17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパは絶対王政の時代を迎えます。
その中でも、フランスはブルボン朝のもとで強大な中央集権国家を築き上げ、「太陽王」ルイ14世の治世に絶頂期を迎えました。
彼が象徴的に築いたのが、ヴェルサイユ宮殿です。豪華絢爛な宮殿は、王権の権威を誇示するとともに、諸侯を統制するための政治的舞台として機能しました。
しかし、栄華の裏では莫大な戦費や宮廷維持費が財政を圧迫し、やがてフランス革命へとつながる伏線を残します。
本記事では、ルイ13世からルイ14世に至るまでのフランス絶対王政の確立過程、その象徴であるヴェルサイユ宮殿の役割、さらに入試で頻出のポイントを徹底解説します。
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また、大学入試では、用語の暗記だけでなくどのような切り口で試験に理解することが重要です。
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第1章 フランス絶対王政の確立とルイ14世の戦略
ブルボン朝の絶対王政は、一夜にして完成したわけではありません。
ルイ14世 今どこ?
フランス史全体でのルイ14世の位置関係を確認しましょう。
カロリング朝 (843〜987)
│ 843 ヴェルダン条約(シャルル2世)
▼
カペー朝 (987〜1328)
│ 1214 ブーヴィーヌの戦い(フィリップ2世)
│ 1303 アナーニ事件(フィリップ4世)
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ヴァロワ朝 (1328〜1589)
│ 1339 百年戦争開始(フィリップ6世)
│ 1429 ジャンヌ・ダルク登場 → オルレアン解放(シャルル7世)
│ 1453 百年戦争終結
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ブルボン朝 (1589〜1792)
│ 1598 ナントの勅令(アンリ4世)
│ 1643 ルイ14世即位 → 絶対王政確立 ⇒今ココ!
│ 1701 スペイン継承戦争(ルイ14世)
│ 1789 フランス革命勃発(ルイ16世)
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第一共和政・ナポレオン帝政 (1792〜1815)
│ 1804 ナポレオン皇帝即位 → ナポレオン法典制定
│ 1815 ワーテルローの戦い → ナポレオン失脚
▼
ブルボン復古王政 (1814〜1830)
│ 1830 七月革命 → オルレアン朝成立
▼
オルレアン朝 (1830〜1848)
│ 七月王政時代 → 二月革命で崩壊
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第二共和政・第二帝政 (1848〜1870)
│ 1852 ナポレオン3世即位 → 普仏戦争敗北で失脚
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第三共和政 (1870〜1940)
│ 1871 パリ=コミューン成立
▼
(第四共和政・第五共和政は受験頻度低めのため省略)
ルイ13世時代のリシュリュー枢機卿やマザラン枢機卿による権力集中策を経て、ルイ14世の時代に完成形を迎えます。この章では、フランス絶対王政の確立過程を時系列で整理し、入試で狙われやすい重要ポイントを明確にします。
1-1. ブルボン朝の成立とルイ13世の時代
フランス絶対王政は、1589年に即位したアンリ4世(ブルボン朝初代国王)から始まります。
彼はユグノー戦争を「ナントの勅令」(1598年)で終結させ、宗教対立を一定程度沈静化しました。
しかし、アンリ4世暗殺後に即位したルイ13世の時代には再び国内が不安定になります。
そこで登場したのが、宰相リシュリュー枢機卿(在職1624〜1642年)です。
彼は「国王の権力強化」と「三十年戦争での外交的主導権確立」を軸に政策を展開しました。
1-2. リシュリューの中央集権化政策
リシュリューは以下の3本柱で中央集権化を進めました。
1-2-1. ユグノー勢力の制圧
- ラ=ロシェルの戦い(1627〜1628年)でユグノーの拠点を陥落。
- 「アラス条約」(1629年)でユグノーの軍事力を解体。
1-2-2. 貴族権力の削減
- 王権に反抗的な地方大貴族を厳しく処罰。
- 高等法院(パルルマン)の権限を制限。
1-2-3. 外交での主導権確立
- 三十年戦争ではカトリック国でありながらプロテスタント側を支援。
