バルカン問題とは?|民族・宗教・列強の思惑が交錯したヨーロッパの火薬庫

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「バルカン問題」とは、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島が、19世紀以降、民族・宗教・列強の利害が複雑に絡み合うことで、度重なる戦争と緊張を生んだ国際的な問題を指します。

18〜19世紀のヨーロッパでは、「東方問題」としてオスマン帝国の衰退に伴う支配領域の再分割が注目されていました。

その中で、特に民族独立運動と列強の干渉が集中した地域がバルカン半島です。ギリシア独立戦争から露土戦争、バルカン戦争に至るまで、この地域は絶えず動乱の中心にありました。

本記事では、バルカン問題の歴史的構造・宗教と民族の対立・列強の思惑・「東方問題」との関係性を整理しながら、なぜこの地域が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになったのかを、体系的に解説します。

目次

第1章 オスマン支配下のバルカンと「民族のモザイク構造」

バルカン半島は、古代以来、民族と宗教の交差点として多様な文化が共存する地域でした。

中世にはビザンツ帝国が支配し、15世紀以降はオスマン帝国の版図に組み込まれます。

この長期支配のもとで、イスラーム・ギリシア正教・カトリックが混在し、民族もスラヴ系・ギリシア系・アルバニア系など多岐にわたりました。

この「多民族・多宗教構造」こそが、後のバルカン問題の根幹にある“爆発性”を内包していたのです。

1. オスマン帝国による支配の枠組み

オスマン帝国は征服後、バルカン諸民族に対してミッレト制(宗教共同体制度)を採用しました。

これは、宗教ごとに自治を認める制度で、イスラーム教徒以外の正教徒やユダヤ教徒にも一定の自治を与えるものです。

表面的には寛容な統治でしたが、同時に宗教による分断を固定化する側面もありました。

  • イスラーム教徒:支配層として特権を持つ
  • ギリシア正教徒:主にスラヴ民族が多く、農民階級が中心
  • カトリック教徒:西部(クロアチアなど)に分布

このように、宗教と民族がほぼ重なり合う構造は、後に「誰がこの土地の正統な支配者か」という主張を複雑化させていきます。

2. 民族意識の芽生えとナショナリズムの拡大

18世紀末から19世紀初頭にかけて、啓蒙思想やフランス革命の理念がヨーロッパ各地に広がりました。

「自由・平等・民族自決」の思想は、オスマン支配下の諸民族にも刺激を与え、民族独立運動の火種となります。

  • ギリシア人:1821年に独立戦争を起こし、1830年に独立を達成
  • セルビア人:カラジョルジェらの指導で自治を拡大し、19世紀中盤には独立へ
  • ブルガリア人・ルーマニア人:露土戦争を通じて自治・独立を実現

こうした民族運動は、単にオスマン帝国との対立にとどまらず、ロシアのパン=スラヴ主義など列強の干渉を招き、バルカン半島の政治的緊張を高めていきます。

3. バルカン半島の「民族の地図」と衝突の構造

バルカン半島では、民族の分布と国境が一致していませんでした。たとえば、セルビア人はオスマン領・オーストリア領・ボスニア・マケドニアなどに分かれて住んでおり、「大セルビア」を掲げる民族統一運動は、周辺諸国との衝突を不可避にしました。

