17世紀後半から18世紀初頭、フランス絶対王政の象徴であるルイ14世は「太陽王」としてヨーロッパの覇権を握ろうとしました。
ヴェルサイユ宮殿を築き上げ、豪華な宮廷文化を花開かせる一方で、彼の治世を特徴づけたのは侵略戦争の連続です。
ルイ14世は積極的な領土拡大を目指し、南ネーデルラント・アルザス・ライン川流域などの獲得を狙いました。
しかし、この野心的な政策は周辺諸国との対立を深め、最終的にはフランス包囲網を形成させる結果となります。
この記事では、ルイ14世の侵略戦争と外交戦略を軸に、
- 4つの主要な侵略戦争の背景と経過
- フランス包囲網の形成と影響
- ユトレヒト条約による国際秩序の転換
これらを詳しく解説します。
入試で頻出するテーマを体系的に整理しながら、複雑なヨーロッパ国際関係をわかりやすく学べる構成になっています。
第1章 ルイ14世の即位と絶対王政の確立
ルイ14世(在位1643〜1715年)は、フランス絶対王政の頂点を築き上げた君主です。彼は幼少期にフロンドの乱を経験したことで、王権強化の必要性を痛感し、宰相マザランの死後は自ら親政を開始しました。
ここでは、ルイ14世がどのようにして国内体制を固め、戦争政策へと舵を切っていったのかを解説します。
1-1. 幼少期とフロンドの乱
ルイ14世は5歳で即位しましたが、実権は宰相マザランに握られていました。1648年、三十年戦争終結直後に起きたフロンドの乱は、貴族や高等法院が王権強化に反発して蜂起した内乱です。
この経験から、ルイ14世は「王権を揺るがす存在を徹底的に排除する」という強い信念を抱くようになりました。
1-2. 親政とヴェルサイユ体制
1661年、マザランの死後、ルイ14世は親政を開始します。彼は財務総監コルベールを重用し、重商主義政策を推進。国内産業の育成、海外植民地拡大、軍備強化を進めました。
また、ヴェルサイユ宮殿を建設し、貴族を宮廷に集めて統制することで、地方権力を弱体化させました。
1-3. ヨーロッパ外交戦略への転換
国内の統制を固めたルイ14世は、次に国境線の拡大と安全保障を重視します。
特にライン川流域やネーデルラントへの進出を狙い、ここから連続的な侵略戦争へ突入していきます。
入試で狙われるポイント
- フロンドの乱とルイ14世親政開始の因果関係
- コルベールの重商主義政策
- ヴェルサイユ宮殿と貴族統制の関係
- ルイ14世の戦争政策の背景(国境線防衛・安全保障)
- ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建設した目的と、その政策が国内政治体制に与えた影響を200字以内で説明せよ。
-
ルイ14世は絶対王政を強化するため、ヴェルサイユ宮殿を建設し、地方の有力貴族を宮廷に集めた。これにより、貴族の地方での政治的影響力を削ぎ、王権を一元化した。また、宮廷儀礼を利用して貴族間に序列意識を植え付け、王への忠誠を高めた。この統制体制は、強大な軍事力と重商主義政策を背景とした戦争外交への転換を可能にした。
第1章: ルイ14世の侵略戦争と外交戦略 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ルイ14世が即位した年は西暦何年か。
解答:1643年
問2
ルイ14世の幼少期に起きた貴族・高等法院による反乱を何というか。
解答:フロンドの乱
問3
ルイ14世の宰相として幼少期を支えた人物は誰か。
解答:マザラン
問4
ルイ14世の親政開始は西暦何年か。
解答:1661年
問5
ルイ14世の財務総監で、重商主義を推進した人物は誰か。
解答:コルベール
問6
ルイ14世が建設した宮殿は何か。
解答:ヴェルサイユ宮殿
問7
ヴェルサイユ宮殿建設の政治的目的は何か。
解答:貴族を宮廷に集めて統制すること
問8
ルイ14世が外交政策で重視した国境線はどこか。
解答:ライン川流域
問9
ルイ14世の戦争政策の目的は主に何か。
解答:国境防衛と領土拡大
