1740年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世が崩御すると、ヨーロッパは一気に混乱へと突入しました。
後継ぎを欠いたことで勃発したオーストリア継承戦争(1740〜1748年)は、単なる王位継承問題にとどまらず、ヨーロッパ各国を巻き込んだ大規模な国際戦争となります。
さらに、この戦争はヨーロッパだけでなく、北米やインドにも波及し、ジョージ王戦争(北米戦線)や第一次カルナーティック戦争(インド戦線)として展開。
世界史的に見れば、第一次「世界規模戦争」と位置づけることもできます。
この記事では、
- プラグマティック=サンクションと戦争勃発の背景
- ヨーロッパでの主要戦局
- 北米戦線(ジョージ王戦争)
- インド戦線(第一次カルナーティック戦争)
- アーヘンの和約と外交革命への布石
を詳しく解説します。
最後に、一問一答・正誤問題・誤答パターンもまとめ、入試対策にも対応した決定版にします。
第1章 オーストリア継承戦争の勃発と世界規模の戦局
オーストリア継承戦争は、マリア=テレジアの即位をめぐる対立が引き金となりました。
しかし、その影響はヨーロッパだけでなく、北米・インドの植民地にまで広がり、結果的に英仏を中心とした世界規模の対立を引き起こします。
プラグマティック=サンクションとマリア=テレジア即位問題
1713年、ハプスブルク家のカール6世は男子後継者を得られず、娘マリア=テレジアに王位を継がせるため、プラグマティック=サンクション(国事詔書)を発布しました。
これは「ハプスブルク家の全領土は一体として不可分で、女子にも相続権を認める」という内容です。
当初、フランス・プロイセンを含むヨーロッパ諸国はこれを承認しました。
しかし、1740年にカール6世が崩御すると、状況は一変。
- プロイセン王フリードリヒ2世:シュレージエンを要求して侵攻
- フランス:オーストリアの弱体化を狙い参戦
- バイエルン選帝侯:神聖ローマ皇帝位を狙い対立
- スペイン:イタリア領土を狙って介入
これに対し、オーストリアを支持するイギリス・ハノーヴァー・オランダが連合。
こうしてヨーロッパは大きくオーストリア支持陣営 vs 反オーストリア陣営に分裂し、戦争へ突入しました。
ヨーロッパ戦線:シュレージエン戦争とバイエルン継承問題
戦局の焦点は、工業地帯であるシュレージエン地方の帰属問題でした。
- 1740年:プロイセン軍がシュレージエンに侵攻
- 1742年 ベルリン条約:オーストリアはシュレージエンをプロイセンに割譲
- プロイセンはここで一時戦線を離脱するが、影響力を大きく高めた
また、バイエルン選帝侯カール7世が神聖ローマ皇帝に選出されるも、戦局の主導権は依然としてマリア=テレジアとフリードリヒ2世の対立に集中します。
北米戦線:ジョージ王戦争(1744〜48年)
オーストリア継承戦争は、北米植民地でもジョージ王戦争として展開しました。
英仏両国の植民地対立が激化し、特に次の点が重要です。
- 主戦場:イギリス領ニューイングランドとフランス領カナダ
- 象徴的事件:1745年、イギリス軍がルイブルク要塞を攻略
- しかし1748年のアーヘンの和約で、要塞はフランスに返還され、
戦勝した北米植民者の不満が高まりました。
この北米戦線の火種は、その後のフレンチ=インディアン戦争(七年戦争期)へと引き継がれます。
さらに戦火はインドへも及びます。
英東インド会社と仏印会社の対立が激化し、南インドのカルナータカ地方で戦闘が勃発しました。
インド戦線:第一次カルナーティック戦争(1746〜48年)
- 1746年:フランスがマドラスを占領
- 1748年:アーヘンの和約でマドラスはイギリスに返還
- インド支配の主導権をめぐる英仏対立は、後のプラッシーの戦い(1757年)へと続く伏線となりました。
入試で狙われるポイント
- プラグマティック=サンクションの意義と内容
- マリア=テレジア即位問題とフリードリヒ2世の侵攻
- シュレージエン戦争とベルリン条約
- 北米戦線のルイブルク要塞攻防
- インド戦線での第一次カルナーティック戦争
- オーストリア継承戦争がヨーロッパ政治と植民地政策に与えた影響について、外交革命や七年戦争へのつながりに触れながら、200字程度で述べよ。
-