- 「ヴェストファーレン条約」(1648年)でアルザスを獲得し、フランスの国際的地位を高めた。
1-3. マザラン枢機卿とフロンドの乱
リシュリューの後継者マザラン枢機卿は、ルイ14世の幼少期を支えます。しかし、重税と中央集権化に反発したフロンドの乱(1648〜1653年)が勃発。王権強化政策に反対する貴族とパリ高等法院が蜂起しました。
結果として王権側が勝利し、以後は諸侯・高等法院・パリ市民が王権に逆らう力を失います。この勝利体験が、後のルイ14世による「完全な絶対王政」への礎となりました。
幼少期にフロンドの乱を体験したルイ14世は、地方貴族が結束して王権に挑む恐ろしさを身をもって学びました。そのため、ヴェルサイユ宮殿は単なる豪華絢爛な建物ではなく、貴族を宮廷に縛り付けるための政治的装置だったのです。
1-4. ルイ14世の親政と「太陽王」思想
1661年、マザランの死後、ルイ14世は親政を開始。「朕は国家なり(L’État, c’est moi)」という言葉で象徴される絶対王政を徹底しました。
- 財政政策:財務総監コルベールを登用し、重商主義を推進。
- 軍事拡大:近代的な常備軍を整備。
- 宮廷統制:ヴェルサイユ宮殿に貴族を集め、政治的影響力を削減。
この時期、フランスは「ヨーロッパ最強国家」として君臨しますが、戦費や宮廷費が財政を圧迫し、次第に破綻の道を歩むことになります。
1-5. ヴェルサイユ宮殿建設の意義
ルイ14世は1661年からヴェルサイユ宮殿の建設を開始。完成までに約50年を要したこの宮殿は、王権の象徴であると同時に、諸侯を監視・統制するための「権力装置」でした。
- 華麗なバロック様式で王権の絶対性を演出。
- 貴族を宮廷生活に縛りつけ、地方での影響力を削減。
- 政治・外交・文化の中心地として機能。
入試で狙われるポイント
- ナントの勅令(1598年)とその廃止(1685年)の流れ
- リシュリュー・マザランによる中央集権化政策
- フロンドの乱の原因と結果
- ルイ14世の重商主義政策(コルベールとの関係)
- ヴェルサイユ宮殿の政治的機能と象徴性
- ルイ14世によるヴェルサイユ宮殿建設の目的と、その政治的意義について80〜100字で説明せよ。
-
ルイ14世は、王権の威光を示すためにヴェルサイユ宮殿を建設すると同時に、諸侯を宮廷に集めることで地方での影響力を削ぎ、中央集権体制を強化した。これにより国王権威は絶対化された。
第1章: フランス絶対王政の確立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ブルボン朝を開いた国王は誰か。
解答:アンリ4世
問2
アンリ4世が発布した、ユグノー戦争を終結させた勅令は何か。
解答:ナントの勅令
問3
ルイ13世の宰相として中央集権化を推進した人物は誰か。
解答:リシュリュー枢機卿
問4
1627〜1628年にユグノーの拠点を攻め落とした戦いは何か。
解答:ラ=ロシェルの戦い
問5
1648年にフランスで起きた貴族と高等法院の反乱を何というか。
解答:フロンドの乱
問6
ルイ14世が親政を開始したのは何年か。
解答:1661年
問7
ルイ14世の財務総監として重商主義を推進した人物は誰か。
解答:コルベール
問8
ヴェルサイユ宮殿の建設目的の一つであった、貴族統制策を何というか。
解答:宮廷政治
問9
1685年、ルイ14世は何を廃止してプロテスタントを弾圧したか。
解答:ナントの勅令
問10
ルイ14世の治世を象徴する称号は何か。
解答:太陽王
正誤問題(5問)
問1
リシュリューはフランスの三十年戦争参戦時、カトリック同盟側として行動した。
解答:×(→プロテスタント側を支援した)
問2
フロンドの乱はパリ高等法院や貴族勢力が王権に反発したことが原因である。
解答:○
問3
ヴェルサイユ宮殿は外交的権威を誇示するためだけに建設され、貴族統制の役割はなかった。
解答:×(→貴族統制が重要な目的だった)
問4
ルイ14世はコルベールを登用し、重商主義政策を推進した。
解答:○
問5
ナントの勅令はルイ14世によって発布されたものである。
解答:×(→アンリ4世が発布した)
第2章 ヴェルサイユ宮殿とルイ14世の宮廷政治
ヴェルサイユ宮殿は単なる豪華な建築物ではなく、ルイ14世の絶対王政を体現する「権力装置」でした。
宮殿の華麗さは国王の権威を国内外に誇示すると同時に、貴族たちを宮廷に縛りつけることで地方での影響力を削ぎ、王権を強化する役割を果たしました。
さらに、外交・文化・芸術の中心としてヨーロッパ中の視線を集めたヴェルサイユ宮殿は、フランスを「ヨーロッパの覇者」へと押し上げる象徴的存在となったのです。
2-1. ヴェルサイユ宮殿建設の背景と目的
