第三次英蘭戦争(1672〜1674)は、単なるイギリスとオランダの通商・海上覇権争いを超え、フランスのルイ14世による対オランダ戦(仏蘭戦争)と直結した“ヨーロッパ規模のパワーゲーム”でした。
イギリスでは王政復古後の財政難と親仏路線、オランダでは金融・海運の死守、フランスでは北海・低地地方への進出という思惑が絡み合い、ドーヴァーの密約(1670)を軸に英仏同盟が成立。
ここからウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)による徹底抗戦と英国内の反カトリック世論の高まり(テスト法)へ……という一連の流れが、1674年のウェストミンスター条約に至るまでの帰趨を決めていきます。
本記事では、原因・経過・結果を一望し、受験に必要な固有名詞と因果を“最短ルート”で整理します。
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第1章 第三次英蘭戦争の背景と開戦要因
本章では、「なぜ1672年に再び英蘭がぶつかったのか」を、英・仏・蘭それぞれの国内事情と国際関係から解きほぐします。
第二次戦争後も消えない通商摩擦、ルイ14世の拡張、そして英国内政治のねじれ――これらが一点で収束した結果が“第三次”でした。
1-1. 第二次戦争後の未解決課題:通商競争と海上覇権
ブレダ条約(1667)で第二次英蘭戦争は終結したものの、北海〜大西洋航路の実利をめぐる英蘭の競合は解消されませんでした。
オランダは依然として海運・金融で欧州随一、イギリスも航海法(諸外国船制限)を背景にシェア拡大を狙い続け、摩擦の火種は常時点火状態でした。
1-2. ルイ14世の対オランダ政策:仏蘭戦争への地ならし
1667年のネーデルラント継承戦争以来、ルイ14世は低地地方への影響力拡大を最優先課題に据えます。
金融・海運で欧州の“ハブ”となるオランダはフランス膨張の最大障害。
よってフランスは開戦前から外交・軍事の両面で蘭を圧迫し、1672年に本格的な仏蘭戦争(対オランダ戦)を開始します。
1-3. ドーヴァーの密約(1670):英仏接近の決定打
英仏はドーヴァーの密約で秘密裏に同盟。
チャールズ2世は資金援助と海軍協力を得る見返りに、対蘭戦でフランスに呼応する姿勢を固めます。
表向きは「キリスト教世界の和合(カトリック回帰)」を掲げつつ、実質は対蘭包囲。
こうして英蘭の対立は英仏 vs 蘭の構図へスケールアップしました。
1-4. イギリス国内政治のねじれ:財政難・親仏路線・反カトリック世論
王政復古後のイギリスは歳入不足と議会対立を抱え、国王は外征で求心力回復を図ります。
一方で国内では反カトリック感情が強く、戦時中の1673年にテスト法が制定されるほど。
王権の親仏・親カトリック傾向と、議会・世論の反発という“ねじれ”が、戦争継続の政治コストを急速に押し上げていきます。
1-5. オラニエ公ウィレム3世の指導力:国民的抵抗の結節点
低地に侵攻するフランスに対し、オランダは水堤線の開放(治水を逆用した防衛)とデ・ロイテルらの海戦指導で粘り強く抗戦。
ウィレム3世は政治・軍事の中心として国民世論を糾合し、対仏包囲網の再建と外交逆転への足場を築きます。
1-6. 1672年“災厄の年”:戦争開始の引き金
1672年、フランスの侵攻と英蘭海上戦の再開でオランダは同時多発危機に直面(災厄の年)。
しかし短期決戦で屈せず、長期戦への持久体制に移行。
ここから英国内の戦争支持は揺らぎ、1674年の単独講和(ウェストミンスター条約)へと帰着する下地が整っていきます。
1-7. 入試で狙われるポイント
- ドーヴァーの密約(1670):英仏の対蘭秘密同盟(資金援助・海軍協力と引き換え)。
- 仏蘭戦争(1672–78)との一体性:第三次英蘭戦争はその“海上戦線”。
- ウィレム3世の位置づけ:蘭の抵抗指導者 → 名誉革命(1688)で英王となる連続性を意識。
- 英国内政治の“ねじれ”:親仏王権 vs 反カトリック世論(テスト法)。
- 治水×防衛:オランダ水堤線の戦略的重要性。
- 第三次英蘭戦争の開戦要因を、英・仏・蘭それぞれの国内事情と国際関係の変化を関連づけて200〜250字で述べよ。