オーストリア継承戦争は、マリア=テレジアの即位をめぐる争いから始まったが、シュレージエンを獲得したプロイセンの台頭により、ヨーロッパの勢力均衡を大きく変えた。また、英仏は北米・インドでも戦火を交え、植民地競争が激化した。戦後、アーヘンの和約で戦争は終結したが、オーストリアはシュレージエン奪回を狙い、かつての仏敵であるフランスと同盟を結ぶ外交革命に踏み切った。この結果、英仏・墺普が再編され、七年戦争へとつながった。
第1章: オーストリア継承戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
マリア=テレジアの相続を承認させるためにカール6世が発布した国事詔書を何というか。
解答:プラグマティック=サンクション
問2
オーストリア継承戦争が勃発した年は西暦何年か。
解答:1740年
問3
シュレージエンを占領したプロイセン王は誰か。
解答:フリードリヒ2世
問4
オーストリア継承戦争を終結させた講和条約は何か。
解答:アーヘンの和約
問5
北米戦線で行われたオーストリア継承戦争の一部を何というか。
解答:ジョージ王戦争
問6
ジョージ王戦争で激戦となった要塞の名前は何か。
解答:ルイブルク要塞
問7
インドでの第一次カルナーティック戦争は何年から何年までか。
解答:1746〜1748年
問8
オーストリア継承戦争の結果、シュレージエンを得た国はどこか。
解答:プロイセン
問9
オーストリア継承戦争後の外交再編を何というか。
解答:外交革命
問10
オーストリア継承戦争と次の七年戦争との間にある、プロイセンとオーストリアの対立の根本原因は何か。
解答:シュレージエン領有権問題
正誤問題(5問)
問1
プラグマティック=サンクションは、男子相続を優先することを定めた法律である。
解答:×(女子にも相続権を認めた)
問2
シュレージエン戦争では、オーストリアがシュレージエンを獲得した。
解答:×(プロイセンが獲得した)
問3
ジョージ王戦争は、オーストリア継承戦争とは無関係に北米で行われた戦争である。
解答:×(オーストリア継承戦争の一部として行われた)
問4
アーヘンの和約でオーストリアはシュレージエンを失ったが、マリア=テレジアの即位は承認された。
解答:○
問5
第一次カルナーティック戦争は、イギリスとフランスの植民地戦争の一環であった。
解答:○
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
プラグマティック=サンクションは男子優先相続を定めた | × → 女子にも相続権を認める |
シュレージエンを得たのはオーストリア | × → プロイセン |
ジョージ王戦争は七年戦争の一部 | × → オーストリア継承戦争の一部 |
アーヘンの和約でシュレージエンはオーストリアに戻った | × → プロイセン領となった |
カルナーティック戦争はオランダとイギリスの対立 | × → フランスとイギリスの対立 |
第2章 アーヘンの和約と外交革命への布石
オーストリア継承戦争は8年にわたりヨーロッパを戦火に巻き込みましたが、1748年に締結されたアーヘンの和約によって終結を迎えます。
しかし、戦争は決着をつけるどころか、逆に各国の対立を深める結果となりました。
特に、プロイセン台頭とシュレージエン問題、さらに英仏の植民地競争は決して解決せず、その後の外交革命と七年戦争への伏線を形成します。
アーヘンの和約(1748年)の内容
オーストリア継承戦争を終結させた講和条約が、アーヘンの和約です。
主な内容は以下のとおりです。
項目 | 内容 |
---|---|
マリア=テレジアの即位 | 諸国が正式に承認 |
シュレージエン | プロイセン領として確定 |
イタリア領土 | スペイン・オーストリア間で一部再配分 |
北米戦線 | ルイブルク要塞をフランスへ返還 |
インド戦線 | マドラスをイギリスへ返還 |
重要ポイント
- マリア=テレジアは皇后としての地位を確保したが、シュレージエンは失ったまま
- 英仏の北米・インド植民地対立はまったく解決せず
- プロイセンの地位が確固たるものになり、オーストリアとの敵対関係が続く
この講和は「一時的な停戦」に過ぎず、問題を先送りした形でした。
戦後の勢力変動とオーストリアの焦り
アーヘンの和約によって、ヨーロッパの勢力地図は大きく変わります。
- プロイセン台頭
シュレージエンを獲得したことで経済力・軍事力を強化
