17世紀末、ルイ14世の拡張政策はヨーロッパの均衡を崩し、アウクスブルク同盟戦争(別名:ファルツ継承戦争、1688〜1697)が勃発しました。
ファルツ地方の継承問題を契機に、フランスとイギリス・オランダ・神聖ローマ帝国などの諸国が激突。
この戦争は北米のウィリアム王戦争とも連動し、後のスペイン継承戦争へ続く重要な転換点となります。
この戦争は、ルイ14世の拡張政策に危機感を抱いたイギリス、オランダ、神聖ローマ帝国、スペイン、スウェーデンなどが結成したアウクスブルク同盟との大規模な戦いで、ヨーロッパ各地を戦場とした一方、北米でも同時期にウィリアム王戦争が展開されました。
本記事では、アウクスブルク同盟戦争の背景・経過・結果を、関連する条約や他の戦争とのつながりも含めて詳しく解説します。
さらに、入試に頻出する論点や一問一答問題、よくある誤答パターンも紹介し、世界史受験生が確実に得点できるレベルまで理解を深めます。
第1章 アウクスブルク同盟戦争(別名:ファルツ継承戦争)の背景と開戦
アウクスブルク同盟戦争の理解には、ルイ14世がなぜ周辺諸国から敵視されたのかを把握することが重要です。
ファルツ継承問題を契機に、ヨーロッパの国際秩序は大きく揺らぎ、ルイ14世は孤立していきます。この章では、戦争に至るまでの外交的背景と開戦の経緯を詳しく見ていきましょう。
1-1 ルイ14世の拡張政策と諸国の警戒
ルイ14世(在位1643〜1715)は、フランス絶対王政を象徴する君主であり、フランス領拡大のため積極的な軍事行動を取ります。
- フランシュ=コンテ地方の併合(1668)
- オランダ戦争(1672〜1678)で南ネーデルラントの一部を獲得
- 再統合法(1680年)による領土拡張
これらの動きは周辺諸国に強い警戒心を抱かせ、特にオランダ・神聖ローマ帝国・イギリスは「フランス包囲網」形成に動きます。
1-2 ファルツ継承問題と戦争の勃発
1685年、神聖ローマ帝国内のプファルツ選帝侯領が断絶すると、ルイ14世は王妃の血統を理由に継承権を主張します。
しかし神聖ローマ皇帝レオポルト1世はこれを拒否。これによりフランスと神聖ローマ帝国間で緊張が高まりました。
さらに、プロテスタント諸国を中心にアウクスブルク同盟(1686年)が結成され、フランスに対抗する体制が固まります。1688年、ルイ14世はライン川流域へ侵攻し、戦争が勃発しました。
1-3 戦争の主要な参戦国と同盟関係
- フランス:ルイ14世率いる強大な軍事力
- アウクスブルク同盟:
- 神聖ローマ帝国(レオポルト1世)
- イングランド王国(ウィリアム3世)
- オランダ共和国
- スペイン
- スウェーデン など
このように「ルイ14世 vs ヨーロッパ諸国連合」という構図で、戦争はヨーロッパ全土に拡大しました。
1-4 入試で狙われるポイント
- ファルツ継承問題とルイ14世の継承権主張
- アウクスブルク同盟の結成背景
- 北米でのウィリアム王戦争との同時進行
- 戦争終結のライスワイク条約(1697)の内容
- ルイ14世の拡張政策がアウクスブルク同盟戦争を引き起こした背景と、その結果ヨーロッパ国際秩序がどのように変化したか、200字程度で説明せよ。
-
ルイ14世はフランス絶対王政の強化を図り、フランシュ=コンテ併合やオランダ戦争を通じて領土拡大を推進した。1685年のファルツ継承問題を機に、王妃の血統を理由に継承権を主張したことが神聖ローマ帝国などの反発を招き、1686年にはアウクスブルク同盟が結成された。戦争は1697年のライスワイク条約で終結し、フランスは占領地を返還。ヨーロッパではフランス一強から多極的均衡体制への転換が進んだ。
第1章: アウクスブルク同盟戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
アウクスブルク同盟戦争の発端となった領土継承問題は何か。
解答:ファルツ継承問題
問2