2-1-1. 王権の権威を誇示する象徴
ルイ14世は「太陽王」の称号を掲げ、王権神授説を信奉しました。
神から直接授かった権力を国民に示すため、ヴェルサイユ宮殿を建設。1661年から着工し、1682年に政府機能をヴェルサイユへ移転しました。
- 宮殿全体がバロック様式で統一され、豪華な装飾が施された。
- 鏡の回廊などの絢爛たる空間が外交舞台となり、フランス文化を誇示。
- 宮殿は国内だけでなく国際的にも「王権絶対」の象徴と見なされた。
2-1-2. 貴族統制と宮廷政治
ヴェルサイユ宮殿の最大の政治的機能は、地方の有力貴族を宮廷に呼び寄せ、その影響力を削ぐことにありました。
- 貴族たちは豪華な宮廷儀礼に参加することで名誉を得る一方、地方統治の権力を失った。
- 宮廷に常駐することを義務付けられ、王の目の届かないところで権力を握ることが難しくなった。
- これにより、地方支配の権限は国王直轄の行政官(アンタンダン)へ集中。
こうしてヴェルサイユは、フランス全土の権力を王のもとに集約するための「中央集権化装置」として機能しました。
2-2. 芸術・文化政策と「フランス文化の黄金時代」
2-2-1. フランス文化の発信拠点
ルイ14世は芸術を政治利用しました。宮殿は単なる権力誇示の場ではなく、フランス文化の中心として発展。
- 王立音楽アカデミー・王立舞踏アカデミー・王立劇場などを設立。
- 宮廷儀礼や祝典では、音楽・舞踏・演劇を巧みに演出。
- この時代の芸術家として、劇作家モリエールや作曲家リュリが活躍。
2-2-2. 王権の正当化と芸術
芸術や学問を保護することで、ルイ14世は「フランス=文化の中心」というイメージを形成。
ヴェルサイユは外交交渉の場としても活用され、文化的優越性を国際政治の道具としたのです。
2-3. ヴェルサイユ宮殿と財政破綻
2-3-1. 膨大な建設費と戦費
ヴェルサイユ宮殿は壮麗な象徴であった一方で、建設・維持費はフランス財政を大きく圧迫しました。さらに、ルイ14世はスペイン継承戦争など対外戦争を繰り返したため国家財政は悪化。
2-3-2. 財政難から革命への伏線
- 貴族統制には成功したが、宮廷費用と戦費で国家財政は破綻寸前。
- 重税は農民に集中し、地方では反乱も頻発。
- こうした財政構造が、後のフランス革命(1789年)の原因の一つとなった。
入試で狙われるポイント
- ヴェルサイユ宮殿建設の目的と象徴性
- 宮廷政治と地方貴族統制の関係
- 芸術・文化政策と王権強化の結びつき
- 建設費と戦費が財政破綻につながった流れ
- ルイ14世時代の外交とヴェルサイユの役割
- ヴェルサイユ宮殿が果たした政治的役割について、貴族統制との関係を含めて100字以内で説明せよ。
-
ヴェルサイユ宮殿は豪華絢爛な宮廷文化を演出し、貴族を宮廷生活に縛り付けることで地方での影響力を削ぎ、国王権力の中央集権化を推進する「権力装置」として機能した。
第2章: フランス絶対王政の確立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ヴェルサイユ宮殿の建設を開始したのは誰か。
解答:ルイ14世
問2
ルイ14世が政府機能をヴェルサイユ宮殿に移したのは何年か。
解答:1682年
問3
ヴェルサイユ宮殿の代表的な施設で、外交舞台として使われた豪華な回廊は何か。
解答:鏡の回廊
問4
ルイ14世の宮廷政治で、貴族を宮廷生活に縛り付ける政策を何というか。
解答:宮廷政治
問5
地方貴族の権力を削ぎ、国王直属の行政官を派遣した制度を何というか。
解答:アンタンダン制度
問6
ルイ14世が文化振興のために保護した劇作家は誰か。
解答:モリエール
問7
ルイ14世の時代に活躍した作曲家で、宮廷音楽を整えた人物は誰か。
解答:リュリ
問8
ルイ14世が主導した芸術政策の狙いは何か。
解答:王権強化とフランス文化の国際的優位性の誇示
問9
ヴェルサイユ宮殿建設と戦費の増大により、最終的にどのような事態を招いたか。
解答:国家財政の悪化
問10
ルイ14世の政策が後のフランス革命につながった要因の一つを挙げよ。
解答:宮廷費・戦費による財政破綻
正誤問題(5問)
問1
ヴェルサイユ宮殿は宮廷儀礼の場であると同時に、貴族統制のために機能した。
解答:○
問2
ルイ14世は芸術に無関心で、ヴェルサイユ宮殿では文化活動は行われなかった。
解答:×(→芸術を積極的に保護した)
問3
ヴェルサイユ宮殿の建設費は国家財政を圧迫し、後のフランス革命の一因となった。
解答:○
問4
ルイ14世は宮廷政治を嫌い、地方貴族に自治を全面的に認めた。
解答:×(→貴族を宮廷に縛り付けた)
問5
ルイ14世はヴェルサイユ宮殿建設後も首都パリに留まり、宮殿を頻繁には使用しなかった。
