東方問題とは何か|オスマン帝国の衰退と列強の思惑を総覧

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19世紀のヨーロッパを揺るがした「東方問題」は、単なる地域紛争ではありませんでした。

オスマン帝国の衰退という長期的な変化を背景に、列強各国が勢力拡大を狙い、バルカン半島や中東を舞台に介入・干渉を繰り返す――この構図こそが、ヨーロッパ近代史の緊張の源泉となりました。

特にロシアの南下政策、イギリスのインド航路防衛、オーストリアのバルカン支配、フランスの地中海戦略など、各国の国益が複雑に交錯することで、やがて「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる事態を生み出していきます。

本記事では、東方問題の起源から第一次世界大戦へと至る流れを俯瞰し、どのようにオスマン帝国の衰退が国際政治を変えたのかを体系的に整理します。

また、各事件(ギリシア独立戦争、エジプト問題、クリミア戦争、露土戦争、ベルリン会議、バルカン戦争など)への導線も提示しながら、全体像の中でそれぞれの位置づけを明確にしていきましょう。

目次

第1章 東方問題の起源と構造:オスマン帝国の衰退が生んだ「火薬庫」

東方問題とは、オスマン帝国の衰退に伴い、その領土や影響圏をめぐってロシア・イギリスなど列強が介入・対立した国際問題です。民族運動の高揚と結びつき、19世紀ヨーロッパの勢力均衡を崩しました。

その起源をたどると、16世紀以来のオスマン帝国の領土拡大と衰退、さらに18世紀以降のヨーロッパ列強の介入が交錯するところにあります。

特にロシア帝国が黒海沿岸からバルカン・地中海へ勢力を広げようとした「南下政策」は、東方問題の中心的要因となりました。

【補足】東方問題とバルカン問題の違い

「東方問題」とは、オスマン帝国の衰退に伴ってその領土をめぐる列強の対立や民族運動を総称する広い概念です。

一方の「バルカン問題(バルカン危機)」は、そのうち特に19世紀後半〜20世紀初頭にバルカン半島で起こった紛争や緊張を指します。

すなわち、バルカン問題は東方問題の最終段階であり、セルビア・ボスニア・ブルガリアなどの民族運動が直接、第一次世界大戦へつながる点で、東方問題の「地域的焦点」と位置づけられます。

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1. オスマン帝国の衰退と「病人」化

17世紀末、オスマン帝国はウィーン包囲の失敗(1683年)を境に衰退の道をたどり始めました。

18世紀には軍事的・行政的な近代化に遅れ、バルカン諸民族の独立運動が各地で台頭します。19世紀に入ると、「ヨーロッパの病人」と称されるほどその影響力は低下しました。

この衰退が生んだ空白地帯――それこそが列強の介入を招く最大の要因でした。誰がこの「病人」の領土を継承するのか。これが、東方問題を通じて繰り返し問われた命題です。

2. 列強の思惑:勢力均衡と利害対立

オスマン帝国の衰退は、列強にとって新たなチャンスであると同時に、勢力均衡を脅かすリスクでもありました。

  • ロシア帝国:黒海から地中海へと進出し、正教徒保護を口実にバルカンや中東への影響力拡大を図る。
  • イギリス:ロシアの南下を阻止し、インド航路(スエズ運河経由)を防衛する。
  • オーストリア帝国:多民族国家の安定を守るため、バルカン民族運動の拡大を警戒。
  • フランス:カトリック保護権や地中海政策を通じて中東・北アフリカで勢力を拡大。

これらの利害が重なり合うことで、ギリシア独立戦争(1821)、クリミア戦争(1853)、露土戦争(1877)など、一連の衝突が連鎖的に起こりました。

3. 「民族問題」と「国際問題」の二重構造

東方問題の特徴は、民族独立運動列強の介入が一体化している点です。

ギリシアやセルビア、ブルガリアなどの民族運動は、単なる反乱ではなく、しばしば大国の外交戦略に利用されました。

民族の自立と列強の国益が交錯する「二重構造」こそ、問題を複雑化させた要因でした。

4. ウィーン体制の試練と崩壊

ナポレオン戦争後のウィーン体制は、「正統主義」と「勢力均衡」を原則としていました。

しかし、東方問題はこの体制に大きな試練を与えました。

列強は表向き協調を保ちながらも、裏ではオスマン領をめぐる駆け引きを展開。特にクリミア戦争では、体制の盟主であったロシアと他列強の対立が表面化し、ウィーン体制は事実上崩壊します。

ウィーン体制の崩壊は、一般的には1848年革命によってもたらされたとされる。革命の波は体制を支えていた正統主義や保守的秩序を動揺させ、その理念的基盤を崩した。

ただし、ロシアとオーストリアの協調が完全に崩れたのはクリミア戦争(1853〜56)であり、この時点で外交的な枠組みとしてのウィーン体制も終焉を迎えたと考えられる。

したがって、理念の崩壊は1848年、制度(外交体制)の崩壊は1856年と整理すると理解がより深まる。

5. バルカンの火薬庫化と世界大戦への序曲

19世紀後半、オスマン帝国の統制力が完全に弱まると、バルカン半島は民族紛争と列強干渉の舞台となりました。

サン=ステファノ条約やベルリン会議での列強間の調整も一時的なもので、セルビア・ブルガリア・ルーマニアなどが次々と独立。

そして20世紀初頭、バルカン戦争とサラエヴォ事件を経て、東方問題はついに第一次世界大戦という「総力戦」の火種へと発展していきます。

入試で狙われるポイント

  • 東方問題は単一の戦争ではなく、オスマン帝国の衰退をめぐる国際政治問題の総称
  • ロシアの南下政策・イギリスのインド航路防衛・オーストリアのバルカン警戒が三大軸。
  • ギリシア独立戦争・クリミア戦争・露土戦争・ベルリン会議など、事件群の相互関係を理解することが重要。
  • 「民族問題+列強介入」の二重構造が、ヨーロッパの均衡を崩壊させた。