問10
ルイ14世の時代にフランスは何主義政策を採用したか。
解答:重商主義
正誤問題(5問)
問1
ルイ14世は即位直後から親政を行った。
解答:誤(即位当初はマザランが宰相として実権を握った)
問2
フロンドの乱は王権強化に賛成する貴族たちの蜂起であった。
解答:誤(反対する貴族と高等法院が蜂起した)
問3
コルベールは自由放任主義政策を進めた。
解答:誤(実際は重商主義を推進した)
問4
ヴェルサイユ宮殿の建設は、貴族統制と王権強化を目的としていた。
解答:正
問5
ルイ14世は国境線防衛を目的に戦争政策を進めた。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ルイ14世は即位後すぐ親政を開始した | 実際は宰相マザランが死去する1661年から親政開始 |
フロンドの乱は王権支持派の蜂起 | 実際は王権強化に反対した貴族・高等法院の反乱 |
コルベールは自由放任主義を採用した | 実際は重商主義政策を強力に推進 |
ヴェルサイユ宮殿は単なる王の趣味で建設 | 実際は貴族統制と王権集中のため |
ルイ14世の戦争は侵略目的のみ | 実際は国境防衛と安全保障も目的 |
第2章 ルイ14世の4つの侵略戦争とその影響
ルイ14世の治世を象徴するのは、約半世紀にわたる連続的な戦争政策です。
彼はフランスの国境防衛と領土拡大を目的に、次々とヨーロッパ諸国と衝突しました。
この章では、南ネーデルラント継承戦争 → オランダ侵略戦争 → ファルツ継承戦争 → スペイン継承戦争の4つを順に解説し、さらに戦争がヨーロッパの国際秩序に与えた影響を整理します。
2-1. 南ネーデルラント継承戦争(1667〜1668年)
背景
ルイ14世は妻マリア=テレジア(スペイン王女)の「ブラバント継承権」を主張し、スペイン領南ネーデルラント(現ベルギー)への進出を試みました。
この「遡及権問題」を口実に軍事行動を開始します。
経過と結果
当初、フランスは有利に進軍しましたが、イギリス・スウェーデン・オランダが結成した三国同盟によって牽制され、アーヘン和約(1668年)でアルトワ地方など一部のみを獲得しました。
2-2. オランダ侵略戦争(1672〜1678年)
背景
オランダは前回の戦争でフランスを牽制したため、ルイ14世はオランダ打倒を決意します。さらに、ライン川流域の支配権確立を狙いました。
経過と結果
1672年、フランスはイギリスと同盟してオランダに侵攻。序盤は圧倒的に優勢でしたが、オランダは堤防を開いて国土を水没させる「水攻め戦術」で抵抗。
さらに、スペイン・神聖ローマ帝国・スウェーデンが対仏包囲網を形成し、戦局は膠着。ナイメーヘン和約(1678年)でフランスはフランシュ=コンテを獲得しました。
2-3. ファルツ継承戦争(1688〜1697年)
背景
ルイ14世は妹リズリスの結婚を口実に、神聖ローマ帝国領ファルツ地方の継承権を主張します。しかし、この動きに危機感を抱いた諸国が結束し、アウクスブルク同盟(大同盟)を形成しました。
経過と結果
戦争はフランスと大同盟諸国(神聖ローマ帝国・スペイン・オランダ・イギリスなど)との全面対立となり、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争に発展。
ライスワイク条約(1697年)で戦争は終結し、フランスは大きな領土拡大に失敗しました。
2-4. スペイン継承戦争(1701〜1713年)
背景
1700年、スペイン王カルロス2世が後継者を指名せずに死去。ルイ14世は孫のフェリペをスペイン王に擁立しました(フェリペ5世)。
これに対抗して、イギリス・オランダ・オーストリア・プロイセンが中心となるスペイン継承戦争が勃発します。
経過と結果
戦争はイギリス軍司令官マールバラ公の活躍で連合軍が優勢となり、フランスは劣勢に立たされます。
