16世紀から17世紀前半にかけて、スペイン帝国は「太陽の沈まぬ帝国」と称されるほどの絶頂期を迎えました。
大航海時代におけるアメリカ大陸の発見と征服、膨大な銀の流入、そしてハプスブルク家の戦略的な婚姻政策による広大な領土支配は、スペインをヨーロッパ最強の大国へと押し上げます。
しかし、この栄光は一夜にして築かれたものではなく、ポルトガルとの競争、神聖ローマ帝国との同盟、オスマン帝国との対立、そして宗教改革という複雑な国際関係の中で形作られたものでした。
本記事では、スペイン帝国がどのように最盛期を迎えたのか、その背景を「大航海時代」と「ハプスブルク家の戦略」という2つの視点から解説します。大学受験における頻出テーマも整理しながら、世界史の大きな流れをつかめる内容になっています。
第1章 大航海時代とスペイン帝国の勃興
15世紀末から16世紀にかけて、ポルトガルとスペインは未知の海を切り開き、世界を一変させる大航海時代を迎えます。その中心にいたのが、コロンブスによる「新大陸」到達(1492年)と、マゼラン艦隊による世界周航(1519〜1522年)です。
アメリカ大陸から大量に流入した銀と金は、スペイン帝国の財政基盤を支え、同時にヨーロッパ経済全体を揺るがす「価格革命」を引き起こしました。
この章では、大航海時代におけるスペインの台頭を、ポルトガルとの競争、条約による世界分割、植民地経営の仕組みなどを交えて詳しく解説します。

大航海時代の幕開けとスペインの参入
- 背景
15世紀後半、イスラム勢力によるオスマン帝国の台頭は、地中海貿易を支配していたヴェネツィア・ジェノヴァなどのイタリア商業都市に大きな打撃を与えました。香辛料を求めたヨーロッパ諸国は、アジアへの新航路開拓を急ぎます。 - ポルトガルの先行
エンリケ航海王子の尽力により、ポルトガルはアフリカ西岸を次々に探検。1488年にはディアスが喜望峰に到達し、1498年にはヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を開拓しました。
→ ここでスペインは後れを取っていました。 - スペインの逆転劇
しかし、1492年、イサベル女王とフェルナンド王によるレコンキスタ完成後、コロンブスに航海資金を与えたスペインは、偶然にも「新大陸」を発見します。この出来事がスペイン帝国拡大の扉を開きました。
トルデシリャス条約と世界分割
1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約を結び、「西はスペイン、東はポルトガル」という世界分割体制を確立します。
この条約によって、ブラジルがポルトガル領となり、それ以外のアメリカ大陸大部分がスペイン領となりました。
結果として、スペインはメキシコ、ペルー、フィリピンなど広大な植民地を手に入れ、銀と金の大量流入によって莫大な富を築きます。
植民地支配とエンコミエンダ制
スペインはアメリカ大陸の植民地支配を効率的に進めるため、エンコミエンダ制を導入しました。
これは、征服者(コンキスタドール)に先住民を労働力として割り当て、キリスト教布教と引き換えに労働を強制する制度です。
この制度によって莫大な富を得る一方、先住民社会は壊滅的な打撃を受け、多くの人口が疫病と過酷な労働で失われました。
銀の大量流入と価格革命
- スペインはポトシ銀山(現ボリビア)などから膨大な銀をヨーロッパに流入させました。
- この結果、16世紀後半のヨーロッパは価格革命と呼ばれる急激なインフレに見舞われます。
- スペインは一時的に富を享受したものの、結局は銀依存経済となり、後の衰退の要因にもつながりました。

入試で狙われるポイント
- コロンブス「新大陸」到達(1492年)
- トルデシリャス条約(1494年):スペインとポルトガルの世界分割
- エンコミエンダ制の仕組みと影響
- ポトシ銀山と価格革命の因果関係
- 大航海時代が世界経済に与えたインパクト
第2章 ハプスブルク家の婚姻戦略とスペイン帝国のヨーロッパ覇権
スペイン帝国の最盛期を語るうえで欠かせないのが、ハプスブルク家の婚姻戦略です。
フェルナンド2世とイサベル1世の結婚によってカスティリャ王国とアラゴン王国が統合され、スペイン王国が誕生しました。その後、ハプスブルク家は「戦争より結婚で領土を広げる」という巧妙な戦略を駆使し、神聖ローマ帝国・ネーデルラント・ナポリ・ミラノなどを支配下に置きます。