重要論述問題にチャレンジ

東方問題の本質を、オスマン帝国の衰退とヨーロッパ列強の外交政策の観点から200字程度で説明せよ。

東方問題とは、オスマン帝国の衰退によって生じた領土と影響力の再分配をめぐる国際問題である。ロシアは黒海から地中海への進出を図り、イギリスはインド航路を守るためにこれを牽制した。オーストリアは多民族国家の安定を守ろうとし、フランスは宗教的権益を主張した。こうした列強の思惑が交錯し、民族運動がそれに利用されることで、ヨーロッパの均衡は次第に崩壊していった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第1章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
「東方問題」とは、どの国の衰退に伴う国際政治問題を指すか。

解答: オスマン帝国

問2
ロシアが進めた南下政策の目的は、どの海への進出か。

解答: 地中海

問3
オスマン帝国の衰退が本格化した契機となる1683年の戦いは何か。

解答: ウィーン包囲失敗

問4
オスマン帝国が「ヨーロッパの病人」と呼ばれるようになったのはどの時代のことか。

解答: 19世紀中頃

問5
19世紀にバルカン諸民族の独立を支援した列強は主にどの国か。

解答: ロシア

問6
イギリスがロシアの南下を警戒した最大の理由は何か。

解答: インド航路の防衛

問7
ウィーン体制下で東方問題が最初に顕在化した事件は何か。

解答: ギリシア独立戦争

問8
クリミア戦争はロシアとどの国々の間で戦われたか。

解答: イギリス・フランス・オスマン帝国

問9
露土戦争後に結ばれた条約で、ブルガリアの自治を認めたのは何か。

解答: サン=ステファノ条約

問10
東方問題の最終的な帰結として、どの世界大戦の勃発に結びついたか。

解答: 第一次世界大戦

正誤問題(5問)

問11
オスマン帝国は19世紀に急速な近代化を遂げ、列強の干渉を排除した。

解答: 誤(近代化は試みられたが不十分で、列強の干渉を受け続けた)

問12
東方問題では、民族運動と列強の外交政策が密接に関係していた。

解答: 正

問13
ロシアの南下政策は、アジア進出と植民地拡大を目的としていた。

解答: 誤(主に黒海・地中海への進出を目的とした)

問14
ウィーン体制の原則である正統主義は、東方問題の解決に有効に機能した。

解答: 誤(民族運動の高まりの前に形骸化した)

問15
東方問題は、19世紀のヨーロッパにおける勢力均衡体制の試金石であった。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • 「東方問題=クリミア戦争」と単一事件で覚える誤り。
  • 「南下政策=植民地獲得」と混同する誤り。
  • 「バルカン=一国の問題」と考え、列強間の駆け引きを見落とす誤り。
  • 「ウィーン体制=協調体制」と単純化し、内部対立を軽視する誤り。

第2章 ギリシア独立戦争と東方問題の幕開け:民族運動と列強の介入

東方問題の幕開けを告げたのが、1821年に始まるギリシア独立戦争です。

この戦争は、単なる民族の独立闘争にとどまらず、列強の外交戦略と宗教的対立が交錯した最初の国際的事件として位置づけられます。

オスマン帝国の支配下で長く抑圧されていたギリシア人は、民族意識と正教信仰を軸に独立を求めました。

一方、ロシアは正教保護を名目に介入し、フランス・イギリスも勢力均衡の観点から参戦。結果として、この戦争は「民族自決」と「列強干渉」が絡み合う東方問題の典型となりました。

1. オスマン帝国支配下のギリシアと民族意識の覚醒

ギリシアは中世以来、東ローマ帝国の伝統とギリシア正教を保持してきました。しかし1453年のコンスタンティノープル陥落以降、オスマン帝国の支配下に入り、重税や特権の剝奪などの圧迫を受けました。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、啓蒙思想とナショナリズムの潮流がヨーロッパ全体に広がる中、ギリシアでも「自らの国家を再建する」という意識が高まります。

こうした思想的覚醒が、1821年の蜂起につながりました。

2. 独立戦争の勃発と国際社会の反応

1821年、ギリシア人はペロポネソス半島で一斉蜂起を開始します。指導したのは秘密結社「フィリキ=エテリア(友愛協会)」のメンバーで、ロシア領内で活動していた者も多くいました。

当初、オスマン帝国は武力で鎮圧しようとしましたが、反乱の規模は拡大。やがて西欧の世論がギリシア支持に傾きます

「古代ギリシアの自由の再興」として文学者や思想家(例:バイロン卿など)が支援を表明し、ヨーロッパ全体でギリシア独立への共感が高まりました。

この「世論の圧力」が、やがて列強政府を動かします。

3. 列強の介入とナヴァリノの海戦(1827)

イギリス・フランス・ロシアの三国は、1827年にロンドン条約を結び、オスマン帝国に講和を勧告しました。しかしオスマン政府が拒否すると、三国艦隊はギリシア独立派を支援し、ナヴァリノの海戦でオスマン艦隊を壊滅させます。

この海戦は、民族独立をめぐる初の国際的軍事介入として世界史上重要です。

列強が自国の利益と道義的名分を結びつけて行動した点に、東方問題の特徴がすでに現れています。

4. 独立の達成とロンドン会議(1830)

戦争は長期化しましたが、1829年の露土戦争でロシアが勝利すると、ギリシア問題は決定的に動きます。

翌1830年、列強はロンドン会議でギリシアの独立を承認。1832年にはバイエルン王子オットーを国王として迎え、ギリシア王国が誕生しました。

この過程で注目すべきは、列強が独立の形式と体制を決めたという点です。民族自決の達成でありながら、実際には列強の思惑に基づく「管理された独立」でした。

5. ギリシア独立戦争の意義と東方問題への影響

ギリシア独立戦争は、ウィーン体制下で最初に起こった民族運動の成功例でした。

しかしその成功の背後には、列強による干渉と外交操作がありました。

この事件を契機に、オスマン帝国の領域は「国際政治の争奪地」と化し、以後のエジプト問題・クリミア戦争・露土戦争へと連鎖していきます。

つまりギリシア独立戦争は、東方問題の「序章」としての歴史的意義を持つのです。

入試で狙われるポイント

  • 東方問題の最初の顕在化はギリシア独立戦争(1821)
  • ロシアは正教徒保護を口実に介入、英仏も勢力均衡の観点から参加。
  • **ナヴァリノの海戦(1827)**は、民族独立運動への列強の軍事介入の典型。
  • 独立は1830年のロンドン会議で承認。
  • 民族自決運動と列強の思惑が結びつく「二重構造」が東方問題の特徴。

重要論述問題にチャレンジ

ギリシア独立戦争が東方問題の出発点とされる理由を、列強の介入と民族運動の観点から200字程度で説明せよ。

ギリシア独立戦争は、オスマン帝国の支配下にあったギリシア人が民族的独立を求めて起こした運動であるが、ロシア・イギリス・フランスの三国がそれぞれの利害を背景に介入した。宗教的・道義的支援を名目にした軍事介入は、列強が東方問題に直接関与する先例となり、以後のエジプト問題やクリミア戦争などの火種となった。

一問一答と正誤問題に挑戦しよう!

