17世紀、ヨーロッパは新たな覇権争いの時代へ突入しました。
スペインやポルトガルの没落後、商業と海上貿易をリードしたのはオランダでした。しかし、台頭するイギリスがその地位を脅かすと、両国は3度にわたって熾烈な戦争を繰り広げます。
これが「英蘭戦争」です。航海法をめぐる摩擦、王政復古イギリスの政策、さらにはルイ14世のフランスが絡んだ国際関係の変化など、英蘭戦争は近世ヨーロッパの国際秩序を大きく揺さぶりました。
本記事では、第一次・第二次・第三次の各戦争を俯瞰しつつ、共通する原因、結果、そして歴史的意義を整理します。
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大学入試では、単なる用語の暗記にとどまらず、どのような切り口で理解し説明できるかが重要になります。そこで次の【英蘭戦争 総合問題演習50本勝負】では、MARCHレベルと早慶レベルに分けた問題を通じて、実戦的な力を鍛えることができます。この記事を読み終えた後、ぜひ挑戦してみてください。
また、各章末に掲載している重要論述問題と解答例は、理解を助けるために作成した参考例です。実際の入試や模試における最適解を保証するものではありません。本番の論述問題では、ここで得た知識を叩き台に、自分の言葉で答案を再構成・ブラッシュアップしていくことが大切です。
第1章 英蘭戦争の背景
英蘭戦争は偶発的な衝突ではなく、17世紀ヨーロッパにおける海上覇権をめぐる必然的な対立から生じました。
イギリスとオランダの経済的背景を確認することで、なぜ3度もの戦争が繰り返されたのか理解が深まります。
1-1 オランダの黄金時代
16世紀末にスペインから独立したネーデルラント連邦共和国(オランダ)は、17世紀に「商業の黄金時代」を迎えます。
アムステルダムを中心に世界最大の金融市場と中継貿易網を築き、オランダ東インド会社・西インド会社が海外進出を進めました。
1-2 イギリスの台頭と航海法
一方、イギリスでは清教徒革命を経て共和政が成立し、オリバー=クロムウェルが政権を握ります。
国内の安定を背景に海外進出を強化し、1651年には航海法を制定してオランダ商船を締め出しました。
これが両国対立の引き金となり、英蘭戦争の火蓋が切られます。
1-3 海上覇権をめぐる必然的対立
オランダは中継貿易による繁栄を維持したいのに対し、イギリスはそれを打破して自国商人を保護する必要がありました。
両国の利害は根本的に衝突しており、海上覇権争いは不可避の運命にありました。
1-4 入試で狙われるポイント
- 航海法(1651年)の制定とその意義
- オランダの商業的優位とアムステルダムの役割
- イギリス台頭の背景=清教徒革命と共和政の成立
- 英蘭戦争が繰り返された背景を、イギリスとオランダの経済的特徴に触れながら200字程度で説明せよ。
-
英蘭戦争は、台頭するイギリスと商業的優位を誇ったオランダの利害対立に起因した。オランダはアムステルダムを中心に金融と中継貿易で「黄金時代」を築いていたが、イギリスは清教徒革命を経て共和政が成立し、海外進出を強化した。1651年の航海法はイギリス商人の保護とオランダ商船排除を目的とし、両国関係を決定的に悪化させた。こうした通商権益をめぐる対立が、3度の戦争へと発展する背景となった。
第1章: 英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
17世紀にヨーロッパ随一の商業国家となった国はどこか。
解答:オランダ
問2
オランダの海外進出を担った二大会社を挙げよ。
解答:東インド会社、西インド会社
問3
オランダの中心都市で、金融と貿易の中心地となったのはどこか。
解答:アムステルダム
問4
清教徒革命後に成立したイギリスの政治体制は何か。
解答:共和政(イギリス共和国/コモンウェルス)
問5