この章では、ハプスブルク家の婚姻政策がどのようにスペイン帝国をヨーロッパ最強国へと押し上げたのか、そして宗教改革やオスマン帝国との戦争を通じてどのような課題に直面したのかを解説します。

婚姻戦略による「ハプスブルク帝国」の形成
- カトリック両王の結婚(1469年)
アラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イサベル1世の結婚により、スペイン王国が誕生。これがスペイン帝国の基盤となります。 - ハプスブルク家との結びつき
彼らの娘フアナが神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップ美公と結婚。この婚姻によって、フアナの息子カール(のちのカール5世)はスペイン・ネーデルラント・ナポリ・ミラノ・神聖ローマ帝国を相続することになりました。
→ つまり、ヨーロッパの広大な領土を「結婚」だけでほぼ手に入れたのです。 - 有名な格言 「戦争は他国に任せよ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。」
これはハプスブルク家の婚姻戦略を象徴する言葉です。
カール5世の時代:ヨーロッパ最強国の誕生
1519年、カール5世は神聖ローマ皇帝に即位し、同時にスペイン王としてアメリカ大陸の植民地も支配することになりました。
彼の治世は、まさにスペイン帝国の最盛期であり、ヨーロッパ・アメリカ・アジアを跨ぐ世界帝国が誕生した瞬間でした。
- ネーデルラントとイタリア支配
ミラノ公国やナポリ王国などを掌握し、イタリア戦争でフランスと覇権を争います。 - オスマン帝国との対立
スレイマン1世率いるオスマン帝国が地中海進出を強め、ウィーン包囲戦(1529)などで衝突。 - 宗教改革との戦い
ルターの宗教改革が始まり、カトリック世界を守るためにシュマルカルデン戦争(1546〜1547)を戦いますが、最終的にはアウグスブルクの和議(1555)でルター派を容認せざるを得なくなりました。
このように、カール5世の時代は「領土拡大」と「宗教対立」が同時に進行する激動の時代でした。
フェリペ2世の時代:スペイン帝国の絶頂と試練
カール5世の退位後、息子フェリペ2世がスペイン王位を継承します(在位:1556〜1598)。
彼の治世は、スペイン帝国がヨーロッパの覇権を握る絶頂期でありながら、同時に衰退の兆しも見え始めた時期でした。
フェリペ2世の功績
- ポルトガル併合(1580)
ポルトガル王家断絶を機にポルトガルを併合し、植民地網を統合。世界最大規模の「太陽の沈まぬ帝国」が完成します。 - レパントの海戦(1571)
オスマン帝国との戦いでスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合艦隊が勝利。地中海覇権を確立します。 - 無敵艦隊の挫折(1588)
イギリスとのアルマダ海戦で無敵艦隊が大敗北。スペイン海軍力の衰退のきっかけとなりました。 - ネーデルラント独立戦争
カトリック政策への反発からオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発。最終的に北部7州が独立(1581)、経済拠点を失います。
スペイン帝国の外交と宗教政策
フェリペ2世は熱心なカトリック教徒であり、宗教改革に対抗する「カトリック防衛の盟主」として行動しました。
しかし、その宗教的一体化政策はオランダやイギリスなどプロテスタント諸国との対立を激化させ、長期的な戦費増大を招きました。
入試で狙われるポイント
- カトリック両王の結婚(1469年)とスペイン王国成立
- フアナとフィリップ美公の結婚 → カール5世の大帝国相続
- カール5世時代の宗教改革・オスマン帝国との対立
- フェリペ2世のポルトガル併合・レパント海戦・アルマダ海戦
- ネーデルラント独立戦争の勃発とスペイン経済への影響
第3章 スペイン帝国の経済基盤と「太陽の沈まぬ帝国」の実態
スペイン帝国が最盛期を迎えられた最大の理由の一つは、アメリカ大陸からもたらされた膨大な富でした。