-
第二次戦争後も英蘭の通商競合は残存し、イギリスでは王政復古体制の財政難と親仏路線が強まった。フランスは低地地方への進出を目指し、オランダの金融・海運覇権を脅威視して対蘭戦を計画。1670年のドーヴァーの密約で英仏は秘密同盟を結び、蘭包囲が現実化した。一方、オランダではウィレム3世の下で国民的抵抗が形成され、治水線を活かす防衛戦略が整う。こうして国内事情と大国間の利害が一点に収束し、1672年に第三次英蘭戦争が勃発した。
第1章: 第三次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第三次英蘭戦争の期間はいつからいつまでか。
解答:1672〜1674年
問2
1670年、英仏が対蘭で結んだ秘密同盟は何か。
解答:ドーヴァーの密約
問3
当時のフランス国王は誰か。
解答:ルイ14世
問4
当時のイギリス国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問5
オランダ側の指導者で、後にイングランド王となる人物は誰か。
解答:オラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)
問6
蘭海軍を率い英・仏連合艦隊に抗した提督は誰か。
解答:ミヒール・デ・ロイテル
問7
第三次英蘭戦争は、陸上ではどの大戦に包含されるか。
解答:仏蘭戦争(対オランダ戦、1672–78年)
問8
イギリスで反カトリック感情の象徴となった1673年の法律は何か。
解答:テスト法
問9
イギリスが講和して英蘭戦を終結させた条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約(1674)
問10
英仏同盟の表向きの名目は何だったか。
解答:キリスト教世界の和合(カトリック的統一の回復)
正誤問題(5問)
問11
ドーヴァーの密約はオランダとフランスの間で結ばれた。
解答:×(英仏間)
問12
第三次英蘭戦争の最中、英国内には反カトリック世論が強まった。
解答:○
問13
第三次英蘭戦争は英蘭だけの局地戦で、フランスは関与しなかった。
解答:×(英仏同盟が参戦)
問14
オランダは治水線を戦略的に活用して仏軍の進撃を阻んだ。
解答:○
問15
1674年のウェストミンスター条約で、イギリスはフランスと講和した。
解答:×(イギリスはオランダと講和)
第2章 戦争の経過と主要な戦闘
本章では、第三次英蘭戦争の戦局を「海戦」と「陸戦」の両面から整理します。
特に注目すべきは、英仏連合艦隊の優勢にもかかわらず、オランダがデ・ロイテル率いる海軍で粘り強く抗戦し続けた点です。
さらに陸上では、フランスの侵攻を食い止めたオランダの「治水防衛」が象徴的でした。戦争の行方は、戦場そのものよりもイギリス国内の政治状況によって左右され、1674年の講和へと収束していきます。
2-1. 戦争初期:ソールベイの海戦(1672)
1672年6月、第三次英蘭戦争最初の大規模戦闘がソールベイの海戦です。
英仏連合艦隊が優位に立ちながらも、オランダ艦隊を撃破するには至らず、膠着状態となりました。
ここでのオランダ提督ミヒール・デ・ロイテルの巧みな指揮は、国民士気を大いに高め、「海の国オランダ」の健在を印象づけました。
2-2. 陸上戦線:仏軍の侵攻とオランダ水堤線
フランス軍は1672年にオランダへ侵攻し、ユトレヒトを占領するなど序盤で優勢を誇りました。
しかし、オランダ側は水堤線を開放し、国土を水没させて防衛。
自然環境を逆用したこの戦術はフランス軍の進撃を阻み、戦局を長期化させました。これが1672年=災厄の年の中でも象徴的な出来事です。
2-3. スホーネフェルトの海戦(1673)
1673年6月にはスホーネフェルトの海戦が発生。
英仏連合は数の上で優勢でしたが、再びデ・ロイテルの指揮によってオランダは持ちこたえました。
この戦いは、オランダの抵抗力が「一時的な奮戦」ではなく、持続的に英仏を食い止める力であることを証明しました。
2-4. テセルの海戦(1673):転機となる勝利
1673年8月のテセルの海戦こそ、第三次英蘭戦争の転機でした。