清教徒革命後にイギリスで実権を握った人物は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問6
イギリスが1651年に制定した法律は何か。
解答:航海法
問7
航海法は輸入品をどのような船籍に制限したか。
解答:イギリス船籍または生産国船籍
問8
航海法の直接的な標的となった国はどこか。
解答:オランダ
問9
英蘭戦争の根本原因は何をめぐる争いか。
解答:海上覇権・通商権益
問10
イギリスが海外進出を強化した背景となった国内の出来事は何か。
解答:清教徒革命
正誤問題(5問)
問11
オランダの黄金時代は、農業生産力の拡大によってもたらされた。
解答:誤(中継貿易と金融による繁栄)
問12
アムステルダムは17世紀に金融と貿易の中心都市となった。
解答:正
問13
クロムウェルはフランス王政復古期に活躍した人物である。
解答:誤(イギリス共和国期の指導者)
問14
航海法は1651年に制定され、オランダ商船の排除を目的とした。
解答:正
問15
英蘭戦争はヨーロッパの海上覇権争いを象徴する戦争であった。
解答:正
第2章 第一次英蘭戦争(1652〜1654)
第一次英蘭戦争は、航海法(1651年)の制定によってオランダ商船を排除したことを直接のきっかけとして勃発しました。
イギリス共和国の指導者クロムウェルのもとで整備された海軍は、戦術革新によってオランダを圧倒し、イギリスの海上覇権確立の第一歩となりました。
ここでは、戦争の経過とその結果を整理します。
2-1 航海法と戦争の勃発
1651年に制定された航海法は、イギリスへの輸入品を「イギリス船籍または生産国船籍」に限定し、オランダの中継貿易を大きく制限しました。
これに反発したオランダとイギリスは1652年に衝突し、第一次英蘭戦争が始まります。
2-2 北海・英仏海峡での海戦
戦争の主戦場は北海や英仏海峡でした。序盤はオランダも善戦しましたが、イギリスは「ライン戦法(戦列戦法)」を採用し、艦隊を一列に並べ効率的な砲撃を展開しました。
これにより戦術的優位を確立します。
2-3 スヘフェニンゲンの海戦と戦局転換
1653年のスヘフェニンゲンの海戦では、オランダの提督マールテン=トロンプが戦死しました。
この出来事によりオランダ艦隊は大打撃を受け、戦局は決定的にイギリス有利となりました。
2-4 ウェストミンスター条約と戦争の終結
1654年のウェストミンスター条約によって戦争は終結します。オランダは航海法を事実上認めざるを得ず、イギリスは海軍国家としての地位を確立しました。
一方で、オランダは依然として商業大国としての地位を保ち続けますが、その優位性には陰りが見え始めます。
2-5 入試で狙われるポイント
- 航海法(1651年)の内容と目的
- ライン戦法の導入と戦術的意義
- スヘフェニンゲンの海戦でのトロンプの戦死
- ウェストミンスター条約(1654年)の内容
- 第一次英蘭戦争の原因・経過・結果を、航海法とイギリス海軍の戦術革新に触れながら200字程度で説明せよ。
-
第一次英蘭戦争は、イギリスが1651年に航海法を制定し、オランダ商船を排除したことを直接の原因として勃発した。戦争は北海や英仏海峡で行われ、イギリスはライン戦法を採用して艦隊運用で優位に立ち、1653年スヘフェニンゲン海戦でトロンプを戦死させた。1654年のウェストミンスター条約でオランダは航海法を認め、イギリスは海軍国家としての地位を固めたが、オランダの商業的繁栄もなお継続した。
第2章: 英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第一次英蘭戦争の直接の原因となった法律は何か。
解答:航海法
問2
航海法は何年に制定されたか。
解答:1651年
問3
航海法が打撃を与えた国はどこか。
解答:オランダ
問4
第一次英蘭戦争は何年に始まったか。
解答:1652年
問5