解答:×(→政府機能をヴェルサイユへ移した)
この第2章では、ヴェルサイユ宮殿が「建築」以上の意味を持ち、政治・文化・外交の中枢として機能したことを解説しました。
次章では、ルイ14世の外交政策と戦争、そしてフランスの栄光と衰退の転換点について詳しく掘り下げていきます。
第3章 ルイ14世の対外政策とフランスの栄光と衰退
ルイ14世は「ヨーロッパ最強国家フランス」の実現を目指し、積極的な対外政策を展開しました。
オランダ戦争、ファルツ継承戦争、そしてスペイン継承戦争など、数々の戦争を通じて領土拡大を狙います。
しかし、戦費の増大と周辺諸国の包囲網によって、フランスは次第に財政・軍事ともに疲弊し、絶対王政の栄光は陰りを見せ始めます。この章では、ルイ14世の外交戦略とその成功と失敗を整理し、入試頻出ポイントを徹底解説します。
3-1. ルイ14世の外交戦略の基本方針
ルイ14世は、フランスをヨーロッパの覇者とするため、以下の3つを外交方針としました。
3-1-1. 自然国境説による領土拡大
- 「自然国境」としてのアルプス・ピレネー・ライン川を目指す。
- ライン川流域をめぐる神聖ローマ帝国との対立が激化。
3-1-2. スペイン・オーストリアのハプスブルク家包囲網の打破
- 宿敵ハプスブルク家を封じ込めるため、オランダ・イギリスとの関係を操作。
- バランス・オブ・パワー(勢力均衡)外交の最前線に立つ。
3-1-3. ヴェルサイユ外交による文化的優位性の誇示
- 宮廷文化を武器に外交を展開し、ヨーロッパ諸国の羨望を集めた。
- 鏡の回廊での大使謁見や祝典は、フランスの国際的権威を高めた。
3-2. ルイ14世の主要な対外戦争
ルイ14世は在位中、四度の大きな戦争を主導しました。これらは世界史入試で頻出です。
3-2-1. 南ネーデルランド継承戦争(1667〜1668年)
- スペイン領ネーデルランドの継承権を主張して侵攻。
- オランダ・イギリス・スウェーデンの三国同盟が結成され、フランスは譲歩。
3-2-2. オランダ戦争(1672〜1678年)
- オランダを孤立させ、経済的覇権を奪うことを狙った戦争。
- オランダはハプスブルク家・スペイン・神聖ローマ帝国と連合し抵抗。
- ナイメーヘン条約(1678年)によりフランスはフランシュ=コンテ地方を獲得。
3-2-3. ファルツ継承戦争(1688〜1697年)
- ファルツ地方の継承権をめぐり神聖ローマ帝国と対立。
- イギリス王ウィリアム3世の参戦により大同盟戦争に発展。
- ライスワイク条約(1697年)でフランスはほぼ現状維持。
3-2-4. スペイン継承戦争(1701〜1713年)
- スペイン王カルロス2世死去に伴い、フランス王孫フェリペ5世がスペイン王位を継承。
- イギリス・オランダ・神聖ローマ帝国などが「フランス・スペイン合同王国」成立を阻止するため大同盟を結成。
- ユトレヒト条約(1713年)により、フェリペ5世はスペイン王に即位するが、フランスとスペインの同君連合は禁止。
- イギリスはジブラルタルなどを獲得し、フランスは国際的優位を失った。
3-3. 戦争と財政破綻
ルイ14世は領土拡大には部分的に成功したものの、長期戦による戦費の増大が財政破綻を招きました。
- 常備軍の維持費と宮廷費で財政が逼迫。
- イギリスの金融力に押され、対外戦争は次第に不利に。
- 重税に苦しむ農民階層の不満が高まり、フランス革命(1789年)への伏線となる。
3-4. ルイ14世外交の評価と限界
ルイ14世の外交政策は、前半は領土拡大に成功し「フランスの栄光」を築いたものの、後半は周辺国の警戒を招き、勢力均衡政策の標的となりました。
- フランスは「ヨーロッパ最強国家」から「包囲される国家」へ転落。
- イギリスの海上覇権と金融力に敗北。
- 文化的影響力は絶大だったが、軍事・経済面では衰退の兆しが見え始めた。
入試で狙われるポイント
- 自然国境論とライン川支配の意図
- オランダ戦争・スペイン継承戦争の経過と結果
- ナイメーヘン条約・ユトレヒト条約の内容
- フランスとイギリスの覇権争い
- ルイ14世外交政策の功罪
- スペイン継承戦争が起こった背景とその結果を100字以内で説明せよ。
-
スペイン王カルロス2世死後、ルイ14世の孫フェリペが王位継承を主張したため、フランス・スペイン合同を恐れたイギリスらが大同盟を結成。ユトレヒト条約でフェリペ5世は即位するが、フランス・スペインの同君連合は禁止され、イギリスが領土を拡大した。
第3章: フランス絶対王政の確立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ルイ14世が目指した自然国境説における重要な河川は何か。