→ ライバル国オーストリアは深刻な危機感を抱く - オーストリアの戦略転換
かつての仇敵フランスと同盟を結ぶという大胆な発想へ転換 - 英仏対立の激化
北米・インドでの戦火は止まらず、次の大戦への火種となる
この状況の変化が、後の外交革命を生むことになります。
外交革命(1756年)と七年戦争への道
オーストリア継承戦争の結果、
- プロイセン:シュレージエン確保で強国化
- オーストリア:失地奪回を狙う
- イギリス:海洋帝国を目指しフランスと植民地で対立
こうした状況下で、かつての伝統的な同盟関係は大きく再編されます。
- 従来の構図
オーストリア+イギリス vs フランス+プロイセン - 外交革命後の構図
オーストリア+フランス+ロシア vs イギリス+プロイセン
この同盟再編が引き金となり、七年戦争(1756〜63年)が勃発します。
つまり、オーストリア継承戦争は、七年戦争の前哨戦という位置づけでもあるのです。
入試で狙われるポイント
- アーヘンの和約の内容(特にシュレージエン問題)
- マリア=テレジアの地位と失地
- プロイセン台頭とオーストリアの焦り
- 外交革命で同盟関係が逆転した理由
- 七年戦争への直接的つながり
- アーヘンの和約後、オーストリアが外交革命に踏み切った理由と、その結果として七年戦争に至る過程を200字以内で述べよ。
-
アーヘンの和約でマリア=テレジアの即位は承認されたが、シュレージエンはプロイセンに割譲されたままであった。これによりプロイセンは強国化し、オーストリアは失地奪回を目指して外交方針を転換。従来敵対していたフランスと同盟を結ぶ外交革命を実施した。一方、フランスと敵対していたイギリスはプロイセンと同盟を組み、英墺同盟は崩壊。こうした同盟再編は、1756年の七年戦争勃発へ直結した。
第2章: オーストリア継承戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オーストリア継承戦争を終結させた講和条約は何か。
解答:アーヘンの和約
問2
アーヘンの和約でシュレージエンはどの国に帰属したか。
解答:プロイセン
問3
アーヘンの和約でマリア=テレジアの即位はどう扱われたか。
解答:正式に承認された
問4
アーヘンの和約で、ルイブルク要塞はどの国に返還されたか。
解答:フランス
問5
アーヘンの和約で、インドのマドラスはどちらに返還されたか。
解答:イギリス
問6
外交革命の年は西暦何年か。
解答:1756年
問7
外交革命でオーストリアと同盟を結んだ意外な国はどこか。
解答:フランス
問8
外交革命でイギリスが同盟を結んだ国はどこか。
解答:プロイセン
問9
外交革命後の新しい同盟関係を正しく示した組み合わせは何か。
解答:オーストリア+フランス+ロシア vs イギリス+プロイセン
問10
外交革命の結果として勃発した戦争は何か。
解答:七年戦争
正誤問題(5問)
問1
アーヘンの和約でオーストリアはシュレージエンを回復した。
解答:×(プロイセン領に確定)
問2
外交革命とは、フランスとオーストリアが和解し同盟を結んだことを指す。
解答:○
問3
外交革命後も、イギリスとオーストリアは同盟を維持した。
解答:×(イギリスはプロイセンと同盟)
問4
外交革命の結果、英仏の植民地争奪戦は終息した。
解答:×(むしろ七年戦争で激化)
問5
外交革命を主導したのはマリア=テレジアである。
解答:○
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
アーヘンの和約でオーストリアはシュレージエンを回復 | × → プロイセン領に確定 |
外交革命はイギリスとフランスの同盟 | × → フランスとオーストリアの同盟 |
外交革命後も英墺同盟は継続 | × → 英墺同盟は崩壊し、イギリスはプロイセンと同盟 |
外交革命によって英仏の対立が緩和 | × → 植民地戦争が激化し七年戦争へ |
七年戦争はオーストリア継承戦争の一部 | × → オーストリア継承戦争の後に起きた別戦争 |
第3章 英仏植民地戦争の始まりと世界規模戦争への序章
オーストリア継承戦争はヨーロッパだけでなく、北米・インド・西インド諸島にまで広がった、世界史上初めてのグローバルな戦争の一つです。
この戦争での植民地戦線は、後の英仏植民地戦争や七年戦争へとつながり、近代世界システムの形成に大きな影響を与えました。