ユトレヒト条約(1713年)では、ルイ14世の孫フェリペ5世のスペイン王位は認められる一方、スペインとフランスの合併は禁止され、フランスは大西洋貿易で大きな利益を失いました。
2-5. 戦争がもたらした影響
4つの戦争の結果、フランスは一時的に領土を拡大しましたが、ヨーロッパ諸国の警戒心を強めた結果、フランス包囲網を形成され、外交的に孤立しました。
また、莫大な戦費によってフランス財政は破綻寸前となり、18世紀後半のフランス革命の遠因ともなります。
入試で狙われるポイント
- アーヘン和約・ナイメーヘン和約・ライスワイク条約・ユトレヒト条約の順序
- オランダ侵略戦争の「水攻め戦術」
- ファルツ継承戦争と大同盟の関係
- スペイン継承戦争とユトレヒト条約の内容
- ルイ14世の侵略戦争がヨーロッパ国際秩序に与えた影響について、フランス包囲網の形成を軸に300字以内で説明せよ。
-
ルイ14世は領土拡大を目的として南ネーデルラント継承戦争・オランダ侵略戦争・ファルツ継承戦争・スペイン継承戦争を展開した。しかし、これらの侵略的政策は周辺諸国の警戒心を強め、オランダ、イギリス、神聖ローマ帝国などが次第に結束してフランス包囲網を形成した。結果としてフランスは外交的に孤立し、戦費の増大で財政が悪化。ユトレヒト条約後、ヨーロッパの勢力均衡は維持され、フランスは覇権国家としての地位を揺るがすことになった。
第2章: ルイ14世の侵略戦争と外交戦略 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
南ネーデルラント継承戦争の発端となった権利主張は何か。
解答:ブラバント継承権
問2
南ネーデルラント継承戦争を終結させた条約は何か。
解答:アーヘン和約
問3
オランダ侵略戦争でルイ14世が同盟した国はどこか。
解答:イギリス
問4
オランダがフランス軍を阻止するために用いた戦術は何か。
解答:水攻め戦術
問5
オランダ侵略戦争を終結させた条約は何か。
解答:ナイメーヘン和約
問6
ファルツ継承戦争でフランスに対抗するため結成された同盟は何か。
解答:アウクスブルク同盟(大同盟)
問7
ファルツ継承戦争を終結させた条約は何か。
解答:ライスワイク条約
問8
スペイン継承戦争が勃発した原因は何か。
解答:カルロス2世の死去による後継者問題
問9
スペイン継承戦争の結果を定めた条約は何か。
解答:ユトレヒト条約
問10
ユトレヒト条約で認められたルイ14世の孫の王位は誰か。
解答:フェリペ5世
正誤問題(5問)
問1
南ネーデルラント継承戦争はナイメーヘン和約で終結した。
解答:誤(アーヘン和約で終結)
問2
オランダ侵略戦争ではイギリスとフランスが同盟してオランダを攻撃した。
解答:正
問3
ファルツ継承戦争の終結条約はユトレヒト条約である。
解答:誤(ライスワイク条約)
問4
スペイン継承戦争でルイ14世の孫フェリペはスペイン王位を継承した。
解答:正
問5
ユトレヒト条約ではフランスとスペインの合同王国が認められた。
解答:誤(合同は禁止された)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
南ネーデルラント継承戦争はナイメーヘン和約で終結 | アーヘン和約で終結 |
オランダ侵略戦争でフランスはオランダと同盟した | 実際はオランダを攻撃し、イギリスと同盟 |
ファルツ継承戦争の終結条約はユトレヒト条約 | ライスワイク条約で終結 |
ユトレヒト条約でフランスとスペインの合同が認められた | 合同は禁止され、勢力均衡が重視された |
スペイン継承戦争はフランスの大勝で終わった | 実際は領土拡大を制限され、外交的には後退 |
第3章 ルイ14世の外交戦略とフランス包囲網
ルイ14世は、ヨーロッパにおけるフランス覇権を目指して積極的な外交政策を展開しました。しかし、その侵略的姿勢は諸国の反発を招き、「フランス包囲網」を形成させる結果となります。
この章では、ルイ14世の外交戦略の変遷と、包囲網がヨーロッパ国際秩序に与えた影響を整理します。