解答:ライン川
問2
1667年に始まったスペイン領ネーデルランドをめぐる戦争を何というか。
解答:南ネーデルランド継承戦争
問3
1672〜1678年に行われた、オランダとの経済覇権をめぐる戦争は何か。
解答:オランダ戦争
問4
オランダ戦争を終結させた条約は何か。
解答:ナイメーヘン条約
問5
ファルツ継承戦争のきっかけとなった地域はどこか。
解答:ファルツ地方
問6
1701年から始まったスペイン王位継承をめぐる戦争を何というか。
解答:スペイン継承戦争
問7
スペイン継承戦争を終結させた条約は何か。
解答:ユトレヒト条約
問8
ユトレヒト条約でイギリスが獲得した重要な拠点はどこか。
解答:ジブラルタル
問9
ルイ14世の外交政策が失敗に終わった最大の理由は何か。
解答:周辺国の包囲網と戦費増大による財政難
問10
ルイ14世の死後、フランスの国際的地位はどう変化したか。
解答:イギリスに覇権を奪われ、国力は相対的に低下した
正誤問題(5問)
問1
ルイ14世はオランダ戦争でフランスの経済覇権を確立した。
解答:×(→一部領土は獲得したが覇権は確立できなかった)
問2
スペイン継承戦争はフランスとイギリスの覇権争いの一環として発生した。
解答:○
問3
ユトレヒト条約でフランスとスペインは同君連合を実現した。
解答:×(→同君連合は禁止された)
問4
ルイ14世は外交で文化を巧みに利用し、フランス文化をヨーロッパに広めた。
解答:○
問5
ルイ14世の度重なる戦争は財政を悪化させ、後のフランス革命の遠因となった。
解答:○
この第3章では、ルイ14世の対外政策と戦争の実態を整理しました。
次の第4章では、ルイ14世死後のフランスと絶対王政の終焉について詳しく解説します。
ルイ14世時代の主要な対外戦争まとめ表
戦争名 | 期間 | 主な相手国 | 原因・目的 | 結果 | 終結条約 |
---|---|---|---|---|---|
南ネーデルランド継承戦争 | 1667〜1668年 | スペイン、オランダ、イギリス、スウェーデン | 妻マリー=テレーズ(スペイン王女)の持参金未払いを理由に、スペイン領ネーデルランド継承権を主張 | オランダ・イギリス・スウェーデンの三国同盟に阻まれ、一部領土のみ獲得 | アーヘン条約(1668年) |
オランダ戦争 | 1672〜1678年 | オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国 | オランダ経済力の抑制とフランス覇権確立を狙う | 当初優勢も多国包囲網により苦戦、フランシュ=コンテ地方獲得のみ成功 | ナイメーヘン条約(1678年) |
ファルツ継承戦争(大同盟戦争) | 1688〜1697年 | 神聖ローマ帝国、オランダ、イギリス、スペイン、スウェーデン | ファルツ選帝侯領の継承権を主張 | イギリス国王ウィリアム3世が大同盟を組織、フランスは劣勢となり現状維持で終結 | ライスワイク条約(1697年) |
スペイン継承戦争 | 1701〜1713年 | イギリス、オランダ、神聖ローマ帝国、プロイセン、ポルトガル | スペイン王カルロス2世死去後、孫フェリペの王位継承をめぐり対立 | フェリペ5世の即位は承認されるも、フランス・スペインの同君連合は禁止、イギリスが大幅に領土拡大 | ユトレヒト条約(1713年) |
この表で押さえるべき入試ポイント
- アーヘン条約(1668年) …南ネーデルランド継承戦争の終結
- ナイメーヘン条約(1678年) …フランシュ=コンテ地方を獲得
- ライスワイク条約(1697年) …ファルツ継承戦争、現状維持
- ユトレヒト条約(1713年) …スペイン継承戦争、イギリスの領土拡大と覇権確立
- イギリスはこの過程でジブラルタル・ニューファンドランド・ハドソン湾地方を獲得
第4章 絶対王政の限界とフランス革命への道
ルイ14世の治世は、フランス絶対王政の頂点であると同時に、その限界の始まりでもありました。
ヴェルサイユ宮殿を中心とした華麗な宮廷文化と積極的な対外戦争は、王権を輝かせる一方で、莫大な財政赤字を生み出し、国内社会を疲弊させます。
さらに、ルイ15世・ルイ16世の時代になると、絶対王政は硬直化し、財政破綻や社会不満が積み重なり、最終的にフランス革命(1789年)を招きました。
この章では、ルイ14世死後のフランスがたどった衰退の道筋を詳しく見ていきます。
4-1. ルイ14世死後のフランスと国際関係の変化
4-1-1. ルイ15世時代(1715〜1774年)
- ルイ15世は幼少で即位し、摂政はオルレアン公フィリップが担当。
- 財政難が深刻化し、財務総監ジョン・ローが紙幣制度改革を試みるも失敗(ミシシッピ会社事件)。