また、ギリシア人とブルガリア人の間でも、マケドニア地域の帰属をめぐって争いが続きました。

このように、民族・宗教・言語・文化が交錯するバルカンでは、一民族の独立が他民族の不満を生む構造が形成されていたのです。

4. バルカン問題の原点:多民族共存の限界と「東方問題」との関係

オスマン支配のもとでは「宗教による共存」が成り立っていましたが、19世紀の民族主義の高まりによって、共存は「分離と対立」へと転化します。

この構造的な矛盾こそが、後にバルカンを「火薬庫」へと変貌させた要因でした。

民族運動の高揚は自由の象徴であると同時に、他民族支配の否定を意味し、結果として無数の新たな対立線を生み出していったのです。

ここで注意したいのが、しばしば混同される「東方問題」との関係です。

東方問題は、オスマン帝国の衰退によって生じた国際的な勢力均衡の問題を指し、列強がオスマン領の分割をめぐって対立する構造を意味します。

これに対し、バルカン問題はその中でも、バルカン半島に焦点を当てた民族的・地域的対立を指します。

たとえば、クリミア戦争やエジプト問題も東方問題の一部ですが、それらは主に中東や地中海の覇権をめぐる列強間の争いでした。

一方、バルカン問題では、民族独立運動が列強の干渉と結びつき、内政と国際政治が絡み合う火種となりました。

つまり、

東方問題=「オスマン帝国の衰退をめぐる列強の対立」
バルカン問題=「その中で民族と宗教が複雑に絡む地域紛争」

という関係に整理できます。

この違いを理解することで、露土戦争やバルカン危機などの出来事を、「単なる事件」ではなく「構造の中の一齣」として位置づけることができます。

入試で狙われるポイント

  • ミッレト制:宗教共同体ごとに自治を与えたオスマン帝国の統治制度
  • バルカンの民族構成:スラヴ系(セルビア・ブルガリア)、ギリシア系、アルバニア系などの混在
  • ギリシア独立戦争:オスマン支配からの民族独立運動の先駆
  • 民族運動の影響:啓蒙思想・フランス革命・パン=スラヴ主義
  • 東方問題とバルカン問題の違い:前者は列強の勢力争い、後者は民族・宗教の衝突を含む地域問題

重要論述問題にチャレンジ

オスマン帝国支配下のバルカン半島において、民族・宗教の多様性がどのようにして後のバルカン問題の要因となったか、200字程度で説明せよ。

オスマン帝国は宗教共同体ごとに自治を認めるミッレト制を敷いたため、イスラーム教徒・正教徒・カトリック教徒が並存した。だが、19世紀にナショナリズムが高まると、宗教と民族が重なり合う構造が独立要求を生み、民族間の領土争いを激化させた。この多民族・多宗教構造が列強の干渉を招き、後のバルカン問題の温床となった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第1章:バルカン問題とは? 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
オスマン帝国が異教徒に自治を与えた制度を何というか。

解答: ミッレト制

問2
ギリシア独立戦争が起こったのは何年か。

解答: 1821年

問3
ギリシアが独立を国際的に承認されたのは何年か。

解答: 1830年

問4
バルカン半島で最大のスラヴ系民族は何か。

解答: セルビア人

問5
オスマン帝国の宗教的支配層はどの宗教を信仰していたか。

解答: イスラーム教

問6
ブルガリアはどの戦争を契機に自治を獲得したか。

解答: 露土戦争(1877〜78年)

問7
バルカン半島で民族運動を後押しした思想運動は何か。

解答: ナショナリズム

問8
パン=スラヴ主義を掲げてスラヴ民族の保護を唱えた国はどこか。

解答: ロシア

問9
「火薬庫」と呼ばれるバルカンの緊張を象徴する出来事として、1914年に何が起こったか。

解答: サラエヴォ事件

問10
ミッレト制は民族統合を促した制度である。

解答: 誤(宗教による分断を固定化した)

正誤問題(5問)

問11
ミッレト制はイスラーム教徒のみに自治を与える制度であった。

解答: 誤

問12
オスマン帝国の支配下では、民族と宗教がほぼ一致していた。

解答: 正

問13
ギリシア独立は、フランス革命の影響を受けた民族運動の一環である。

解答: 正

問14
バルカン半島では、民族の分布と国境がほぼ一致していたため、衝突は少なかった。

解答: 誤

問15
19世紀以降、バルカン半島の民族運動は列強の干渉を招いた。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • ミッレト制を「民族自治制度」と誤答(正しくは宗教共同体自治)
  • ナショナリズムを「自由主義」と混同
  • バルカン問題を「東方問題」と同義と捉える(実際はその一部・地域焦点)

第2章 ロシアの南下政策とパン=スラヴ主義

バルカン問題を「国際問題」として決定的にしたのは、ロシアの積極的な介入でした。

ロシアは黒海沿岸を拠点にオスマン帝国を圧迫し、温暖な不凍港を求めて南下政策を展開します。

その際の大義名分となったのが、スラヴ民族の保護を掲げるパン=スラヴ主義(汎スラヴ主義)です。

この章では、ロシアの地政学的野望とイデオロギー的正当化の関係を整理し、それがいかにして「東方問題」の一部であったバルカン問題を、ヨーロッパ全体を巻き込む火薬庫へと発展させたのかを見ていきましょう。