アウクスブルク同盟戦争が始まったのは西暦何年か。
解答:1688年
問3
アウクスブルク同盟を主導した神聖ローマ皇帝は誰か。
解答:レオポルト1世
問4
イングランド王としてアウクスブルク同盟に参加したのは誰か。
解答:ウィリアム3世
問5
アウクスブルク同盟戦争中、北米で同時に起きた戦争は何か。
解答:ウィリアム王戦争
問6
アウクスブルク同盟戦争の終結条約は何か。
解答:ライスワイク条約
問7
ライスワイク条約でフランスが返還した地域はどこか。
解答:ファルツ地方などライン川西岸の占領地
問8
ルイ14世の再統合法は何年に制定されたか。
解答:1680年
問9
ルイ14世がオランダ戦争で獲得した南ネーデルラントの要地はどこか。
解答:フランシュ=コンテ地方
問10
アウクスブルク同盟戦争でイギリスが参戦する契機となった革命は何か。
解答:名誉革命
正誤問題(5問)
問1
アウクスブルク同盟戦争はルイ14世のスペイン継承権主張を契機に勃発した。
解答:誤り → スペイン継承戦争ではなく、ファルツ継承問題が契機。
問2
アウクスブルク同盟戦争はライスワイク条約でフランスの大勝に終わった。
解答:誤り → フランスは一部領土を返還し、拡張は制限された。
問3
ウィリアム王戦争はアウクスブルク同盟戦争と同時期に北米で起こった。
解答:正しい
問4
アウクスブルク同盟にはオランダ共和国は参加していなかった。
解答:誤り → 主要メンバーとして参加。
問5
アウクスブルク同盟戦争はフランス対イギリス単独の戦争であった。
解答:誤り → 神聖ローマ帝国やスペインなどを含む多国間戦争。
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
アウクスブルク同盟戦争=スペイン継承戦争 | × → ファルツ継承問題が契機 |
フランスが完全勝利した | × → リスウィック条約で占領地返還 |
ウィリアム王戦争は別の時代の戦争 | × → 同時期に北米で勃発 |
イギリスは名誉革命後に中立を維持した | × → ウィリアム3世が積極参戦 |
第2章 アウクスブルク同盟戦争の戦局と講和
戦争は欧州本土の複数戦線と制海権をめぐる海戦、さらに北米のウィリアム王戦争とも連動して進みました。
ここでは年次の流れを押さえつつ、主戦場ごとの要点を深掘りし、最後にライスワイク条約(1697)の具体的内容と歴史的意義を整理します。
2-1 戦局の概観(年次のながれ)
- 1688–1689:フランスがライン方面へ侵攻。プファルツ地方の破壊(焦土化命令)で補給線遮断を狙う。
- 1690:仏海軍がビーチー・ヘッドの海戦で連合艦隊に勝利。陸上ではフランドル方面で激戦が続く。
- 1692–1693:要塞戦の白熱期。ナミュール要塞(1692)を仏が攻略/ラ・ウーグの海戦(1692)で仏艦隊が打撃を受け、仏の上陸作戦(ジャコバイト復位)の頓挫が決定的に。ランデン(1693)など陸戦では仏が戦術的勝利も、決定打を欠く。
- 1695:連合軍がナミュールを奪回。同年、仏がブリュッセル砲撃を敢行するも戦略的効果は限定。
- 1696:サヴォイア公国が単独講和(トリノ条約)、イタリア戦線が縮小。
- 1697:仏軍がバルセロナを陥落させる一方、全体としては膠着し、ライスワイク条約で講和。
2-2 主戦場ごとの詳細
2-2-1 ネーデルラント戦線(フランドル・ブリュッセル周辺)
- 要塞戦の中心:要塞建築の名将ヴォーバンの下、仏軍はナミュール(1692)を攻略。
- 反攻と奪回:ウィリアム3世率いる連合軍が1695年にナミュール奪回。この奪回は戦局転換の象徴。
- 主な陸戦:
- スティーンケルケ(1692):仏軍勝利。
- ランデン/ネールヴィンデン(1693):仏軍勝利、ただし戦略的決着には至らず。
- 都市被害:1695年ブリュッセル砲撃で市街が甚大な被害。心理的効果はあったが、決戦回避の仏戦略は依然として限界を露呈。
