ブルガリア

問9
ブカレスト条約でルーマニアが得た地域はどこか。

解答: 南ドブルジャ地方

問10
第二次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が回復した地域はどこか。

解答: トラキアの一部

正誤問題(5問)

問1
ブルガリアはマケドニア全域を要求して他国と対立した。

解答: 正しい

問2
ルーマニアは第二次バルカン戦争に中立を保った。

解答: 誤り(ブルガリアに宣戦した)

問3
ブカレスト条約の結果、ブルガリアは領土を拡大した。

解答: 誤り(むしろ縮小)

問4
第二次バルカン戦争の結果、セルビアは勢力を拡大した。

解答: 正しい

問5
第二次バルカン戦争の影響で、バルカン半島の緊張は緩和された。

解答: 誤り(むしろ激化した)

第4章:バルカン戦争の結果と影響 ― 「ヨーロッパの火薬庫」から第一次世界大戦へ

1912〜1913年にかけて相次いだ二度のバルカン戦争は、オスマン帝国の衰退を決定づけただけでなく、バルカン諸国の勢力地図を大きく塗り替えました。

しかし、この再編は平和ではなく、むしろ新たな対立の火種を生み出す結果となります。

列強の思惑が絡み合う中で、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほどの緊張状態に陥り、翌年のサラエヴォ事件(1914)を契機として、第一次世界大戦へと突入していくのです。

ここでは、バルカン戦争が国際情勢に与えた影響を整理していきましょう。

1. オスマン帝国の没落と新興国家の台頭

二度の戦争により、オスマン帝国はヨーロッパにおける領土をほぼ喪失しました。

代わって、セルビア・ブルガリア・ギリシア・ルーマニアといった新興国家が勢力を拡大し、バルカン半島の主導権をめぐって競い合うようになります。

とくにセルビアは、領土拡大によって南スラヴ民族の統合(汎スラヴ主義)を推進する立場を強め、オーストリア=ハンガリー帝国との対立を決定的にしました。

2. 列強関係への波及 ― ロシアとオーストリアの対立

ロシアはスラヴ系諸国の保護者としてセルビアを支援し、一方のオーストリアはセルビアの拡大を警戒しました。

アルバニアの独立を承認したのも、セルビアのアドリア海進出を阻止するためです。

このように、両国の対立は「南下を狙うロシア」対「勢力維持を図るオーストリア」という構図を明確化し、バルカン半島をめぐる列強の利害衝突は避けがたいものとなりました。

3. 同盟関係の再編とヨーロッパ分裂の完成

ブルガリアが孤立し、ロシアとの関係が悪化した一方で、オーストリアはドイツとの結びつきを強め、ロシアはフランス・イギリスとの協商関係を固めました。

これにより、三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)の二大陣営が確立し、ヨーロッパは完全に分裂します。

バルカン戦争は、この国際的な対立構造を決定づけた転換点でもあったのです。

4. 第一次世界大戦への道

セルビアの拡大を恐れたオーストリアは、南下を阻止するため圧力を強化しました。

1914年6月、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントがサラエヴォで暗殺されると、オーストリアはセルビアに宣戦。

ロシアがセルビアを支援し、ドイツ・フランス・イギリスも次々と参戦して、ついに第一次世界大戦が勃発します。

こうして、バルカン半島の小さな火種が、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦へと発展していったのです。

5. 民族主義の両義性

バルカン戦争は、民族主義の持つ二面性を示す象徴的な事例でした。

独立や統一を目指す「解放の理念」と、他民族を排除しようとする「排他的な衝動」が同居しており、その矛盾が戦争を生み出しました。

この構図は、20世紀以降の国際政治においても繰り返されるテーマとなります。

入試で狙われるポイント

  • バルカン戦争が第一次世界大戦の直接的原因ではないが、「背景」として極めて重要。
  • ロシア=セルビア連携とオーストリア=ドイツ連携の構図を押さえる。
  • アルバニア独立(1913)はセルビアの南下阻止策としての意味を持つ。
  • 民族主義の両義性を理解することが論述対策に有効。

重要論述問題にチャレンジ

バルカン戦争が第一次世界大戦の勃発にどのように影響したか、200字程度で説明せよ。

バルカン戦争によってオスマン帝国が衰退し、セルビアが領土を拡大して南スラヴ統一の動きを強めた。一方、オーストリアはセルビアの拡大を警戒し、アルバニア独立を承認して進出を阻止した。ロシアはセルビアを支援し、両陣営の対立が激化した結果、1914年のサラエヴォ事件を契機に第一次世界大戦が勃発した。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう

第4章:バルカン戦争(第一次・第二次) 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
バルカン戦争後、バルカン半島の勢力を失った帝国はどこか。

解答: オスマン帝国

問2
バルカン戦争後に勢力を拡大した国を2つ挙げよ。

解答: セルビア、ギリシア

問3
セルビアが掲げた民族統一運動を何というか。

解答: 汎スラヴ主義

問4
アルバニア独立が承認されたのは何年か。

解答: 1913年

問5
アルバニア独立を承認した目的は何か。

解答: セルビアのアドリア海進出を防ぐため

問6
バルカン戦争後、ロシアと対立を強めた列強はどこか。

解答: オーストリア=ハンガリー帝国

問7
ブルガリアが孤立した要因は何か。

解答: 第二次バルカン戦争での敗北と領土喪失

問8
サラエヴォ事件が起こったのは何年か。

解答: 1914年

問9
サラエヴォ事件で暗殺された人物は誰か。

解答: フランツ=フェルディナント(オーストリア皇太子)

問10
バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた理由を説明せよ。

解答: 民族対立と列強の思惑が交錯し、紛争が頻発したため。

正誤問題(5問)

問1
バルカン戦争はオスマン帝国の勢力拡大をもたらした。

解答: 誤り(ヨーロッパ領をほぼ失った)

問2
アルバニア独立はロシアの影響力拡大を目的としていた。

解答: 誤り(オーストリアによるセルビア牽制のため)

問3
バルカン戦争の結果、セルビアはオーストリアと友好関係を築いた。

解答: 誤り(対立が激化した)

問4
ブルガリアは第二次バルカン戦争後、列強との関係を強めた。

解答: 誤り(孤立化した)

問5
サラエヴォ事件は、バルカン問題を背景に発生した。

解答: 正しい

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