3-1. 初期外交戦略:イギリスとの同盟とオランダ牽制
南ネーデルラント継承戦争後、ルイ14世はオランダを最大の障害と見なしました。
そこで、オランダを孤立させるためにイギリスと接近し、オランダ侵略戦争(1672〜1678年)ではイギリス・スウェーデンとの三国同盟を結成します。
この時点では、フランスは外交的に優位な立場を築いていました。
3-2. 包囲網外交への転換:大同盟の形成
しかし、フランスの侵略的行動は諸国の危機感を強め、次第に反仏包囲網が形成されます。
- 第一次包囲網(1673年)
オランダ侵略戦争中、オランダがスペイン・神聖ローマ帝国・ブランデンブルクと結んで結成。
→ フランスは戦局を有利に進められず、ナイメーヘン和約で妥協。 - 第二次包囲網(1686年:アウクスブルク同盟)
ファルツ継承戦争の際、神聖ローマ帝国・スペイン・オランダ・スウェーデン・サヴォイア・バイエルンなどが参加。
→ この大同盟によってフランスは多正面戦争を強いられ、ライスワイク条約で領土拡大に失敗。 - 第三次包囲網(1701年:スペイン継承戦争)
イギリス・オランダ・オーストリア・プロイセンなどが参加。
→ フランスは劣勢となり、ユトレヒト条約で譲歩を余儀なくされる。
3-3. フランス包囲網の効果と外交的孤立
包囲網外交はルイ14世にとって大きな障害となり、
- 戦争遂行能力を削ぐ
- 領土拡大を阻止
- 財政悪化を加速
という深刻な影響を与えました。
さらに、ユトレヒト条約以降は「勢力均衡」という概念が国際関係の基本原則となり、フランス一強時代は終焉を迎えます。
入試で狙われるポイント
- フランス包囲網は3段階で形成されたこと
- アウクスブルク同盟(大同盟)の位置づけ
- ユトレヒト条約と勢力均衡の概念
- 包囲網がルイ14世の外交戦略を大きく制限した点
- ルイ14世時代に形成されたフランス包囲網の意義と、それがヨーロッパ国際秩序に与えた影響について300字以内で説明せよ。
-
ルイ14世の積極的な領土拡大政策は諸国の警戒を招き、オランダ侵略戦争中の第一次包囲網、ファルツ継承戦争中のアウクスブルク同盟(大同盟)、スペイン継承戦争中の第三次包囲網と、三段階にわたるフランス包囲網を形成させた。これによりフランスは多正面戦争を強いられ、財政的に疲弊。最終的にユトレヒト条約で譲歩を余儀なくされ、ヨーロッパにおいて勢力均衡の原則が確立した。この原則は18世紀以降の国際秩序を規定し、フランス覇権の終焉を示した。
第3章: ルイ14世の侵略戦争と外交戦略 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オランダ侵略戦争時にオランダが形成した包囲網は何か。
解答:第一次フランス包囲網
問2
第一次フランス包囲網に参加した主要国を2つ挙げよ。
解答:オランダ・スペイン
問3
ファルツ継承戦争時に結成された大同盟の正式名称は何か。
解答:アウクスブルク同盟
問4
アウクスブルク同盟に参加した主要国を2つ挙げよ。
解答:神聖ローマ帝国・オランダ
問5
スペイン継承戦争時に形成された包囲網を何というか。
解答:第三次フランス包囲網
問6
スペイン継承戦争でフランスに対抗した連合軍の司令官は誰か。
解答:マールバラ公
問7
ユトレヒト条約の結果、フランスの孫フェリペはどの国の王位を継承したか。
解答:スペイン
問8
ユトレヒト条約後、国際関係の基本原則となった概念は何か。
解答:勢力均衡
問9
フランス包囲網形成のきっかけとなったルイ14世の政策は何か。
解答:積極的な領土拡大政策
問10
ルイ14世時代、フランスが外交的に孤立した最大の原因は何か。
解答:侵略戦争の連続による諸国の反発
正誤問題(5問)
問1
アウクスブルク同盟はオランダ侵略戦争中に結成された。
解答:誤(ファルツ継承戦争中に結成)
問2
第一次フランス包囲網にはスペインも参加していた。
解答:正
問3