2-2-2 ライン・ドイツ戦線(プファルツ・モーゼル・ライン上流域)
- 開戦直後の焦土化:仏軍はプファルツの破壊(1688–89)で連合軍の足場を削ぐ。
- 攻防の膠着:マインツ/ハイデルベルク周辺などで攻囲と奪還が繰り返され、消耗戦の様相。
- 国際政治的効果:神聖ローマ帝国の「帝国防衛」意識を高め、同盟の結束をむしろ強化。
2-2-3 イタリア戦線(ピエモンテ・サヴォイア周辺)
- 参戦と寝返り:サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は当初仏と提携も、のちに大同盟側へ。
- 主な会戦:
- スタッファルダ(1690):仏勝利。
- マルサーリャ(1693):仏勝利。
- 単独講和:1696年トリノ条約でサヴォイアが離脱。イタリア戦線は沈静化し、仏は兵力を他戦域へ回せる体制に。
2-2-4 イベリア=カタルーニャ戦線
- 加圧の焦点移動:南ネーデルラントの圧力を緩める一方で、仏はカタルーニャ正面で攻勢。
- 1697年、ヴァンドーム公の指揮でバルセロナ陥落。講和直前の仏の戦果として記憶される。
2-2-5 海戦・制海権・財政(英蘭“財政=軍事国家”の成立)
- 海戦の分岐点:
- ビーチー・ヘッド(1690):仏勝利。
- ラ・ウーグ(1692):連合艦隊勝利で、仏のイングランド上陸構想が頓挫。
- 通商戦(私掠):仏の私掠戦(ダンケルク海賊・ジャン・バール)が英蘭の通商に痛打。
- 財政革命:イングランドはイングランド銀行(1694)創設と長期国債で戦費を持続可能化。“財政=軍事国家”としての体制整備が進み、以後の海上覇権の基盤となる。
- フランスの行き詰まり:不作・飢饉(1693–94)や海軍打撃で供給網が圧迫され、決定的勝利を獲る力を欠いた。
2-3 ライスワイク条約(1697)の内容と意義
- 王位承認:フランスはウィリアム3世をイングランド王として承認(名誉革命の国際承認)。
- 領土復帰:フランスは南ネーデルラント(スペイン領ネーデルラント)の多くをスペインに返還、ロレーヌ公国の回復を認めるなど、1679年以降の獲得地の大半を整理・返還。
- フランスが保持:ストラスブールなどアルザスの核心は保持し、東部国境の要衝を確保。
- 国際秩序上の意義:フランス一強の抑止、多極的均衡の再確認。とはいえ、スペイン継承問題が未解決で、次の大戦(スペイン継承戦争)への序章となる。
2-4 戦争の影響と次への連続性
- 軍事・財政の近代化:英は議会財政+海軍力の黄金パターンを確立。蘭は金融で主導。
- フランスの限界:陸上の強さは維持も、制海権・財政持久力で英蘭連合に劣後。
- 次戦への接続:スペイン王位継承をめぐる外交は解決せず、1701年以降の全面戦争へと連なっていく。
2-5 入試で狙われるポイント
- ナミュール要塞:1692年仏攻略→1695年連合軍奪回(転換点)。
- 二つの決定的海戦:ビーチー・ヘッド(1690)とラ・ウーグ(1692)の勝敗関係。
- サヴォイアの単独講和(1696)=トリノ条約。
- リスウィック条約:ウィリアム3世承認/ロレーヌ回復/ストラスブール保持のセットで記憶。
- 北米との連動:同時期のウィリアム王戦争(英仏植民地戦争第1弾)。
- アウクスブルク同盟戦争における「要塞戦・海戦・財政」の三要素が戦局と講和内容に与えた影響を、具体例を交えて200〜250字で説明せよ。
-
本戦争はフランドルの要塞戦が核心で、仏のナミュール攻略(1692)に対し連合軍が1695年に奪回し、陸戦は膠着した。他方、海上では仏がビーチー・ヘッド(1690)で勝つもラ・ウーグ(1692)で大敗し、英仏海上優位は英蘭側へ傾いた。財政面ではイングランド銀行創設(1694)に象徴される公債動員で英は持久力を獲得、仏は飢饉や通商阻害で疲弊。結果、ライスワイク条約では仏が南ネーデルラント等を返還しつつもストラスブールを保持、均衡回復の妥協が成立した。