第2章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
ギリシア独立戦争が勃発したのは西暦何年か。

解答: 1821年

問2
ギリシア独立を指導した秘密結社の名称は何か。

解答: フィリキ=エテリア

問3
ギリシア独立運動を思想的に後押しした18世紀末〜19世紀初頭の潮流は何か。

解答: ナショナリズム(民族主義)

問4
ギリシア独立戦争の過程で、列強三国が講和を勧告するために結んだ条約は何か。

解答: ロンドン条約(1827年)

問5
ナヴァリノの海戦でオスマン艦隊を破った列強三国を答えよ。

解答: イギリス・フランス・ロシア

問6
ギリシア独立を最終的に承認した会議の名称は何か。

解答: ロンドン会議(1830年)

問7
1832年にギリシア国王として即位したのはどこの王家出身の誰か。

解答: バイエルン王子オットー

問8
ギリシア独立を支持したイギリスの詩人で、実際に義勇兵として参戦した人物は誰か。

解答: バイロン

問9
ギリシア独立戦争において、ロシアが掲げた介入の名目は何か。

解答: 正教徒保護

問10
ギリシア独立戦争の成功が刺激を与えたのは、ヨーロッパのどのような運動か。

解答: 民族運動・自由主義運動

正誤問題(5問)

問11
ギリシア独立戦争は、民族運動の成功例としてウィーン体制を動揺させた。

解答: 正

問12
ナヴァリノの海戦は、オスマン帝国がギリシア反乱軍を打ち破った戦いである。

解答: 誤(反乱軍を支援した列強艦隊がオスマン艦隊を撃破した)

問13
ロンドン会議(1830)では、ギリシアの独立と共和制体制が承認された。

解答: 誤(立憲君主制としての独立が承認された)

問14
ギリシア独立戦争の勝利は、ヨーロッパ全土の民族運動を抑圧する結果をもたらした。

解答: 誤(むしろ各地の民族運動を刺激した)

問15
ギリシア独立は、東方問題が単なる地域問題でなく国際問題であることを示した。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • ナヴァリノの海戦を「オスマン帝国の勝利」と誤解する。
  • ロシアの介入目的を「領土拡大」とのみ捉え、宗教的要素を軽視する。
  • ロンドン会議を「ウィーン会議の延長」と混同する。
  • ギリシア独立を「完全な民族自決」と誤って記憶する(実際は列強主導)。

第3章 エジプト問題とムハンマド=アリーの台頭|オスマン帝国の動揺と列強の干渉

ギリシア独立戦争の余波が残るなか、東方問題は新たな局面を迎えました。

その中心となったのが、オスマン帝国の有力属州エジプトで実権を握ったムハンマド=アリーです。彼はナポレオン戦争後、近代的な軍隊と産業を整備し、事実上の独立政権を築き上げました。

やがてエジプトと宗主国オスマン帝国の対立は激化し、シリアをめぐる戦争に発展。列強は両者の均衡を保とうと介入し、ここでもまた「勢力均衡」と「南下政策」が衝突する舞台となりました。

このエジプト問題は、オスマン帝国内部の崩壊が国際政治の焦点となった最初の事例であり、東方問題が新たな段階へと進む契機となります。

1. ムハンマド=アリーの改革と近代国家建設

1798年のナポレオンのエジプト遠征後、混乱するエジプトで頭角を現したのがムハンマド=アリーでした。

彼はオスマン帝国の名目上の総督に任じられると、

  • 西洋式軍隊の編成、
  • 綿花を中心とする産業の振興、
  • 国営工場や学校制度の整備

これらの徹底した近代化政策を推進しました。

その改革は、オスマン本国を凌ぐほどの勢力を築くに至り、エジプトは事実上の半独立国家となりました。

2. ギリシア独立戦争への介入と不満の蓄積

ムハンマド=アリーは、ギリシア独立戦争においてオスマン帝国側として軍事支援を行いました。

しかし、見返りとして約束されたシリアの統治権が与えられなかったため、エジプトとオスマン本国の関係は悪化していきます。

この不満が、のちのシリア戦争(1831–33)の引き金となりました。

3. シリア戦争と列強の分裂(1831–33)

1831年、ムハンマド=アリーの息子イブラーヒーム=パシャがシリアへ侵攻。オスマン帝国軍を破って首都イスタンブルへ迫る勢いを見せます。

窮地に立たされたスルタンは、ロシアに援軍を要請。ロシア軍は黒海経由で派兵し、これによりウンキャル=スケレッシ条約(1833)が締結されました。

この条約では、ダーダネルス海峡をロシア艦船専用とする秘密条項が含まれており、ロシアがオスマン帝国の宗主権を事実上掌握する形となりました。

この出来事は、イギリスとフランスに強い警戒心を抱かせ、東方問題を列強間の国際対立の舞台へと拡大させます。

4. 第二次エジプト・トルコ戦争と列強の介入(1839–41)