ユトレヒト条約ではフランスとスペインの合同王国が成立した。
解答:誤(合同は禁止された)
問4
ルイ14世の外交戦略は、結果的にヨーロッパでの勢力均衡を生み出した。
解答:正
問5
フランス包囲網は一度形成されると、ルイ14世の死まで維持された。
解答:誤(戦争ごとに形成され、都度変動した)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
フランス包囲網は一度形成されたら崩れなかった | 戦争ごとに都度形成・解体を繰り返した |
アウクスブルク同盟はオランダ侵略戦争時に結成 | ファルツ継承戦争時に結成 |
ユトレヒト条約でフランスとスペインが合同した | 合同は禁止され、勢力均衡が優先 |
フランスは4つの戦争で常に領土を拡大した | 実際にはライスワイク条約やユトレヒト条約で譲歩も多い |
フランス包囲網は常にイギリス主導だった | 戦争によって主導国は異なり、オランダや神聖ローマ帝国が中心のこともあった |
第4章 ルイ14世の戦争と外交がもたらした18世紀ヨーロッパ国際秩序
ルイ14世は約72年にわたる治世の中で、ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替えました。
しかし、連続する侵略戦争は周辺諸国との対立を深め、最終的にはフランス包囲網を形成させ、外交的孤立を招きます。
さらに、ユトレヒト条約(1713年)を契機に「勢力均衡」という原則が国際秩序の基盤となり、フランス絶対王政の限界が露呈しました。
4-1. ユトレヒト条約と勢力均衡体制の成立
1713年のユトレヒト条約は、スペイン継承戦争を終結させただけでなく、18世紀ヨーロッパの国際秩序を決定づける転換点となりました。
条約の主な内容
- フェリペ5世(ルイ14世の孫)のスペイン王位を承認
- ただし、フランスとスペインの合同は禁止
- イギリスがジブラルタル・ミノルカ島を獲得
- オーストリアはネーデルラント・ナポリ・ミラノを獲得
これにより、フランスの単独覇権は阻止され、「勢力均衡」を原則とする国際体制が確立しました。
4-2. フランス絶対王政の限界
ルイ14世は国内では絶対王政を確立したものの、外交面では大きな制約を受けるようになりました。
- 侵略戦争の結果、財政赤字が深刻化
- 戦費増大で国内経済が疲弊
- 貴族統制に成功した反面、国民の不満が高まり、後のフランス革命の遠因となった
絶対王政は一見強固に見えても、戦費と外交的孤立によって揺らぎ始めていたのです。
4-3. 18世紀国際秩序への影響
ルイ14世の外交政策は、18世紀ヨーロッパ国際関係の枠組みを形作りました。
- イギリスはジブラルタルを得て海上覇権を確立
- オーストリアは南ネーデルラントやイタリアを得てハプスブルク家の勢力を維持
- フランスは一時的に領土を拡大したが、覇権国家としては後退
- ヨーロッパは「勢力均衡」を軸とする多極的秩序に移行
これらの流れは、後の七年戦争(1756〜1763年)やフランス革命へとつながっていきます。
入試で狙われるポイント
- ユトレヒト条約の内容と意義
- 勢力均衡体制の確立
- イギリスが海上覇権を握った背景
- ルイ14世の外交失敗と財政破綻の関係
- ルイ14世の侵略戦争と外交政策がヨーロッパ国際秩序に与えた影響を、「勢力均衡」という概念を軸に300字以内で説明せよ。
-
ルイ14世は領土拡大を目指して南ネーデルラント継承戦争からスペイン継承戦争まで4度の侵略戦争を展開したが、その結果、諸国は危機感を募らせ、フランス包囲網を形成した。これによりフランスは外交的に孤立し、財政赤字が深刻化。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約では、フランスとスペインの合同が禁止され、イギリス・オーストリアが台頭。以降、ヨーロッパは勢力均衡を基本原則とする国際秩序へ移行し、フランスの単独覇権は終焉した。ルイ14世の外交政策は、結果的に18世紀の多極的国際関係を形成する契機となった。