第2章: アウクスブルク同盟戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1690年、仏艦隊が連合艦隊に勝利した海戦は何か。
解答:ビーチー・ヘッドの海戦
問2
1692年、英蘭連合が仏艦隊に決定的打撃を与えた海戦は何か。
解答:ラ・ウーグの海戦
問3
1692年に仏軍が攻略し、1695年に連合軍が奪回した要塞都市はどこか。
解答:ナミュール
問4
1695年、仏軍が市街砲撃で大被害を与えた都市はどこか。
解答:ブリュッセル
問5
イタリア戦線で1690年に仏軍が勝利した会戦を一つ答えよ。
解答:スタッファルダの戦い(またはマルサーリャの戦い)
問6
1696年、サヴォイア公国がフランスと結んだ単独講和は何というか。
解答:トリノ条約
問7
1697年、仏軍がカタルーニャで陥落させた都市はどこか。
解答:バルセロナ
問8
ライスワイク条約でフランスがイングランド王として承認したのは誰か。
解答:ウィリアム3世
問9
ライスワイク条約で回復が認められた公国はどこか。
解答:ロレーヌ公国
問10
1694年に創設され、イングランドの戦費調達を支えた金融機関は何か。
解答:イングランド銀行
正誤問題(5問)
問1
ラ・ウーグの海戦(1692)ではフランス艦隊が英蘭連合艦隊を撃破した。
解答:誤り → 英蘭連合の勝利で、仏の上陸構想は頓挫。
問2
1695年、連合軍はナミュールを再び奪回した。
解答:正しい
問3
サヴォイア公国は終戦まで大同盟側として一度も講和しなかった。
解答:誤り → 1696年トリノ条約でフランスと単独講和。
問4
ライスワイク条約でフランスはウィリアム3世をイングランド王として承認した。
解答:正しい
問5
ライスワイク条約でフランスはロレーヌを保持し、ストラスブールを返還した。
解答:誤り → ロレーヌは公国回復、ストラスブールはフランス保持。
よくある誤答パターンまとめ(第2章)
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ラ・ウーグ(1692)=仏勝利 | × → 英蘭連合勝利。仏上陸計画が挫折。 |
ナミュール:1692仏攻略→そのまま終戦まで保持 | × → 1695連合軍が奪回。 |
サヴォイアは終戦まで同盟側で継戦 | × → 1696トリノ条約で単独講和。 |
リスウィック条約=ストラスブール返還・ロレーヌ保持 | × → ストラスブール保持・ロレーヌ回復が正。 |
ブリュッセル砲撃=戦局決定打 | × → 破壊は甚大も戦略的決着には非。 |
第3章 アウクスブルク同盟戦争の歴史的意義とスペイン継承戦争への接続
アウクスブルク同盟戦争(1688〜1697)は、単なる一時的な大戦ではなく、17世紀後半ヨーロッパ国際秩序の転換点でした。
ルイ14世の「太陽王としての栄光」を削ぐと同時に、イギリスを中心とした新しい勢力均衡体制が浮上する契機となり、さらに次のスペイン継承戦争(1701〜1713)への直接的な序章でもあります。
この章では、戦争の総合的意義を3つの視点から整理し、入試で狙われる論点も踏まえて解説します。
3-1 国際秩序の転換:フランス一強から勢力均衡へ
フランス絶対王政の限界
ルイ14世はオランダ戦争・再統合法などでフランスの勢力圏を最大化しましたが、アウクスブルク同盟戦争を経て、拡張路線には限界が見え始めます。
- 仏は依然としてストラスブールなど戦略拠点を保持するも、
- 南ネーデルラント・ロレーヌなど占領地の多くを返還、
- 「フランス一強」から「多極的均衡」へとシフトしました。
イギリスの国際的浮上
- 名誉革命(1688)→ウィリアム3世即位により、イングランドは大陸外交の主役へ。
- イングランド銀行創設(1694)で「財政=軍事国家」体制を確立し、
- 海上覇権と金融力を軸に18世紀の英仏対立で主導権を握る基盤を整えます。