1839年、オスマン帝国が再びエジプトに反撃しますが、イブラーヒーム軍に敗北。

今度はイギリスが主導して介入し、フランスのみがエジプト側を支持する形で列強が分裂しました。

1840年、イギリス主導のロンドン会議で、ムハンマド=アリーにエジプトの世襲権を与える代わりに、シリアを返還させることが決定。

翌年、ムハンマド=アリーはこれを受け入れ、エジプトは形式上オスマン帝国に従属しながら、実質的な独立国家としての地位を確立します。

5. エジプト問題の歴史的意義

エジプト問題は、オスマン帝国の内部の反乱が国際問題化した最初の事例でした。

同時に、ここでは列強が「協調」ではなく「対立」し始め、ウィーン体制の亀裂が明確になります。この時期の経験が、のちのクリミア戦争における対立構造(ロシア vs 英仏)へとつながっていきました。

つまり、エジプト問題は東方問題を「帝国の内政」から「国際政治の主戦場」へと転換させた画期的な事件だったのです。

入試で狙われるポイント

  • ムハンマド=アリーはナポレオン遠征後に登場し、エジプト近代化を推進。
  • ギリシア戦争後のシリア支配をめぐってオスマン帝国と対立。
  • ウンキャル=スケレッシ条約(1833)はロシアの南下政策強化を示す重要条約。
  • 1840年のロンドン会議で、エジプト世襲と引き換えにシリアを返還。
  • 東方問題が列強分裂の舞台となる転換点。

重要論述問題にチャレンジ

エジプト問題が東方問題の転換点となった理由を、オスマン帝国の衰退と列強の思惑の観点から200字程度で説明せよ。

エジプト問題では、オスマン帝国の属州であったエジプトがムハンマド=アリーの近代化政策によって独自の勢力を築き、宗主国と対立した。この内紛にロシアが介入し、ウンキャル=スケレッシ条約で黒海・地中海支配を狙ったことで、英仏の警戒を招いた。以後、東方問題は単なる帝国内部の動揺を超え、列強の利害対立を軸とする国際問題へと発展した。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第3章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
ナポレオン遠征後、エジプトの実権を握った人物は誰か。

解答: ムハンマド=アリー

問2
ムハンマド=アリーが推進した主な改革政策を2つ挙げよ。

解答: 西洋式軍制の導入、綿花産業の育成

問3
ギリシア独立戦争でムハンマド=アリーがオスマン帝国を支援した際、見返りに要求した地域はどこか。

解答: シリア

問4
1831年、ムハンマド=アリーの息子がシリアへ侵攻した際、オスマン帝国を支援した列強はどこか。

解答: ロシア

問5
ロシアとオスマン帝国の間で結ばれた、黒海・地中海の航行権に関する条約は何か。

解答: ウンキャル=スケレッシ条約

問6
ウンキャル=スケレッシ条約の秘密条項はどのような内容だったか。

解答: ダーダネルス海峡をロシア艦船専用とする

問7
1839年、オスマン帝国が再びエジプトと戦った戦争の名称は何か。

解答: 第二次エジプト・トルコ戦争

問8
1840年のロンドン会議で、ムハンマド=アリーに与えられた権利は何か。

解答: エジプト総督位の世襲権

問9
エジプト問題で列強間に見られた特徴的な構図を答えよ。

解答: イギリス・ロシア・オーストリア vs フランス

問10
エジプト問題の結果、ウィーン体制はどのような影響を受けたか。

解答: 協調体制の亀裂が明確になった

正誤問題(5問)

問11
ムハンマド=アリーはナポレオンの侵攻を受けてフランス軍の将軍となった。

解答: 誤(オスマン軍人出身で、のちにエジプトの総督となった)

問12
ムハンマド=アリーの改革は、オスマン本国を超える近代化をもたらした。

解答: 正

問13
ウンキャル=スケレッシ条約は、ロシアがイギリスのインド航路支配を承認する内容であった。

解答: 誤(黒海・地中海の航行権に関する条約であり、インド航路とは無関係)

問14
1840年のロンドン会議で、ムハンマド=アリーはエジプトの支配権を完全に失った。

解答: 誤(エジプト総督位の世襲を認められた)

問15
エジプト問題は、東方問題を帝国内部から国際政治の対立軸へ拡大させた契機である。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • 「ムハンマド=アリー=宗主国のスルタン」と混同。
  • ウンキャル=スケレッシ条約を「露土戦争の講和条約」と誤認。
  • 「ロンドン会議(1840)」を「ウィーン会議の一部」と誤解。
  • エジプト問題を国内反乱として扱い、国際対立の構図を見落とす。

第4章 クリミア戦争と東方問題の激化|聖地問題からウィーン体制の崩壊へ

東方問題が国際政治の中心課題として浮上した決定的な事件が、クリミア戦争(1853〜56)です。

この戦争は、表面上はエルサレムの「聖地管理権」をめぐる紛争から始まりましたが、実際にはロシアの南下政策と、それを阻止しようとするイギリス・フランスとの対立が本質にありました。

オスマン帝国をめぐる「勢力均衡」はもはや協調ではなく、列強間の対決に変わっていきます。

クリミア戦争は、ウィーン体制の最終的崩壊を示す転換点であり、近代国際秩序が新たな段階へ進む出発点となりました。

1. 聖地問題とロシアの南下政策

発端となったのは、エルサレムの聖地管理権をめぐるギリシア正教会とカトリック教会の対立でした。

ロシアは正教徒の保護を口実にオスマン帝国へ圧力をかけ、黒海沿岸に軍を集結させます。

これに対し、フランスはカトリック保護を主張してロシアに反発。こうして、宗教対立が列強の勢力争いと結びついていきました。

ロシアの狙いは、単に宗教的保護権の確立ではなく、オスマン帝国支配地域を通じて地中海へ進出することでした。

つまりこの戦争は、従来からの南下政策の延長線上にあったのです。

2. ロシアとオスマン帝国の開戦(1853)

1853年、ロシアはモルダヴィア・ワラキア(現在のルーマニア地方)に軍を進め、オスマン帝国はこれに対抗して宣戦を布告しました。

これにより、東方問題は再びヨーロッパ全体の関心事となります。

ロシアはオスマン帝国を弱体化させ、その領土の分割を目論んでいましたが、英仏両国はこの動きを「勢力均衡の脅威」と見なしました。

3. 列強の参戦と戦局の展開

1854年、イギリスとフランスがオスマン帝国を支援して参戦。戦場は黒海沿岸のクリミア半島に移り、セヴァストーポリ要塞をめぐる激戦が展開されます。

ロシアは優勢を保てず、オーストリアも中立を装いながらロシアに圧力を加え、最終的に孤立しました。

この戦争では、近代的軍需産業や報道制度の発達も注目されます。

従軍看護師として活躍したナイチンゲールの存在は、社会史的にも重要です。

4. パリ条約とウィーン体制の終焉(1856)