第4章: ルイ14世の侵略戦争と外交戦略 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ユトレヒト条約が締結された年は何年か。
解答:1713年
問2
ユトレヒト条約でスペイン王に即位したルイ14世の孫は誰か。
解答:フェリペ5世
問3
ユトレヒト条約でフランスとスペインに対して課された重要な制約は何か。
解答:両国の合同禁止
問4
ユトレヒト条約でイギリスが獲得した重要な拠点はどこか。
解答:ジブラルタル
問5
ユトレヒト条約でオーストリアが獲得した地域を2つ挙げよ。
解答:南ネーデルラント・ナポリ
問6
ユトレヒト条約後、国際関係の基本原則となった概念は何か。
解答:勢力均衡
問7
ルイ14世時代の戦費拡大がフランスに与えた影響は何か。
解答:財政赤字の深刻化
問8
ルイ14世の外交政策によって台頭した国はどこか。
解答:イギリス
問9
ルイ14世の侵略戦争がフランス革命に与えた長期的影響は何か。
解答:財政破綻の原因となった
問10
ユトレヒト条約以降のヨーロッパ国際秩序の特徴は何か。
解答:多極的勢力均衡体制
正誤問題(5問)
問1
ユトレヒト条約でフランスとスペインは合同王国を形成した。
解答:誤(合同は禁止された)
問2
ユトレヒト条約でイギリスはジブラルタルを獲得した。
解答:正
問3
ユトレヒト条約後、フランスは覇権国家としての地位を強化した。
解答:誤(むしろ覇権は後退)
問4
勢力均衡体制はユトレヒト条約以降のヨーロッパ国際関係を特徴づける原則である。
解答:正
問5
ルイ14世の戦争政策はフランス国内財政にほとんど影響を与えなかった。
解答:誤(戦費拡大で財政破綻を招いた)
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
ユトレヒト条約でフランスとスペインは合同した | 実際は合同禁止、勢力均衡を重視 |
ルイ14世の戦争はフランスを大国化しただけ | 実際は財政赤字と外交孤立を招き、覇権は後退 |
ユトレヒト条約はスペイン継承戦争のみを終結させただけ | 条約は18世紀国際秩序を決定づける転換点 |
勢力均衡体制は19世紀以降に確立 | 実際は18世紀初頭のユトレヒト条約以降に形成 |
イギリスの海上覇権は七年戦争後に確立した | ジブラルタル獲得を契機に、ユトレヒト条約以降に基盤を築いた |
まとめ:ルイ14世の侵略戦争と外交戦略の全体像
ルイ14世(在位1643〜1715年)の治世は、フランス絶対王政の絶頂期であると同時に、ヨーロッパ国際秩序の大転換点でもありました。
彼は「太陽王」として王権を強化し、豪華なヴェルサイユ宮殿を築き上げた一方で、積極的な領土拡大政策を進め、4つの大きな戦争を繰り返しました。
ルイ14世時代の4つの戦争と国際秩序の変化
- 南ネーデルラント継承戦争(1667〜1668)
妻マリア=テレジアの継承権を口実に領土拡大を狙うも、三国同盟(イギリス・オランダ・スウェーデン)に阻止され、アーヘン和約で一部獲得にとどまる。 - オランダ侵略戦争(1672〜1678)
イギリスと同盟してオランダを攻撃するも、オランダの水攻め戦術と第一次フランス包囲網によって戦局が膠着。ナイメーヘン和約でフランシュ=コンテを得る。 - ファルツ継承戦争(1688〜1697)
ファルツ地方の継承権を主張するも、**アウクスブルク同盟(大同盟)**に阻止される。ライスワイク条約で領土拡大に失敗。 - スペイン継承戦争(1701〜1713)
ルイ14世の孫フェリペ5世のスペイン王位継承をめぐり、第三次フランス包囲網と全面対決。ユトレヒト条約でフェリペの王位は承認されるが、フランスとスペインの合同は禁止され、覇権は後退。
ユトレヒト条約と勢力均衡体制の成立
1713年のユトレヒト条約は、単なる戦争終結ではなく、18世紀ヨーロッパ国際秩序の転換点となりました。