- 外交では、かつて敵対したハプスブルク家と外交革命(1756年)で同盟を結び、七年戦争に参戦。
4-1-2. 七年戦争(1756〜1763年)
- イギリスとの世界規模の覇権争い。
- フランスは北米・インドの植民地を次々と失い、国際的地位が低下。
- パリ条約(1763年)により、フランスはカナダやインドの拠点を放棄し、イギリスが世界の覇権を握る。
4-2. ルイ16世とフランス革命の前夜
4-2-1. 財政危機の深刻化
ルイ16世時代(1774〜1792年)には、ルイ14世以来の戦費・宮廷費・維持費が重くのしかかり、国家財政は危機的状況に陥ります。
- 宮廷費とヴェルサイユ維持費は膨大。
- イギリスとの対立からアメリカ独立戦争(1775〜1783年)を支援し、財政はさらに悪化。
- 増税を試みるも、特権階級である聖職者・貴族が抵抗。
4-2-2. 社会構造の硬直化
- 第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が税負担を免除され、第三身分(平民)に重税が集中。
- 経済危機と食糧不足が深刻化し、民衆の不満が爆発寸前に。
4-3. 絶対王政の限界とフランス革命への道筋
4-3-1. 絶対王政の硬直化
- ルイ14世の権力集中は成功したが、政治参加を排除した結果、柔軟な改革ができない体制となった。
- 財政難への対応は場当たり的で、構造改革は先送りされ続けた。
4-3-2. バスティーユ襲撃と絶対王政の崩壊
- 1789年、財政再建のため召集された三部会で第三身分が対立し、国民議会を結成。
- 7月14日、バスティーユ牢獄襲撃を契機に革命が勃発。
- ルイ16世は処刑され、ブルボン朝絶対王政は崩壊。
4-4. ルイ14世の遺産とその評価
ルイ14世はフランスを「ヨーロッパの中心」に押し上げた一方、その政策は後世に大きな負債を残しました。
- 正の遺産
- フランス文化をヨーロッパに広め、芸術の黄金期を築いた。
- 行政機構の中央集権化を完成させた。
- 負の遺産
- 対外戦争と宮廷費による財政破綻。
- 絶対王政体制の硬直化が改革を阻害し、革命を招いた。
入試で狙われるポイント
- ルイ15世時代の外交革命と七年戦争
- 七年戦争敗北とパリ条約の結果
- ルイ16世時代の財政危機とアメリカ独立戦争支援
- 三部会・国民議会・バスティーユ襲撃の流れ
- ルイ14世の政策が革命へとつながる因果関係
- ルイ14世の政策がフランス革命の遠因となった理由を100字以内で説明せよ。
-
ルイ14世は豪華な宮廷文化と大規模な対外戦争で王権を強化したが、莫大な財政赤字を生み、重税に苦しむ農民の不満を高めた。改革不能な絶対王政体制が社会矛盾を深め、革命の伏線となった。
第4章: フランス絶対王政の確立 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ルイ14世死後、幼少で即位した国王は誰か。
解答:ルイ15世
問2
ルイ15世時代にハプスブルク家との同盟転換を行った出来事を何というか。
解答:外交革命
問3
外交革命の結果、フランスが参戦した戦争は何か。
解答:七年戦争
問4
七年戦争を終結させた条約は何か。
解答:パリ条約(1763年)
問5
七年戦争の結果、フランスが失った重要な植民地はどこか。
解答:カナダ・インドの拠点
問6
ルイ16世が財政難を悪化させた最大の要因は何か。
解答:アメリカ独立戦争の支援
問7
1789年に召集された、聖職者・貴族・平民で構成される会議は何か。
解答:三部会
問8
三部会から分離した第三身分が結成した組織は何か。
解答:国民議会
問9
1789年7月14日に起きたフランス革命の発端となる事件は何か。
解答:バスティーユ牢獄襲撃
問10
ルイ14世の対外戦争と宮廷政策が招いた最大の結果は何か。
解答:財政破綻と絶対王政の崩壊
正誤問題(5問)
問1
外交革命では、フランスはオーストリアと同盟を結んだ。
解答:○
問2
七年戦争ではフランスが勝利し、カナダを新たに獲得した。
解答:×(→イギリスにカナダを失った)
問3
アメリカ独立戦争へのフランス支援は財政赤字を悪化させた。
解答:○
問4
三部会では第一身分と第三身分が結束して改革を進めた。
解答:×(→第一・第二身分が第三身分に抵抗)
問5
バスティーユ牢獄襲撃はフランス革命の象徴的事件とされる。
解答:○
フランス絶対王政の確立とヴェルサイユ宮殿のまとめ
フランスのブルボン朝は、ルイ14世の時代に絶対王政を完成させ、ヴェルサイユ宮殿を中心にヨーロッパの文化・外交・軍事の中心地として君臨しました。