1856年、列強はパリ条約を締結し、戦争は終結しました。

主な内容は次の通りです。

  • 黒海の中立化(軍艦の航行禁止)
  • オスマン帝国の領土保全と独立の承認
  • ドナウ川航行の自由化

この結果、ロシアは黒海支配の夢を失い、南下政策は一時的に後退しました。

一方、オスマン帝国は名目上「ヨーロッパ国家」として扱われ、国際社会への参加が認められるという皮肉な展開を迎えます。

しかし、最大の意義は、ロシアとオーストリアの決裂にありました。ウィーン体制を支えてきたこの2国の協調が崩れたことで、19世紀後半の新しい国際秩序(イタリア統一・ドイツ統一)への道が開かれたのです。

5. クリミア戦争の意義と東方問題への影響

クリミア戦争は、東方問題が「宗教問題」から「勢力均衡問題」へと完全に移行した転換点でした。

同時に、ウィーン体制下の協調外交が崩れ、列強の利害がむき出しになった象徴的事件でもあります。

また、オスマン帝国は戦後、タンジマート(恩恵改革)による近代化を進めますが、内部矛盾は深まり続け、後の露土戦争やバルカン危機の伏線となりました。

入試で狙われるポイント

  • 戦争の直接原因は聖地管理権問題、背景にはロシアの南下政策。
  • 参戦国:ロシア vs オスマン・英・仏(+オーストリア中立圧力)。
  • ナイチンゲールの従軍活動報道戦争など社会史的トピックも出題頻度高。
  • パリ条約(1856)で黒海中立化、ウィーン体制の終焉を象徴。
  • ロシア・オーストリアの決裂が、イタリア・ドイツ統一運動を促進。

重要論述問題にチャレンジ

クリミア戦争がウィーン体制崩壊の契機となった理由を、列強間の関係変化の観点から200字程度で説明せよ。

クリミア戦争では、ロシアが正教徒保護を口実に南下を図ったが、イギリス・フランスがこれを阻止するために参戦し、オスマン帝国を支援した。戦後、ロシアは孤立し、オーストリアも中立的立場を取ったことで両国の協調が崩壊した。これによりウィーン体制の基盤が失われ、ヨーロッパの国際秩序は勢力均衡から国民国家形成を中心とする新体制へと移行していった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第4章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
クリミア戦争が勃発したのは西暦何年か。

解答: 1853年

問2
クリミア戦争の直接の発端となった宗教的対立は何か。

解答: 聖地管理権問題

問3
クリミア戦争でロシアが掲げた名目は何か。

解答: 正教徒保護

問4
ロシア軍が最初に占領した地域(現在のルーマニア地方)はどこか。

解答: モルダヴィア・ワラキア

問5
イギリス・フランスが参戦し、激戦地となった半島の名称は何か。

解答: クリミア半島

問6
クリミア戦争で有名な要塞戦が行われた都市はどこか。

解答: セヴァストーポリ

問7
戦場で従軍看護師として活躍した女性の名前は何か。

解答: ナイチンゲール

問8
戦争を終結させた条約の名称は何か。

解答: パリ条約

問9
パリ条約で黒海に関して定められた重要な原則は何か。

解答: 黒海の中立化

問10
クリミア戦争後、ロシアと決裂し孤立を深めた国はどこか。

解答: オーストリア

正誤問題(5問)

問11
クリミア戦争は、オスマン帝国がロシアに侵攻したことを発端とする戦争である。

解答: 誤(ロシアの南下に対抗してオスマン帝国が宣戦した)

問12
クリミア戦争では、イギリスとフランスが同盟を組んでロシアと戦った。

解答: 正

問13
パリ条約では、ロシアが黒海の軍艦航行権を獲得した。

解答: 誤(黒海の中立化により軍艦航行は禁止された)

問14
ナイチンゲールは戦場報道を行った記者として活躍した。

解答: 誤(従軍看護師として衛生改善に尽力した)

問15
クリミア戦争の結果、ウィーン体制を支えた露墺関係が崩壊した。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • クリミア戦争を「ロシア vs イギリスのみ」とする誤り。
  • パリ条約の黒海中立化を「ロシアの権益拡大」と誤解。
  • 聖地問題を「宗教戦争」と混同し、南下政策との関連を見落とす。
  • ウィーン体制崩壊の要因を「革命」だけに限定する誤り。

第5章 露土戦争とベルリン会議|バルカンの再編と列強の思惑

クリミア戦争で一時的に沈静化した東方問題は、19世紀後半になると再び激化します。

その中心となったのが、1877年の露土戦争と、翌年に開かれたベルリン会議(1878)です。

ロシアは黒海沿岸での挫折から立ち直り、再び南下政策を再開。バルカン半島では民族運動が高揚し、セルビアやブルガリアの独立要求が噴出しました。

この動きを利用しようとするロシア、抑え込もうとするイギリスやオーストリア――列強の利害は再び激しく衝突します。

露土戦争とベルリン会議は、東方問題を民族自決と帝国主義的再分割という二重構造の中で展開させた、決定的な転換点でした。

1. バルカン民族運動の高揚とロシアの南下再開

クリミア戦争後、ロシアは一時的に黒海進出を断念しましたが、1860年代の改革(アレクサンドル2世の農奴解放)を経て国力を回復。1870年代に入ると、再び南下政策を再開します。

このころ、バルカン半島ではセルビア・ボスニア・ブルガリアなどで反オスマン運動が高まり、ロシアはスラヴ民族の「保護者」を自任してこれらを支援します。

特に1875年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ蜂起と、翌年のブルガリア暴動は、ヨーロッパ世論を刺激しました。