第一次英蘭戦争を指導したイギリスの政治家は誰か。
解答:オリバー=クロムウェル
問6
イギリス海軍が導入した新戦術は何か。
解答:ライン戦法
問7
スヘフェニンゲン海戦で戦死したオランダの提督は誰か。
解答:マールテン=トロンプ
問8
スヘフェニンゲン海戦は何年に行われたか。
解答:1653年
問9
第一次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約
問10
ウェストミンスター条約が結ばれたのは何年か。
解答:1654年
正誤問題(5問)
問11
航海法は輸入品をイギリス船籍に限定し、オランダ商船を排除した。
解答:正
問12
第一次英蘭戦争は陸上戦を中心に展開された。
解答:誤(主に海上戦)
問13
ライン戦法はオランダが導入し、イギリスを圧倒した。
解答:誤(イギリスが導入して優位に立った)
問14
スヘフェニンゲン海戦で戦死したのはオランダのトロンプである。
解答:正
問15
ウェストミンスター条約の結果、イギリスは航海法を撤廃した。
解答:誤(航海法は維持された)
第3章 第二次英蘭戦争(1665〜1667)
第一次英蘭戦争後、イギリスとオランダは一時的に講和しましたが、海上覇権をめぐる対立は解消されませんでした。
王政復古後のイギリスは再び通商拡大を狙い、1665年に第二次英蘭戦争が勃発します。この戦争では北海やカリブ海など広範囲で戦闘が行われ、両国の国力が大きく消耗しました。
最終的には1667年のブレダ条約によって戦争は終結し、両国は互いに譲歩する形で妥協しました。
3-1 王政復古イギリスと通商競争
1660年にイギリスで王政復古が実現し、チャールズ2世が即位します。
王政復古イギリスは再び航海法を強化し、オランダの商業的優位を脅かしました。両国は再び激しく衝突し、1665年に戦争が勃発します。
3-2 戦争の経過と戦局
第二次英蘭戦争は第一次と異なり、北海だけでなくカリブ海やアフリカ沿岸でも戦闘が行われ、植民地をめぐる争いが拡大しました。
1667年、オランダの提督デ=ロイテルがテムズ川河口のメドウェイ港を奇襲し、イギリス艦隊に大打撃を与えました
これにより、戦局は一気にオランダ優勢に転じます。
3-3 ブレダ条約と講和
1667年のブレダ条約で戦争は終結しました。イギリスは北米のニューアムステルダム(後のニューヨーク)を獲得し、オランダは南米スリナムを確保するなど、互いに領土を交換する形で妥協しました。この戦争は、両国が植民地をめぐる覇権争いに本格的に踏み込んだことを示す出来事でした。
3-4 入試で狙われるポイント
- 王政復古(1660年)と第二次英蘭戦争の関係
- デ=ロイテルによるメドウェイ港奇襲(1667年)
- ブレダ条約(1667年)の内容と領土交換
- 第二次英蘭戦争の経過と講和の結果を、植民地争奪の観点から200字程度で説明せよ。
-
第二次英蘭戦争は、王政復古後のイギリスとオランダの通商競争激化を背景に1665年に勃発した。戦争は北海にとどまらず、カリブ海やアフリカ沿岸にまで広がり、植民地をめぐる争いとなった。1667年にはデ=ロイテルがメドウェイ港を奇襲し、イギリス艦隊を撃破したことで戦局はオランダ優位に傾いた。戦後のブレダ条約で、イギリスはニューアムステルダムを獲得し、オランダはスリナムを保持するなど、両国は植民地領土を交換する形で妥協に至った。
第3章: 英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第二次英蘭戦争は何年に始まったか。
解答:1665年
問2
第二次英蘭戦争が終結したのは何年か。
解答:1667年
問3
第二次英蘭戦争の時、イギリスで復活していた王朝は何か。
解答:ステュアート朝(王政復古期)
問4
王政復古後のイギリス国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問5