しかし、華麗な宮廷文化と度重なる対外戦争は国家財政を圧迫し、ルイ15世・ルイ16世の時代には財政危機が深刻化。
最終的には社会矛盾が噴出し、フランス革命(1789年)によって絶対王政は崩壊しました。
この記事で解説したポイントを総整理すると、次の3つにまとめられます。
1. フランス絶対王政の確立(ルイ13世〜ルイ14世)
- リシュリュー枢機卿:ユグノー鎮圧・貴族権力削減・三十年戦争参戦
- マザラン枢機卿:フロンドの乱鎮圧で王権基盤を強化
- ルイ14世の親政:
- 「朕は国家なり」
- コルベールによる重商主義
- 貴族統制のためのヴェルサイユ宮殿建設
2. ヴェルサイユ宮殿の政治的役割
- 王権の権威を誇示する「太陽王の象徴」
- 貴族を宮廷に集め、地方での権力を奪う中央集権装置
- 芸術・文化・外交の発信拠点
3. ルイ14世の対外戦争と絶対王政の限界
- オランダ戦争・スペイン継承戦争などで領土拡大を狙う
- 長期戦により国家財政が悪化
- 七年戦争敗北後はイギリスが覇権を握る
- ルイ16世時代には財政危機と社会不満が爆発し、フランス革命へ
おまけ【学習に役立つツール】
ルイ14世時代の主要対外戦争まとめ表
戦争名 | 期間 | 主な相手国 | 原因・目的 | 結果 | 終結条約 |
---|---|---|---|---|---|
南ネーデルランド継承戦争 | 1667〜1668年 | スペイン・オランダ・イギリス・スウェーデン | 妻マリー=テレーズの持参金未払いを口実に継承権主張 | 三国同盟に阻まれ、一部領土のみ獲得 | アーヘン条約 |
オランダ戦争 | 1672〜1678年 | オランダ・スペイン・神聖ローマ帝国 | オランダ経済覇権を奪取 | フランシュ=コンテ地方獲得 | ナイメーヘン条約 |
ファルツ継承戦争 | 1688〜1697年 | 神聖ローマ帝国・オランダ・イギリス | ファルツ地方の継承権争い | 大同盟戦争に発展、現状維持で終結 | ライスワイク条約 |
スペイン継承戦争 | 1701〜1713年 | イギリス・オランダ・神聖ローマ帝国 | スペイン王位継承権争い | フェリペ5世即位も同君連合は禁止 | ユトレヒト条約 |
よく出る誤答パターンまとめ
誤答例 | 正しい知識 |
---|---|
ナントの勅令はルイ14世が発布した | × → アンリ4世が発布(1598年)、ルイ14世は廃止(1685年) |
リシュリューは三十年戦争でカトリック側を支援した | × → カトリック国ながらプロテスタント側を支援 |
フロンドの乱で国王軍が敗北した | × → 反乱軍が敗北、王権が強化 |
ヴェルサイユ宮殿は王の贅沢目的だけで建設された | × → 貴族統制と中央集権化が主目的 |
ユトレヒト条約でフランスとスペインは同君連合を結成した | × → 同君連合は禁止され、フェリペ5世の即位のみ認められた |
七年戦争でフランスがインド・カナダを獲得した | × → イギリスに失った |
バスティーユ牢獄襲撃はルイ14世時代の出来事である | × → ルイ16世時代(1789年) |
学習のポイントまとめ
- ヴェルサイユ宮殿は建築美より政治機能が大事
- ナントの勅令は「発布と廃止」のセットで覚える
- オランダ戦争・スペイン継承戦争・七年戦争の条約名と結果は頻出
- 絶対王政の衰退とフランス革命への因果関係を意識する
ルイ14世の時代年表(ヴェルサイユ宮殿・対外戦争・国内政策)
ルイ14世(在位:1643〜1715年)の治世は、フランス絶対王政の絶頂期であり、同時に衰退の始まりでもあります。
ここでは、国内政策・ヴェルサイユ宮殿・対外戦争を一目で把握できるよう、重要年表を作成しました。入試で狙われる出来事には★をつけています。
ルイ14世の時代 年表
年 | 出来事 | 分野 | ポイント |
---|---|---|---|
1643年 | ルイ14世即位(当時5歳) | 国内 | 母アンヌ・ドートリッシュとマザラン枢機卿が摂政 |
1648年★ | ヴェストファーレン条約 | 外交 | 三十年戦争終結、アルザスを獲得 |
1648〜1653年★ | フロンドの乱 | 国内 | 貴族・高等法院・市民が王権に反乱 → マザラン勝利 |
1661年★ | マザラン死去、ルイ14世親政開始 | 国内 | 「朕は国家なり」発言で象徴される絶対王政開始 |
1661年★ | ヴェルサイユ宮殿建設開始 | 宮殿 | 貴族統制+王権誇示のための「権力装置」 |
1667〜1668年★ | 南ネーデルランド継承戦争 | 戦争 | 妻マリー=テレーズの継承権主張、アーヘン条約で一部領土獲得 |
1672〜1678年★ | オランダ戦争 | 戦争 | オランダ経済覇権を狙う → ナイメーヘン条約でフランシュ=コンテ地方獲得 |