北米戦線:ジョージ王戦争(1744〜48年)
北米戦線勃発の背景
- 英仏の植民地対立
- フランス:ケベックを中心に北米内陸を支配
- イギリス:東海岸の13植民地を拠点とし、人口・経済力で優位
- 両国の対立は、毛皮交易と先住民との同盟をめぐり激化していた
1744年、フランスのカナダ軍がイギリス領ノバスコシアへ侵攻したことで戦争が勃発します。
ルイブルク要塞の攻防
北米戦線の象徴的事件が、ルイブルク要塞の攻略(1745年)です。
- イギリス軍(植民地民兵主体)が大規模遠征軍を組織し、ルイブルク要塞を陥落
- しかし1748年のアーヘンの和約により、ルイブルクはフランスに返還
- 戦勝した植民者たちは不満を募らせ、イギリス本国との溝が深まる結果となった
この事件は、アメリカ独立戦争の遠因の一つとしても重要です。
ジョージ王戦争の歴史的意義
- 北米における英仏植民地戦争の第1ラウンド
- 英仏の植民地支配に対する意識を決定的に変化させた
- 後のフレンチ=インディアン戦争(七年戦争期)の直接的な伏線となる
インド戦線:第一次カルナーティック戦争(1746〜48年)
英仏のインド進出と対立の激化
- イギリス:英東インド会社を拠点にインド進出を進める
- フランス:仏印会社を拠点にデカン高原南部へ勢力拡大
- 南インドのカルナータカ地方で両国の商業圏が重なり、対立が顕在化
マドラス占領とポンディシェリ包囲戦
- 1746年:フランス軍がイギリス拠点マドラスを占領
- イギリス軍は南インドのフランス拠点ポンディシェリを包囲したが失敗
- アーヘンの和約で、マドラスはイギリスに返還されることとなった
インド植民地戦争の伏線
第一次カルナーティック戦争は終結したものの、南インドの覇権をめぐる英仏対立は解決せず、第二次カルナーティック戦争(1749〜54年)、そしてプラッシーの戦い(1757年)へ続きます。
植民地戦争の拡大と七年戦争への直結
- オーストリア継承戦争は、英仏植民地戦争の火蓋を切った
- 北米・インド・西インド諸島など世界各地で戦争が連動
- アーヘンの和約は火種を残したまま停戦したに過ぎず、七年戦争(1756〜63年)で再び全面対決に発展
つまり、この時期は「ヨーロッパの王位継承戦争」から「世界規模の植民地戦争」へと移行する転換点でした。
入試で狙われるポイント
- ジョージ王戦争とルイブルク要塞攻防戦
- 北米植民者の不満とアメリカ独立への伏線
- 第一次カルナーティック戦争とマドラス・ポンディシェリ
- 英仏植民地戦争が七年戦争へ直結する構造
- 「ヨーロッパ戦争と世界戦争の連動」という視点
- ジョージ王戦争と第一次カルナーティック戦争を通じて、英仏植民地戦争が拡大していった過程を、七年戦争へのつながりに触れながら200字程度で説明せよ。
-
オーストリア継承戦争中、北米ではジョージ王戦争、インドでは第一次カルナーティック戦争が勃発し、英仏の植民地対立が顕在化した。ジョージ王戦争ではルイブルク要塞を巡る攻防が象徴的で、北米植民者とイギリス本国の間に溝を生んだ。インドではマドラス占領をめぐる戦闘が続き、両国の南インド支配をめぐる争いは終息しなかった。アーヘンの和約で一時停戦したものの、対立は解消されず、七年戦争で両国は世界規模で再び激突することとなった。
第3章: オーストリア継承戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オーストリア継承戦争中、北米で起きた戦争を何というか。
解答:ジョージ王戦争
問2
ジョージ王戦争の中心となったフランスの要塞はどこか。
解答:ルイブルク要塞
問3
ルイブルク要塞を占領したのはどの国か。
解答:イギリス
問4
アーヘンの和約でルイブルク要塞はどちらに返還されたか。
解答:フランス
問5
インドでの第一次カルナーティック戦争が始まった年は何年か。
解答:1746年
問6
第一次カルナーティック戦争でフランス軍が占領したイギリス拠点はどこか。
解答:マドラス
問7
第一次カルナーティック戦争でイギリス軍が包囲したフランス拠点はどこか。
解答:ポンディシェリ
問8
第一次カルナーティック戦争で対立した2つの会社名を答えよ。
解答:英東インド会社・仏印会社
問9
第一次カルナーティック戦争後、南インドの覇権争いは終結したか。