1. 南下政策の背景:ロシアの地政学的制約

ロシアは北方の寒冷地に位置し、年中利用可能な不凍港を欠いていました。

そのため、帝政ロシアはピョートル1世の時代から一貫して、南方への進出を国家戦略の柱としていました。

  • 西へ:ポーランド分割による勢力拡大
  • 東へ:シベリア開発・アジア進出
  • 南へ:黒海・地中海方面への進出

このうち、オスマン帝国支配下の黒海・バルカン方面は、宗教的にもスラヴ民族とのつながりを持ち、「ロシア=正教の守護者」というイデオロギー的主張によって南下を正当化できた地域でした。

2. パン=スラヴ主義の台頭とロシアの外交戦略

19世紀に入ると、ヨーロッパ各地でナショナリズムが高揚しました。

この流れの中でロシアが唱えたのが、パン=スラヴ主義(スラヴ民族の連帯・統一思想)です。

  • スラヴ民族は共通の言語・文化・信仰(ギリシア正教)を持つとし、
  • オスマン帝国やオーストリアの支配下にあるスラヴ系諸民族を「解放」する使命を自認。

ロシアはこの思想を利用して、バルカン諸民族の独立運動を支援し、自国の影響圏を拡大しようとしました。

特に、セルビアやブルガリアなどの正教スラヴ民族は、ロシアの援助を期待し、露土戦争やバルカン危機の際には、しばしばロシアが“保護者”として介入しました。

3. パン=スラヴ主義と帝国主義の融合

ロシアのパン=スラヴ主義は、表面的には民族解放を掲げていましたが、実際には帝国主義的な拡張政策と表裏一体でした。

スラヴ民族の統一を支援するという名目で、実際にはバルカン半島に勢力圏を築こうとしたのです。

1877年から78年にかけての露土戦争では、ロシアがスラヴ民族の支援を名目にオスマン帝国領へと進軍し、ブルガリアの独立を後押ししました。

講和の結果結ばれたサン=ステファノ条約では、ブルガリアの領土を大幅に拡張して「大ブルガリア公国」を設立し、ロシアはこの地域を自国の影響下に置こうとしました。

しかし、この拡張はイギリスやオーストリアの強い反発を招き、翌1878年のベルリン会議でロシアの獲得地は大幅に縮小されました。

この経過は、民族主義の理想と列強の利害が衝突する典型であり、バルカン問題が単なる地域紛争にとどまらず、ヨーロッパ全体の勢力均衡問題へと発展する転換点となります。

4. 列強の対立と「バルカン問題」の国際化

ロシアの南下政策に対抗したのが、イギリス・オーストリアなどの列強です。

  • イギリス:インド航路を守るため、オスマン帝国の領土保全を重視。
  • オーストリア:ハプスブルク帝国内のスラヴ民族反乱を恐れ、ロシアの支援を警戒。

このように、ロシアのパン=スラヴ主義は「民族解放の理想」でありながら、他の列強からは「現状秩序を脅かす脅威」と見なされました。

こうして、民族運動・宗教対立・列強の思惑が交錯する多層的な火薬庫構造が形成され、以後の露土戦争・バルカン危機・第一次世界大戦へとつながっていきます。

バルカン問題は、もはやオスマン帝国の内政ではなく、列強の勢力均衡を左右する「ヨーロッパ全体の問題」と化したのです。

入試で狙われるポイント

  • 南下政策の目的:不凍港の確保・地中海進出
  • パン=スラヴ主義:スラヴ民族の統一とロシアの影響拡大を目指す思想
  • 露土戦争(1877〜78):ブルガリア独立支援を名目としたロシアの介入
  • サン=ステファノ条約:ロシアの拡張策を示すが、ベルリン会議で修正
  • 列強の思惑:イギリスはオスマン支持、オーストリアはロシア警戒

重要論述問題にチャレンジ

ロシアのパン=スラヴ主義が、どのようにしてバルカン問題を国際的対立に発展させたのか200字程度で説明せよ。

ロシアは南下政策の一環として、スラヴ民族の保護を掲げるパン=スラヴ主義を唱えた。これによりセルビアやブルガリアなどの民族運動を支援し、バルカン半島への影響力を強めた。しかし、ロシアの拡張はイギリスやオーストリアの警戒を招き、ベルリン会議で修正を余儀なくされた。こうして民族解放と列強の利害が交錯し、バルカン問題はヨーロッパ全体の対立構造へと発展した。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第2章:バルカン問題とは? 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
ロシアの南下政策の最終的な目的地はどの海か。