1682年★ | 政府機能をヴェルサイユ宮殿へ移転 | 宮殿 | 宮廷政治を完成、貴族統制を強化 |
1685年★ | ナントの勅令廃止 | 宗教 | プロテスタント(ユグノー)弾圧、亡命者多数 |
1688〜1697年★ | ファルツ継承戦争(大同盟戦争) | 戦争 | ファルツ継承権主張 → ライスワイク条約で現状維持 |
1701〜1713年★★ | スペイン継承戦争 | 戦争 | 孫フェリペのスペイン王位継承をめぐる戦争 → ユトレヒト条約でフェリペ5世即位、同君連合禁止 |
1713年★ | ユトレヒト条約 | 外交 | イギリスがジブラルタルなど獲得、海上覇権確立 |
1715年★ | ルイ14世死去 | 国内 | 在位72年、フランス絶対王政の象徴的時代が終焉 |
年表のポイント整理
1. 国内政策
- 1661年の親政開始を絶対王政の始点として押さえる。
- ヴェルサイユ宮殿建設(1661〜)と政府移転(1682年)はセットで暗記。
- ナントの勅令廃止(1685年)は宗教政策のターニングポイント。
2. 対外戦争
- ルイ14世時代の主要戦争は 4つ。
- 南ネーデルランド継承戦争(1667〜1668) → アーヘン条約
- オランダ戦争(1672〜1678) → ナイメーヘン条約
- ファルツ継承戦争(1688〜1697) → ライスワイク条約
- スペイン継承戦争(1701〜1713) → ユトレヒト条約
- 条約名と戦争名のセット暗記が入試対策の鉄則。
3. 財政破綻とその影響
- 戦費+宮廷費が財政を圧迫。
- 農民への重税 → 社会不満 → フランス革命の伏線。
よく出る誤答パターン(ルイ14世時代 年表関連)
誤答例 | 正しい知識 |
---|---|
ヴェルサイユ宮殿は1682年に建設を開始した | × → 建設開始は1661年、1682年は政府移転 |
ナントの勅令はルイ14世が発布した | × → アンリ4世が発布(1598年)、ルイ14世は廃止 |
ユトレヒト条約でフランスとスペインは同君連合を実現した | × → 同君連合は禁止された |
七年戦争はルイ14世時代に起きた | × → 七年戦争はルイ15世時代(1756〜1763年) |
フロンドの乱で王権が弱体化した | × → 王権が強化された |
【図解】フランス絶対王政と戦争の流れ(ルイ13世〜ルイ16世)
【1618〜1648年】★三十年戦争
└ 宰相リシュリューの外交
・カトリック国フランスがプロテスタント側を支援
・ハプスブルク家包囲網を崩す
↓
【結果】ヴェストファーレン条約(1648年)
→ アルザス獲得
→ フランスの国際的地位が上昇
↓
【1648〜1653年】★フロンドの乱(国内動乱)
└ 三十年戦争の重税+中央集権化への反発
・貴族・パリ高等法院・市民が反乱
・宰相マザラン勝利 → 貴族権力弱体化
↓
【影響】幼少期のルイ14世が反乱の恐怖を体験
「貴族統制」の必要性を痛感
→ ヴェルサイユ宮殿建設へ
=======================
↓ ↓ ↓ 【ルイ14世親政開始:1661年】(ルイ14世の在位は1643年~)
=======================
【1667〜1668年】★南ネーデルランド継承戦争
・目的:スペイン領ネーデルランド継承権主張
・結果:一部獲得 → アーヘン条約
【1672〜1678年】★オランダ戦争
・目的:オランダ経済覇権奪取
・結果:フランシュ=コンテ獲得 → ナイメーヘン条約
【1688〜1697年】★ファルツ継承戦争
・目的:ファルツ継承権主張
・結果:大同盟軍に苦戦 → ライスワイク条約(現状維持)
【1701〜1713年】★★スペイン継承戦争
・目的:孫フェリペのスペイン王位継承
・結果:フェリペ5世即位も同君連合禁止
→ ユトレヒト条約
=======================
↓ ↓ ↓ 【ルイ14世死去:1715年】
=======================
【1756〜1763年】★七年戦争(ルイ15世時代)
・イギリス vs フランス(+オーストリア同盟)
・結果:フランス大敗
→ カナダ・インドの拠点失う
→ パリ条約(1763年)
→ イギリスが世界覇権を確立
↓
【1775〜1783年】★アメリカ独立戦争(ルイ16世時代)
・フランスがイギリスに対抗するため独立派を支援
・結果:アメリカ独立承認 → ヴェルサイユ条約(1783年)
・戦費増大で財政破綻が深刻化
↓
【1789年】★★フランス革命勃発
・バスティーユ牢獄襲撃
・ブルボン朝絶対王政の終焉

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