解答:いいえ(第二次カルナーティック戦争へ続く)
問10
オーストリア継承戦争における英仏対立は最終的にどの戦争に引き継がれたか。
解答:七年戦争
正誤問題(5問)
問1
ジョージ王戦争では、北米植民者がフランス軍を撃退しルイブルク要塞を奪取した。
解答:○
問2
ルイブルク要塞はアーヘンの和約でイギリス領として確定した。
解答:×(フランスに返還)
問3
第一次カルナーティック戦争でフランス軍はマドラスを占領した。
解答:○
問4
第一次カルナーティック戦争の講和でポンディシェリはイギリス領となった。
解答:×(フランス領のまま)
問5
第一次カルナーティック戦争は七年戦争の一部である。
解答:×(オーストリア継承戦争の一部)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ルイブルク要塞はアーヘンの和約でイギリス領 | × → フランスに返還 |
第一次カルナーティック戦争は七年戦争中に起きた | × → オーストリア継承戦争中に起きた |
マドラスはアーヘンの和約後もフランス領 | × → イギリスに返還 |
北米戦線ではイギリスが大敗した | × → ルイブルク要塞を一時占領するなどむしろ優勢 |
植民地戦争はオーストリア継承戦争で終息 | × → 七年戦争でさらに拡大 |
まとめ|オーストリア継承戦争の意義と世界史的影響
オーストリア継承戦争(1740〜1748年)は、ハプスブルク家マリア=テレジアの相続問題を発端として、ヨーロッパ全域・北米・インドにまで拡大した世界規模の戦争でした。
- ヨーロッパ戦線では、プロイセン王フリードリヒ2世がシュレージエンを獲得し、急速に強国化
- 北米戦線(ジョージ王戦争)では、ルイブルク要塞攻防が象徴的で、植民地民とイギリス本国の間に溝が生じた
- インド戦線(第一次カルナーティック戦争)では、マドラス占領をめぐり英仏が対立、インド覇権争いが激化
1748年のアーヘンの和約で一時停戦したものの、
- シュレージエン問題は未解決
- 北米・インドでの英仏対立は継続
- オーストリアはフランスと同盟する外交革命に踏み切る
こうして、対立はさらに深まり、七年戦争(1756〜63年)という世界規模の大戦争へと直結しました。
オーストリア継承戦争の全体年表(1740〜1748年)
年 | ヨーロッパ戦線 | 北米戦線(ジョージ王戦争) | インド戦線(第一次カルナーティック戦争) |
---|---|---|---|
1740年 | カール6世死去、マリア=テレジア即位 | – | – |
1740年12月 | フリードリヒ2世、シュレージエン侵攻 | – | – |
1742年 | ベルリン条約:オーストリア、シュレージエンをプロイセンへ割譲 | – | – |
1743年 | イギリス軍、ドッティンゲンの戦いで勝利 | – | – |
1744年 | フランス・プロイセンが再び参戦し戦局拡大 | ジョージ王戦争勃発 | – |
1745年 | バイエルン選帝侯カール7世死去、オーストリア軍優勢 | ルイブルク要塞をイギリスが攻略 | – |
1746年 | イタリア戦線でオーストリア軍勝利 | – | マドラスをフランスが占領 |
1747年 | プロイセン再参戦、戦局膠着化 | 植民地戦争継続 | ポンディシェリ包囲戦(イギリス失敗) |
1748年 | アーヘンの和約締結:戦争終結 | ルイブルク要塞をフランスに返還 | マドラスをイギリスに返還 |
戦局フローチャート|ヨーロッパ・北米・インドの連動
カール6世死去(1740)
│
▼
マリア=テレジア即位
│
▼
【ヨーロッパ戦線】
プロイセン侵攻 → シュレージエン戦争 → ベルリン条約(1742)
│
▼
【北米戦線:ジョージ王戦争】
フランス領カナダ vs イギリス13植民地
│
┌──┴────────────┐
│
ルイブルク要塞攻略(1745) → アーヘンの和約でフランス返還
│
▼
【インド戦線:第一次カルナーティック戦争】
仏印会社 vs 英東インド会社
│
▼
マドラス占領(1746)→ ポンディシェリ包囲戦 → マドラス返還(1748)
│
▼
アーヘンの和約(1748)
│
▼
外交革命(1756)→ 七年戦争へ
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