イギリスとオランダのあいだで17世紀に3度も繰り広げられた「英蘭戦争」は、ヨーロッパ近世の国際関係と海上覇権の行方を決定づけた重要な戦争です。
その中でも1665年から1667年にかけて行われた「第二次英蘭戦争」は、イギリスにとっては王政復古直後の不安定な時期に勃発し、オランダにとっては商業の覇権を守るための死活的な戦いでした。
本記事では、第二次英蘭戦争の背景・原因・経過・結果を整理し、なぜ再び両国が激突することになったのかを徹底解説します。
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第1章 第二次英蘭戦争の背景と原因
第一次英蘭戦争(1652〜1654)を終結させたウェストミンスター条約で一時的に和解が成立したものの、イギリスとオランダのあいだの対立は根本的に解消されたわけではありませんでした。
両国はともに世界貿易の覇権をめぐって激しく競合しており、その火種は残り続けていたのです。
第二次英蘭戦争は、そうした矛盾が再び噴き出した戦争でした。
1-1 王政復古とイギリスの対外姿勢
1658年にクロムウェルが死去し、護国卿体制は急速に崩壊します。
1660年、チャールズ2世が即位し、イギリスでは王政復古が実現しました。新王政は国内の安定を模索する一方で、外交的には再び積極的な商業拡張政策を取ります。
とくにオランダとの商業競争は、王政復古政府にとって国民的支持を集めやすいテーマとなりました。
1-2 航海法の継続と経済摩擦
クロムウェル政権下で制定された「航海法(1651)」は、外国船によるイギリス本国および植民地との貿易を制限する政策であり、その最大の打撃を受けたのがオランダでした。
王政復古後もこの航海法は維持され、さらに強化されます。結果として、英蘭両国の経済摩擦は再び高まっていきました。
1-3 国際関係の変動と戦争への道
17世紀半ばのヨーロッパは、フランスのルイ14世の膨張政策が徐々に姿を見せる時期でもありました。
イギリスはフランスと提携しつつ、オランダを牽制しようとします。
一方オランダは、バルト海交易や東インド貿易で依然として優勢を保ち、イギリスにとって手強い競争相手でした。
こうした国際関係の変動も、戦争勃発を後押しする要因となりました。
1-4 入試で狙われるポイント
- 第二次英蘭戦争は「王政復古直後」に起こったことを押さえる。
- 航海法(1651)の継続が両国の対立を再燃させた。
- イギリスはチャールズ2世、オランダはデ=ウィットの指導下で対抗。
- 戦争の背景には「商業競争」だけでなく「国際関係の変化」も存在する。
- 第二次英蘭戦争の背景には、単なる英蘭両国の商業的競争だけでなく、ヨーロッパ全体の国際関係の変化があった。具体的にどのような要因が戦争の勃発につながったのかを200字程度で説明せよ。
-
第二次英蘭戦争は、1651年の航海法の継続によってイギリスがオランダ商業を圧迫したことに加え、王政復古後のチャールズ2世が国民的支持を得るために対オランダ強硬策をとったことが背景にある。さらに、ルイ14世のフランスが台頭し、イギリスが一時的にフランスと接近してオランダを牽制したことも要因であり、単なる二国間対立ではなく国際関係の変動の中で戦争は勃発した。
第1章: 第二次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第二次英蘭戦争が勃発したのは西暦何年か。
解答:1665年
問2
第二次英蘭戦争が終結したのは西暦何年か。
解答:1667年
問3
第二次英蘭戦争のイギリス国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問4
航海法が最初に制定されたのは西暦何年か。
解答:1651年
問5
航海法によって最も打撃を受けた国はどこか。
解答:オランダ