ロシアはこれを口実にオスマン帝国へ圧力をかけ、ついに1877年に開戦します。

2. 露土戦争(1877〜78)とサン=ステファノ条約

1877年、ロシア軍はオスマン領ブルガリアへ侵攻。

激戦の末、1878年にオスマン軍を撃破し、サン=ステファノ条約を結びます。

この条約では、

  • ブルガリアの自治国化(事実上ロシアの影響下)
  • セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立承認
  • ロシアによるベッサラビア回復

これらが定められました。

しかしこの結果、ロシアのバルカン支配拡大に対して他の列強――特にイギリスとオーストリア――が強く反発。

戦争終結直後から、新たな国際会議の開催が求められます。

3. ベルリン会議(1878)とビスマルクの調停

1878年、ドイツのビスマルクの提唱により、ベルリン会議が開催されました。彼は「誠実な仲介者」を自称し、ヨーロッパの勢力均衡を維持しようとします。

その結果、サン=ステファノ条約は全面的に修正され、

  • ブルガリアは分割され、一部(マケドニア)はオスマン領に復帰。
  • セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立は承認。
  • オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得。
  • イギリスはキプロス島の行政権を得て、インド航路の安全を確保。

こうしてロシアの影響拡大は抑えられ、勢力均衡外交の再建が図られました。

しかし、この調整はあくまで一時的なもので、バルカン民族の不満はくすぶり続けます。

4. バルカン諸国の独立と不安定な秩序

ベルリン会議によって、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアが正式に独立を果たしました。

一方で、ブルガリアは分割・監視下に置かれ、マケドニア・アルバニア・ボスニアなどでは民族対立が継続。

「バルカンの火薬庫」は依然として燻り続けました。

さらに、列強の分割支配が進行したことで、民族自決の理想と帝国主義的現実のギャップが拡大。これがのちのバルカン戦争、さらには第一次世界大戦の導火線となります。

5. 露土戦争・ベルリン会議の意義

この一連の流れは、東方問題がいよいよ帝国主義時代の列強再編へと組み込まれたことを示しています。

ロシア・イギリス・オーストリアの対立は固定化し、ドイツは「仲介者」として一時的に中立を保ちつつも、のちのヨーロッパ分裂(三帝同盟・三国協商)の布石がここで打たれました。

露土戦争とベルリン会議は、民族運動の成果を一部実現しつつも、列強の都合による再編によって、東方問題をいっそう複雑化させた事件だったのです。

入試で狙われるポイント

  • 露土戦争(1877〜78)は、スラヴ民族運動を支援するロシアがオスマン帝国に勝利。
  • サン=ステファノ条約でブルガリアがロシアの影響下に。
  • ベルリン会議(1878)で条約修正、ロシアの南下を牽制。
  • オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治、イギリスがキプロス獲得。
  • バルカン民族の不満は残り、後のバルカン戦争の伏線に。

重要論述問題にチャレンジ

露土戦争とベルリン会議が東方問題に与えた影響を、民族運動と列強の思惑の両面から200字程度で説明せよ。

露土戦争では、ロシアがスラヴ民族を支援してオスマン帝国に勝利し、サン=ステファノ条約でブルガリアの自治とバルカン諸国の独立を認めた。しかしロシアの影響拡大にイギリス・オーストリアが反発し、ベルリン会議で条約は修正された。これにより一部の民族独立は達成されたが、列強の思惑による再分割が進み、バルカンの不安定化と後の国際対立を深める結果となった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第5章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
露土戦争が勃発したのは西暦何年か。

解答: 1877年

問2
露土戦争の背景にあったロシアの外交政策を何というか。

解答: 南下政策

問3
露土戦争でロシアが勝利後に結んだ条約は何か。

解答: サン=ステファノ条約

問4
サン=ステファノ条約で自治が認められた国はどこか。

解答: ブルガリア

問5
サン=ステファノ条約によって独立を承認された3国を答えよ。

解答: セルビア・モンテネグロ・ルーマニア

問6
ベルリン会議を主催したドイツの宰相は誰か。

解答: ビスマルク

問7
ベルリン会議でオーストリアが獲得した統治権を持つ地域はどこか。

解答: ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

問8
ベルリン会議でイギリスが獲得した地域はどこか。

解答: キプロス島

問9
ベルリン会議でブルガリアはどのように再編されたか。

解答: 分割され、一部がオスマン帝国の支配下に戻された

問10
露土戦争・ベルリン会議の結果、バルカン半島が抱える最大の課題となったのは何か。

解答: 民族自決と列強支配の矛盾

正誤問題(5問)

問11
露土戦争は、バルカン諸民族の独立を求める運動が直接の契機であった。

解答: 正

問12
サン=ステファノ条約では、ブルガリアが完全独立を達成した。

解答: 誤(自治国としてロシアの影響下に置かれた)

問13
ベルリン会議は、ロシアのバルカン支配を拡大する結果となった。

解答: 誤(むしろロシアの影響力を抑制した)

問14
オーストリアはベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。

解答: 誤(当時は統治権のみを獲得。併合は1908年)

問15
ベルリン会議の結果、民族の不満が残り、バルカンの火薬庫化が進んだ。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • サン=ステファノ条約でブルガリアが「独立」したと誤記。
  • ベルリン会議を「第一次世界大戦直前の会議」と混同。
  • ボスニア併合の時期(1908年)を間違える。
  • 「ロシアが南下政策を放棄」と誤解する。

第6章 バルカン戦争と第一次世界大戦への道|民族独立の連鎖と列強の衝突

ベルリン会議(1878)によって一応の調整をみた東方問題でしたが、実際にはバルカン半島に民族的・宗教的・領土的対立が根強く残されていました。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、列強の帝国主義競争が激化する中、バルカンは再び火薬庫と化します。

特に1908年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合事件以降、セルビアを中心にスラヴ民族の独立運動が活発化。やがてバルカン諸国がオスマン帝国に対して連携し、第一次・第二次バルカン戦争が勃発します。

この一連の戦争は、地域紛争の枠を超えて、第一次世界大戦の直接的な引き金となる国際危機を生み出しました。

1. ボスニア併合とバルカン民族主義の高揚

1878年のベルリン会議で統治権を得ていたオーストリアは、1908年に正式にボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。