解答: 地中海

問2
ロシアが南下政策の拠点とした内海を何というか。

解答: 黒海

問3
スラヴ民族の統一と団結を掲げた思想を何というか。

解答: パン=スラヴ主義

問4
露土戦争が勃発したのは西暦何年か。

解答: 1877年

問5
露土戦争後、ロシアがオスマン帝国と結んだ講和条約は何か。

解答: サン=ステファノ条約

問6
サン=ステファノ条約でロシアの勢力拡大が警戒され、開かれた会議は何か。

解答: ベルリン会議

問7
パン=スラヴ主義を利用してロシアが支援した民族の一つを挙げよ。

解答: セルビア人(またはブルガリア人)

問8
ロシアの南下政策を最も警戒した海洋国家はどこか。

解答: イギリス

問9
ハプスブルク帝国内のスラヴ民族反乱を恐れた国はどこか。

解答: オーストリア

問10
パン=スラヴ主義は純粋な民族解放思想であり、帝国主義的要素を含まなかった。

解答: 誤

正誤問題(5問)

問11
ロシアの南下政策は、アジア進出を目的としたものであった。

解答: 誤

問12
パン=スラヴ主義はスラヴ民族の連帯を唱え、ロシアの外交戦略と結びついた。

解答: 正

問13
露土戦争はブルガリアの独立を名目に始まった。

解答: 正

問14
サン=ステファノ条約はベルリン会議でおおむね維持された。

解答: 誤

問15
ロシアのパン=スラヴ主義は、東方問題を地域問題から国際問題へ拡大させた。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • パン=スラヴ主義を「スラヴ民族によるロシア支配の反対運動」と誤解。
  • サン=ステファノ条約を「オスマン帝国が有利な条約」と誤答。
  • 南下政策の目的を「アジア進出」と混同。

第3章 列強の対立とバルカン危機

19世紀末から20世紀初頭にかけて、バルカン半島はヨーロッパ列強の外交的対立が集中する地域となりました。

ロシアの南下政策に対抗して、オーストリアやドイツ、イギリスなどが次々と介入し、民族運動と帝国主義の思惑が複雑に絡み合う多層的な対立構造が形成されます。

この章では、バルカン危機(1875〜78年)を中心に、どのようにして「民族の独立問題」が「列強の国際問題」へと変質していったのか、そしてその後の「火薬庫化」への道筋を見ていきましょう。

1. バルカン危機の勃発:ボスニア・ヘルツェゴヴィナの蜂起

1875年、オスマン帝国支配下のボスニア・ヘルツェゴヴィナで、重税と圧政に耐えかねた農民たちが蜂起しました。

この反乱は瞬く間に拡大し、セルビアやモンテネグロが支援を表明、周辺のスラヴ民族が連携してオスマン帝国に対抗する動きを見せます。

この蜂起は単なる地方反乱にとどまらず、ロシアがスラヴ民族支援を名目に介入する口実を得たことで、バルカン全体を巻き込む国際的危機へと発展しました。

2. 露土戦争とサン=ステファノ条約

1877年、ロシアはスラヴ民族解放を掲げてオスマン帝国に宣戦布告し、翌1878年に露土戦争(第3次露土戦争)に勝利します。

講和条約であるサン=ステファノ条約では、ロシアはブルガリアの大幅な独立を承認させ、実質的にバルカン半島を自国の勢力圏に組み込もうとしました。

しかしこの「大ブルガリア構想」は、バルカンのバランスを崩すだけでなく、イギリスやオーストリアの警戒を招きました。

  • イギリス:スエズ運河・インド航路を守るため、ロシアの南下に反対
  • オーストリア:自国内のスラヴ民族がロシアの影響を受けることを恐れた

このため、サン=ステファノ条約は翌年のベルリン会議(1878)で修正され、ブルガリアは分割・縮小され、ロシアの影響力も後退しました。

サン=ステファノ条約は、バルカン半島を「民族自決の実験場」としたが、ベルリン会議はそれを「列強による均衡の再調整」に戻した。

3. ベルリン会議と列強の利害

ベルリン会議では、ドイツのビスマルクが「誠実な仲介者」を自称し、列強間の利害調整を図りました。

その結果、

  • ブルガリア:北部のみ自治公国として独立(南部はオスマン宗主権下)
  • ボスニア・ヘルツェゴヴィナ:オーストリアが統治権を獲得
  • セルビア・ルーマニア・モンテネグロ:独立承認