問6
第二次英蘭戦争期のオランダを指導した政治家は誰か。
解答:デ=ウィット
問7
航海法は主にどのような内容を定めたか。
解答:イギリス本国・植民地との貿易をイギリス船に限定した。
問8
第二次英蘭戦争の背景には、どのフランス国王の台頭があったか。
解答:ルイ14世
問9
イギリスがオランダと対立する一方で一時的に接近した国はどこか。
解答:フランス
問10
第二次英蘭戦争の主な原因を一言で言えば何か。
解答:商業競争の激化
正誤問題(5問)
問1
第二次英蘭戦争は、クロムウェル政権下で勃発した。
解答:誤(正しくは王政復古後のチャールズ2世の時代)
問2
航海法は、外国船によるイギリス貿易を制限した。
解答:正
問3
第二次英蘭戦争では、オランダはスペインと同盟してイギリスと戦った。
解答:誤(主に独自に対抗しつつ、国際的にはフランスの動向が影響)
問4
第二次英蘭戦争の背景には、フランスの台頭があった。
解答:正
問5
第二次英蘭戦争は、オランダの覇権を大きく後退させた。
解答:誤(消耗はしたがオランダの商業的優位は維持された)
第2章 戦争の経過と展開
第二次英蘭戦争は、1665年の勃発から1667年の講和まで、幾度もの海戦を通じて繰り広げられました。
イギリスは一時的に優勢を収めたものの、長期戦による財政難と疫病の流行に悩まされ、戦局は必ずしも思うように進展しませんでした。
一方、オランダは劣勢に立たされながらも粘り強く抵抗し、最終的には逆転に成功します。本章では、戦争の主要な出来事とその流れを整理します。
2-1 ロー=ストフトの海戦(1665年)
1665年、開戦直後の「ロー=ストフトの海戦」でイギリス艦隊はオランダ艦隊を破り、序盤はイギリスが優勢に立ちました。
この勝利によってイギリス国内では戦争継続の気運が高まりましたが、戦費負担も急増することとなります。
2-2 疫病と財政難によるイギリスの苦境
1665年から1666年にかけてロンドンでは大疫病が流行し、多数の死者を出しました。
さらに1666年にはロンドン大火が発生し、国力は大きく損なわれます。
戦費の調達にも苦しんだイギリスは、次第に劣勢へと転じていきました。
2-3 メドウェイ河襲撃とオランダの反撃(1667年)
1667年、デ=ウィットの指導のもとオランダ艦隊がイギリス本土を奇襲し、テムズ川支流のメドウェイ河で停泊中のイギリス艦隊を焼き討ちしました。
この「メドウェイ河襲撃」はイギリスに衝撃を与え、戦争継続の意欲を奪いました。これにより、戦局はオランダの有利な形で終結に向かいます。
2-4 入試で狙われるポイント
- 開戦直後の ロー=ストフトの海戦(1665) はイギリス勝利。
- ロンドン大疫病(1665)、ロンドン大火(1666)がイギリスを苦境に追い込んだ。
- メドウェイ河襲撃(1667) はオランダ反撃の決定的契機。
- 戦局は「イギリス優勢→内政混乱→オランダ逆転」という流れで押さえる。
- 第二次英蘭戦争におけるイギリスの劣勢化には、戦局そのもの以外に国内要因も深く関わっていた。その要因を挙げ、戦争の展開に与えた影響を200字程度で説明せよ。
-
イギリスは開戦直後にロー=ストフトの海戦で勝利し一時優勢となったが、1665年のロンドン大疫病と1666年のロンドン大火によって甚大な被害を受け、財政難に陥った。これにより戦費の調達が困難となり、戦争継続能力は大きく低下した。その結果、1667年のメドウェイ河襲撃を許し、戦局はオランダ有利へと傾いた。このように国内の社会的混乱と財政問題が、イギリスの劣勢化に大きな影響を与えた。
第2章: 第二次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ロー=ストフトの海戦が行われたのは西暦何年か。
解答:1665年
問2
ロー=ストフトの海戦で勝利したのはどちらの国か。