第二次英蘭戦争で活躍したオランダの提督は誰か。
解答:ミヒール=デ=ロイテル
問6
1667年にデ=ロイテルが奇襲したイギリスの港はどこか。
解答:メドウェイ港
問7
ブレダ条約が締結されたのは何年か。
解答:1667年
問8
ブレダ条約でイギリスが獲得した北米の都市はどこか。
解答:ニューアムステルダム(ニューヨーク)
問9
ブレダ条約でオランダが保持した南米の植民地はどこか。
解答:スリナム
問10
第二次英蘭戦争の特徴を一言で表すと何か。
解答:植民地をめぐる争いの本格化
正誤問題(5問)
問11
第二次英蘭戦争は共和政期のイギリスで行われた。
解答:誤(王政復古後のイギリスで行われた)
問12
デ=ロイテルは1667年にメドウェイ港を奇襲し、イギリス艦隊に打撃を与えた。
解答:正
問13
ブレダ条約の結果、イギリスはニューアムステルダムを失った。
解答:誤(獲得した)
問14
オランダはブレダ条約でスリナムを確保した。
解答:正
問15
第二次英蘭戦争は第一次と異なり、植民地争奪戦の要素が強かった。
解答:正
第4章 第三次英蘭戦争(1672〜1674)
第三次英蘭戦争は、フランス王ルイ14世が展開した対オランダ戦争の一環として始まりました。
イギリスはフランスと同盟してオランダに挑みましたが、国内世論の反発と財政難から戦争継続は困難となり、短期間で終結します。
この戦争は、イギリス・オランダ間の争いにフランスが深く関与した点で大きな意味を持ち、国際関係の再編につながりました。
4-1 ルイ14世とイギリスの同盟
1672年、ルイ14世はヨーロッパにおける覇権拡大を狙い、オランダへの侵攻を開始しました。
イギリスのチャールズ2世はフランスと同盟を結び、海上からオランダを攻撃する形で第三次英蘭戦争が勃発します。
4-2 戦争の展開
戦争は当初フランス・イギリス側が優勢でしたが、オランダは堤防を決壊させて国土を水没させる「水攻め」によってフランス軍の進軍を阻止しました。
また、オランダ艦隊はデ=ロイテルの指揮のもとで善戦し、イギリスに決定的な勝利を許しませんでした。
4-3 講和と戦争の終結
1674年、イギリスは国内世論の反発と財政難に直面し、戦争継続を断念します。
同年のウェストミンスター条約によって講和が成立し、イギリスはオランダと和平しました。
これにより、オランダは再び独立と通商権を守り抜くことに成功しました。
4-4 入試で狙われるポイント
- ルイ14世の対オランダ戦争と英仏同盟
- オランダの「水攻め」による防衛戦術
- デ=ロイテル艦隊の活躍
- 1674年のウェストミンスター条約による講和
- 第三次英蘭戦争の特徴を、フランスの関与とオランダの防衛戦術に触れながら200字程度で説明せよ。
-
第三次英蘭戦争(1672〜1674)は、ルイ14世の対オランダ戦争の一環として行われた。フランスは陸上から侵攻し、イギリスは海上からオランダを攻撃したが、オランダは堤防を切り開き国土を水没させる「水攻め」によってフランス軍を阻止した。また、デ=ロイテル率いるオランダ艦隊は海戦で粘り強く抗戦し、イギリスに決定的勝利を許さなかった。1674年、国内世論と財政難に直面したイギリスは戦争を断念し、ウェストミンスター条約によってオランダと和平した。
第4章: 英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第三次英蘭戦争が始まったのは何年か。
解答:1672年
問2
第三次英蘭戦争が終結したのは何年か。
解答:1674年
問3
第三次英蘭戦争の背景となったフランスの戦争は何か。
解答:対オランダ戦争
問4
第三次英蘭戦争時のイギリス国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問5
第三次英蘭戦争でフランスと同盟した国はどこか。
解答:イギリス
問6