デ・ロイテルは劣勢の戦力を巧みに運用し、英仏艦隊の上陸作戦を阻止。これによりオランダ本土は重大な危機を免れ、戦争の帰趨はオランダ優位へと傾きました。
テセルは「オランダの海軍的独立」を象徴する決戦として記憶されています。
2-5. イギリス国内の反戦世論と議会の圧力
戦局がこう着する中、イギリス国内では戦費負担の増大と反カトリック感情が爆発。
1673年には審査法(テスト法, Test Act)が制定され、国王チャールズ2世の親仏・親カトリック路線に歯止めがかかります。
議会の圧力により、イギリスは戦争を継続する政治的余力を失っていきました。
2-6. ウィレム3世の外交と対仏包囲網
戦局が膠着する中で、オラニエ公ウィレム3世はイングランド議会の親蘭派と接触を強め、さらに神聖ローマ帝国やスペインとの連携を模索。
これにより対仏包囲網の再建が始まり、戦争は「英仏 vs 蘭」の二国間構図から、欧州大戦の一局面へと移行しました。
入試で狙われるポイント
- ソールベイの海戦(1672):開戦直後の戦闘。膠着したが蘭の士気を鼓舞。
- スホーネフェルト(1673)とテセル(1673):デ・ロイテルの名を結びつけて記憶。
- 治水線戦術:オランダが水を防衛に用いた点は頻出知識。
- 審査法(1673):国内世論と戦争終結の直接要因。
- 外交転換:ウィレム3世→包囲網外交→後の名誉革命へとつながる流れ。
- テセルの海戦(1673)の意義を中心に、オランダが第三次英蘭戦争で英仏連合を持ちこたえた要因を200字程度で説明せよ。
-
オランダは1673年のテセルの海戦でデ・ロイテルの指揮の下、劣勢ながら英仏連合艦隊の上陸作戦を阻止し、本土防衛に成功した。加えて、治水線の開放による陸上防衛も奏功し、戦争の長期化を実現した。これら軍事的成果は国内士気を高めるとともに、イギリス国内の反戦世論を強め、1674年の単独講和へつながった。したがって、オランダの粘り強い防衛は第三次英蘭戦争の帰趨を決定づけた。
第2章: 第三次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1672年の開戦直後に行われた海戦は何か。
解答:ソールベイの海戦
問2
ソールベイの海戦でオランダ艦隊を指揮した提督は誰か。
解答:ミヒール・デ・ロイテル
問3
フランス軍がオランダ侵攻で一時占領した都市はどこか。
解答:ユトレヒト
問4
オランダが治水を利用して仏軍を阻止した防衛線を何というか。
解答:オランダ水堤線(オランダ水線)
問5
1673年の大規模海戦で、英仏艦隊を退けた戦いは何か。
解答:テセルの海戦
問6
オランダにとって1672年は何と呼ばれたか。
解答:災厄の年(Rampjaar)
問7
1673年に制定され、反カトリック感情を制度化したイギリスの法律は何か。
解答:審査法(テスト法)
問8
第三次英蘭戦争において、イギリス国内で親蘭派を支持した政治勢力は何か。
解答:ホイッグ党
問9
戦争中、フランスと並んでイギリスがオランダを攻撃したのはどの戦域か。
解答:海上戦線(北海・英仏海峡)
問10
ウィレム3世が強化を図った国際関係は何か。
解答:対仏包囲網外交
正誤問題(5問)
問11
ソールベイの海戦では英仏連合が圧倒的勝利を収めた。
解答:誤(膠着)
問12
オランダは国土の一部を水没させて仏軍の侵攻を阻止した。
解答:正
問13
スホーネフェルトの海戦は1673年に行われた。
解答:正
問14
テセルの海戦でオランダは英仏連合の上陸作戦を阻止した。
解答:正
問15
テスト法はカトリック信徒の公職就任を容易にした法律である。
解答:誤(むしろ制限した)
誤答パターンまとめ
- 「ソールベイ=決定的勝利」と誤解 → 実際は膠着戦。
- テスト法の趣旨を逆に記憶 → カトリック排除を強調。
- 戦場を「陸戦主体」と思い込む → 実態は海戦が決定的。
- テセルとスホーネフェルトの順序を混同しやすい → 年代整理必須。
第3章 戦争の結果と国際関係への影響
本章では、1674年のウェストミンスター条約で幕を閉じた第三次英蘭戦争の結末を整理します。
注目すべきは、軍事的勝敗よりもイギリス国内の政治情勢が終戦を決定づけた点、そしてその後のオランダ外交の勝利とフランス孤立化の進行です。