解答:イギリス
問3
1665年にロンドンを襲った大災厄は何か。
解答:ロンドン大疫病
問4
1666年にロンドンで発生した大災害は何か。
解答:ロンドン大火
問5
メドウェイ河襲撃が行われたのは西暦何年か。
解答:1667年
問6
メドウェイ河襲撃を指導したオランダの政治家は誰か。
解答:デ=ウィット
問7
メドウェイ河襲撃が行われた場所は、ロンドン近郊のどの河川か。
解答:メドウェイ河
問8
ロンドン大疫病は戦争遂行にどのような影響を与えたか。
解答:人口減少と混乱を招き、戦費調達を困難にした。
問9
第二次英蘭戦争の戦局は、序盤はどちらの国が優勢だったか。
解答:イギリス
問10
第二次英蘭戦争の戦局は最終的にどちらが優勢となったか。
解答:オランダ
正誤問題(5問)
問1
ロー=ストフトの海戦は、第二次英蘭戦争の開戦直後に行われた。
解答:正
問2
ロンドン大火は1665年に発生した。
解答:誤(正しくは1666年)
問3
メドウェイ河襲撃でイギリス艦隊がオランダ艦隊を奇襲した。
解答:誤(正しくはオランダ艦隊がイギリスを奇襲)
問4
戦争の中盤以降、イギリスは疫病と財政難で劣勢に陥った。
解答:正
問5
第二次英蘭戦争の最終的な勝者はイギリスである。
解答:誤(オランダが有利に戦争を終結させた)
第3章 戦争の結果と影響
第二次英蘭戦争は1667年、ブレダ条約の締結によって終結しました。
戦局は当初イギリス優位に進みましたが、国内の疫病・大火・財政難が響き、オランダの反撃を許してしまいます。
講和条約では双方が譲歩しあう形となり、イギリスは北米での領土を拡大する一方、オランダは東インド貿易の優位を守ることに成功しました。
この戦争は単なる二国間の衝突にとどまらず、世界規模の商業秩序や国際関係に大きな影響を及ぼしました。
3-1 ブレダ条約の内容
1667年のブレダ条約では、イギリスは北米のニューネーデルラント(のちのニューヨーク)を獲得しました。
これによりイギリスは北米植民地の基盤を強化することに成功します。一方オランダは、東インド貿易の優位を承認させ、アジアにおける商業的優位を維持しました。
このように、講和条約は双方が得るものと失うものがある「痛み分け」の内容でした。
3-2 ヨーロッパ国際関係への影響
第二次英蘭戦争は、イギリス・オランダ・フランスの三国関係を大きく動かしました。
イギリスは当初フランスと接近しましたが、フランスの台頭が脅威となるにつれて、やがてオランダと同盟する方向に転じていきます。
この路線転換は「対フランス包囲網」の形成につながり、後の第三次英蘭戦争や大同盟戦争にも影響を及ぼしました。
3-3 世界商業秩序の変化
戦争の帰結として、オランダは依然としてヨーロッパ随一の商業国家としての地位を守ったものの、北米ではイギリスが優位を確立しました。
以降、植民地帝国としてのイギリスの成長は加速し、18世紀には世界覇権を握る基盤を築くことになります。
つまり、第二次英蘭戦争はオランダ商業帝国のピークとイギリスの植民地帝国化のスタートを同時に示した戦争でした。
3-4 入試で狙われるポイント
- 1667年の ブレダ条約 が戦争終結の条約。
- イギリスはニューネーデルラント(のちのニューヨーク)を獲得。
- オランダは東インド貿易の優位を維持。
- 結果は「痛み分け」だが、長期的にはイギリスが北米で優位を確立。
- 戦後の外交で、イギリスはフランスからオランダへ接近。
- 第二次英蘭戦争の結果、イギリスとオランダはそれぞれどのような利益と損失を得たのか。200字程度で説明せよ。
-
1667年のブレダ条約で第二次英蘭戦争は終結した。イギリスは北米のニューネーデルラントを獲得し、植民地支配の基盤を拡大した。一方で国内の財政難や戦費の消耗は大きな負担となった。オランダは北米の一部を失ったが、東インド貿易における優位を維持することに成功し、依然として商業覇権を保持した。この結果、両国は痛み分けの形で講和したが、長期的にはイギリスの植民地帝国化を促す契機となった。