この決定により、表面的にはバルカンの秩序が回復しましたが、実際には民族の期待と列強の思惑が乖離し、不満と対立の火種が残されました。

ロシアは外交的敗北を感じ、オーストリアとの関係を悪化させ、ここに露墺対立の新たな軸が生まれます。

4. 列強間の構造的対立と「火薬庫」化への道

ベルリン会議後、バルカン半島は次第に次のような対立構造に固定されていきます。

対立軸立場・目的
ロシアスラヴ民族支援・地中海進出
オーストリアスラヴ民族の独立を抑制・バルカン支配
イギリスオスマン領保全・地中海航路維持
ドイツ中立を装いながら、オーストリア寄りに接近
フランスロシアとの提携を模索(のちの露仏同盟へ)

民族運動は、これら列強の後押しを得ることで一時的に強化されましたが、その背後には常に列強の利害が存在しました。

民族解放の理想と帝国主義の現実が交錯し、それぞれの「正義」が他者の「侵略」と化す構図が生まれた。

この構造が解消されないまま20世紀に突入し、1908年のボスニア併合(オーストリア)、1912〜13年のバルカン戦争
そして1914年のサラエヴォ事件へと連鎖していくことになります。

入試で狙われるポイント

  • バルカン危機(1875〜78):民族蜂起→露土戦争→ベルリン会議の流れ
  • サン=ステファノ条約:ロシアの勢力拡大を示す講和条約
  • ベルリン会議(1878):ビスマルクの仲介、ブルガリア分割・露墺対立の激化
  • ボスニア・ヘルツェゴヴィナ:オーストリアの統治権獲得
  • 列強の対立構造:ロシアvsオーストリア、イギリスの介入

重要論述問題にチャレンジ

1875〜78年のバルカン危機が、ヨーロッパの国際秩序にどのような影響を与えたか200字程度で説明せよ。

1875年のボスニア・ヘルツェゴヴィナの蜂起を契機に、ロシアがスラヴ民族支援を掲げて露土戦争を起こし、サン=ステファノ条約で大ブルガリアを成立させた。これによりバルカンにおけるロシアの勢力が拡大したが、イギリス・オーストリアが反発し、ベルリン会議で修正が行われた。この結果、民族の独立は部分的に認められたが、列強の思惑が衝突し、バルカンは国際的火薬庫となった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第3章:バルカン問題とは? 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
1875年にオスマン帝国内で反乱が起きた地域はどこか。

解答: ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

問2
1877〜78年にロシアとオスマン帝国の間で起きた戦争を何というか。

解答: 露土戦争

問3
露土戦争の講和条約は何か。

解答: サン=ステファノ条約

問4
サン=ステファノ条約で成立した、ロシアの影響下にある大国は何か。

解答: 大ブルガリア公国

問5
ベルリン会議を主導したドイツの首相は誰か。

解答: ビスマルク

問6
ベルリン会議でオーストリアが獲得した統治権地域はどこか。

解答: ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

問7
ベルリン会議の結果、ブルガリアはどのように扱われたか。

解答: 北部のみ自治公国、南部はオスマン宗主権下

問8
バルカン危機後、ロシアと対立を深めた国はどこか。

解答: オーストリア

問9
ビスマルクはベルリン会議で自国の利益を主張した。

解答: 誤(仲介者を自称)

問10
ベルリン会議後も、民族運動と列強の思惑は一致していた。

解答: 誤

正誤問題(5問)