この戦争は、ヨーロッパの大国関係を再編する契機となり、名誉革命や対仏包囲網の形成へと直結していきます。
3-1. ウェストミンスター条約(1674)の締結
1674年、イギリスはオランダと単独講和を結びました。これがウェストミンスター条約です。
- イギリスは戦費負担と議会・世論の圧力に屈し、戦争継続を断念。
- 講和条件はおおむね現状維持で、第二次戦争で得たニューネーデルラント(後のニューヨーク)領有権などを再確認しました。
- 事実上、オランダの外交的勝利でした。
3-2. フランスの継戦と仏蘭戦争の長期化
イギリスが離脱した後も、ルイ14世のフランスはオランダに対して戦争を続行しました。
これは仏蘭戦争(1672〜78)として欧州全体を巻き込み、最終的にナイメーヘンの和約(1678–79)で終結します。
第三次英蘭戦争はその一部に過ぎず、オランダにとっては「フランスとの長期抗戦」の序章でした。
3-3. イギリス国内政治への影響
第三次英蘭戦争は、イギリス国王チャールズ2世の親仏政策とカトリック傾向に対する反発を一層強めました。
- 1673年のテスト法によってカトリック信徒の公職就任は制限され、議会の権限強化が確認された。
- これにより、後の王位継承問題(カトリックのジェームズ2世への反発)につながり、最終的に名誉革命(1688)を引き起こす政治的伏線となりました。
3-4. オランダの国際的地位とウィレム3世の台頭
ウィレム3世は戦争を指導し、オランダの独立と通商を守り抜きました。
この実績は、彼が後にイギリス王として迎えられる大きな要因となります。
- ウィレムは対仏包囲網外交の中心人物となり、イギリス議会とも接触を重ねました。
- 戦後、オランダは依然として経済的優位を維持し、「海上覇権の一角」として存続しました。
3-5. 国際関係の再編:対仏包囲網の形成
第三次英蘭戦争を契機に、ヨーロッパでは「英仏 vs 蘭」という単純な構図が崩れ、次第にフランス孤立化の方向が進みます。
- 神聖ローマ帝国、スペイン、スウェーデンがオランダと結び、対仏包囲網を形成。
- イギリスも名誉革命以降はこの包囲網に合流し、18世紀の英仏抗争(植民地戦争)の伏線となりました。
入試で狙われるポイント
- ウェストミンスター条約(1674):イギリスが単独講和し、戦争は事実上オランダ勝利。
- ナイメーヘンの和約(1678–79):仏蘭戦争の終結条約。第三次英蘭戦争の延長線。
- テスト法(1673):反カトリック世論の結晶。後の名誉革命と関連づけ。
- ウィレム3世の台頭:オランダの抵抗の象徴 → イギリス王位獲得の布石。
- 国際秩序の変化:フランス孤立化と対仏包囲網外交の始動。
- 第三次英蘭戦争の結末が、イギリスとオランダ、そしてヨーロッパの国際秩序に与えた影響を250字程度で説明せよ。
-
1674年のウェストミンスター条約でイギリスは単独講和し、戦争は事実上オランダの外交的勝利に終わった。イギリスでは戦費負担と反カトリック世論の高まりが国王の親仏政策を抑制し、テスト法制定を通じて議会の発言力が強まった。オランダはウィレム3世の指導下で独立と通商を維持し、国際的威信を高めた。一方、フランスは仏蘭戦争を継続し、欧州列強との対立が深まる。結果として、第三次英蘭戦争は対仏包囲網形成の端緒となり、18世紀に至る英仏抗争の基盤を築いた。
第3章: 第三次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第三次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約(1674)
問2
ウェストミンスター条約によって再確認されたイギリス領はどこか。
解答:ニューネーデルラント(ニューヨーク)
問3
第三次英蘭戦争後も続いたフランス対オランダ戦争を何というか。
解答:仏蘭戦争(対オランダ戦、1672〜1678)
問4
仏蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ナイメーヘンの和約(1678–79)
問5
1673年にイギリスで制定された、カトリック排除の法律は何か。
解答:テスト法