この地域にはセルビア人が多く居住しており、「南スラヴ統一」を目指すセルビアは強く反発します。

背後には、スラヴ民族の保護者を自任するロシアが存在し、一方、オーストリアを支援するドイツが対抗。

この事件をきっかけに、ヨーロッパの分裂構図――三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)――が決定的になります。

2. 第一次バルカン戦争(1912)|オスマン帝国の退潮

オスマン帝国の衰退が進む中、バルカン諸国(セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロ)は、ロシアの後援を受けてバルカン同盟を結成。

1912年、オスマン帝国に対して一斉に攻撃を仕掛けました。

戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパ領の大半を失い、バルカン諸国は勢力を拡大します。

しかし、戦勝国間での分配をめぐって不満が生じ、次の戦争へとつながっていきました。

3. 第二次バルカン戦争(1913)|同盟崩壊と対立の激化

1913年、ブルガリアが戦後の領土分配に不満を抱き、旧同盟国のセルビア・ギリシアに対して攻撃を開始します。
しかしブルガリアは敗北し、領土を大きく失いました。

この戦争を通じて、バルカン半島の連携は崩壊。代わりに、セルビアの勢力拡大が顕著となり、オーストリアはセルビアの南下を強く警戒します。

こうして、セルビア vs オーストリアという対立軸が明確になりました。

4. サラエヴォ事件と第一次世界大戦への連鎖

1914年6月、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントがサラエヴォで暗殺されます。

犯人は、セルビア系青年ガヴリロ=プリンツィプ。この事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告。

ロシアがセルビア支援に動き、ドイツがオーストリアを支援、イギリス・フランスがロシア側に立つことで、地域紛争は一気に世界規模の戦争――第一次世界大戦――へと拡大しました。

この過程こそが、東方問題の最終局面でした。もはや「オスマン帝国の衰退」をめぐる問題ではなく、列強間の覇権争いへと完全に転化していたのです。

5. 東方問題の終焉と世界大戦への継承

第一次世界大戦を経て、オスマン帝国は崩壊し、1920年のセーヴル条約でその領土は分割されます。

中東・バルカンにおける「東方問題」は、その形を変えて「民族自決」と「植民地再分割」の問題へと引き継がれました。

こうして、約100年以上続いた東方問題は、最終的に世界大戦という「地球規模の秩序再編」の中で幕を下ろすことになります。

入試で狙われるポイント

  • 1908年のボスニア併合が、セルビア民族主義を刺激。
  • 1912〜13年のバルカン戦争が列強対立を深めた。
  • サラエヴォ事件(1914)が第一次世界大戦の直接の契機。
  • 東方問題は最終的に、民族主義と帝国主義が交錯する「世界大戦の前哨戦」となった。
  • 「東方問題=オスマン衰退」→「列強の対立」→「世界大戦」への構造変化を押さえる。

重要論述問題にチャレンジ

バルカン戦争が第一次世界大戦の引き金となった理由を、民族運動と列強の対立の観点から200字程度で説明せよ。

バルカン戦争では、オスマン帝国の衰退を背景にセルビアやブルガリアなどの民族国家が独立を拡大したが、領土分配をめぐって相互に対立した。特にセルビアの勢力拡大はオーストリアを刺激し、1908年のボスニア併合以降、両国の緊張が高まった。これにロシアとドイツが介入することで、地域紛争が列強対立と結びつき、サラエヴォ事件を契機に世界大戦へ発展した。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第6章: 東方問題 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1
オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを正式に併合したのは西暦何年か。

解答: 1908年

問2
ボスニア併合に最も反発した国はどこか。

解答: セルビア

問3
1908年のボスニア併合を機に強化された、ヨーロッパの二大陣営を答えよ。

解答: 三国同盟と三国協商

問4
第一次バルカン戦争(1912)でオスマン帝国と戦った同盟の名称は何か。

解答: バルカン同盟

問5
第一次バルカン戦争でオスマン帝国が失った地域の大部分はどの大陸か。

解答: ヨーロッパ大陸

問6
第二次バルカン戦争(1913)で戦いの中心となった国はどこか。

解答: ブルガリア

問7
バルカン戦争の結果、最も勢力を伸ばした国はどこか。

解答: セルビア

問8
サラエヴォ事件で暗殺されたオーストリア皇太子の名は何か。

解答: フランツ=フェルディナント

問9
サラエヴォ事件の犯人ガヴリロ=プリンツィプが所属していた組織は何か。

解答: 黒手組

問10
第一次世界大戦勃発の直接原因となった事件は何か。

解答: サラエヴォ事件

正誤問題(5問)

問11
ボスニア併合は、ロシアとオーストリアの関係改善を目的として行われた。

解答: 誤(ロシアの弱体化を背景に一方的に実施された)

問12
第一次バルカン戦争では、オスマン帝国が連合軍を破りバルカン支配を回復した。

解答: 誤(オスマン帝国は敗北し、ヨーロッパ領の大半を失った)

問13
第二次バルカン戦争の結果、ブルガリアは領土を拡大した。

解答: 誤(むしろ敗北し、領土を縮小した)

問14
サラエヴォ事件を契機に、列強は連鎖的に参戦し、第一次世界大戦へ突入した。

解答: 正

問15
東方問題は、第一次世界大戦の勃発によって実質的に終結した。

解答: 正

よくある誤答パターンまとめ

  • ボスニア併合を「ベルリン会議の結果」と誤記。
  • サラエヴォ事件を「ブルガリア国内」で起こったと混同。
  • バルカン戦争の順序(第一次→第二次)を逆に覚える。
  • 東方問題が第一次大戦後も続いたと誤解(実際にはオスマン崩壊で終焉)。