- ルイ14世の孫フェリペ5世はスペイン王位を継承
- フランスとスペインの合同は禁止
- イギリスはジブラルタル・ミノルカ島を獲得し、海上覇権を確立
- オーストリアは南ネーデルラントやイタリアの領土を獲得
この結果、ヨーロッパは勢力均衡を基軸とする多極的国際秩序に移行し、フランスの単独覇権は終焉しました。
ルイ14世の外交失敗とフランス絶対王政の限界
ルイ14世の外交戦略は、短期的には領土拡大に成功したものの、長期的には次の3つの問題を引き起こしました。
- フランス包囲網による外交的孤立
→ 諸国が次々と対仏同盟を形成、自由な外交行動が制限される。 - 戦費拡大による財政破綻
→ 絶対王政の財政基盤を揺るがし、後のフランス革命の遠因に。 - 覇権国家から多極体制への移行
→ イギリス・オーストリアが台頭し、フランスは国際秩序の一角に後退。
最後に全体年表とフランス包囲網の形成フローチャートを参考までにご覧ください。
【参考1】ルイ14世の侵略戦争と外交:全体年表
年代 | 出来事 | 戦争・条約・外交 | 影響・ポイント |
---|---|---|---|
1643 | ルイ14世即位(5歳) | 宰相マザランが摂政 | 幼少期に実権を握らず |
1648〜1653 | フロンドの乱 | 王権強化に反発した貴族・高等法院の反乱 | 絶対王政確立を決意する契機 |
1661 | マザラン死去・ルイ14世親政開始 | 重商主義政策(コルベール)開始 | 財政基盤を整備、軍備強化 |
1667〜1668 | 南ネーデルラント継承戦争 | アーヘン和約で終結 | 一部領土獲得も、三国同盟に阻止される |
1672〜1678 | オランダ侵略戦争 | イギリスと同盟しオランダ攻撃 → ナイメーヘン和約で終結 | オランダの「水攻め戦術」が有名 |
1673 | 第一次フランス包囲網形成 | オランダ・スペイン・神聖ローマ帝国など | 戦局膠着の原因 |
1688〜1697 | ファルツ継承戦争 | **アウクスブルク同盟(大同盟)**結成 → ライスワイク条約で終結 | 領土拡大失敗、戦費増大 |
1701〜1713 | スペイン継承戦争 | ルイ14世の孫フェリペをスペイン王に擁立 → ユトレヒト条約で終結 | フランスとスペイン合同禁止、勢力均衡体制確立 |
1713 | ユトレヒト条約締結 | イギリスはジブラルタル獲得 | イギリス海上覇権の基盤に |
1715 | ルイ14世死去 | 在位72年 | フランス絶対王政のピークと限界を象徴 |
【参考2】フランス包囲網の形成フローチャート
ルイ14世の侵略政策がどのようにして包囲網外交を誘発し、最終的に外交的孤立に至ったのかを図で整理します。
ルイ14世の積極的領土拡大政策
│
▼
【第1次フランス包囲網(1673年)】
オランダ侵略戦争中
・オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国が結束
・ナイメーヘン和約で一部領土獲得にとどまる
│
▼
【第2次フランス包囲網(1686年)】
ファルツ継承戦争中
・アウクスブルク同盟(大同盟)結成
・神聖ローマ帝国、スペイン、オランダ、スウェーデンなど
・ライスワイク条約でフランスは拡大失敗
│
▼
【第3次フランス包囲網(1701年)】
スペイン継承戦争中
・イギリス、オランダ、オーストリア、プロイセンなど
・ユトレヒト条約でフランス譲歩、合同禁止
│
▼
フランス外交の孤立化
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【ユトレヒト条約後(1713年)】
・「勢力均衡」の原則が国際秩序の中心に
・イギリスが海上覇権を確立
・フランスは覇権国家から多極秩序の一角へ後退
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