問6
イギリスでチャールズ2世の親仏政策に反発した政治勢力は何か。
解答:ホイッグ党
問7
オラニエ公ウィレム3世は後にどの国の国王となったか。
解答:イングランド王(ウィリアム3世)
問8
第三次英蘭戦争後の国際秩序を特徴づけたのは何か。
解答:対仏包囲網の形成
問9
第三次英蘭戦争は、オランダにとってどのような意義をもったか。
解答:独立と通商の維持に成功し、外交的地位を強化した
問10
この戦争を通じてフランスが直面した課題は何か。
解答:欧州列強による孤立化の進行
正誤問題(5問)
問11
ウェストミンスター条約は1672年に締結された。
解答:誤(1674年)
問12
ナイメーヘンの和約は仏蘭戦争を終結させた条約である。
解答:正
問13
テスト法はカトリック信徒の権利を拡大する法律だった。
解答:誤(制限した)
問14
ウィレム3世はオランダの指導者であり、後にイギリス国王となった。
解答:正
問15
第三次英蘭戦争はフランスの孤立化を進める契機となった。
解答:正
誤答パターンまとめ
- ウェストミンスター条約(1674)とブレダ条約(1667)を混同。
- テスト法の内容を逆に覚える。
- 「第三次=蘭敗北」と誤解 → 実際は外交的に蘭が勝利。
- 仏蘭戦争の終結条約をウェストミンスター条約と誤答。
まとめ:第三次英蘭戦争の歴史的意義
第三次英蘭戦争は、単なる英蘭間の海上覇権争いにとどまらず、ルイ14世の覇権政策とヨーロッパ全体の国際秩序を巻き込んだ点で決定的な意味をもちました。
戦局を左右したのは、海戦そのものよりも、イギリス国内の反カトリック世論・議会政治の力であり、これは後の名誉革命につながります。
一方、オランダはウィレム3世の下で独立と通商を守り、外交的勝利を収めました。
この戦争は、やがて形成される対仏包囲網外交の出発点であり、18世紀に本格化する英仏抗争の前哨戦でもありました。
第三次英蘭戦争 年表
年 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|
1670 | ドーヴァーの密約 | 英仏の対蘭秘密同盟。戦争準備段階。 |
1672 | 第三次英蘭戦争勃発(仏蘭戦争の一部) | 英仏連合 vs オランダ。オランダにとって“災厄の年”。 |
1672 | ソールベイの海戦 | 開戦直後の戦闘。膠着するも蘭の士気高揚。 |
1672 | フランス軍、ユトレヒト占領 | オランダ水堤線の開放で進撃阻止。 |
1673 | スホーネフェルトの海戦 | デ・ロイテルが英仏艦隊を撃退。 |
1673 | テセルの海戦 | 英仏連合の上陸阻止。戦局の転機。 |
1673 | イギリスでテスト法制定 | 反カトリック世論強化、戦争支持低下。 |
1674 | ウェストミンスター条約 | イギリスが単独講和、事実上オランダ勝利。 |
1678–79 | ナイメーヘンの和約 | 仏蘭戦争終結。フランス孤立化へ。 |
第三次英蘭戦争の流れ(フローチャート)
ドーヴァーの密約(1670)
↓
英仏同盟成立 → 対オランダ戦争準備
↓
1672年:第三次英蘭戦争勃発(災厄の年)
↓
ソールベイの海戦 → 蘭は粘り強く抵抗
↓
フランス軍の侵攻 → 水堤線開放で阻止
↓
1673年:スホーネフェルトの海戦 → 英仏再び阻まれる
↓
テセルの海戦 → 上陸作戦失敗、戦局転機
↓
イギリス国内で反カトリック世論拡大 → テスト法制定
↓
1674年:ウェストミンスター条約 → イギリス離脱
↓
フランスは単独で仏蘭戦争継続 → 対仏包囲網形成へ
↓
ウィレム3世の台頭 → 名誉革命(1688)へと連動
総合まとめ
- 軍事面:デ・ロイテルの海戦指揮とオランダ水堤線の防衛で、英仏の優位を跳ね返した。
- 政治面:イギリスではテスト法制定など、反カトリック世論が戦争継続を不可能にした。
- 外交面:ウィレム3世の抵抗は、後の対仏包囲網外交と名誉革命への布石。
- 歴史的意義:第三次英蘭戦争は、オランダの存続を決定づけただけでなく、ヨーロッパ国際関係を「英仏抗争」の時代へと導いた。

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