問11
バルカン危機はロシアの国内反乱から始まった。

解答: 誤

問12
サン=ステファノ条約では、ロシアの勢力拡大が明確になった。

解答: 正

問13
ベルリン会議では、ブルガリアの完全独立が認められた。

解答: 誤

問14
ベルリン会議以後、ロシアとオーストリアの対立が深まった。

解答: 正

問15
ビスマルクはベルリン会議を通じて、列強間の対立を完全に解消した。

解答: 誤

よくある誤答パターンまとめ

  • バルカン危機の発端を「露土戦争」と混同
  • ベルリン会議を「民族独立会議」と誤解
  • サン=ステファノ条約を「オスマン有利」と誤答
  • ベルリン会議でロシアが勢力を拡大したと誤認

まとめ章 なぜバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたのか

バルカンはヨーロッパの火薬庫

この言葉は、19世紀から20世紀初頭にかけての国際政治を象徴する表現として、今なお歴史教科書や試験で頻出するフレーズです。

しかし、単なる比喩ではありません。バルカンは実際に、民族・宗教・列強の思惑が三重に絡み合う爆発寸前の構造を形成しており、その矛盾が最終的に第一次世界大戦という世界規模の戦争へとつながりました。

本章では、その「火薬庫化」の背景と構造を、これまでの内容をもとに三段階で整理します。

1. 構造的要因:多民族・多宗教のモザイク構造

バルカン問題の根底にあったのは、民族・宗教・言語の多様性です。

オスマン帝国の支配下では、ミッレト制により宗教ごとの自治が認められていましたが、この「宗教的共存」は、民族意識の高まりとともに「政治的分離」へと転化しました。

  • スラヴ系(セルビア・ブルガリア・クロアチアなど)
  • ギリシア系
  • アルバニア系
  • イスラーム教徒(トルコ系)

これらが入り混じるバルカンでは、一民族の独立が他民族の不満を誘発する構造が恒常的に存在しました。

つまり、どの民族が勝利しても「全員が満足する国境線」は描けなかったのです。

民族自決の理想が、他民族排除の現実を生み出す——
その矛盾が、バルカン問題の原点でした。

2. 政治的要因:ロシアの南下政策と列強の介入

第2章で見たように、ロシアはパン=スラヴ主義を掲げてスラヴ民族を支援し、バルカン半島への影響力を拡大しました。

これに対し、オーストリアは自国内のスラヴ民族反乱を恐れ、ロシアの進出を強く警戒します。

さらにイギリスは地中海航路の防衛を理由にオスマン帝国を支持し、列強間の対立は不可避となりました。

  • ロシア:スラヴ民族支援を名目に南下を推進
  • オーストリア:スラヴ運動抑制・ボスニア支配強化
  • イギリス:インド航路防衛・ロシア封じ込め
  • ドイツ:オーストリアとの提携を強化
  • フランス:孤立打破のためロシアと接近

こうして、バルカンは「民族独立の戦場」であると同時に、「列強の代理戦争の舞台」と化しました。

特に1878年のベルリン会議以降、民族の願いと列強の利害が乖離し、どの国も完全に満足できない“負の均衡”が生まれたのです。

3. 歴史的帰結:バルカン戦争と第一次世界大戦へ

19世紀末のバルカン危機を経て、20世紀に入ると矛盾はついに爆発します。

  • 1908年:オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合(第一次バルカン危機)
  • 1912〜13年:オスマン帝国の弱体化に乗じてバルカン同盟が結成、バルカン戦争勃発
  • 1914年:サラエヴォ事件(セルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺)

これら一連の出来事は、民族自決の理想と帝国主義の現実が衝突した結果です。バルカンの地域紛争は瞬く間に列強の同盟網を刺激し、最終的に第一次世界大戦という世界規模の衝突へ発展しました。

民族の自由を求めた一発の銃弾が、帝国の均衡を崩し、世界を巻き込んだ。
バルカンは、まさに「火薬庫」として現実に爆発したのです。

入試で狙われる総まとめポイント

観点内容重要キーワード
構造的要因民族・宗教の混在ミッレト制、民族自決
政治的要因ロシア南下政策・列強の介入パン=スラヴ主義、露墺対立
歴史的帰結戦争と大戦への連鎖バルカン危機、ベルリン会議、サラエヴォ事件

重要論述問題にチャレンジ

「バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と呼ばれた理由」を、民族構造・列強関係・歴史的帰結の三点から400字程度で説明せよ。