第7章 まとめ|東方問題の歴史的意義と現代への影響

およそ100年以上にわたってヨーロッパ国際政治を揺るがせた「東方問題」。

その核心は、オスマン帝国の衰退という長期的現象を背景に、列強が勢力均衡の名のもとで介入し続けたことにあります。

ギリシア独立戦争からバルカン戦争まで、数多くの衝突と外交交渉が繰り返され、やがて第一次世界大戦という「世界規模の秩序再編」へとつながりました。

本章では、これまでの流れを振り返りながら、東方問題がどのようにヨーロッパの近代史を形づくり、現代国際関係にも影響を残したかを整理します。

1. オスマン帝国の衰退と空白地帯の出現

東方問題の出発点は、17世紀以降のオスマン帝国の衰退にありました。

ウィーン包囲の失敗(1683)を境に領土は縮小し、19世紀には「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど国力が低下。
その結果、バルカン・中東地域には「空白地帯」が生まれ、列強がこれを埋めようと介入を始めました。

オスマンの衰退は単なる内政問題ではなく、ヨーロッパ全体の均衡を左右する国際問題へと変化したのです。

2. 民族運動と列強介入の二重構造

東方問題のもう一つの特徴は、民族運動と列強介入が常に表裏一体だったことです。

ギリシア、セルビア、ブルガリアなどの民族は、自由と独立を求めて蜂起しましたが、その背後では必ず列強の思惑が動いていました。

  • ロシアは正教徒保護を名目に南下政策を推進。
  • イギリスはインド航路防衛のためロシアを警戒。
  • オーストリアは多民族国家の安定を守ろうとし、民族主義の拡大を警戒。
  • フランスは宗教的権益や地中海政策から介入。

こうして民族自決の理想と列強の国益が絡み合い、問題はますます複雑化していきました。

3. 勢力均衡から対立構造へ:東方問題がもたらした国際秩序の変化

19世紀前半の東方問題は、まだ「勢力均衡体制」の中で抑制されていました。

しかし、クリミア戦争(1853–56)を境に、列強の協調は崩壊します。

ロシアとオーストリアの関係悪化によってウィーン体制は終焉し、ヨーロッパは従来の「協調」体制を失いました。

その後、イタリア統一・ドイツ統一が進み、ビスマルク外交によって一時的に新たな均衡が築かれます。

しかし、ビスマルク体制の崩壊とともに列強間の緊張は再燃し、ヨーロッパは三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)に分裂していきました。

こうして、東方問題を契機に始まった国際秩序の変動は、やがて第一次世界大戦という「勢力均衡の最終的崩壊」へと帰結したのです。

4. 東方問題の終焉とその遺産

第一次世界大戦後、オスマン帝国は崩壊し、1923年のローザンヌ条約によってトルコ共和国が誕生。

バルカン諸国は次々と独立を果たし、東方問題は形式的に終結しました。

しかし、民族・宗教・国境の不一致という構造的な矛盾は残されました。

20世紀末のユーゴスラヴィア紛争、21世紀の中東問題にも、東方問題の影響を読み取ることができます。つまり、東方問題は「過去の問題」ではなく、現代国際政治の原型でもあったのです。

5. 東方問題から学ぶべき視点

地政学的視点
オスマン帝国が支配した黒海・地中海・中東地域は、常に大国の利害が交錯する要地であり、現在もその地理的価値は変わっていません。

民族と国家のジレンマ
民族自決と国境線の不一致は、現代でも紛争の火種となり続けています。

国際秩序の再編モデル
東方問題の推移は、帝国崩壊→民族独立→大国介入というパターンを示し、これは20世紀の冷戦・中東問題にも通じます。

入試で狙われるポイント

  • 東方問題は「オスマン帝国の衰退+列強介入」の総称。
  • 19世紀を通じて、民族主義と帝国主義のせめぎ合いが続いた。
  • クリミア戦争でウィーン体制崩壊、露土戦争で帝国主義再編、バルカン戦争で第一次大戦へ。
  • 東方問題の終焉は、世界秩序の地殻変動を象徴する。
  • 現代の中東・バルカン紛争の源流として理解することが重要。

年表で整理:東方問題の流れ

年代出来事意義
1821ギリシア独立戦争東方問題の始動
1831エジプト・トルコ戦争帝国内部の動揺と列強介入
1853クリミア戦争勢力均衡体制の崩壊
1877露土戦争スラヴ民族運動の高揚
1878ベルリン会議列強による再分割
1908ボスニア併合セルビアとの対立激化
1912第一次バルカン戦争オスマン支配の終焉
1913第二次バルカン戦争同盟崩壊と対立の拡大
1914サラエヴォ事件第一次世界大戦の勃発
1923ローザンヌ条約東方問題の終結・トルコ誕生

フローチャート:東方問題の構造

オスマン帝国の衰退(「ヨーロッパの病人」と呼ばれる)
  ↓
ギリシア独立戦争(1821)|東方問題の始まり・民族運動の先駆け
  ↓
エジプト問題(1831)|ムハンマド=アリーの台頭と帝国内の動揺
  ↓
クリミア戦争(1853〜56)|聖地問題とロシア南下政策、ウィーン体制の崩壊
  ↓
露土戦争(1877〜78)|スラヴ民族運動とロシアの南下再開
  ↓
ベルリン会議(1878)|バルカン再編と列強の再分割
  ↓
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908)|セルビア民族主義の高揚
  ↓
第一次バルカン戦争(1912)|バルカン同盟によるオスマン領奪取
  ↓
第二次バルカン戦争(1913)|戦後分配をめぐるブルガリアとセルビアの対立
  ↓
サラエヴォ事件(1914)|オーストリア皇太子暗殺と列強の連鎖参戦
  ↓
第一次世界大戦(1914〜18)|東方問題の最終的帰結とオスマン帝国崩壊

まとめの要点

  • 東方問題は「民族の独立」と「列強の利害」の交錯によって拡大した。
  • 19世紀ヨーロッパの外交史・戦争史・国際秩序を理解するうえでの軸。
  • 現代国際関係の基礎となる「地政学」「民族問題」「勢力均衡外交」を学ぶ上で不可欠。

よくある誤答パターンまとめ

  • 東方問題を「オスマン帝国の内政問題」と限定して理解。
  • 各戦争(クリミア・露土・バルカン)を単発の事件として覚え、構造的連関を見落とす。
  • 「ウィーン体制崩壊=1848年革命」と単純化しすぎた理解をし、クリミア戦争の影響を軽視する。
  • ベルリン会議を「第一次大戦後の講和会議」と混同。
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