オランダが国土防衛のために用いた戦術は何か。
解答:水攻め(堤防決壊による水没作戦)
問7
第三次英蘭戦争でオランダ艦隊を率いた提督は誰か。
解答:ミヒール=デ=ロイテル
問8
1674年に締結された講和条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約
問9
イギリスが戦争継続を断念した理由は何か。
解答:国内世論の反発と財政難
問10
第三次英蘭戦争において最終的に独立と通商権を守り抜いた国はどこか。
解答:オランダ
正誤問題(5問)
問11
第三次英蘭戦争は、オランダとスペインの同盟によって始まった。
解答:誤(フランスとイギリスの同盟によって始まった)
問12
オランダは堤防を決壊させてフランス軍の進軍を阻止した。
解答:正
問13
デ=ロイテルは第三次英蘭戦争の海戦でオランダ艦隊を率いた。
解答:正
問14
1674年、イギリスはウェストミンスター条約でオランダと講和した。
解答:正
問15
第三次英蘭戦争の結果、イギリスは北米の植民地を新たに獲得した。
解答:誤(領土獲得はなく和平に至った)
第5章 英蘭戦争全体の意義とまとめ
英蘭戦争は、第一次(1652〜1654)、第二次(1665〜1667)、第三次(1672〜1674)の3度にわたって行われました。
いずれもイギリスとオランダの通商・海上覇権をめぐる争いであり、ヨーロッパ国際関係の大きな転換点となりました。
最終的にはイギリスが海軍国家としての地位を固め、大英帝国への道を進む契機となった一方、オランダの相対的な地位は次第に低下していきました。
ここでは、3度の戦争を通して見える歴史的意義を整理します。
5-1 イギリスの海上覇権確立
英蘭戦争を通じて、イギリスは航海法を堅持し、ライン戦法を導入するなど海軍力を強化しました。最終的にイギリスは海上覇権を掌握し、後の植民地帝国建設の基盤を固めました。
5-2 オランダの相対的地位低下
オランダは依然として商業・金融の中心として繁栄しましたが、英蘭戦争を経る中でイギリスとの競争に押され、
相対的な地位が低下しました。17世紀前半の黄金時代に比べると、覇権国家としての力は徐々に弱まっていきます。
5-3 国際関係の変化
第三次英蘭戦争ではフランスが深く関与したように、英蘭戦争はヨーロッパの大国間関係を再編する要因となりました。
以後、英仏間の植民地戦争や七年戦争へとつながり、世界規模の覇権争いが展開される時代へ移行していきます。
5-4 入試で狙われるポイント
- 航海法の意義と英蘭戦争との関係
- イギリス海軍国家化の過程
- オランダの黄金時代とその衰退の契機
- 英仏植民地戦争・七年戦争への連続性
- 英蘭戦争全体の歴史的意義を、イギリスとオランダの変化、および国際関係の流れに触れながら200字程度で説明せよ。
-
英蘭戦争(1652〜1674)は、イギリスとオランダの海上覇権をめぐる争いであり、最終的にイギリスが海軍国家として台頭する契機となった。第一次では航海法をめぐって衝突し、第二次では植民地争奪が本格化、第三次ではフランスが関与し国際関係が再編された。これによりイギリスは大英帝国への道を歩み始め、オランダは金融・商業大国としては存続したが相対的に地位を低下させた。英蘭戦争は、後の英仏植民地戦争や七年戦争につながる近代国際秩序の転換点であった。
第5章: 英蘭戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
英蘭戦争は全部で何回行われたか。
解答:3回
問2
第一次英蘭戦争の原因となった法律は何か。
解答:航海法(1651年)
問3
第二次英蘭戦争時のイギリス国王は誰か。
解答:チャールズ2世
問4
第三次英蘭戦争の背景となったフランスの戦争は何か。
解答:対オランダ戦争
問5
第一次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約(1654年)