第3章: 第二次英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第二次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ブレダ条約
問2
ブレダ条約が締結されたのは西暦何年か。
解答:1667年
問3
ブレダ条約でイギリスが獲得した北米の植民地はどこか。
解答:ニューネーデルラント(のちのニューヨーク)
問4
ブレダ条約でオランダが維持した商業的優位はどこの地域か。
解答:東インド貿易
問5
第二次英蘭戦争の結果、イギリスが強化したのはどの地域での基盤か。
解答:北米植民地
問6
第二次英蘭戦争の結果、オランダが守り抜いたのはどの経済的地位か。
解答:商業覇権
問7
イギリスは戦後、外交上どの国との提携を模索するようになったか。
解答:オランダ
問8
戦争の帰結を一言で表せばどうなるか。
解答:痛み分け
問9
第二次英蘭戦争の長期的意義は何か。
解答:イギリス植民地帝国化の基盤形成
問10
第二次英蘭戦争の国際的意義は何か。
解答:対フランス包囲網形成への転換点
正誤問題(5問)
問1
ブレダ条約によって、イギリスはニューネーデルラントを獲得した。
解答:正
問2
ブレダ条約でオランダは北米植民地を維持した。
解答:誤(北米では失地、アジア貿易の優位を維持)
問3
第二次英蘭戦争の結果、イギリスは東インド貿易の主導権を得た。
解答:誤(東インド貿易の優位はオランダが保持)
問4
戦後、イギリスはフランスに接近し続けた。
解答:誤(むしろオランダへ接近し、対フランス包囲網へ)
問5
第二次英蘭戦争は、オランダ商業帝国の衰退とイギリス植民地帝国の成長の転換点であった。
解答:正
第4章 まとめ:第二次英蘭戦争の位置づけ
第二次英蘭戦争は、イギリスとオランダの海上覇権をめぐる争いが激化した戦争でした。
戦局はイギリスの優勢から始まりましたが、国内の疫病・火災・財政難が戦争遂行を妨げ、最終的にはオランダが反撃して講和に持ち込みました。
ブレダ条約によって両国は痛み分けの結果に終わったものの、長期的にはイギリスが北米で優位を確立し、オランダはアジア貿易の覇権を守るという住み分けが成立しました。
この戦争は、やがて18世紀の「大英帝国」の成長を準備するとともに、ヨーロッパの国際関係においてフランスの脅威に対抗する枠組み形成へとつながっていきます。
第二次英蘭戦争の重要年表
年代 | 出来事 |
---|---|
1660 | 王政復古:チャールズ2世が即位 |
1665 | 第二次英蘭戦争勃発、ロー=ストフトの海戦でイギリス勝利 |
1665 | ロンドン大疫病の流行 |
1666 | ロンドン大火 |
1667 | オランダ艦隊、メドウェイ河襲撃 |
1667 | ブレダ条約締結、戦争終結 |
第二次英蘭戦争の流れ(フローチャート)
開戦(1665)
↓
ロー=ストフトの海戦:イギリス勝利
↓
ロンドン大疫病(1665)・ロンドン大火(1666)
↓
財政難でイギリス劣勢化
↓
メドウェイ河襲撃(1667)でオランダが反撃
↓
ブレダ条約(1667)
↓
イギリス:ニューネーデルラント獲得(北米優位)
オランダ:東インド貿易の覇権維持
入試で狙われるポイント(まとめ)
- ブレダ条約の「痛み分け」的講和を理解する。
- 北米=イギリス拡大、アジア=オランダ優位という住み分け。
- 国際関係の面では「対フランス包囲網」形成への転換点となった。
- 17世紀の海上覇権争いが18世紀の大英帝国の土台を築いた。

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