特に銀の大量流入は、16世紀ヨーロッパ経済を根本から変え、スペインを一時的に世界最強の経済大国に押し上げます。
さらに、フィリピンを拠点としたアジア貿易や、セビリアを中心とした対外貿易独占体制は、当時のグローバル経済の中心をスペインに引き寄せました。
しかし、同時にこの莫大な富は、浪費・戦費・銀依存という歪んだ経済構造を生み、後の衰退の伏線ともなります。ここでは、スペイン帝国の経済基盤を具体的に見ていきましょう。
銀の流入と「ポトシ銀山」
スペイン帝国の繁栄を象徴するのが、ポトシ銀山(現ボリビア)の発見(1545年)です。
この銀山は「世界の富の泉」と呼ばれ、16世紀後半から17世紀にかけて大量の銀がスペイン本国へ送られました。
- 膨大な銀の産出量
16世紀だけで世界産銀量の約3分の2がポトシから供給されたといわれます。 - セビリアへの集中
銀はすべてセビリアに集積し、そこからヨーロッパ各地へ流通しました。 - 価格革命の引き金
銀の過剰供給はヨーロッパ全土の物価上昇を招き、農民層の生活を圧迫するとともに、商業資本主義の進展を促しました。
セビリアと対外貿易独占体制
スペイン帝国の対外貿易は、長らくセビリアが独占的に管理しました。
セビリアにはカサ・デ・コントラタシオン(交易取引所)が設置され、アメリカ植民地との貿易を一手に引き受けます。
- 独占貿易システム
アメリカ植民地と直接貿易できるのはセビリア商人のみで、他都市や外国商人は排除されました。 - ガレオン船団制度
銀や金を満載した船団は、カリブ海を経由しセビリアへ直送され、スペイン経済を潤しました。 - アンダルシア地方の繁栄
セビリアは当時、ヨーロッパ最大級の港湾都市として栄え、人口も急増しました。
しかし、17世紀以降、港の浅瀬化や密貿易の横行によって、セビリアの独占体制は徐々に崩壊します。
フィリピンとマニラ・ガレオン貿易
スペインは1571年、東南アジアのフィリピン諸島を植民地化し、首都マニラを拠点にアジア交易を展開しました。
これにより、スペイン帝国は太平洋を跨いだ環太平洋交易ネットワークを確立します。
- マニラ・ガレオン貿易
- アメリカ大陸のメキシコ(アカプルコ)とフィリピン(マニラ)を結ぶ貿易路。
- アジアからは絹・香辛料・陶磁器を輸入し、アメリカからは銀を輸出。
- 銀とアジア市場の結合
ポトシ銀山の銀はマニラ経由で中国・インド・日本に流れ込み、世界経済のグローバル化を加速させました。 - フィリピンの戦略的価値
東アジア貿易の拠点として、スペイン帝国に莫大な利益をもたらしました。
「太陽の沈まぬ帝国」の実態と限界
1580年、フェリペ2世がポルトガルを併合したことで、スペインは南米・アフリカ・アジア・ヨーロッパにまたがる広大な植民地網を支配します。
この世界規模の領土を背景に「太陽の沈まぬ帝国」という称号を得ましたが、実態は必ずしも順風満帆ではありませんでした。
- 軍事負担の増大
オスマン帝国、イギリス、オランダ、フランスとの多方面戦争で財政が逼迫。 - 銀依存経済のリスク
膨大な銀収入に依存した結果、国内産業は育たず、国際競争力を失いました。 - 密貿易と植民地管理の難航
広大な植民地を統治するためのコストが増大し、密貿易や反乱も多発。
つまり、「太陽の沈まぬ帝国」は表面上の繁栄であり、その基盤には構造的な脆さが潜んでいたのです。
入試で狙われるポイント
- ポトシ銀山(1545年)と価格革命の因果関係
- セビリアの対外貿易独占とカサ・デ・コントラタシオンの役割
- マニラ・ガレオン貿易と環太平洋交易ネットワーク
- 「太陽の沈まぬ帝国」の成立とその実態
- 銀依存経済がスペイン衰退の伏線となった点
第5章 スペイン帝国最盛期の総まとめと入試必勝ポイント
16世紀から17世紀前半にかけて、スペイン帝国は「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるほどの絶頂期を迎えました。
大航海時代の成功を皮切りに、膨大な銀の流入と世界規模の交易網を背景に、スペインはヨーロッパ政治の中心へと躍り出ます。さらに、ハプスブルク家の巧妙な婚姻戦略によってヨーロッパ各地を支配し、宗教改革後のカトリック防衛の盟主として強大な軍事力を誇示しました。
しかし、この最盛期は同時に、膨張した帝国を維持するための莫大な戦費・銀依存経済・宗教戦争の長期化というリスクを抱えていました。