問6
第二次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ブレダ条約(1667年)
問7
第三次英蘭戦争を終結させた条約は何か。
解答:ウェストミンスター条約(1674年)
問8
英蘭戦争を通じて優位に立った国はどこか。
解答:イギリス
問9
英蘭戦争後も商業・金融で繁栄を続けた国はどこか。
解答:オランダ
問10
英蘭戦争後に本格化した国際的な争いは何か。
解答:英仏間の植民地戦争・七年戦争
正誤問題(5問)
問11
英蘭戦争はイギリスとフランスの間で行われた戦争である。
解答:誤(イギリスとオランダの戦争)
問12
航海法はオランダの中継貿易を排除することを目的としていた。
解答:正
問13
英蘭戦争を通じてオランダは絶対的な覇権国家としての地位を強化した。
解答:誤(相対的に地位が低下した)
問14
第三次英蘭戦争にはフランスが関与した。
解答:正
問15
英蘭戦争は後の英仏植民地戦争や七年戦争につながる契機となった。
解答:正
まとめ 英蘭戦争の全体像と歴史的意義
英蘭戦争は、17世紀ヨーロッパにおける海上覇権をめぐる熾烈な競争を象徴する戦争でした。
オランダの黄金時代を脅かすイギリスの台頭、航海法をめぐる摩擦、さらにフランスのルイ14世による国際関係への介入など、単なる二国間戦争を超えた広がりを見せました。
3度の戦争を経てイギリスは海軍国家としての基盤を固め、大英帝国への道を歩み出します。
一方のオランダは依然として金融・商業の中心であり続けましたが、その相対的な国際的地位は低下していきました。
ここでは、年表とフローチャートで戦争の全体像を整理します。
英蘭戦争の重要年表
年代 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|
1651年 | 航海法制定 | オランダ商船を排除、イギリス商人を保護 |
1652〜1654年 | 第一次英蘭戦争 | 北海・英仏海峡で海戦、トロンプ戦死、イギリス優勢 |
1654年 | ウェストミンスター条約 | オランダが航海法を事実上承認 |
1665〜1667年 | 第二次英蘭戦争 | 植民地をめぐる争いに発展、デ=ロイテルがメドウェイ港奇襲 |
1667年 | ブレダ条約 | イギリス=ニューアムステルダム獲得、オランダ=スリナム保持 |
1672〜1674年 | 第三次英蘭戦争 | ルイ14世の対オランダ戦争に連動、英仏同盟 vs オランダ |
1674年 | ウェストミンスター条約(第2次) | イギリスが和平、オランダ独立と通商権益を保持 |
英蘭戦争の流れ(フローチャート)
航海法制定(1651年)
↓
第一次英蘭戦争(1652〜1654)
【イギリス優勢】航海法承認 → 海軍国家化の第一歩
↓
第二次英蘭戦争(1665〜1667)
【植民地争奪】ニューアムステルダム ↔ スリナム交換
↓
第三次英蘭戦争(1672〜1674)
【フランス介入】英仏同盟 vs オランダ、水攻め・デ=ロイテルの奮戦
↓
イギリス:海軍覇権を確立、大英帝国への基盤形成
オランダ:金融・商業で繁栄継続も、相対的地位低下
↓
次の段階へ:英仏植民地戦争 → 七年戦争 → 世界的覇権争いへ
総括
英蘭戦争は、イギリスが「海軍国家」へと転換する決定的な契機であり、近代的な国際秩序の出発点でもありました。
オランダの黄金時代に終止符を打ちつつ、世界規模の覇権争いが始まる重要な転換期だったのです。
大学入試においては、航海法、各戦争の講和条約(1654ウェストミンスター条約、1667ブレダ条約、1674ウェストミンスター条約)、そしてイギリス・オランダ・フランスの関係性を正確に整理することが求められます。

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