バルカン半島は、オスマン帝国支配下でイスラーム・正教・カトリックが混在し、多民族・多宗教の地域であった。19世紀にナショナリズムが高まると、宗教と民族が重なり合う構造が独立運動を促し、民族間の衝突を引き起こした。さらにロシアがパン=スラヴ主義を掲げて南下政策を進め、スラヴ民族の保護を名目に介入したことが、オーストリアやイギリスの反発を招き、列強間の対立を激化させた。ベルリン会議後も民族の独立要求は満たされず、1908年のボスニア併合やバルカン戦争を経て、1914年のサラエヴォ事件に至る。こうしてバルカンは、民族と列強の利害が交錯する国際的火薬庫となり、第一次世界大戦の引き金を引いた。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

まとめ章:バルカン問題とは? 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた地域はどこか。

解答: バルカン半島

問2
バルカンが火薬庫と呼ばれる要因の一つである統治制度は何か。

解答: ミッレト制

問3
民族運動の高揚を促した思想は何か。

解答: ナショナリズム

問4
ロシアがスラヴ民族の支援を掲げて進出した政策を何というか。

解答: 南下政策

問5
ロシアの思想的支柱となったスラヴ民族統一思想を何というか。

解答: パン=スラヴ主義

問6
1878年のベルリン会議でオーストリアが統治権を得た地域はどこか。

解答: ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

問7
1908年のボスニア併合で反発したスラヴ系国家はどこか。

解答: セルビア

問8
1912〜13年にバルカン同盟がオスマン帝国と戦った戦争を何というか。

解答: バルカン戦争

問9
1914年にオーストリア皇太子が暗殺された事件は何か。

解答: サラエヴォ事件

問10
サラエヴォ事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。

解答: 正

正誤問題(5問)

問11
バルカン半島は単一民族国家として統一されていた。

解答: 誤

問12
ロシアはパン=スラヴ主義を掲げ、スラヴ民族の支援を名目に南下を正当化した。

解答: 正

問13
ベルリン会議では、バルカン民族の独立要求が完全に実現した。

解答: 誤

問14
ボスニア併合は、ロシアとオーストリアの関係悪化を招いた。

解答: 正

問15
サラエヴォ事件は、バルカン問題が世界大戦へと発展した象徴的事件である。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • バルカン問題を「東方問題」と完全に同義とする誤り
  • パン=スラヴ主義を「民族抑圧政策」と誤解
  • ベルリン会議で「民族の独立が達成された」と答える誤り
  • サラエヴォ事件を「オーストリアの侵略行為」と誤答

東方問題とバルカン問題の関係チャート(色分け解説付き)

🟩=東方問題(オスマン帝国衰退と列強の利害対立)

🟦=バルカン問題(バルカン半島の民族運動と列強介入)

🟥=バルカン問題の爆発期(危機・戦争・第一次大戦への連鎖)

🟩 オスマン帝国の衰退(「ヨーロッパの病人」と呼ばれる)
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🟦 ギリシア独立戦争(1821)|東方問題の始まり・民族運動の先駆け
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🟩 エジプト問題(1831)|ムハンマド=アリーの台頭と帝国内の動揺
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🟩 クリミア戦争(1853〜56)|聖地問題とロシア南下政策、ウィーン体制の崩壊
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🟦 露土戦争(1877〜78)|スラヴ民族運動とロシアの南下再開
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🟦 ベルリン会議(1878)|バルカン再編と列強の再分割
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🟥 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908)|セルビア民族主義の高揚
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🟥 第一次バルカン戦争(1912)|バルカン同盟によるオスマン領奪取
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🟥 第二次バルカン戦争(1913)|戦後分配をめぐるブルガリアとセルビアの対立
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🟥 サラエヴォ事件(1914)|オーストリア皇太子暗殺と列強の連鎖参戦
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🟩 第一次世界大戦(1914〜18)|東方問題の最終的帰結とオスマン帝国崩壊

補足解説

  • 東方問題(🟩)
     オスマン帝国の衰退を背景に、黒海・地中海・中東で列強が勢力を争った国際問題。
  • バルカン問題(🟦)
     東方問題の一部で、バルカン半島における民族自決と列強の干渉を中心とする地域的対立。
  • 爆発期(🟥)
     民族主義と帝国主義が衝突し、地域紛争が列強を巻き込み世界大戦に直結。
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