ここでは、スペイン帝国の栄光を4つの柱から整理し、入試対策として押さえるべき頻出テーマをまとめます。
① 大航海時代とスペイン帝国の台頭
- コロンブスの「新大陸」到達(1492年)
スペインの世界帝国化の起点。 - トルデシリャス条約(1494年)
ポルトガルとスペインが世界を東西に分割。 - エンコミエンダ制とコンキスタドール
先住民を労働力として活用し、大量の銀と金を収奪。 - ポトシ銀山(1545年)の発見
スペイン財政を潤し、世界経済の中心へ押し上げた。
② ハプスブルク家の婚姻戦略と領土拡大
- カトリック両王の結婚(1469年) → スペイン王国誕生。
- フアナとフィリップ美公の婚姻 → カール5世による「ハプスブルク帝国」形成。
- カール5世(在位1519〜1556)
- 神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼任
- イタリア戦争、宗教改革、オスマン帝国との対立に奔走
- フェリペ2世(在位1556〜1598)
- ポルトガル併合で「太陽の沈まぬ帝国」を実現
- レパントの海戦(1571)でオスマン帝国に勝利
- アルマダ海戦(1588)でイギリスに敗北
③ 世界交易ネットワークと「太陽の沈まぬ帝国」
- セビリアの独占貿易体制
カサ・デ・コントラタシオンがアメリカ交易を独占。 - マニラ・ガレオン貿易(1571年〜)
- メキシコ(アカプルコ)とフィリピン(マニラ)を結ぶ貿易航路
- 銀 → アジアへ、絹・陶磁器・香辛料 → アメリカ・ヨーロッパへ
- 銀とアジア市場の結合
中国・日本との交易を通じて世界経済が一体化。 - 「太陽の沈まぬ帝国」完成(1580)
ポルトガル併合により、南米・アジア・アフリカを含む世界最大の植民地帝国に。
- 宗教改革への対抗
アウグスブルクの和議(1555)でルター派を容認。 - ネーデルラント独立戦争(1568〜1648)
北部7州の独立 → オランダ連邦共和国成立(1581)。 - イギリスとの対立
アルマダ海戦(1588)で敗北し、海上覇権が低下。 - オスマン帝国とのレパント海戦(1571)
地中海での優位を維持するも、アジア貿易では後れを取る。 - 三十年戦争(1618〜1648)
ウェストファリア条約でオランダ独立を承認 → スペインの国際的地位低下。
入試頻出テーマまとめシート
分野 | 年号 | 出来事 | ポイント |
---|---|---|---|
大航海時代 | 1492 | コロンブス、新大陸到達 | 大航海時代の象徴的年号 |
大航海時代 | 1494 | トルデシリャス条約 | 世界分割体制の確立 |
経済 | 1545 | ポトシ銀山発見 | 銀流入 → 価格革命 |
アジア貿易 | 1571 | マニラ・ガレオン貿易開始 | 世界経済のグローバル化 |
宗教戦争 | 1555 | アウグスブルクの和議 | ルター派容認 |
宗教戦争 | 1571 | レパントの海戦 | 地中海制海権を確保 |
国際対立 | 1581 | オランダ独立宣言 | 北部7州独立 |
国際対立 | 1588 | アルマダ海戦 | スペイン「無敵艦隊」敗北 |
国際対立 | 1648 | ウェストファリア条約 | オランダ独立承認 |
まとめ
スペイン帝国の最盛期は、
- 大航海時代の成功
- ハプスブルク家の婚姻戦略
- 世界規模の交易ネットワーク
- 宗教戦争でのカトリック防衛
という4つの柱に支えられていました。
しかし、その繁栄は莫大な銀収入に依存していたため、経済基盤は脆弱で、国際戦争の連続も相まって徐々に衰退への道を歩むことになります。
大学受験対策としては、「銀 → 世界経済 → 価格革命 → 交易ネットワーク」という因果関係の流れをつかむことが最重要です。
スペイン帝国の最盛期を押さえたら、次は衰退の原因を理解することが重要です。
大学入試世界史では、価格革命やアルマダ海戦、三十年戦争など、衰退期の出来事が頻出テーマになっています。
後編では、スペイン帝国衰退の決定的要因を時系列で整理し、入試で狙われるポイントをまとめています。
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