3-2 海外植民地戦争との連動:ウィリアム王戦争
北米での戦争
アウクスブルク同盟戦争と同時期、北米ではウィリアム王戦争(1689〜1697)が勃発しました。
- 主戦場はニューイングランド植民地(イギリス) vs ニュー・フランス(フランス)。
- 先住民を巻き込んだ残虐な戦闘も多く、後のフレンチ=インディアン戦争の伏線となります。
- 結果はヨーロッパ戦線と同様、ライスワイク条約で現状維持。
英仏植民地戦争シリーズへの布石
- ウィリアム王戦争は英仏植民地戦争4回シリーズの第1弾:
- ウィリアム王戦争(1689〜1697)
- アン女王戦争(1702〜1713)
- ジョージ王戦争(1744〜1748)
- フレンチ=インディアン戦争(1754〜1763)
入試でも「北米でのウィリアム王戦争=アウクスブルク同盟戦争と同時期」というリンクを問う問題が増えているので、両方をセットで押さえるのが得点のカギです。
3-3 スペイン継承戦争への接続
未解決のスペイン王位継承問題
アウクスブルク同盟戦争後も、スペイン王カルロス2世に後継がいないという問題は残りました。
フランスはブルボン家フェリペ(ルイ14世孫)を推し、神聖ローマ帝国はハプスブルク家カール大公を擁立。
この対立が1701年のスペイン継承戦争に直結します。
力の均衡の再挑戦
アウクスブルク同盟戦争は一時的な妥協で終わりましたが、ルイ14世は次こそヨーロッパ覇権を確立しようと動き、
結果的にさらに大規模で長期化する戦争を招くことになります。
3-4 入試で狙われるポイント
- 国際秩序の転換:ルイ14世の一強体制が揺らいだこと
- イギリスの浮上:財政=軍事国家化+ウィリアム3世外交
- ウィリアム王戦争との連動:北米戦線は同時進行
- スペイン継承問題:解決先送り→次の大戦への布石
- アウクスブルク同盟戦争が17世紀末ヨーロッパ国際秩序に与えた影響を、イギリスとフランスの動向を中心に200〜250字で説明せよ。
-
ルイ14世は再統合法などで領土拡大を進めたが、アウクスブルク同盟戦争では南ネーデルラント・ロレーヌなどを返還し、フランス一強体制は揺らいだ。一方、イギリスは名誉革命後にウィリアム3世が即位し、アウクスブルク同盟に加わり、財政=軍事国家化を進めた。1694年のイングランド銀行創設を契機に、持続的な戦費調達体制を確立し、海上覇権を強化した。戦後はライスワイク条約で一時的均衡が成立するが、スペイン継承問題が未解決で、ヨーロッパは再び大戦に向かうこととなった。
第3章: アウクスブルク同盟戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
アウクスブルク同盟戦争でイギリス国王として参戦した人物は誰か。
解答:ウィリアム3世
問2
ウィリアム王戦争の主戦場となった地域はどこか。
解答:北米(ニューイングランド植民地とニュー・フランス)
問3
ライスワイク条約でフランスが保持した要衝都市はどこか。
解答:ストラスブール
問4
ライスワイク条約でフランスが返還した公国はどこか。
解答:ロレーヌ公国
問5
アウクスブルク同盟戦争後も未解決のままだった大問題は何か。
解答:スペイン王位継承問題
問6
イングランド銀行が創設されたのは西暦何年か。
解答:1694年
問7
ウィリアム王戦争と同時期に戦われたヨーロッパ戦争は何か。
解答:アウクスブルク同盟戦争
問8
ウィリアム王戦争は英仏植民地戦争シリーズの第何弾か。
解答:第1弾
問9
ライスワイク条約でイギリス国王として承認された人物は誰か。
解答:ウィリアム3世
問10
アウクスブルク同盟戦争後、次に起こった大規模戦争は何か。
解答:スペイン継承戦争
正誤問題(5問)
問1
ライスワイク条約でフランスはスペイン継承権を獲得した。
解答:誤り → スペイン継承問題は未解決。
問2
ウィリアム王戦争はアウクスブルク同盟戦争と同時期に北米で行われた。
解答:正しい
問3
イングランド銀行はウィリアム3世時代の戦費調達を目的に設立された。
解答:正しい
問4
アウクスブルク同盟戦争後、フランスは完全な覇権を確立した。
解答:誤り → 勢力均衡が形成され、覇権は限定的に。
問5
アウクスブルク同盟戦争の講和は1713年のユトレヒト条約で成立した。
解答:誤り → 1697年のライスワイク条約。
よくある誤答パターンまとめ(第3章)
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
リスウィック条約=スペイン継承権確定 | × → 継承問題は解決せず、次戦へ持ち越し |
ウィリアム王戦争=別時期の戦争 | × → 同時期に北米で進行 |
リスウィック条約=フランスの完全勝利 | × → 一部拠点保持も占領地は返還、均衡が成立 |
イングランド銀行=18世紀初頭の創設 | × → 1694年創設 |
スペイン継承戦争=アウクスブルク同盟戦争の別名 | × → 全く別の戦争 |
まとめ:アウクスブルク同盟戦争の総合整理
アウクスブルク同盟戦争(1688〜1697)は、ルイ14世の拡張政策とヨーロッパ諸国の危機感が激突した大戦争でした。
結果としてフランス一強体制は揺らぎ、イギリスが国際舞台で台頭し、北米ではウィリアム王戦争が同時進行。
ライスワイク条約で一時的に均衡が成立したものの、スペイン王位継承問題は未解決で、次の大戦への道が続きます。
ここでは、重要年表をまとめます。
アウクスブルク同盟戦争・ウィリアム王戦争 年表
年 | ヨーロッパ戦線(アウクスブルク同盟戦争) | 北米戦線(ウィリアム王戦争) | 主な出来事・講和 |
---|---|---|---|
1686 | アウクスブルク同盟結成(神聖ローマ帝国・イングランド・オランダ・スペイン・スウェーデンなど) | — | 対フランス包囲網形成 |
1688 | フランス軍、ライン川方面侵攻・プファルツ地方焦土化 | — | 戦争勃発 |
1689 | ウィリアム3世、名誉革命後にイギリス王に即位 | ウィリアム王戦争勃発 | 北米でも英仏衝突 |
1690 | ビーチー・ヘッドの海戦:仏艦隊が勝利 | イロコイ族を巻き込んだ抗争激化 | 英仏対立が本格化 |
1692 | ナミュール要塞攻略(仏軍) ラ・ウーグの海戦:英蘭連合艦隊勝利 | アカディア(現カナダ東部)をめぐる攻防 | 仏のイングランド上陸計画が頓挫 |
1693 | ランデンの戦い:仏軍戦術勝利 | — | 戦局は膠着 |
1695 | ナミュール要塞奪回(連合軍) | — | 戦局の転換点 |
1696 | サヴォイア公国単独講和(トリノ条約) | — | イタリア戦線縮小 |
1697 | バルセロナ陥落(仏軍) | ライスワイク条約で現状維持 | 戦争終結 |
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
アウクスブルク同盟戦争=スペイン継承戦争 | × → 別戦争。原因も講和も異なる |
リスウィック条約=フランス大勝利 | × → フランスは一部保持も大半返還 |
ウィリアム王戦争は別時期 | × → 同時期(1689〜97) |
イングランド銀行=18世紀初頭設立 | × → 1694年創設 |
スペイン王位継承問題はリスウィック条約で解決 | × → 未解決のまま次戦へ |
まとめ
アウクスブルク同盟戦争は、ルイ14世の拡張政策に対するヨーロッパの総抵抗という構図で、ヨーロッパ・北米を巻き込んだ「初期の世界戦争」的性格を持っていました。
戦争後は勢力均衡体制が再確認され、イギリスが海上覇権の基盤を確立します。
しかし、スペイン王位継承問題の未解決により、わずか4年後には再びヨーロッパを二分する戦争に突入します。
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